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第③章:地下の入口 (3)

 少しだけ考えた。

 ほんの数秒。

 でも、その数秒が妙に長く感じた。


 目の前には扉がある。

 さっきまでそこになかったはずの、意味の分からない扉。

 その向こうには黒い空白がある。

 何もないのに、何かがあるみたいな、あの嫌な感じだ。


 ……まあ、ここまで来たら、開けるしかないだろ。

 そう思った。


 正直、こういう時に一番よくないのは、何もせずに突っ立ってることだ。

 意味が分からないからって、意味が分からないまま時間を過ごしていたら、余計に落ち着かなくなる。

 だったら、せめて確かめる。

 それで何もなければ、まあ、それでいい。

 あるならあるで、その時考えればいい。


 俺は、取っ手に手をかけた。

 少し冷たい。

 金属の感触がある。

 変に現実的だ。

 変に、っていうのも変だけど。

 とにかく、夢みたいに曖昧なものじゃなくて、ちゃんと硬い。

 それが逆に気持ち悪い。


 ゆっくり、扉を開ける。


 ……。


 その先にあったのは、トンネルだった。

 いや、トンネルなんてもんじゃない。

 とんでもなく長い、途方もない、終わりの見えない通路だった。


 最初、何を見てるのか分からなかった。

 だって、目の前に広がっていたのは、普通の“先”じゃない。

 先がある。

 でも、その先が遠すぎる。

 奥行きがあるとか、長いとか、そういう言葉で片づけられる距離じゃなかった。

 まるで、地平線を横に伸ばして、そこへ無理やりトンネルを押し込んだみたいだった。


 一本道。

 なのに、向こうが見えない。

 どこまでも続いている。

 先の方は、もう点みたいになっていて、点ですら見えなくなっていく。

 そんな規模の“道”が、扉の先にあった。


 ……は?


