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第③章:地下の入口 (4)

 進めば進むほど、戻れないという事実だけが、少しずつはっきりしていった。


 ……いや、正確には、戻れないというより、戻る気力が削られていく感じかもしれない。

 さっきから何度も後ろを振り返っているけど、振り返るたびに、あの出口らしきものは遠くなっている。

 さっきまで見えていたはずの扉も、今ではもうかなり後ろだ。

 そういうのを見ると、たぶん普通の人間なら「やばい」とか思うんだろうけど、俺はもう、半分くらいは諦めていた。


 ……もちろん、完全に諦めたわけじゃない。

 だって、家に帰らないといけないし。

 母さんに何も言わずに夜遅くまで帰らなかったら、たぶん普通に怒られる。

 それは嫌だ。

 すごく嫌だ。

 この妙な場所より、母さんの心配そうな顔の方が、ある意味ではずっと怖い。

 あれは本当に、逃げ道がないから。


 でも、今の俺には、この場所からどうやって出るかより先に、もう少しだけ見ておきたいという気持ちもあった。

 なんというか、変な話だ。

 怖いのに、気になる。

 意味が分からないのに、目を離したくない。

 そんな感覚が、少しずつ胸の奥で膨らんでいく。


 それに、この場所は明らかにおかしい。

 おかしいなら、ちゃんと見ておいた方がいい。

 俺の人生で何かが起こるかもしれない場所なんて、たぶん二度と出てこない。

 そう思うと、足を止める理由が少しずつ減っていった。


 だから、俺は歩いた。

 ゆっくり。

 少しだけ慎重に。

 でも止まらずに。


 歩くたびに、左右の壁に並ぶ扉がまた増えていく。

 さっきまでは、電気、 воды、職員室みたいなものかと思ったけど、今度はもっと意味不明だ。


 「衣類保守」

 「樹木保守」

 「住宅保守」


 ……何だそれ。

 いや、意味は分かる。

 分かるけど、分かるからこそ変だ。

 こんなトンネルで、服を保守する必要があるのか。

 木を? 家を?

