第27話 歌姫のいない夜を、走り抜ける
通信を遮っていた教会の結界を破り、怜司たちが地下集落のテントへ戻ってきた時。
出迎えるはずの少女の姿はそこになく、ただ木製のテーブルの上に、一枚の紙切れが置かれていた。
『私の歌なら、好きに使ってください。皆さんまで使われないでください。』
その数行の文字を読んだザフィラは、バンッ! と激しくテーブルを叩いた。
「あの馬鹿! 自分から教会の罠に飛び込んだのか! なんで私たちが戻るまで相談しなかったんだ!」
「……ジャミングをかけられていたんだ。それに、孤児院の子供の命が懸かっていれば、あいつは絶対に自分を差し出す」
怜司は手紙を手に取り、その端正で乱れのない筆跡を見つめた。
彼女はパニックになって飛び出したのではない。極めて冷静に、「自分の歌と身柄」という対価を支払い、「子供たちの安全」という商品を買ったのだ。自分自身を、いくらでも代えの利く安い道具だと思い込んでいるからこそできる、冷酷なまでの合理的な取引。
「だが、これで面倒なことになったな」
ザフィラが苛立たしげに戦弦槍の石突を鳴らす。
「大聖炉の強制同期を止めるには、王都の全人類へ向けられた第一曲の対象を書き換える『歌』が必要だ。歌い手がいなければ、お前の手印がどれだけ正確でも、第一曲には届かないだろう」
大祭が迫る中での、要となる機能の欠落。
重い空気がテントを包んだ、その時だった。
「マスター」
入り口で警戒に立っていたセナが、無表情のまま一歩前に出た。
「第一曲を書き換えるための歌は、私が記録した音声で代用可能です」
「……記録データ?」
怜司が眉をひそめると、セナは自身の胸部装甲の中心、青い光が明滅するコアの部分に手を当てた。
直後。セナの内蔵スピーカーから、静かで、しかしひどく重い『歌声』がテントの中に響き渡った。
――♪……。
「なっ……!?」
ザフィラが目を丸くする。
それは間違いなく、ノエラ・アストレアの歌声だった。魔物の墓場で死霊の攻撃衝動を書き換え、避難民キャンプで少年の魔力障害を浄化してみせた、あの対象指定の共鳴歌。
セナは日常の会話や鼻歌だけでなく、ノエラが魔法を使った際の魔力波長、声の震え、音程の揺らぎまで、すべて胸の記憶核へ保存していたのだ。
「声と魔力の波長は、ノエラ対象本人のものと九十九・九パーセント同一です」
セナは淡々とした声で解説した。
「この記録音声を最大出力で再生し、マスターの手印と同期させれば、第一曲へ干渉する歌として成立します。任務の達成だけを考えるなら、ノエラ対象の存在は必須ではありません」
機械による、寸分違わぬ完璧な再演。
セナの身体から流れるノエラの歌声は、確かに本人のものと全く同じだった。目を閉じれば、そこに彼女がいると錯覚してしまうほどに。
「……」
怜司は目を閉じ、その完璧な歌声にじっと耳を澄ませた。
そして。
「セナ。再生を止めろ」
怜司は静かに、しかしはっきりとした口調で命じた。
歌声が止み、テントに静寂が戻る。
「……マスター? 波長に乱れがありましたか」
「いや。正確無比だ。お前の記録機能には恐れ入る」
怜司は手紙をポケットにねじ込み、真っ直ぐにセナの青い瞳を見た。
「でも、これじゃ駄目だ」
「どうしてだ?」
たまらずザフィラが口を挟む。
「私たちが大祭を止めるのに必要なのは『対象を変える歌』だろう? 本人がいなくても第一曲へ届くなら、この記録を使えばいい。今は、あいつを助けに行く時間すら惜しいはずだ」
ザフィラの言うことは極めて論理的だ。王都何十万人の命と、一人の少女の命。天秤にかけるまでもない。
だが、怜司は首を横に振った。
「本人のいない記録音声を流して、それに合わせて手印を組む。……そんなのは、俺が知ってる合奏じゃない。ただの作業だ」
