第17話 音のない譜面を、四人で繋げ
深夜の王都。星明かりすら届かない教会の裏口を抜け、一行は大聖堂の禁じられた地下区画へと足を踏み入れていた。
貴族の館の床下からかすかに伝わってきていた振動は、石造りの冷たい螺旋階段を下るにつれて、明確な物理的圧力へと変わっていった。
ズン……ズン……ズン……。
BPM六十。一秒に一回の完璧な等間隔。
空気を震わせる巨大な機械の駆動音のような、あるいは何千人という人間が一糸乱れぬ足踏みをしているような、強制的で不気味な拍。
だが、怜司を先頭に、ザフィラ、ノエラ、セナがさらに深層へ続く鉄格子の扉を押し開けた、その瞬間のことだった。
――ふっ、と。
唐突に、すべての感覚が切り取られた。
暗闇に目が慣れるよりも早く、怜司は己の身体を襲った強烈な違和感に足を止めた。
巨大な機械の駆動音が消えたのではない。
怜司自身の足音、隣を歩くザフィラの衣擦れの音、セナの装甲が軋む音、そして自分自身の呼吸の音すらも、完全に消失していたのだ。
(音が、ない……?)
完全なる無音。静寂という生易しいものではない。音という物理現象そのものが、この空間から強制的に排除されている。耳鳴りすらせず、鼓膜が真空の中に放り込まれたような強烈な不快感。
前衛を歩いていたザフィラが、顔をしかめて何かを叫んでいるのが見えた。だが、彼女の口の動きだけで、声は一ミリも空気を震わせない。
罠だ。怜司がそう直感した直後。
完全な無音の闇の中から、半透明の巨大なクラゲのような、あるいは靄の塊のような異形の魔物が複数、音もなく滑り出してきた。
空間の音波と振動をすべて吸収し、無力化する特性を持った地下の防衛機構。
ザフィラが即座に踏み込み、戦弦槍を横薙ぎに振るう。魔物の靄が切り裂かれるが、彼女の武器の最大の特徴である、弦を弾く「ベンッ」という鋭い音が鳴らない。
後方のノエラが、必死に口を開いて対象を書き換えるための歌を歌おうとする。だが、彼女の喉から紡がれたはずの重い声は、空間に吸い込まれて消滅し、誰の耳にも届かない。
「クソッ……!」
怜司は声にならない悪態をつき、両手を構えた。
だが、指を曲げた瞬間、背筋に強烈な悪寒が走った。
手印魔法は、空間の拍に自分の入力速度を同期させることで成立する。メトロノームとなる周囲の環境音や、仲間の演奏の音が完全に奪われたことで、怜司は入力の『判定位置』を完全に見失ってしまったのだ。
音ゲーにおいて、楽曲の音源をミュートされた状態で、目押しだけで完璧なコンボを繋ぐなど不可能に近い。
焦りが指先の動きをコンマ数秒狂わせる。
バチッ! と、火花を散らす音すら鳴らずに魔力が暴発した。
「ぐっ……!」
声にならない痛みの叫び。逆流した世界魔力が怜司の腕の筋肉を内側から焼き、彼は苦悶の表情で石畳に膝をついた。
音がなければ魔法が編めない。その事実が、かつてない致命的な欠落となって怜司を襲う。
音のない魔物が、無防備な怜司へと触手を伸ばす。
その時。
ザフィラが怜司と魔物の間に割って入り、彼の方を強く振り返った。
彼女の黄金色の瞳が、怜司を真っ直ぐに射抜いている。彼女は音を鳴らすことを完全に諦めていた。その代わり、自身が床を踏み込む『足運び』の動作を、これでもかというほど大げさに、視覚的に強調して見せたのだ。
(……私を見ろ。私の動きで、速度を読め!)