 なんでトンネルにそんなものが必要なんだ。

 それとも、ここはトンネルっていうより、そういうもの全部を雑にまとめた巨大な維持装置か何かか。

 いや、そんな馬鹿な話あるか。

 でも、俺が今見てるものは、馬鹿な話にしか見えない。


 ……ただ、少しだけ納得できる部分もある。

 この場所が本当に終わりのない構造なら、扉の中身もいくらでも増えるのかもしれない。

 人がいないのに、保守だけがある。

 なんだか、誰もいない大きな機械の内部を歩いてるみたいだ。

 壊れないように、誰かがずっと何かを守っている。

 でも、守る相手はもういない。

 そんな印象が、ちょっとだけあった。


 床の色帯は、歩くたびに少しずつ太さを変えていた。

 さっきは細いと思ったのに、少し進むと急に広くなる。

 逆に、急に狭く感じる時もある。

 トンネル自体が大きくなったのか、小さくなったのか、それとも俺の感覚が狂ってるのか、よく分からない。

 ただ、ひとつ言えるのは、ここは一定じゃないということだ。


 ときどき、妙に広くなる。

 たとえば、天井が高すぎて、まるで飛行機の整備場みたいに見える瞬間がある。

 でも次の区画では、急に狭くなって、今度はバイクでもやっと通れそうなくらいの幅になる。

 ほんと、何なんだこれ。

 道路トンネルなのか、鉄道なのか、倉庫なのか、今はもう全部が混ざってる。

 さっきまで少しだけ持っていた“ただの工事中かもしれない”という考えは、もうかなり薄れていた。


 だって、工事にしてはおかしいことが多すぎる。

 人もいない。

 車もいない。

 音もない。

 工事の看板も、作業員も、黄色いコーンもない。

 あるのは、無機質な照明と、意味不明な扉と、どこまでも続く通路だけだ。


 ……まあ、人や車がいないのは助かる。

 轢かれないし。

 ぶつからないし。

 そういう心配だけはしなくていい。

 でも、それが安心材料になってる時点で、もうだいぶ普通の道じゃないよな、と思う。

 いや、普通の道じゃない。

 そもそも最初から、もう普通じゃない。


 歩いているうちに、ある扉が目に入った。

 今までより少し大きい。

 扉の上の表示板には、短く一語だけ書いてある。


 「出口」


 ……出口。


 その二文字を見た瞬間、心臓が少しだけ跳ねた。

 お、と思った。

 いや、かなり思った。

 ついに来た。

 これが本当に出口なら、さっきまでの変なやつ全部も、とりあえずは終わる。

 帰れる。

 家に戻れる。

 母さんからのメッセージにも答えられる。

 グミを食べながら寝ることもできる。

 すばらしい。

 ……いや、待て。

 今すぐ喜ぶには早いか。


 俺は扉の前で立ち止まった。

 しばらく見てみる。

 出口。

 そう書いてある。

 嘘じゃなければ、出口だ。

 でも、ここで少しだけ変なことを考えてしまう。


 ――もしかして、これは俺だけの場所なんじゃないか。


 そんな考えが、ふいに頭に浮かんだ。


 ここには人がいない。

 誰もいない。

 足跡もない。

 痕跡もほとんどない。

 こんな奇妙な場所に、俺以外の誰かがいた形跡がないなら、もしかして本当に……。

 いや、違う。

 たまたまかもしれない。

 でも、たまたまにしては都合が良すぎる。

 俺が最初で、俺だけが見つけて、俺だけがここに入った。

 もしそうなら――


 ……なんか、すごくないか?


 思わず、胸の奥が熱くなった。

 いや、熱くなったっていうより、鼓動が早くなった。

 そうだ。

 これだ。

 これが欲しかったんだ。

 誰も知らない場所。

 誰も見たことがない場所。

 そして、そこに入れるのが俺だけなら、これはもう“偶然”じゃなくて、選ばれたってことじゃないか。


 俺は少しだけ笑いそうになった。

 ……いや、笑ったかもしれない。

 声には出してないけど。

 でも、少なくとも気分はかなり上がった。


 そうか。

 そういうことか。

 俺はこの場所に呼ばれたんだ。

 ただの通学路の途中じゃない。

 ただの変なトンネルでもない。

 これは、俺のために開いた入り口だ。

 そう考えると、一気に世界の見え方が変わる。


 今までの退屈な日々。

 何も起きない教室。

 九頭見みたいなくだらないやつら。

 そういうもの全部が、急にちっぽけに見えてくる。

 だって、俺は今、誰も知らない場所にいるんだから。

 しかも、ただの迷い込みじゃない。

 もしかしたら、これは“始まり”だ。


 よし。

 じゃあ、ちゃんと記録しておこう。

 こういうのは後で絶対に役に立つ。

 ……いや、役に立つかどうかはまだ分からないけど、少なくとも記録しておく意味はある。

 戻る時に分かるように。

 次に来る時に迷わないように。

 それに、記録しておけば、もし本当に俺だけがここに入れるなら、証拠にもなる。


 俺はバッグを下ろして、中から学校のノートを引っ張り出した。

 普段、授業で使ってるやつだ。

 それと筆箱。

 鉛筆。

 ……いや、鉛筆っていうか、シャーペン。

 まあ、どっちでもいい。

 こういう時に使うのは、たぶんそっちの方がいい。


 その場にしゃがみ込んで、ノートを開く。

 ページの端に、今日の日付を書く。

 2026年4月14日。火曜日。

 それから、場所。

 高田図書館の帰り道。

 関川沿いの不明な通路。

 ……いや、そんなふうに書いたら普通すぎるな。

 でも、最初はそれでいいか。

 どこからどうおかしくなったか、あとで分かればいい。


 そして、少しずつ思い出しながら、見たことを書いていく。


 通路の幅は一定じゃない。

 数メートルごとに広くなったり狭くなったりする。

 天井の高さも変わる。

 照明は黄色っぽくて薄い。

 壁に金属の管が走っている。

 床には色帯。

 左右に扉。

 扉には維持保守のような表示。

 電気。

 水。

 人員。

 金属。

 ……そして、たぶんまだある。


 書いているうちに、少しだけ気づく。

 これ、もしかして扉の名前そのものが、中身を示しているんじゃないか?


 そう考えると、さっきのことが少しだけ理解できる。

 電気の扉に触れたら感電した。

 水の扉を開けたら水が漏れた。

 人員の扉は、たぶん人みたいな何かがいた。

 だったら、他の扉も同じだろう。

 名前が先で、現象が後。

 そんなふうに作られているのかもしれない。


 ……いや、そんな馬鹿な。

 でも、そう考えるとすごく分かりやすい。

 分かりやすいからこそ、気持ち悪い。


 ノートに書きながら、ふと時計のことを思い出した。

 今、何時だろう。

 さっきから感覚が薄い。

 ここでは時間が普通に進んでいるのか、それとも止まっているのか。

 スマホはもう動かないし、音楽も止まったままだ。

 図書館を出てから、どれくらい経ったのかも怪しい。


 たぶん、時間なんてあってないようなものなんだろう。

 もしそうなら、家に帰っても、俺がいなくなっていた時間なんて存在しないことになる。

 そう考えると、少しだけ安心する。

 ……いや、安心するっていうのも変か。

 むしろ、都合がいい。

 もしここで何かをしても、時間がズレて戻れるなら、かなりありがたい。


 まあ、今のところは何もしてないけど。


 俺はノートを閉じかけて、ふいに別のことを思いついた。

 こんな場所なら、もしかして――

 魔法とか、そういうのがあるんじゃないか?


