第④章:反射しない通路 (1)
歩きながら、俺はノートを開いた。
片手で持つには少し面倒だったけど、今はそれどころじゃない。
書いておかないと、あとで本気で分からなくなる気がしたからだ。
……いや、もう十分分からなくなっている。
でも、分からないなりに、形だけでも残しておくのは大事だ。
そうしないと、頭の中で全部が溶ける。
こういう場所は、見たものがそのまま記憶に残るとは限らない。
なんとなく、そんな気がした。
俺は歩きながら、見た扉の数を数えた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
いや、もう少し多い。
気づけば、十枚くらいの“保守”扉を見ている。
全部同じじゃない。
でも、全部似ている。
似ているのに、少しずつ意味が違う。
その感じが、妙に気持ち悪い。
「電気保守」
「水保守」
「人員保守」
「金属保守」
「衣類保守」
「樹木保守」
「住宅保守」
「技術保守」
「保守の保守」
……それから、もっと変なのもあった。
**「木材保守」とか、「道具保守」とか、
しまいには「保守のための保守」**みたいな、もはや何を言ってるのか分からないやつまであった。
……ほんと、何なんだこれ。
意味があるようで、ない。
あるように見せかけてるだけなのかもしれない。
でも、実際に扉はある。
そこが余計に腹立たしい。
さっき見つけた**「出口」**の扉は、後ろにある。
距離にして、たぶん二つぶんくらい戻ったところ。
つまり、すぐには帰れない。
すぐに帰れないというのは、すごく嫌だ。
嫌だけど、今はもう、帰る気持ちより“調べたい”気持ちの方が勝っていた。
俺はまたノートに書き込む。
扉の名前。
位置。
見た順番。
感触。
気づいたこと。
書いているうちに、少しだけ気分が落ち着く。
こういうの、たぶん地味に大事だ。
ちゃんと記録していると、自分が今どこにいるのか分かる気がするから。
でも、時間だけは分からない。
スマホはまだ動かない。
電源が入らない。
音楽も聞こえない。
つまり、何時なのか、どれくらい経ったのか、全部曖昧だ。
夜なのか、まだ夜じゃないのか、それすら怪しい。
ただ、空気がずっと同じだから、時間が進んでいる感じが薄い。
それでも歩く。
歩きながら、俺はときどき床を見る。
色の帯が少しずつ太くなったり細くなったりしているからだ。
赤。
黄。
白。
黒。
その縞模様は、さっきより少し乱れているようにも見えるし、逆に整っているようにも見える。
まるで、俺が見ている間だけ、道が息をしているみたいだった。
ここは長い。
異様なくらい長い。
でも、不思議と怖さだけではない。
少しずつ、なんとなく“構造”が見えてきている気がした。
それはたぶん、ただの気のせいじゃない。
少なくとも、完全な無秩序には見えない。
何かの規則に従っている。
その規則が分からないだけだ。
……いや、分からないのに、少しわくわくしている俺がいる。
それもまた、ちょっと腹立たしい。
こんな気持ち悪い場所なのに、俺は興奮してる。
でも、そういうのは認めた方が楽だ。
隠していても意味がないから。
だって、俺はたぶん、こういうのを待っていたんだ。
何かが始まる感じ。
ただの教室でも、ただの帰り道でもない。
まだ誰も見たことのない場所。
そういうの。
そういうものに、俺はずっと飢えていたのかもしれない。
しばらく歩いていた時だった。
前を見ていたつもりなのに、ふいに何かにぶつかった。
「……っ」
思わず、肩が止まる。
いや、ぶつかったというより、視界の先に壁があった。
さっきまで通路が続いていたはずなのに、急に終わっていた。
目の前に、また別の長い通路があった。
ただし、さっきまでと少し違う。
まるで、何度も折り返した先に現れる別の層みたいだった。
さっきの通路より少しだけ狭い。
照明も少しだけ白っぽい。
壁の質感も違う。
でも、全体の空気は同じだ。
しんとしている。
湿っている。
人の気配がない。
……あれ。
また別の通路か。
左手を伸ばして、壁に触れた。
硬い。
冷たい。
でも、よく見ると、その“壁”には、俺が思っていたような凹凸がない。
表面が、つるりとしている。
いや、つるりというより――
塗られている。
目を細める。
壁の端に、薄い継ぎ目がある。
よく見ないと分からない。
でも、確かにある。
俺はそこを指でなぞってみた。
……塗装。
というより、巨大な絵だ。
その壁全体が、途方もなく大きい一枚のペイントみたいになっていた。
しかも、もう乾いている。
べたつきもない。
まるで、最初からそこにあったみたいに完全に固まっている。
これ、壁じゃない。
壁に見せかけた何かだ。
……は?
