第28話 追放聖女を、聖歌隊から奪い返す
王都の中心にそびえ立つ、教会の総本山・大聖堂。
天を突く尖塔の下、ステンドグラスから青白い月光が降り注ぐ巨大な礼拝堂には、異様な光景が広がっていた。
数百人規模の教会騎士と高位魔術師たちが、祭壇を守るように幾重にも分厚い陣形を敷き、武器と杖を構えて静まり返っている。
その最奥の祭壇。聖務卿カリオンの傍らには、純白の法衣を着せられたノエラが立っていた。
彼女は虚ろな瞳で宙を見つめ、ただ機械のように口を動かしている。紡がれているのは、彼女自身の心を乗せた重い共鳴歌ではない。教会の教義に則った、誰の顔も思い浮かべない、平坦で均質化された『正しい聖歌』だった。
「……大人しく歌い続けていればいい。孤児院の子供は助かり、王都の秩序も守られる。誰一人、損をする者はいないのだからな」
カリオンが冷徹な声で呟いた、その時だった。
ドゴォォォォォンッ!!
大聖堂の分厚いオーク材の正門が、外側からの凄まじい衝撃波によって蝶番ごと吹き飛ばされ、礼拝堂の中空を舞った。
粉塵が舞う中、月光を背にして三つの影が踏み込んでくる。
「遅せえぞ、カリオン! うちのボーカルを返しにもらいに来た!」
黒の礼服の袖をまくり上げた怜司が、不敵な笑みを浮かべて叫ぶ。その両脇には、戦弦槍を構えたザフィラと、大盾を構えたセナが控えている。
数百対三という、絶望的なまでの戦力差。
だが、怜司たちの目に怯えは一切なかった。
「……愚かな。異端回収部隊の包囲を抜けてきた執念は褒めてやろう。だが、ここで死ねば無意味だ」
カリオンが冷酷に右手を振り下ろす。
「放て! 塵一つ残すな!」
数百の魔術師たちの杖から、炎、氷、雷のあらゆる属性の攻撃魔法が、一斉に怜司たちへと降り注いだ。空間そのものが飽和するほどの弾幕。
「セナ、前へ! ザフィラは左右を払え! 絶対に足を止めるな!」
「了解しました。ブースト展開、突貫します」
「命令するなと言っているだろうが!」
怜司の叫びと同時に、セナの脚部から青白い魔力光が噴き出し、彼女は大盾を構えたまま重戦車のように敵陣のど真ん中へと突撃を開始した。
ガガガガガァァァンッ!!
無数の魔法が大盾に直撃し、弾け飛ぶ。その凄まじい被弾の衝撃音が、乱戦の中で完璧な『基準拍』となって鳴り響く。
その背中を追うように、ザフィラがステップを踏みながら側面の騎士たちを槍で薙ぎ払う。
ベンッ! トン、タ・トン!
槍が風を切り、弦が鋭く鳴る。セナの重い拍に、ザフィラの軽快で力強い旋律が絡み合い、礼拝堂の中に三人だけの極上の戦闘曲が構成されていく。
だが、魔法と矢が飛び交う戦場で、しかも常に前進し続けなければならない状況は、後衛で手印を組む怜司にとって『超高難易度譜面』を意味していた。
(移動しながらの入力……判定ラインがブレまくる。長いコンボは組めないな)
立ち止まって百手を超える大魔法を準備する暇はない。少しでも足を止めれば、ザフィラたちのカバー範囲から外れてハチの巣になる。
怜司は思考を切り替えた。
彼は走りながら、五手から十手程度で終わる極めて短い基礎手印を、まるで格闘ゲームのコンボのように次々と『連結』させていった。
【風刃】で飛来する火球を切り裂き、そのまま手を反転させて【氷結】で騎士の足元を凍らせ、返す刀で【衝撃】を放ち陣形を崩す。
パチッ、バチィッ! と、一秒に数回のペースで怜司の指先から小さな魔法が乱れ撃たれ、それが確実に敵の急所と魔法の軌道を潰していく。
圧倒的な処理能力。音ゲーで培われた、画面全体を俯瞰し、落ちてくるすべてのノーツを反射で拾いきる異常な動体視力と指先の連動。
「なっ、なんだあの指の動きは!」
「なぜ走りながら複数の属性を撃ち分けられる!?」
魔術師たちがパニックに陥り、分厚かったはずの防衛線がみるみるうちにこじ開けられていく。
祭壇まで、あと十数メートル。
「ノエラ! 聞こえてるなら歌うのをやめろ!」
怜司が叫ぶ。
しかし、祭壇の上のノエラは、怜司たちの姿を見ても歌を止めようとはしなかった。
「……無駄だ、異邦人よ」
カリオンが、歌い続けるノエラを庇うように一歩前に出た。
「この娘は教会の歌唱装置としての役割を受け入れた。孤児院への救援はすでに完了しているのだ。もしここでこの娘が歌を止めれば、契約違反となる」
カリオンは冷酷な目でノエラを見下ろした。
「だが、安心しろ。契約を破ったところで、すでに孤児院へ送り込んだ治癒術師を撤収させるような真似はせん。ただ、教会の権威を二度も泥に塗ったこの娘自身が、異端審問の末に火あぶりになるだけだ」
