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第④章:反射しない通路 (2)

 裂け目に飛び込んだ瞬間、空気の質が変わった。


 ……いや、質が変わったというより、音が変わった。

 さっきまでずっと耳にまとわりついていた低い振動が、急に薄くなる。

 代わりに、湿った静けさが来た。

 鼻の奥に、古いコンクリートと埃の匂い。

 少しだけ錆びた鉄の匂い。

 それから、どこかで水が溜まっているような、ぬるい湿気。


 目を開けると、そこはまた別の場所だった。


 今度の場所は、さっきまでの長い通路とは少し違う。

 灰色。

 それが第一印象だった。

 壁も、床も、天井も、全体的にくすんだ灰色。

 しかも古い。

 古いというか、放置されている。

 埃。

 蜘蛛の巣。

 隅っこにたまった汚れ。

 まるで、かなり長い間、誰もちゃんと手入れしていない場所みたいだ。


 そして、管だ。


 壁の左右には、細いものから太いものまで、いろんなサイズの配管が並んでいる。

 一本だけじゃない。

 何本も。

 工業用みたいな太い管もあれば、細くて何かを通すためだけにあるようなものもある。

 色はほぼ無彩色。

 でも、ところどころに黒ずみや錆びがついていて、ただの綺麗な設備って感じじゃない。

 ちゃんと使われていた痕跡がある。

 あるいは、使われていたことがある、だけかもしれない。


 ……新しい区画、か。


 俺は立ち止まって、少しだけ周りを見た。

 さっきまでの黄色いトンネルより、ずっと“裏側”っぽい。

 表から見える場所というより、建物の中の骨の間を歩いている感じだ。

 こういうの、なんというか、妙に落ち着かない。

 でも、嫌いじゃない。

 少なくとも、何もない普通の道よりは、ずっと面白い。


 俺はバッグからノートを取り出した。

 ページを開く。

 鉛筆で、ざっと見たものを書きつける。


 灰色。

 長い。

 古い。

 埃。

 配管多数。

 左右に点検っぽい構造。

 照明は少ない。

 空気は湿っている。

 音がよく響く。


 こういうの、あとで絶対役に立つ。

 たぶん。

 というか、役に立ってほしい。

 何も書かずにいたら、今の俺は本当に迷子になる。

 いや、もうかなり迷ってるけど。

 記録してるだけまだマシだ。


 歩く。

 足音が、思ったより強く響く。

 カツ、カツ。

 さっきのトンネルより少し音が低い気がする。

 床が違うのかもしれない。

 コンクリートの上に薄い塵が乗っていて、その上を踏んでるような感触もある。

 靴底の下に、ほんの少しだけ柔らかさがある。

 気持ち悪い。

 でも、進む。


 しばらく歩くと、前の方に配管が集まっている場所が見えてきた。

 いくつもの管が、通路の幅を塞ぐように横切っている。

 ……おいおい、行き止まりかよ。

 いや、さっきのことを考えたら、完全な行き止まりとは限らない。

 少なくとも、ここまで来て“はい終わりです”って感じではないはずだ。


 近づいて、配管の一本を軽く叩いた。


 かん。


 その瞬間、どこかで小さく、電球が割れるような音がした。


 ……ん?


 振り返る。

 何もない。

 いや、何かある。

 でも見えない。

 見えないというより、音がした方向の壁の表面が少しだけ歪んでいる気がする。


 もう一回、今度は別の管を叩いた。


 かん。


 また、あの音。

 今度は少し左。

 何だこれ。

 配管を叩くと、電球が割れる音がするのか。

 意味が分からない。

 でも、意味が分からないだけで終わらないのがこの場所だ。


 もう少しじっくり見てみると、壁の一部に、うっすらと縦の線が浮かび上がっていた。

 最初は見えにくい。

 でも、目を凝らすと分かる。

 細い。

 まっすぐ。

 床から天井まで続く、ほとんど見えないくらいの亀裂。


 ……あ。


 たぶんこれだ。


 俺はその亀裂の前まで行って、指先でそっとなぞった。

 冷たい。

 でも、ただの壁じゃない。

 触れたところの向こうに、別の空気がある。

 ほんの少しだけ、隙間がある。

 視線を落とすと、その向こうにまた通路が続いていた。


 なるほど。

 見える。

 でも、開いていない。

 通れない。

 無理やり押せば行けるかと思ったけど、そう簡単にはいかない。


 俺は配管の方をもう一度叩いた。

 すると、さっきの音がまたする。

 そのたびに、亀裂が少しだけ強調される。

 ……もしかして、これ、音で何かを反応させる仕組みか?