俺はもう一度、拳で軽く叩いてみた。
コン、という音。
でも、そこまで響かない。
中は空洞じゃないのかもしれない。
いや、空洞でも、塗装だけでここまでできるか?
できるわけがない。
少なくとも、普通の人間の感覚では。
なら、壊せるか。
そう思って、今度は足で蹴ってみた。
「っ、痛っ」
当然だけど、蹴った俺の方が痛かった。
うん。
分かってた。
分かってたけど、やっぱり痛い。
俺は別に運動が得意じゃないし、こういうのに無駄な力を使うタイプでもない。
だから、壁を壊せるわけがない。
でも、ほんの少しくらいは何か起こると思った。
それが甘かった。
足先がじんじんする。
これ、地味に嫌だ。
こういうのが一番腹立つ。
派手に壊れないくせに、痛みだけちゃんとある。
全然気持ちよくない。
俺はしばらくその場で片足立ちになっていた。
痛みが引くのを待つ。
こういう時に自分の体重をちゃんと支えられないの、ほんと情けない。
でも、まあ、今は仕方ない。
足が強ければいいってもんでもないし。
……たぶん。
ふと、思った。
この場所、もしかして行くたびに変わるんじゃないか。
もしくは、時間を置くと何かが変化する。
ゲームみたいに、一定時間を過ぎるとマップが更新されるとか。
あるいは、何かを消費しているのかもしれない。
体力とか、集中力とか、そういう“見えない何か”を。
それって、すごくないか。
いや、怖いけど。
でも、すごい。
まるで、ここが生き物みたいだ。
人間の行動に合わせて、少しずつ構造を変えている。
俺に合わせてる。
……そんなわけないか。
でも、そう思った方が楽しくはある。
もし本当にそうなら、この場所は俺を歓迎してるってことになる。
少なくとも、拒絶してはない。
むしろ、見てる。
調べてる。
試してる。
そんなふうに感じる。
そう考えると、ちょっとだけ誇らしい。
いや、かなり。
だって、こんな変な場所に“相手にされてる”のは、俺だけかもしれない。
それって、すごくないか。
普通の奴なら、きっとこんなところに入る前に嫌になって帰る。
でも俺は違う。
俺は見つけたし、入ったし、今も記録している。
つまり、俺は相当特別だ。
……そういうことにしておこう。
少なくとも、今はそれでいい。
俺は壁の前を少しだけ離れて、また歩き出した。
すると、今度は右側に扉が見えた。
今までのものより少し小さい。
でも、表示はちゃんとある。
「維持:照明」
……なるほど。
照明の保守か。
じゃあ、今度は光を見に行くべきなのかもしれない。
そう思って近づく。
でも、まだ扉には触れない。
さっきから何となく、扉には触れる前に少しだけ“様子を見る”癖がついてきた。
扉の向こうにあるはずの空間を、目で追う。
でも、見えない。
光は薄い。
中身は分からない。
ただ、何かがあるのだけは確かだ。
……ここ、本当に面白いな。
俺はノートをもう一度開いて、今見えていることを書き足した。
壁は絵のような塗装でできている可能性。
扉は名前に応じた現象が起こる。
場所によって幅が変化する。
時間の感覚が不明。
戻りにくい。
だが進める。
つまり、ここは“探索する場所”だ。
そう書いていると、妙に気分が高ぶる。
やっぱり、こういうのが欲しかったんだと思う。
ただの通学路じゃない。
ただの帰り道でもない。
ここは、何かが始まるための場所だ。
少なくとも、俺にとっては。
そして、ふいに思った。
もし、この先にもっと変なものがあるなら――
もし、もっと奥へ行けば、魔法みたいなものとか、剣みたいなものとか、
とんでもない力とか、
そういう“物語の中心”みたいなものがあるなら――
俺は、きっとそれを手に入れる。
そうだ。
俺がここにいるのは、偶然なんかじゃない。
選ばれたんだ。
少なくとも、今の俺はそう思っている。
そう思わないと、こんな場所に足を踏み入れた意味がない。
前へ進む。
その一歩が、少しだけ軽くなる。
いや、軽くなった気がしただけかもしれない。
でも、それでいい。
だって、俺の大冒険は、まだここからなんだから。
少し歩いたところで、違和感が来た。
最初は、ほんの少しだけだった。
床が、気のせいみたいに揺れた気がした。
いや、気がしただけかもしれない。
でも、その“気がした”のが、妙にしつこかった。
……なんだろう。
地震ってほどじゃない。
ただ、空間の奥の方で、何かがぶるっと震えたみたいな、そんな感覚だ。
俺は一度立ち止まった。
耳を澄ます。
音はない。
でも、壁の向こうで、低い振動が走ってる気がする。
たぶん、俺の気のせいだ。
そう思って、また歩き出した。
その瞬間だった。
足元が、ずるっと外れた。
「っ――!」
いきなり体が傾く。
前に倒れる、というより、横へ落ちる。
床そのものが、ひっくり返ったみたいだった。
俺は反射的に腕をついたけど、間に合わない。
視界の中で、通路の線がぐにゃりと曲がる。
……は?