孤児院の子供は助かる。代償として、自分が死ぬ。
それは、自分自身の価値をゼロだと思い込んでいるノエラにとって、何よりも受け入れやすい『自己犠牲のハッピーエンド』だった。
「……久瀬さん、皆さん」
ノエラは歌の合間に、かすれた声で呟いた。
「私の機能は、もう果たしました。だから、お願いです。皆さんは逃げて……」
「馬鹿野郎」
ノエラの悲痛な懇願は、祭壇の階段を蹴り上がってきた怜司の言葉によって、あっさりと叩き割られた。
怜司は立ちはだかる最後の騎士を【衝撃】の手印で吹き飛ばし、カリオンの目の前、ノエラに手が届く距離まで到達した。
「機能だの装置だの、勝手に自分の価値を値踏みしてんじゃねえ」
怜司は肩で息をしながら、純白の法衣を着せられたノエラを真っ直ぐに睨みつけた。
「お前の代わりになる記録音声なら、セナの中に完璧なものがある。対象を書き換えるだけなら、わざわざ教会のど真ん中まで来たりしない」
「え……?」
ノエラが目を丸くする。
「でも、記録された声じゃ駄目なんだ。あれは、お前が今ここで選んだ歌じゃない」
怜司は一歩踏み出し、ノエラの腕を強く掴んだ。
「俺が手印を乗せたいのは、誰かのために迷って、傷ついて、それでも自分の意志で歌うことを選んだ『お前自身の声』だ。……歌姫のいない楽団は、どうにもテンポが狂ってやりづらくて仕方がない」
機能でも、身代わりのシステムでもない。
久瀬怜司という人間は、ノエラ・アストレアという『一人の少女の意志』が隣にないと調子が狂うと、そうはっきりと告げたのだ。
「あ……」
ノエラのトロンとしていた瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
自分は道具じゃない。この人の隣で、一緒に音楽を作る人間として、必要とされている。
その事実が、彼女の心を覆っていた分厚い氷を完全に溶かし去った。
「……貴様。神の御前で、たぶらかすな!」
カリオンが激昂し、自身の杖から極大の光の刃を放とうとした。
だが、それより早く。
ノエラが、自身を縛り付けていた純白の法衣の首元を、両手で力いっぱい引きちぎった。
ビリッ! という布の裂ける音とともに、聖女の皮が剥がれ落ちる。その下から現れたのは、彼女自身が選んだ、夜の闇のような『藍黒のドレス』だった。
「私は……」
ノエラは涙を拭い、気怠げな瞳に確かな熱を宿してカリオンを見据えた。
「私は、私が歌いたい人のために、私の歌を歌います!」
――♪…………!!!
大聖堂のドーム天井を震わせる、深く、重く、そして圧倒的な意志を持った『共鳴歌』。
教会の均質な旋律など微塵も残っていない。それは、目の前にいるたった一人の青年へ向けて紡がれた歌だった。
対象は『怜司の手印』。意味は『絶対の突破』。
「最高だ、ノエラ!」
ノエラの歌が作り出した見えない魔力のレールに沿って、怜司の両手が残像を描く。
ザフィラのステップとセナの被弾音が、その入力を完璧にサポートする。
逃亡楽団の四人の音が、教会の中心で完全に一つに重なり合った。
怜司の指先から放たれた衝撃波は、ノエラの歌によって意味を書き換えられ、カリオンの放った光の刃を容易く粉砕し、そのまま祭壇を覆っていた何重もの結界をガラスのように叩き割った。
ズガァァァァァァンッ!!
圧倒的な魔力の奔流に、カリオンが数メートル後ろへと吹き飛ばされ、床を転がる。
「ぐっ……おのれ、異端者どもめ……!」
カリオンは血の滲む唇を拭い、よろよろと立ち上がった。
彼の目には、焦燥と、ある種の狂気が宿っていた。
このままでは、大祭の計画が崩壊する。王都の魔力を統一し、完璧な秩序を築き上げるという教会の悲願が、たった四人の奏でる無秩序な音楽によって破壊されてしまう。
「……もはや、猶予はない」
カリオンは祭壇のさらに奥、大聖堂の最深部へと続く隠し扉のロックに手を血だらけにしながら触れた。
「大祭を待つ必要はない。今この瞬間をもって……全王都の魔力を、強制的に統一する!」
ガコンッ、と重い機械音が地下の底から響き渡った。
次の瞬間、大聖堂だけでなく、王都全体の地盤が激しく鳴動し始めた。
大聖炉の強制起動。
怜司の足元から、そして王都中の大気から、強烈な魔力の吸い上げが始まる。空間の魔力と、そこに生きる人々の呼吸が、巨大な一つの『拍』に強制的に合わせられていく。
誰の意志も存在しない、完璧で残酷な合奏の始まりだった。




