第30話 女魔王は、大人の姿で笑った
大聖堂の祭壇に、重苦しい静寂が降りてきた。
魔力の逆流に呑まれたカリオンが、黒焦げになった床の上で糸の切れた操り人形のように倒れ伏している。
王都の地盤を揺るがし、数百人の意志を縛り付けていた大聖炉の不気味な六十BPMの駆動音は、火花を散らすような不規則な軋みを数回上げた後、完全に沈黙した。
「……終わった、のか」
礼拝堂を埋め尽くしていた教会騎士と魔術師たちが、一斉にその場に崩れ落ちる。強制同期から解放された彼らの目には、先ほどまでの無機質な光はなく、極度の疲労と混乱による虚ろな色だけが浮かんでいた。
教会の絶対的な秩序は、完全に崩壊した。
怜司は荒くなった呼吸を整えながら、両手をゆっくりと下ろした。酷使した指先が熱を持ち、微かに震えている。
(乱れた魔力を吐き出して止まった……。とにかく、王都を強制的に同調させる計画は潰した)
大聖炉の停止という点では、疑いようのない勝利だった。
張り詰めていた緊張の糸が解け、怜司が大きく息を吐き出したその時。
トン、と。
黒い礼服の袖を、誰かがそっと引っ張った。
「ノエラ」
振り返ると、そこには自ら純白の法衣を引き裂き、元の藍黒のドレス姿に戻ったノエラが立っていた。彼女はカリオンを救出した後、真っ直ぐに怜司の隣へと戻ってきていたのだ。
「……終わったんですか、久瀬さん」
ノエラは怜司の袖を、まるで迷子が親の服の裾を掴むように、ぎゅっと小さな手で握りしめていた。その気怠げな瞳には、まだ微かな不安と、そしてそれ以上の安堵が揺れている。
「ああ、終わった。お前があの状況で、完璧に意志の乗った歌を響かせてくれたおかげだ」
怜司がそう言って頭をポンと撫でると、ノエラは恥ずかしそうに目を伏せ、それでも袖を掴む手は決して離そうとしなかった。
「おい、無茶苦茶なコマンドを叩き込みやがって……!」
横から、ザフィラが荒い息を吐きながら歩み寄ってきた。
彼女は戦弦槍を背中に収めると、文句を言いながらも、真っ先に怜司の両手を取った。
「ほら見ろ、指の関節が真っ赤じゃないか。走りながらあんなに連続で手印を組むなんて、頭がおかしいぞ」
ザフィラは怜司の熱を持った指先を、自分の褐色肌の冷たい手で包み込むようにして丁寧に確認する。怜司の最も大切な『武器』を労わるその手つきは、彼女の普段の好戦的な態度とは裏腹に、ひどく優しく繊細だった。
「マスター。周辺の敵対行動の停止を確認しました」
背後から、セナが歩み寄ってくる。彼女は無表情のまま、その身の丈ほどもある大盾を怜司たちの頭上を覆うようにドーム状に展開した。
「同時に、マスターのバイタルおよび体温の低下を確認。大聖堂の冷気から保護するため、一時的な防衛と保温のための『密着陣形』へ移行します」
セナが強引に盾のスペースを狭めたため、怜司、ザフィラ、ノエラ、そしてセナの四人は、肩と肩が触れ合うほどの至近距離に押し込められることになった。
「ちょっと! 狭いぞ機械人形!」
「防衛上の最善の選択です」
ザフィラが文句を言うが、誰も本気で盾の外へ出ようとはしない。
冷たい石造りの大聖堂の中で、盾の内側だけが、三人の少女たちの体温と柔らかな吐息で満たされている。それは、極限の死闘を駆け抜けた彼らに与えられた、束の間の、しかし確かな『仲間としての報酬』だった。
怜司は目を閉じ、三人の息遣いを感じながら、このまま少しだけ指を休ませようとした。
――だが。