 思わず、扉を閉めた。


 いや、閉めるだろ。

 普通、閉めるだろ。

 俺が今見たものが現実のわけがない。

 少なくとも、現実として認めたくない。

 だから閉めた。

 落ち着け、俺。

 たぶん、疲れてるんだ。

 眠気もまだ少し残ってるし、さっきから変なものばかり見てる。

 きっと目の錯覚だ。

 そういうことにしておこう。


 でも、気になる。

 気になるっていうか、引っかかる。

 俺は数秒だけ、その場で立ち尽くした。

 扉の前。

 黙って。

 さっき見た“ありえない長さ”を頭の中で反芻する。


 ……いや、ない。

 さすがにない。

 そんなこと、あるわけがない。

 どれだけ長くても、道は道だ。

 地面は地面だ。

 その先が見えないっていっても、あんなに広がるわけがない。

 もしかしたら、扉の向こうにさらに奥行きのある空間があるだけかもしれない。

 遠近感の問題かもしれない。

 夜で目が変になってるだけかもしれない。

 ……いや、でも。


 俺はもう一回、扉を開けた。


 同じだった。


 さっきとまったく同じ。

 いや、同じどころじゃない。

 さっきよりも、もっと“広い”気がした。

 どうしてそんなふうに感じるのか分からない。

 でも、間違いなく長い。

 長いっていう言葉で表すには、もう無理があるくらい長い。

 とにかく、終わりが見えない。


 ……なんだよこれ。


 今度は扉を閉める前に、少しだけ周囲を見た。

 さっきまで俺がいたはずの道は、もうそこにはない。

 いや、あるにはある。

 でも、もう“道”って感じじゃない。

 扉の外の地面が、どういうわけか斜めに傾いている。


 気づいた瞬間、足元がふっと滑った。


 「っ――!」


 反射的に踏ん張る。

 でも、遅い。

 俺の体はそのまま、じわっと下へ引かれた。

 いや、引かれたというより、傾いた地面に乗せられた。

 下が、上になった。

 さっきまで平らだったはずの地面が、ゆっくりと坂みたいに変わっていく。


 ……おいおい。


 気づいたときには、もう遅かった。

 扉のある場所が、上の方にずるずると移動している。

 いや、扉が動いてるんじゃない。

 俺の立っている場所が斜面になっていくんだ。

 つま先に力を入れても止まらない。

 どんどん滑る。

 まるで、この空間そのものが「その扉から戻るな」と言ってるみたいだった。


 見上げると、扉はもうかなり上だ。

 最初は普通に手が届く高さだったのに、今では上に見上げないといけない。

 ……いや、普通に考えておかしい。

 地面が斜面になるってなんだ。

 しかも、こんな短い距離で。

 何もかもが変だ。

 変だけど、変だと認めるしかない。


 俺は一度立ち止まって、扉を見た。

 上の方にあるそれは、まだ開いたままだった。

 その先の、あのありえない長さの通路。

 今はまだ見えている。

 でも、戻ろうと思ったら、まずこの坂を登らなきゃいけない。

 ……登れない。

 無理だ。

 というか、登れる気がしない。


 さっきまでの道は、もうほとんど見えなかった。

 いや、見えないというより、遠すぎる。

 扉の位置が高すぎる。

 あれが“入口”だったなら、もうまともに戻るのは無理だ。


 「……ふざけんな」


 思わず声が漏れた。

 誰に言ったのか分からない。

 自分にかもしれない。

 それとも、この意味不明な空間にか。

 何にせよ、返事はない。


 仕方なく、俺は周囲を見る。

 さっきから気になっていた、あの長い通路の方だ。

 黄色っぽい、少し暗い照明。

 ところどころに、金属製の配管みたいなものが走っている。

 天井のあたりをずっと、何かが這っている。

 空気は冷たいのに、照明だけは妙にぬるい。

 そのせいで、全体が不健康な色に見える。


 歩き出すと、足音が妙に大きかった。

 カツ、カツ、と響く。

 音が壁に返って、少し遅れてまた俺の耳に戻ってくる。

 まるで、自分の足音が別の誰かのものみたいだ。

 ……ああ、嫌だ。

 こういうの、ほんと嫌だ。


 少し進むと、ようやく周囲の形がはっきりしてきた。

 この場所は、見た目だけなら、どこかの道路トンネルか、鉄道用の整備通路みたいだ。

 壁はコンクリートっぽい。

 天井には黄色い照明。

 ところどころに金属の管。

 床には色分けされた帯が走っていて、数十メートルごとに線の色が少しずつ変わっている。

 最初は気づかなかったけど、よく見るとその線が、トンネルの奥へ行くほど少しずつ太く見える。


 ……いや、太くなってる?


 何度か目を凝らしてみる。

 でも、近づかないと分からない。

 どうやら、遠くへ行くほど、道幅そのものが変わっているらしい。

 さっきよりも少しだけ広い。

 あるいは、俺が立っている場所が少しだけ狭くなったのかもしれない。

 どっちでもいいけど、気持ち悪いことには変わりない。


 歩いていくと、数十メートルごとに、左右に小さな扉が見えてきた。

 ほんとに、普通のトンネルみたいだ。

 でも、普通じゃない。

 扉があるなら、何かしら用途があるはずだ。

 ああいうのって、たいてい点検用だろう。

 だから、とりあえず調べてみる価値はある。

 戻れないなら、進むしかない。

 それだけだ。


 最初に見えたのは、左側の扉だった。

 プレートに書いてある。

 「電気保守」

 ……なるほど。

 まあ、言われてみればそういうのはある。

 トンネルって、電気設備が必要だもんな。

 そういう点検用の扉なら、別に変じゃない。

 よし、と手を伸ばした。


 扉の取っ手に触れた瞬間――


 「っ!」


 小さな電流が走った。


 指先に、ピリッと鋭い痛み。

 慌てて手を引っ込める。

 心臓が少しだけ跳ねた。

 痛い。

 普通に痛い。

 いや、感電ってほどじゃない。

 でも、ちゃんとした嫌な痛みだった。


 「なんだよ……」


 もう一度だけ取っ手を見る。

 見た目は普通だ。

 でも、触れたら電気が来る。

 つまり、開けさせない仕組みになってる。

 そりゃ、電気保守って書いてあるんだから当然か。

 でも、触れた瞬間に電気が来るってどういうことだ。

 どれだけ気が短いんだよ、この扉。


 しかも、こんなの見た目だけなら普通の設備室なのに、なんでこんなに容赦ないんだ。

 ちょっとくらい親切にしてくれてもいいだろ。

 ……いや、誰に文句を言ってるんだろう、俺は。


 次に見えたのは右側の扉だった。

 今度は、「水保守」。

 水?

