第13話 神様は、子守歌を禁じた
翌朝、宿の1階にある食堂。
朝食のスープを飲みながら、ノエラとザフィラは互いに視線を合わせないよう、少し気まずそうにしていた。昨夜、食堂の片隅で無意識のうちに合わせてしまった鼻歌と弦のセッションが、まだ尾を引いているらしい。
だが、そんな二人の微妙な空気を、怜司は全く気にすることなく切り裂いた。
「なあノエラ。お前のその『対象を書き換える歌』の技術、どうやって身につけたんだ?」
「えっ……?」
唐突な技術的質問に、ノエラは目をパチクリとさせた。
「いや、昨日から気になってたんだ。お前の声は特定のターゲットにだけ極めて精密に干渉する。ああいうピンポイントの対象指定は、手印だけじゃ相当難しい。どこかで特別な訓練でも受けたのか?」
「……訓練、というのとは違うかもしれません。私は元々、教会の聖歌隊にいましたから、そこで歌の基礎は教わりました」
ノエラは木の実のパンを千切りながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
「でも、教会の聖歌は、私にはとても歌いにくかったんです」
「歌いにくい? ピッチやテンポが複雑だったのか?」
「いえ、技術的な難しさではなくて……歌そのものが、綺麗すぎたんです」
ノエラは視線を落とし、過去の記憶を探るように言葉を紡ぐ。
「教会が管理する聖歌は、大勢の聖歌隊で声を合わせ、街全体に巨大で均等な奇跡を起こすために作られています。だから、元になった古い民謡から、教会の教義にそぐわないものをすべて削り落としていました」
個人の名前。貧しい者の具体的な願い。身近な誰かへの個人的な祈り。
そういったものは、全体への均等な恩恵を掲げる教会にとって、取り除くべき私情だった。だから、不特定多数へ向けた、ひどく抽象的で均質な歌だけが『正しい聖歌』として許されていた。
「私は、誰の顔も思い浮かべないまま、ただ空間を満たすためだけに歌うことが、どうしても上手にできませんでした」
それは、彼女の持つ特異な声質と決定的に相性が悪かったのだ。
「それで、どうして追放されたんだ?」
怜司が真っ直ぐに尋ねると、ノエラは痛いところを突かれたように肩をすくめた。
「……ある冬の日、教会の門の前に、スラムの子供が運び込まれてきました。重い病気で、もう息も絶え絶えでした」
教会の規則では、治癒の奇跡を施すには高位聖職者の許可と、厳格な手続きが必要だった。だが、そんなものを待っていては、その子供の命は確実に燃え尽きる状態だった。
「私は、教会の許可を待たずに、その子のそばで歌いました」
それは、教会の聖歌ではなかった。
「教会では、不純物が混ざるとして歌うことを禁じられていた、古い原歌(子守歌)です。……神様や国のためではなく、ただ目の前にいる、その子一人だけを助けたいという願いを込めた歌」
結果として、奇跡は起きた。子供は一命を取り留め、健康な身体を取り戻した。
しかし、それが教会の逆鱗に触れた。
神の奇跡を教会の管理下から外し、個人の感情で特定の誰かに振り向けたこと。それは教会の権威を揺るがす『奇跡の私物化』であり、決して許されない重罪だった。
「厳しい異端審問にかけられました。……謝って、二度とあの禁じられた子守歌を歌わないと誓えば、許してやると言われたんですが」
ノエラはそこで言葉を区切り、トロンとした目で怜司を見た。
「神様が聖歌しか聞けないなら、ずいぶん耳が悪いんですね」
ノエラはそう答え、教会の規則を優先しなかったことを、最後まで撤回しなかった。
その声は、相変わらず淡々としていた。
だが、怜司も、黙って聞いていたザフィラも、彼女のその言葉の中に鋼のような芯の強さを感じ取っていた。
自分を壊れた道具だと自虐し、必要なら時間と場所だけ指定しろと卑屈に笑う少女。それでも彼女は、目の前の命を見捨てなかった自分の歌(意志)だけは、誰に何を言われても絶対に曲げなかったのだ。
「……なるほどな。よくわかった」
怜司は腕を組み、深く納得したように頷いた。
「要するに、お前は大勢へ同じように降らせる歌より、一人の顔を見て届ける歌の方が得意なんだ。教会の合唱に合わなかっただけで、お前の声が壊れていたわけじゃない」
「壊れて、いない……?」
「ああ。教会の合唱には向いてないかもしれないが、俺の手印に魔法の意味を乗せるボーカルとしては、これ以上ない適性だ」
怜司はあっけらかんとそう言い切った。同情でも慰めでもなく、彼女の過去の選択がもたらした現在の能力を、一つの完成された技能として全肯定したのだ。
ノエラは驚いたように小さく口を開き、それから耳まで真っ赤にして俯いてしまった。
「失礼します」
ノエラが何かを言い返すより早く、宿の主人が食堂のテーブルに近づいてきた。
「久瀬様のご一行ですね。先ほど、早馬でこのようなものが届きまして……」
主人が恭しく差し出したのは、金色の蝋で封がされた、いかにも高級そうな分厚い封筒だった。
「なんだこれ」
怜司が封を切り、中の羊皮紙に目を通す。
「……王都の貴族からの、正式な招待状だそうだ。是非とも我が屋敷に滞在し、大祭までの期間、客人として歓待したい、だと」
「招待状だと?」
ザフィラが顔をしかめ、羊皮紙を覗き込んだ。
「私たちが魔物の墓場を抜けたのは昨日のことだぞ。いくらなんでも情報が早すぎる。お前の手印や、異端の聖女の力についての噂を聞きつけて、政治的に利用しようとする魂胆が見え見えだ。間違いなく罠だぞ」
「罠かもしれないが、好都合でもある」
怜司は招待状をテーブルに置いた。
「指名手配されてるノエラを連れて、王都の関所を強行突破するのはリスクが高い。貴族の招待客という大義名分があれば、堂々と正面から入れる」
大祭まで、残り二十日を切っている。王都全域の魔力を奪う第一封印曲《還天掌》を止めるためには、一刻も早く王都の中心部へ入り込み、システムの中枢を叩かなければならない。
『くははは! その通りじゃ!』
いつの間にか怜司の頭の高さまで浮き上がっていたエルネリアが、不敵な笑い声を上げた。
『教会や貴族に呼ばれたというのなら、利用してやるがよい。あそこの教会の中枢――大聖堂の地下には、わらわの第一曲に関わる巨大な装置があるのだからな』
「装置だと? なんだそれは」
ザフィラが問い詰めるが、エルネリアはそれ以上語ろうとせず、ニヤリと笑うだけだった。
『大祭の聖歌と共鳴するための代物じゃよ。それ以上は、己の目で確かめることじゃな』
「……まあいい。行く先は決まってるんだ」
怜司は椅子から立ち上がり、自分の指先の感覚を確かめるように両手を開閉した。
昨日痛めた関節は、ザフィラの薬のおかげですっかり治っている。
「準備しろ。王都のど真ん中に乗り込んで、俺たちの新しい譜面の初陣を飾るぞ」
躊躇いのない怜司の言葉に、ザフィラは戦弦槍を手に取り、ノエラは小さく頷き、セナは静かに大盾の位置を調整した。
魔王の罠が待つ王都へ向け、逃亡楽団の足取りは確かな熱を帯びていた。