よく分からないまま、床が右へ回転し始めた。
いや、床が回ってるのか、俺が落ちてるのか、もう区別がつかない。
とにかく、重力の向きが変だ。
右側が下になる。
次の瞬間には、左側が下になる。
頭が追いつかない。
「うわ、っ……」
俺の体はそのまま、通路の片側に滑った。
足がもつれる。
肩が壁にぶつかる。
痛い。
くそ、痛い。
何だこれ。
トンネルの中で酔ってるみたいだ。
いや、酔ってるっていうより、瓶の中に入れられて振られてる感じに近い。
前後にも揺れる。
今度は、通路全体が前へ倒れた。
そのまま、後ろへ戻る。
また前へ。
まるで、俺ごとこの場所が、横にしてある大きな水の瓶みたいだった。
誰かがそれを手で持って、ゆっくり振ってる。
そんな感覚だ。
「……っ、気持ち悪」
思わず声が漏れる。
吐きそう、というほどじゃない。
でも、頭が揺れる。
目が、周囲をうまく捉えられない。
天井と床の境目が、さっきから曖昧だ。
何とか両手で壁を押して、少しだけ体勢を整える。
立つ。
足元はまだ変だ。
でも、転がるよりはましだ。
たぶん。
よし。
とりあえず、普通に歩こう。
そう思った。
だが、次の瞬間、通路がまた動いた。
今度は右回転だ。
ほんの少しじゃない。
はっきり分かるくらい、ぐるりと回る。
通路全体が、巨大な輪っかみたいに動いた。
「……っ!」
俺は反射的に、回転と逆向きに足を出した。
そうしないと、足元に置いていかれる。
なんとか前へ進む。
いや、進めてるのかどうかは分からない。
ただ、回る床の上で、同じ方向に負けないように歩いているだけだ。
……これ、ハムスターの回し車みたいじゃないか。
そう思った瞬間、なんか腹が立った。
こんな意味不明な場所で、なんで俺が必死に回し車してるんだよ。
ふざけるな。
でも、立ち止まったら振り落とされる。
だから歩くしかない。
少しだけ進んだ。
いや、進んだ気がした。
すると、急に床が左へひっくり返った。
「うわっ!」
肩から壁にぶつかる。
そのまま、脇腹までずりっと擦れた。
痛い。
地味に痛い。
こういうのは本当にやめてほしい。
大怪我じゃないのに、じわじわくるから余計に嫌だ。
でも、少しだけ前に進めた。
なら、まだいける。
たぶん。
俺は歯を食いしばって、また立ち上がった。
……で、次の瞬間、通路は止まった。
ぴたり、と。
さっきまでの揺れが嘘みたいに消える。
耳が、妙に静かになる。
俺はその場でしばらく息を整えた。
心臓が少し速い。
膝も少し重い。
足の裏が変な感覚だ。
でも、とりあえずは立っていられる。
周りを見た。
何もない。
同じような壁。
同じような照明。
同じような黄ばんだ光。
でも、さっきより少しだけ暗く感じる。
……いや、暗いというより、光の質が変わったのかもしれない。
その時だった。
ぱちっ。
どこかで、何かが割れる音がした。
俺はすぐに振り返った。
後ろ。
さっきまで来た方。
そこにあった明かりが、一つ、また一つと消えていく。
いや、消えるというより、沈んでいく。
まるで、闇が照明を飲み込んでるみたいだった。
「……は?」
次の瞬間、またひとつ。
ぱりん。
もう一つ。
その音は、思ったより大きかった。
電球が砕ける音に似てる。
でも、砕けた破片は見えない。
ただ、光だけが壊れていく。
……何だあれ。
後ろの方をよく見ると、照明が消えた場所は、単に暗くなっただけじゃなかった。
暗闇そのものが、そこを塗りつぶしていく。
黒い。
ただ黒い。
床も壁も、さっきまであったはずの輪郭も、そのまま飲まれていく。
まるで、その部分だけ“無かったこと”にされてるみたいだ。
ぞっとした。
これはまずい。
かなりまずい。
何かは分からないけど、少なくともいいものではない。
ただの暗さじゃない。
“消えている”のだ。
場所そのものが。
もしこれがどんどん進んだらどうなる。
考えたくないけど、たぶん、あの黒い部分に落ちたら終わる。
普通に落下して、どこまでも落ちる。
そういう感じがする。
ゲームで言えば、マップの外に出てしまうやつだ。
落ちたら戻れない。
そんなタイプのやつ。