 水って何だ。

 トンネルに水なんてあるのか。

 いや、排水か。

 たぶんそういう設備だ。

 でも、ちょっと不気味だな。


 今度は慎重に、取っ手を引いてみる。

 少しだけ動く。

 お。

 開くのか。

 そう思った瞬間、隙間から水がにじみ出てきた。


 ……え。


 最初は細い水滴だった。

 でも、次の瞬間にはもう、扉の隙間からかなりの量の水が漏れ始めた。

 床に広がる。

 靴の先に当たる。

 冷たい。

 やばい。

 反射的に扉を閉める。


 閉めた後も、下の隙間からじわじわ水が漏れてきた。

 ……うわ。

 これ、たぶん中に水が溜まってる。

 扉を開けたら、そのまま流れ出てきてたんだろう。

 もし、もっと大きく開けてたら……。

 いや、考えたくない。


 俺、泳げない。

 恥ずかしいけど、これは事実だ。

 プールの授業は一応やったし、できないわけじゃないふりはしてたけど、少なくとも“泳げる”とは言えない。

 だから、こういう水の部屋はすごく嫌だ。

 水の量が多い場所って、それだけで怖い。

 溺れるとか、そういうイメージがすぐ来る。

 ほんと、勘弁してほしい。


 ……いや、もしかして、これもただの設備室か。

 中に水が貯まっていて、圧力で漏れただけ。

 そういうことかもしれない。

 でも、こんなの開ける意味あるのか。

 開けたら余計に危ないじゃないか。

 誰がこんな場所を作ったんだ。

 少なくとも、優しくはない。


 俺は少しだけ歩く速度を上げた。

 こういう時、止まっていると余計なことを考える。

 考えすぎると、怖くなる。

 だから歩く。

 歩いているうちは、少なくとも“進んでいる”という感覚がある。


 すると、床の色分けに気づいた。

 最初は何でもないラインだと思っていた。

 でも、よく見ると、線の幅が少しずつ変わっている。

 黄色、白、黒、赤。

 それぞれの帯が、さっきより太くなっている気がする。

 いや、気がするだけじゃない。

 明らかに、見え方が変だ。


 少し戻ってみる。

 すると、今度は線が細くなる。

 ……いや、細くなるというより、道が広がる感じだ。

 どっちに行っても、見え方が変わる。

 まるで、道そのものが距離を食ってるみたいだった。


 なんだそれ。

 そんなの、あるわけないだろ。

 でも、実際にそう見えている。

 見えている以上、無視もできない。


 しばらく進むと、また左右に扉が現れた。

 今度はもう、半分くらい“点検用の扉”を見つけるゲームみたいになっていた。

 左。

 右。

 どっちを選ぶか、少しだけ迷う。

 こういう時、勘って案外大事だ。

 別に霊感があるわけじゃないけど、危ないものは危ないって分かる。


 右側の扉にした。

 プレートには、**「人員保守」**と書いてある。

 ……人員。

 人員って何だ。

 “人のための部屋”ってことか?

 それとも、“人員”って字がそもそも変なのか?

 まあ、たぶん、たしかに“人のため”っていう意味なんだろう。

 でも、あまりいい響きじゃない。


 取っ手を回す。

 今度は抵抗がない。

 開く。


 扉の向こうにいたのは――

 人だった。


 ……いや。

 人、だったもの、かもしれない。


 最初に見えたのは、背中を向けた何人かの姿だった。

 じっと立っている。

 妙に静かだ。

 動いていない。

 でも、完全に止まっているわけでもない。

 よく見ると、少しだけ揺れている気がする。

 扉の向こうに、机でも椅子でもなく、ただ人影だけが並んでいた。


 それも、妙に不自然な並び方で。


 まるで、マネキンみたいだった。

 でも、マネキンにしては人間らしい。

 顔の輪郭もあるし、髪もあるし、服も着てる。

 ただ、その向きがおかしい。

 全員が、こちらを見ていない。

 壁の方とか、別の方向とか、意味の分からない方を向いている。

 しかも、どれも動かない。

 動かないのに、なんとなく“そこにいる”感じだけがする。


 ……なんだこれ。


 俺は思わず扉を少し閉めた。

 でも、すぐにまた少しだけ開ける。

 中の人影は変わらない。

 いや、変わっていないようで、よく見ると違う。


 顔が、少し見える。

 目がある。

 鼻がある。

 口もある。

 だけど、その表情は空っぽだ。

 生きているというより、貼り付けられているみたいだった。

 もう少しで、マネキンだと完全に思い込めそうな、そんな顔。

 でも、たしかに人間の要素が残っている。

 あれ、嫌だな。

 すごく嫌だ。


 試しに、扉の木枠を拳で軽く叩いた。

 コン、と乾いた音がする。

 その瞬間だった。


 中の人影たちが、一斉に首だけを動かした。


 ……は?


