第31話 世界を、わらわの原曲へ合わせる
大聖炉の流れを掌握し、完全な大人の女性――『女王』としての姿を取り戻したエルネリア。
彼女が大聖堂の祭壇に立っているだけで、礼拝堂の空気は水底のように重く、そして濃密になっていた。
「……っ、くそ、空気が重い……!」
ザフィラが戦弦槍を構えようと腕に力を込めるが、穂先が微かに震える。恐怖ではない。大気中の『世界魔力』の密度が異常なまでに跳ね上がり、物理的な抵抗を生んでいるのだ。
「マスター。周辺の魔力圧が規定値を大幅に超過。感知機能に乱れが生じています」
セナが青い瞳を激しく明滅させ、ノエラに至っては息をするのさえ苦しそうに胸元を押さえている。
エルネリアは魔法を放っているわけではない。ただ、魔王としての圧倒的な『格』と膨大な魔力を身に纏うだけで、他者の介入を封じていた。
カツン。
深紅のドレスの裾を揺らし、エルネリアが怜司の目の前まで歩み寄る。
見上げるほど背が高くなった彼女の、妖艶で完璧な美貌が至近距離まで近づいてきた。甘く、それでいて肌を刺すような冷たい魔力の匂い。
「……カリオンから大聖炉の制御権を奪って、どうするつもりだ」
怜司は重圧に耐えながら、彼女の紫眼を真っ直ぐに見据えて問うた。
「第一封印曲《還天掌》を起動し、王都中の人間の体内魔力を奪う気か? 魔法の才能だけで人間の価値が決まる、この血統主義の社会を終わらせるために」
それは、以前から怜司が推測していたエルネリアの動機だ。誰もが平等に魔力を失えば、教会の支配も貴族の特権も崩壊する。
だが。
「くははっ。平等、じゃと?」
大人の姿となったエルネリアは、喉の奥で艶やかに笑った。
「……かつてのわらわは、確かに平等を望んだ。魔力量で人の価値が決まる世界が腐っておると思ったからこそ、血統に関係なく世界魔力へ手を伸ばせる手印魔法を作った。だが、それだけでは足りぬと知った」
「なら、あんたの本当の目的は何だ」
エルネリアはゆっくりと両腕を広げ、ステンドグラスから差し込む月光を浴びた。
「世界を、わらわの完成した『原曲』へ合わせるのじゃ」
その声には、圧倒的な自負と、そして静かな怒りが入り混じっていた。
「人間どもは、わらわが築いた美しい手印魔法の体系を捨てた。自分たちの都合に合わせて魔力を切り売りし、体内魔力という卑小な燃料で動く『現代魔法』や、個人の名を削ぎ落とした醜い『聖歌』へと改悪した。……それが許せぬ。芸術に対する冒涜じゃ」
エルネリアの思想は、教会のカリオンとは全くの対極にあった。
カリオンは変化を恐れ、現在の不公平な秩序を固定しようとした。
対してエルネリアは、現在を破壊し、人間の都合で魔法が変化することそのものを否定する。
「第一曲《還天掌》の真の力は、ただ魔力を奪うだけではない。この王都、ひいては世界中の人間から体内魔力を抜き取り、すべてを『世界魔力』へ強制的に還す。二度と人間が魔力を私物化できぬよう、この世界の理そのものを、わらわの完璧な譜面で塗り替えるのじゃ」
人間が魔法を使いやすく改変するのではない。世界と人間の方を、彼女の作った絶対的なルールに適応させる。それが、魔王エルネリア・カンティカの究極の目的だった。
彼女が言葉を紡ぐのと同調するように、祭壇の制御盤から青白い光の波紋がドクン、ドクンと放たれた。
パリンッ! ガシャンッ!
「……!」
怜司が背後を振り返る。
ステンドグラスの外、王都の夜を照らしていた無数の魔力灯が、次々と音を立てて弾け飛んでいくのが見えた。
それだけではない。床下から響いていた魔力水路の巨大な駆動音が、急速に回転数を落として沈黙していく。
大聖炉に蓄積された魔力が第一曲の術式へ注ぎ込まれ、水路や灯りを支える王都の魔力供給が、今、強制的に遮断され始めたのだ。
王都の夜景から、急速に『光』と『音』が失われていく。
「見よ」
エルネリアが、崩壊していく街の様子を愛おしそうに見つめる。
「偽りの燃料で動く醜い玩具たちが、機能を停止していく音を。これでようやく、静かな夜が訪れる」
そして、エルネリアは再び怜司へと向き直り、その白くしなやかな両手で、怜司の右手をそっと包み込んだ。
「……おい」
「魔力を持たず、純粋な技だけで、わらわの複雑な古代手印を正しく組める存在。怜司、貴様だけが、わらわの理想とする『原曲』を一音の濁りもなく再現できる唯一の奏者じゃ」
その声は、甘く、ひどく熱を帯びていた。
エルネリアは怜司の手を自分の頬に寄せ、愛おしむようにその指先を撫でる。
「さあ、その有象無象の伴奏どもを捨てよ」
エルネリアは、怜司の背後で必死に重圧に耐えているザフィラたちを冷たく一瞥した。
「あのような揺らぎだらけの伴奏など、貴様には不要じゃ。わらわの完璧な歌声と、貴様の正確な手印。それさえあれば、この世界を永久に美しい一つの曲として保てる。……わらわと共に、永遠の奏座へ立とうぞ」
それは、究極の誘惑だった。
入力の遅延がない。拍がズレることもない。自分の技術を完全に理解し、最高の環境を用意してくれる唯一のパートナー。
ミスのない完璧なプレイを求めるゲーマーにとって、これほど理想的な環境はないように思えた。
事実、怜司はエルネリアの提案が持つ「仕組みとしての美しさ」を十分に理解していた。
だが。
「……悪いが、お断りだ」
怜司は、エルネリアの白く滑らかな手を、静かに、しかし明確な力で振り払った。
「……何?」
エルネリアの紫の瞳が、微かに見開かれる。
「揺らぎのない完璧な曲を、ただ間違えずに再現し続けるだけ。永遠に変わらない世界を、たった二人で守る……か」
怜司は熱を持った自分の指先を軽く鳴らし、口角を上げて笑った。
「俺のいた世界なら、そんなのは自動演奏を眺めてるのと同じだ。退屈すぎて、五分で眠くなる」
「……自動演奏じゃと? わらわの、この完璧な原曲が退屈じゃと申すか!」
エルネリアの美貌に、初めて明らかな怒りの色が混じる。
怜司は後ろに立つ三人の少女たちを振り返った。
自分勝手にテンポを爆速に跳ね上げる負けず嫌いの戦奏士。
感情で対象を揺らす、自己評価の低いダウナー聖女。
命令の範囲を超えて勝手に被弾しにいく、理屈っぽいゴーレム。
「あいつらの出す音は、不規則で、矛盾してて、最高に合わせにくい。……でも、だからこそ、俺が自分でコントローラーを握って入力する価値があるんだよ」
怜司は再びエルネリアに向き直り、きっぱりと宣言した。
「俺は、あんたの原曲に世界ごと従う気はない」
それは、世界を自らの曲に染め上げようとする魔王への、魔力ゼロのゲーマーからの明確な宣戦布告だった。
エルネリアの周囲に渦巻いていた魔力が、怒りに呼応してさらに激しく荒れ狂う。
同時に、外の王都からは、水路も灯りも絶たれて暗闇に包まれた市民たちの、恐慌の悲鳴が上がり始めていた。