その温かい安堵の時間は、背筋を凍らせるような『異音』によって唐突に切り裂かれた。
ドクンッ。
沈黙したはずの大聖炉の奥底から、再び魔力の鼓動が鳴り響いたのだ。
それは先ほどの機械的で無機質な六十BPMではない。もっと深く、もっと根源的で、生き物の心臓が脈打つような、赤黒い魔力のうねり。
「……な、なんだ?」
ザフィラが盾の外へ視線を向け、息を呑む。
床に倒れていたカリオンが、血を吐きながら絶望の声を上げた。
「ば、馬鹿な……! 大聖炉の制御が、根こそぎ奪われている……!? 誰だ、中枢に触れているのは!」
カリオンの視線の先。
大聖堂の祭壇の中心、大聖炉の制御盤の前に立っていたのは、少女姿のエルネリアだった。
彼女は片手を制御盤の水晶へ突き入れ、王都の地下へ広がる魔力網と第一封印曲《還天掌》の流れを、根元から自分へ引き寄せていた。
『くははははっ! 素晴らしい!』
エルネリアの笑い声が、ステンドグラスをビリビリと震わせる。
『この巨大な炉が蓄えた魔力、そして第一曲を奏でるための広大な術式……。これほどの力が一か所に集まっておるとはな! カリオンとやら、貴様が築いた炉は、わらわがすべて頂いてゆくぞ!』
大聖炉から溢れ出した膨大な青白い魔力の奔流が、エルネリアの小さな身体へと逆流するように吸い込まれていく。
直後、彼女の身体を包み込むように、赤黒い光の渦が巻き起こった。
「エルネリア……まさか!」
怜司の予感は的中した。
光の渦の中で、彼女の身体が急速に変貌を遂げていく。
十五、六歳だった少女の華奢な手足が、しなやかに、そして艶かしく伸びる。あどけなさの残っていた顔の輪郭は大人びたものへと変わり、ふくよかで成熟した肉体を持つ『絶世の美女』へと急成長していく。
深紅のドレスが、その完成された大人のプロポーションにぴったりと張り付き、腰まで伸びた銀色の長い髪が、魔力の余波を受けて生き物のように波打っている。
光が収まった後、そこに立っていたのは、かつて世界を統べていた頃の彼女の本来の姿――『成人した女王姿』だった。
「……っ!」
ザフィラが咄嗟に槍を構え、セナが大盾の出力を最大にする。
だが、今のエルネリアが放つ威圧感は、先ほどのカリオンの比ではなかった。彼女がそこに存在しているだけで、大聖堂の空間そのものが重圧でひび割れそうになっている。これが、完全な『魔王』の力。
カツン、カツン。
ハイヒールの足音を響かせ、大人の姿となったエルネリアが祭壇の階段を降りてくる。
彼女は、警戒して武器を構えるザフィラやセナの姿を、まるで路傍の小石でも見るかのように完全に無視し、一切の抵抗を許さない圧倒的な覇気で盾の防壁をすり抜けた。
そして、怜司の目の前でピタリと足を止めた。
「……大きくなったな」
怜司が額に汗を浮かべながら呟くと、女王となったエルネリアは、艶やかな唇を弧の字に歪めて笑った。
「よくぞここまで辿り着いた、わらわの愛しき奏者よ」
彼女は白く美しい大人の手を伸ばし、怜司の頬を、そして先ほどまでザフィラが労っていた彼の大切な『指先』を、妖艶に撫で上げた。
それは単純な色仕掛けではない。
怜司の指の動き、彼が持つ異常な手印の技術、そして完璧な入力精度を、世界で唯一、完全に理解できる存在からの、極めて危険で技術的な『所有欲』の表れだった。
エルネリアの甘く、そして絶対的な誘惑の言葉が、怜司の耳元で囁かれる。
「さあ、その有象無象の伴奏どもを捨て……わらわと同じ奏座へ上がれ」




