第26話 私の歌一つなら、安いものです
大聖堂地下への潜入作戦を翌日に控えた、王都の午後。
戦奏民の地下集落に残ったノエラは、薄暗いランプの灯りの下で、怜司の裂けたジャケットの袖を縫い直していた。
怜司とザフィラ、そしてセナの三人は、大聖堂へ通じる古い下水道の最終確認と、消耗した物資の調達のために地上の別区画へと向かっている。少女姿のエルネリアは、硬い寝台に文句を言いながらも昼寝を決め込んでいた。
静かな時間だった。
だが、その静寂は唐突な『揺れ』によって破られた。
ズン……ズン……。
王都の地盤そのものを震わせるような、極めて重く、規則的な振動。集落の天井から土埃が舞い落ち、壁に掛けられた魔力灯がジリジリと不安定な明滅を始める。
(……大聖炉の、駆動音?)
ノエラが縫い物の手を止めた直後、集落の入り口の方で激しい足音が響いた。
「ノエラお姉ちゃん! いる!?」
血相を変えて駆け込んできたのは、ノエラが教会を追放される前に支援していた、スラム街の孤児院の少年だった。彼の服は泥だらけで、息も絶え絶えになっている。
「どうしたの? そんなに急いで」
「たい、へんだ……! 急に、孤児院の魔力ストーブが全部止まっちゃって……! 治療用の設備も動かなくなったんだ!」
「……え?」
ノエラは持っていた針を落とした。
王都の設備は、供給晶へ蓄えた体内魔力で動いている。だが大祭の予行演習を始めた大聖炉は、供給網に貯められた魔力まで優先的に吸い上げていた。余力のない貧民街から先に供給が途絶え、古い暖房炉や治療器具が止まったのだ。
「マリアちゃんが、熱を出して……! このままじゃ、今夜を越せないって……!」
少年の悲痛な声に、ノエラは立ち上がった。
すぐに怜司たちに知らせなければ。そう思い、胸元に下げていた通信用の魔道具へ魔力を通したが、耳障りな音を返すだけで全く反応しなかった。
「……通信封じ?」
「無駄だ。この区画一帯の通信と空間は、すでに我が教会の結界で封鎖した」
冷徹な声が、集落の入り口から響いた。
ノエラが視線を向けると、地下へ続く通路の向こう側に、白い法衣を着た数名の教会騎士と、その後ろに立つ聖務卿カリオンの姿があった。
彼らは集落の中には入ってこない。ただ、出入り口を完全に物理的・魔力的に塞ぎ、ノエラを外部から完全に『孤立』させていた。
「……カリオン、様」
ノエラは少年の肩を抱き寄せながら、気怠げな瞳でかつての上官を見つめた。
「手回しが早いですね。最初から、孤児院の設備が止まるのを狙って、久瀬さんたちがいない時間を見計らっていたんですか」
「予行演習を行えば、古い魔力回路が飛ぶことなど自明の理。そして、貴様が必ず孤児院の子供のために動くこともな」
カリオンの顔には、悪辣な企みを成功させたような下品な笑みはない。ただ、盤上の駒を適切に動かしたという、冷徹な為政者の顔だった。
「単刀直入に言おう、ノエラ・アストレア。貴様に『契約』を持ちかけに来た」
「契約……?」
「そうだ。貴様一人で教会へ出頭し、明日の大祭にて一度だけ、正式な聖女として我々の用意した『正しい聖歌』を歌え。そうすれば、即座に孤児院へ最高位の治癒術師を派遣し、古い魔力炉も更新する。今後は教会直轄の保護対象として、継続的な支援も保証しよう」
それは、刃を突きつけるような脅迫ではなかった。
だが、仲間を待てば、その間に孤児院の子供の命は消えるかもしれない。自分が一度歌えば、今夜だけでなく、この先の子供たちまで守られる。ノエラにとっては、十分すぎる条件だった。
カリオンは、ノエラが自分の歌を安く見積もり、子供たちの利益を優先する人間だと知っている目で、静かに返答を待っていた。
しかし。
ノエラの表情には、一切の波風が立たなかった。
彼女は小さくため息をつき、ダボついた服の袖口を軽く払いながら、ひどく淡々とした声で答えた。
「……私の歌一つで済むなら、安いものです」
「なに?」
予想外の即答に、カリオンが微かに眉をひそめる。
「私の歌なんて、その程度ですから。私が一度戻って歌うだけで、確実な設備と治癒術師がもらえるなら、とても割に合う取引です」
ノエラにとって、自己犠牲という感傷的な悲劇ですらなかった。
自分は、ただの歌唱装置だ。壊れた道具だ。
怜司は「君の声が良い」と褒めてくれたが、それでも彼女の根底にある自己評価の低さは、そう簡単に書き換わるものではなかった。
「……よかろう。では、すぐに出頭しろ。外に馬車を用意させている」
「待ってください」
カリオンが促すが、ノエラは静かに首を横に振った。無思慮に教会の罠に飛び込むほど、彼女は愚かではない。
「先に、救援の部隊を出発させてください。そして、その部隊が孤児院へ到着し、治療が始まったのを確認してから、そちらへ向かいます」
「私を信用できんと言うか」
「当然です。私は異端の魔女ですから。……もし子供が助からないのなら、私は大祭で、王都の人間を全員呪い殺す歌を歌いますよ」
気怠げな瞳の奥に宿った、決して揺るがない冷たい光。
カリオンはその目を数秒間見つめ返し、やがて短く鼻を鳴らした。
「……ふん。交渉の余地はないということか。よかろう、手配しろ」
カリオンが背後の騎士に顎でしゃくると、騎士の一人が足早に通路を引き返していった。
数十分後。
集落の通気口から外の景色を監視していたノエラは、遠く離れた貧民街の孤児院の煙突から、魔力暖房の稼働を示す白い煙が勢いよく立ち上るのを確認した。同時に、教会の紋章を掲げた馬車が横付けされ、白い法衣を着た治癒術師たちが慌ただしく中へ入っていくのが見えた。
約束は果たされた。
「ノエラお姉ちゃん……行っちゃうの?」
不安そうに見上げる少年の頭を、ノエラは優しく撫でた。
「大丈夫。私はちょっと、お仕事をしてくるだけだから。……ここで大人しく、久瀬さんたちを待っていてね」
ノエラはテーブルの上の紙切れに、数行の短い文章を書き留めた。
それは、涙でインクが滲むような感傷的な別れの手紙ではない。淡々と、事実だけを記した事務的な報告書。
『私の歌なら、好きに使ってください。皆さんまで使われないでください。』
ノエラはペンのインクを拭き取ると、眠っていたエルネリアを起こさないよう、静かな足取りで教会の結界の向こう側へと歩み去っていった。
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