声は聞こえないが、その目ははっきりとそう告げていた。
怜司は痛みを堪えて顔を上げる。ザフィラの足が沈み込み、槍の石突が地面を打つ軌道。
視覚情報によるメトロノーム。
だが、光(視覚)と音(聴覚)では、人間の脳が知覚する処理速度にどうしても微かなズレが生じる。視覚情報だけで完璧なパーフェクト判定を叩き出すには、あまりにもリスクが高すぎる。
攻撃のタイミングを正確に測るには、もっと直接的な、身体の芯に響く『拍』の感覚が必要だった。
どうすればいい。そう怜司が焦燥に駆られた、その刹那。
トンッ。
背中から、固いものがぶつかる感触があった。
いつの間にか、セナが怜司の背後に回り込み、彼と背中合わせになるようにぴったりと身体を密着させていたのだ。
怜司が驚いて振り返ろうとすると、セナは顔だけを横に向け、その無機質な口元をはっきりと動かした。
『マスター。聴覚情報の遮断を検知』
音はない。だが、唇の動きが正確な状況報告を告げている。
『代替手段として、骨伝導および装甲の物理振動による拍の伝達を実行します』
直後。
セナの背中の装甲越しに、ドクン、ドクン、という微かな、しかし極めて正確な『振動』が、怜司の背骨へと直接伝わってきた。
(これは……心音の再現か?)
いや、違う。
ただの機械的で一定なビートではない。その振動には、明確なピッチの上下があり、微かな揺らぎによる心地よいメロディが内包されていた。
怜司は目を瞠った。
背中から伝わってくるこの振動のリズム。これは。
(宿場町でノエラが口ずさんだ『鼻歌』と、それに無意識に合わせたザフィラの『弦の伴奏』……!)
セナが以前、食堂の片隅に響いたあの穏やかな合奏を『生活音の基準』として記憶していたことは知っていた。だが彼女は今、その記憶を音として流すのではなく、内部機構の震えへ変え、怜司の背へ直接伝えているのだ。
耳は聞こえない。世界は圧倒的な静寂に包まれている。
だが、怜司の身体の中では、ノエラの優しい歌声と、ザフィラの力強い弦の響きが、完璧な『曲』となって再生されていた。
自然と、怜司の口角が吊り上がった。
「……上等だ」
怜司は立ち上がり、両手を前に構えた。
痛む腕の感覚など、もはや気にならなかった。
視界の先では、ザフィラが魔物の攻撃を躱しながら、正確なステップで曲の速さを作っている。
背中からは、セナが密着してノエラとザフィラの曲の拍を骨伝導で刻み続けている。
そして視界の隅では、ノエラが声が出ないことなど気にせず、怜司の魔法に意味を乗せるためだけに、必死に唇を動かして歌い続けている。
聴覚に一切頼らない状態での、四人の完全な同期。
(――いくぞ)
怜司の指先が、音のない空間で爆発的な残像を描いた。
右手で空間の魔力を打ち据え、左手で圧縮する。セナの背中から伝わる振動の最高潮、ザフィラが最も強く踏み込んだその瞬間。
怜司は全く迷うことなく、衝撃波の手印の最終コードを叩き込んだ。
音のない空間に、純粋な魔力の塊が球状に膨れ上がり、そして破裂した。
衝撃波が放射状に広がり、音波を吸収していた半透明の魔物たちを、その構成物質ごと文字通り粉々に粉砕して吹き飛ばした。
その瞬間。
――ガァァァァァァァァァンッッ!!!
鼓膜が破れるかと思うほどの凄まじい爆音とともに、世界に『音』が帰還した。
魔物が消滅し、奪われていた物理現象が元に戻ったのだ。砕け散る石畳の音、風の唸り、そして、地下深くから響くあの大聖炉の不気味な六十BPMの駆動音が、一気に押し寄せてくる。
「っ……あ、あ……!」
ノエラが自分の喉を押さえ、へたり込む。
「声が……出た……」
「ハァ、ハァ……無茶苦茶な奴だ、お前は」
ザフィラも息を乱しながら、それでもどこか誇らしげに怜司を見た。
「音のない譜面を、本当に初見で最後まで繋ぎやがった」
怜司は背中を預けていたセナから少し離れると、赤くなった両手を軽く振りながら、小さく笑った。
「俺一人の力じゃない。お前らの曲が、ちゃんと俺の中に届いてたからな」
聴覚という最も重要なガイドを奪われても、この楽団の連携は崩れなかった。
音の戻った地下空間のさらに奥。重厚な鉄の扉の向こうから、大聖炉の心臓部の鼓動が不気味に響き続けている。
怜司は迷うことなく、その扉へ向かって歩き出した。