……やばいな。
心の中で、少しだけ焦りが生まれる。
さっきまでの“面白い場所”って気分が、急に薄れる。
代わりに、ちゃんと危機感が来た。
今までのは、まだ序章だったのかもしれない。
これ、たぶん、放っておいたらまずい。
俺は一度、深く息を吸った。
そして、走る準備をした。
逃げろ。
そう頭の中で命令する。
理屈はあとだ。
とにかく、黒い部分が広がる前に動く。
俺はそのまま、足を踏み出した。
走る。
足音が、長い通路に響く。
カツ、カツ、カツ。
それが、後ろに戻ってくる。
耳に返る音が、やけに鋭い。
後ろを見ると、黒い部分がじわじわ増えている。
消えていく。
光が負けてる。
いや、負けるっていうか、吸われてる。
そんな感じだ。
急げ。
俺は自分にそう言い聞かせた。
でも、走っているうちに、また通路が動く。
今度は、輪っかみたいに回り始めた。
「っ……!」
体が振られる。
床が円を描くように傾く。
右へ。
左へ。
今度は、さっきと逆。
回転の向きが変わった。
つまり、俺もそれに合わせて動き方を変えないといけない。
最悪だ。
ただでさえ疲れてるのに。
右回転の時は、左へ行けばいい。
左回転の時は、右へ行けばいい。
頭で理解しても、体がついてこない。
しかも、通路の回転速度が微妙に変わる。
遅くなったと思ったら、急に速くなる。
一定じゃない。
最悪だ。
ほんとに最悪。
足がだんだん重くなる。
呼吸が荒くなる。
胸が少し痛い。
汗がにじむ。
いや、こんなところで汗をかいてる場合か。
でも、かく。
しんどい。
かなりしんどい。
……このままじゃ、たぶん動けなくなる。
そう思った。
後ろを見ると、黒い部分はまだ増えていた。
その黒さは、通路の回転と関係なく、じっとそこに残っている。
しかも、あの暗闇はただの影じゃない。
少しずつ、道そのものが消えているようにも見える。
床があるはずの部分が、ただの空白になっていく。
……落ちたら、終わる。
そういうことだ。
怖い。
かなり怖い。
でも、怖がってる暇もない。
走るしかない。
息が切れても、足が痛くても、前へ。
その時、前方の黒い部分の中に、何かが見えた。
細い線。
いや、線というより、隙間だ。
ほんのわずかに、黒の中に白っぽい裂け目がある。
さっきまでなかった。
たぶん。
でも今は、たしかにある。
……あれは、何だ。
近づくにつれて、その裂け目は広がって見えた。
まるで、壁の向こう側から別の空間が覗いているみたいだった。
上か下かは分からない。
ただ、扉みたいにも見えるし、階段のようにも見える。
いや、もっと曖昧だ。
別の層に繋がっている感じ。
俺の足が少し止まりかける。
でも、すぐに思い直した。
……待てよ。
これ、もしかして“次の段階”じゃないか?
さっきからここは、妙にゲームっぽい。
扉。
保守。
保守。
消える照明。
そして今度は、黒い部分の中に現れる裂け目。
この流れでいくなら、きっとここはただの行き止まりじゃない。
先へ進むための場所だ。
そう考えると、少しだけ気持ちが上がる。
……いや、かなり上がる。
もしかすると、これは“次の階層”みたいなものかもしれない。
そうだ。
そう思うと、今の苦労にも意味が出る。
俺はこの意味不明な空間を、ただ迷ってるんじゃない。
進んでるんだ。
次へ。
上へ。
あるいは下へ。
とにかく、次に。
黒い部分は、どうやらただの消失じゃない。
その中に、別の入口がある。
そう見えた。
それなら、もう迷う必要はない。
俺は少しだけ息を整えた。
そして、その裂け目へ向かって走った。
近づくにつれて、裂け目ははっきりしてくる。
細い。
でも確かにある。
その向こうに、薄い明るさがある。
上下どちらかの層から差し込んでるみたいだ。
今のまま走れば、そこに届くかもしれない。
……よし。
いける。
この調子だ。
俺は足の痛みを押し殺しながら、最後の一歩を踏み出した。
もしこれが次の扉なら、きっと何かがある。
何かがあるなら、俺はそれを見つける。
そして、見つけたら、きっと――
そこから先を考える前に、俺はその裂け目へ飛び込んだ。