 首だけ。

 体はそのまま。

 顔だけが、ぎぎぎ、と動いて、こっちを向く。

 いや、向いた、というより、向かされたみたいだった。

 首の動きが不自然すぎる。

 まるで、首の関節がないみたいに。

 あるいは、首以外の部分が存在しないみたいに。


 俺の背中に、ぞわっとしたものが走った。


 「……っ」


 気づいたら、俺は扉を閉めていた。

 ばたん、と少し大きな音がした。

 閉めた後もしばらく、心臓が変な速さで鳴っている。

 なんだよあれ。

 人形。

 いや、人形じゃない。

 たぶん。

 でも、動き方が完全におかしい。

 あれは人間じゃない。

 少なくとも、普通の人間の動きではない。


 ……でも、見なかったことにはできない。


 俺は少しだけ息を吐いた。

 いや、吸ったのかもしれない。

 とにかく落ち着け。

 まだ分からない。

 ああいう部屋に誰かがいるだけなら、別におかしくない。

 ……いや、おかしいか。

 かなりおかしい。

 でも、少なくとも襲ってきてはいない。

 今のところは。


 そして、次の扉を見る。

 左側。

 「金属保守」

 ……なるほど。

 今度は金属か。

 というか、このトンネル、保守ばっかりだな。

 どれだけ壊れやすいんだ。

 いや、それを保守するための扉なんだから当然か。

 でも、金属の保守って何だ。

 錆? 構造?

 よく分からない。


 とりあえず引こうとしてみた。

 ……動かない。

 完全に。

 まるで扉そのものが壁に埋まってるみたいだ。

 もう少し力を入れる。

 びくともしない。

 それどころか、触れてる面が全部ひんやりとした金属でできている。

 扉の形をした金属の塊。

 そういう感じだ。


 ……ああ、もう。

 何なんだよこれは。


 でも、少しだけ面白いと思ってしまう自分もいた。

 おかしいのは分かる。

 変なのも分かる。

 でも、ここまで来ると、もう“普通のトンネル”じゃない。

 少なくとも、俺がこれまで通ってきた道の延長じゃない。

 まったく別の、変な場所だ。


 もしかしたら。

 ほんとに、もしかしたら。

 これは何かの始まりなんじゃないか。

 そう思うと、胸の中に少しだけ熱いものが戻ってきた。

 怖い。

 でも、それ以上に、知らないものを見つけた時の感じがある。

 ああいうのは、たしかに嫌だけど、同時に――少しだけ、わくわくする。


 ……いや、わくわくって言うと違うか。

 もっと、こう、目が離せない感じだ。

 今までの退屈な毎日にはなかった、異物の気配。

 それが、ここにはある。


 問題は、戻れないことだけど。


 俺は後ろを振り向いた。

 さっきまで見えていたはずの扉。

 あの入口。

 そこに戻れば、たぶん外に出られる。

 そう思っていた。

 でも、もう違った。


 さっき通ってきた道は、ずっと向こうにあった。

 いや、向こうに“あるように見える”だけだ。

 距離が、馬鹿みたいに伸びている。

 あれ、さっきここまで来た時、こんなに遠かったか?

 いや、絶対違う。

 もっと短かった。

 ほんの少し歩けば来られたはずだ。


 でも今は違う。

 振り返ると、そこには、もうどう見ても普通の出口じゃない距離があった。

 かなり遠い。

 信じられないくらい遠い。

 しかも、戻ろうとしても戻れない気がする。

 いや、気がするじゃない。

 さっきみたいに、床がまた斜めになり始めた。


 ……おい。


 足元を見る。

 地面が、また少しずつ坂になっている。

 今度は、さっきよりもっと露骨だ。

 後ろへ戻る方向の地面だけが、すうっと上がっていく。

 まるで、帰ること自体を拒んでいるみたいだった。


 俺はしばらく、そこに立ち尽くした。

 前を向くと、長すぎる通路。

 後ろを向くと、戻れない坂。

 左右には、意味の分からない保守用の扉。

 そして、空気は静かすぎる。

 照明は黄ばんでいる。

 ここは、もう“トンネル”なんて簡単な言葉で済む場所じゃない。


 ……でも、少しだけ、そう思う自分もいた。


 これ、もしかして。

 ほんとに“冒険”ってやつなんじゃないか。


 いや、笑える。

 こんな気持ち悪い場所を見て、冒険なんて言葉が浮かぶなんて。

 でも、そうとしか言いようがない。

 少なくとも、今までの俺の生活にはなかったものだ。


 帰れない。

 進むしかない。

 それだけが分かった。

 それだけで、胸の奥が少しざわつく。


 ……ようやく、何かが始まったのかもしれない。

 そんなことを、俺はまだ半信半疑のまま考えていた。

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