「作業……?」
「俺が合わせたいのは、そういう完璧な記録じゃないんだよ」
怜司は自分の指先を見つめ、静かに、しかし熱を帯びた声で言った。
「あいつは自分のことを壊れた歌唱装置だと言い張ってるが、そんなのは嘘だ。教会の規則に逆らって、怒られて、傷ついて……それでも目の前の人間を助けるために、自分の意志で歌うことを選んだ。俺が手印を乗せたいのは、そういうあいつ本人の、揺らぎのある声なんだよ」
機能として完璧でも、本人の意志が乗っていない代替品では意味がない。
怜司にとって、どれほど正確な音源でも、ノエラ本人の歌の代わりにはならなかった。
「……フッ、呆れた奴だ」
ザフィラが、戦弦槍を肩に担ぎ直して笑った。
「本当に、合理的なのか馬鹿なのかわからないな、お前は。……だが、嫌いじゃない。伴奏を機械の音源で誤魔化されては、私としても調子が狂うからな」
「非合理的な判断ですが……マスターの意志を最優先とします」
セナも小さく頷き、大盾のロックを解除した。
感傷に浸る時間は終わった。怜司は黒の礼服の襟を正し、振り返った。
「行くぞ。教会のど真ん中から、俺たちのボーカルを取り戻す」
*
地下集落の秘密の抜け道から、王都の裏路地へと出た直後だった。
「……待っていたぞ、異邦人」
暗闇の中から、フードを深く被ったマント姿の男が姿を現した。
「マスター、接敵!」
セナが即座に大盾を構えるが、怜司は彼女を片手で制した。
「レオン・グラード。こんなところで、手配犯に何の用だ? 俺の首でも手土産に、カリオンに媚びを売りに来たか」
現れたのは、王国の若手魔術師レオンだった。
彼は杖を構えることもなく、ひどく複雑な、疲労と苦悩の混じった目を怜司に向けていた。
「……居住区での水路の暴走。お前たちが民を救う姿を見た」
レオンの声はかすれていた。
「私はずっと、高魔力こそが正義であり、教会の管理こそが王都の安寧を守っていると信じてきた。お前のような魔力を持たない人間は、秩序を乱す異物だと。……だが、あの惨状を前にして、教会の魔術師たちは無力だった。そして異端であるはずのお前たちが、奇跡を起こした」
レオンは懐から、丸められた一枚の羊皮紙を取り出し、怜司の足元へ投げ捨てた。
「……それは?」
「大聖堂の地下へ通じる、教会の古い抜け道の図面だ。それに、今夜の異端回収部隊がどの順で見回るかも記してある」
ザフィラが訝しげに羊皮紙を拾い上げ、中身を確認して目を見張った。確かに、教会の内部の者でなければ知り得ない詳細な情報が書き込まれている。
「なぜ、こんなものを渡す?」
怜司の問いに、レオンはフードを深く被り直し、背を向けた。
「勘違いするな。お前たちを許したわけでも、教会の教えを完全に捨てたわけでもない。……ただ、自分の信じてきたものが本当に正しいのか、わからなくなっただけだ。だから、お前というイレギュラーが教会の深部で何を起こすのか……この目で、結末を確かめたくなった」
それは、彼のプライドと葛藤が生み出した、彼なりの意地からの行動だった。
「……そうか。なら、特等席で見せてやるよ。あんたらの常識がひっくり返る瞬間をな」
怜司が不敵に笑うと、レオンは何も答えず、闇の中へと姿を消した。
「……罠の可能性は?」
「ないだろうな。あいつのあの顔は、本気で迷ってる奴の顔だ。使える情報はありがたく使わせてもらう」
レオンから得た情報のおかげで、ルートは一気に明確になった。
怜司たちは月明かりの届かない王都の裏道を、影のように駆け抜ける。
教会騎士たちの厳重な警備網の隙を縫い、冷たい石畳を蹴り、ついに彼らは王都の中枢――大聖炉の存在する大聖堂、その天を突く巨大な尖塔の足元へと到達した。
歌姫を欠いた逃亡楽団が、今、奪還の舞台へとその足を踏み入れる。