 いや、笑うな。

 笑うな俺。

 でも、考えてしまったものは仕方ない。

 もし、この場所が“普通じゃない”なら、普通じゃないものがあってもおかしくない。

 たとえば、どこかの扉の先に、魔法使いがいるとか。

 たとえば、古い本や、特別な道具や、力を得るための何かがあるとか。

 そういうの、あるに決まってる。

 ……いや、決まってはいないけど、あってほしい。


 もし“出口”があるなら、その先に“別の世界”があってもいいはずだ。

 あるいは、ここ自体が別の世界とか。

 それなら、俺が選ばれたのだって筋が通る。

 最初にこの場所へ入った。

 誰もいない。

 誰にも邪魔されない。

 だったら、俺が特別でもおかしくない。


 ……そうだ。

 そういうことにしよう。

 この場所に入れたのは、俺だからだ。

 俺だけが見つけた。

 俺だけが来た。

 つまり、俺はここで何かを得る資格がある。

 そういう風に思わなきゃ、わざわざこんな意味不明なところまで来た意味がない。


 ノートにさらに書く。

 出口は一つとは限らない。

 扉の先は変化する。

 中身は、名前に対応している可能性が高い。

 進むほど規模が変わる。

 戻るのは困難。

 ……よし。

 だいぶそれっぽい。


 書きながら、なんだか少しだけ楽しくなってくる。

 いや、かなり。

 この手の記録って、地味だけど、後から見たらかなり大事になる気がする。

 何せ、俺はたぶんこの場所の最初の発見者だ。

 それなら、記録を持ってるのは俺だけの特権になる。

 あとで人に見せることもできる。

 ……もちろん、信じてもらえるかは別だけど。


 でも、信じてもらえなくてもいい。

 最終的に俺がここで何かを手に入れればいいんだから。

 力でも、知識でも、何でも。

 そういうものがあれば、俺はもうただの荷川取慧璃じゃない。

 選ばれた存在になる。

 そうなれば、あの教室の連中なんて、みんな勝手に驚く。

 九頭見も、凛成も、慧斗も、秋山も。

 たぶん。


 ……いや、違う。

 驚くだけじゃ足りない。

 俺が本当に特別だと分かったら、あいつらはきっと、今までみたいには見れなくなる。

 俺をただの静かな奴だと思っていた連中が、急に態度を変える。

 そういうの、目に見える。

 見えるからこそ、楽しみだ。


 何度も思うけど、俺は別に人を見下したいわけじゃない。

 ただ、俺のことをわかっていない連中に、ちゃんとわからせたいだけだ。

 ……ああ、なんか言い方が嫌だな。

 でも、本音だから仕方ない。


 ノートを閉じて、立ち上がる。

 ここまでで、ある程度は分かった。

 少なくとも、ただのトンネルではない。

 それに、出口がある。

 なら、次はそこを調べるだけだ。


 俺はバッグを持ち上げて、また前へ向かった。

 黄色い照明の下を歩く。

 歩くほど、トンネルはどこまでも続いているように見える。

 でも、今はそれが怖くない。

 むしろ、少しだけ楽しい。


 だって、ここにはまだ何もない。

 何もないからこそ、これから何でも起こせる。

 そんな気がしていた。


 ……いや、気がしていた、じゃない。

 起こさなきゃいけない。

 せっかく俺が最初にここへ来たんだ。

 何かを見つけて、何かを得て、何かを変える。

 そうじゃないと、ここに来た意味がない。


 胸の中の熱は、さっきより少しだけ強くなっていた。

 怖さもある。

 でも、それ以上に期待がある。

 それも、かなり大きい。


 俺は心の中で、何度も同じことを繰り返していた。


 ――俺が最初だ。

 ――俺が選ばれた。

 ――ここは、俺の物語の始まりだ。


 そう思うたびに、足取りが少しだけ軽くなる。

 そして、次に見えた扉の表示板を見て、俺はまた少しだけ笑いそうになった。


 ……もし本当に、次の扉に“魔法”とか“剣”とか書いてあったら、どうする?

 そんな馬鹿みたいな考えが、もう止まらなかった。


 それが、たぶん、俺の人生が本当に動き出した瞬間だったのかもしれない。

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