 そう思った瞬間、ちょっとだけ楽しくなった。

 なるほど。

 つまり、ここにはここなりのルールがある。

 この場所は、適当に歩けばいいってわけじゃない。

 何かをきっかけに、見えない扉が開く。

 そういう構造なのかもしれない。


 ……いいじゃないか。

 ゲームっぽい。

 というか、かなりゲームっぽい。

 俺、こういうの好きだ。

 ちゃんと調べれば、どこかで次の道が開く。

 そういうの、かなり冒険してる感じがする。


 俺はもう一度、管を軽く叩いた。

 そして、亀裂の前に立つ。


 何も起きない。

 ふむ。

 じゃあ、今度はもう少し違うことをやってみるか。


 配管の向こう側の壁を、少し強めに拳で叩いた。


 かん。


 またあの音。

 今度は、少し近い。

 すると、目の前の壁に沿って、ごく細い縦の裂け目が生まれた。

 黒い。

 その向こうに、別の通路が見える。

 ……見えるのに、まだ通れない。


 さらに叩く。

 すると、裂け目が少し広がった。

 でも、まだ足りない。


 ……やっぱり、これだ。

 叩けば開く。

 いや、正確には、叩くと“反応する”。

 どこかが開く。

 さっきと同じだ。

 この場所は、きっとそういう仕組みなんだ。


 俺はすこしだけ胸を張った。

 当然だ。

 こういう発見は、ちゃんと俺が見つけるべきだ。

 だって俺は――

 いや、今はその話はいいか。


 もっと強く叩く。

 今度は、配管の下の壁。

 すると、今度は裂け目がはっきりと見える。

 そして、その裂け目の先に、通路がちゃんと続いているのが分かった。


 ……よし。

 いける。


 でも、まだ完全には開いていない。

 通れるほどじゃない。

 だから、俺は少しだけ考えた。

 音がきっかけなら、どこかを開ける仕組みがあるはずだ。

 それは扉じゃなくてもいい。

 壁のほころびでも、隙間でも、何でも。

 少なくとも、この場所は“無反応”じゃない。


 その時だった。


 ぶつっ。


 さっきまで見えていた亀裂が、急に消えた。

 いや、消えたというより、閉じた。

 何事もなかったみたいに、ただの壁に戻る。

 ……ちっ。

 やっぱりそんなに簡単にはいかないか。


 でも、その直後だった。


 ごごご、と低い音がした。


 地面が、ほんの少しだけ震える。

 いや、ほんの少しじゃない。

 壁に沿って、細い振動が走った。

 そして、目の前の壁が――

 左右に開いた。


 しかも、綺麗に。

 まるで最初からそのために作られていたみたいに、ぱかっと。

 中から、別の通路が見える。

 ちゃんと、道だ。

 進める。

 今度こそ本当に進める。


 ……ほらな。


 俺は少しだけ得意げになった。

 やっぱり俺の勘は正しかった。

 というか、俺がここでただ立ち止まるわけがない。

 この場所だって、俺みたいな存在をそう簡単には止められない。

 そういうことだ。

 たぶん。


 俺は壁の向こうに一歩踏み出した。

 その先は、さっきまでの灰色の維持通路より少しだけ広かった。

 同じ灰色。

 同じ埃。

 でも、今度は天井に別の照明が並んでいる。


 白い。

 黄色じゃない。

 白くて、ところどころ色が違う。

 明るいものもあれば、青っぽいものもある。

 しかも、その配置が変だ。

 左の方に寄っていたり、左右で重なっていたり、妙に浮いていたりする。

 挙げ句の果てには、床に一つだけ落ちてるみたいな位置にあるやつまである。


 ……なんだこれ。

 照明の置き方まで変なのかよ。


 でも、悪くない。

 いや、かなり変だけど、面白い。

 こういう不揃いな感じが、この場所の癖なんだろう。

 今の俺には、それが妙にワクワクする。


 歩いていると、天井の照明の色が少しずつ変わっていくのが分かった。

 白。

 薄黄。

 青。

 赤。

 緑。

 規則があるようで、ない。

 それでいて、何となく順番があるようにも見える。

 しかも、たまにふっと消える。

 そのたび、俺は少しだけ肩を跳ねさせる。


 「……びっくりさせんなよ」


 誰にともなく呟く。

 すると、次の瞬間、また照明の位置が入れ替わった。

 左にあったものが右へ。

 天井にあったものが壁の近くへ。

 さっきまで床の上にあったように見えたやつも、気づけば上に戻っている。


 ……これ、動いてるんじゃないか?


 ただの照明じゃない。

 配置自体が変わっている。

 ということは、ここは“固定された通路”じゃないのかもしれない。

 その時々で、見える形が変わる。

 あるいは、道そのものが照明に合わせて組み替わっている。

 そういうことか。


 その理解は、かなり気持ち悪い。

 でも、同時に、かなり面白い。

 この場所、ほんとにいろいろ隠してるな。

 もしかしたら、奥へ行けば行くほど、もっと変なものが出るのかもしれない。


 俺はノートをまた開いて、見えている照明の位置を描いた。

 左寄り。

 天井上部。

 壁近く。

 床近く。

 重なりあり。

 色変化あり。

 ……こういう記録は後で役に立つ。

 たぶん、絶対に。


 そして、少し進んだところで、一つ目の扉が見えた。

 今度は左側。

 白っぽい、タンスみたいな質感。

 表面は少しざらざらしている。

 取っ手には開いたままの南京錠がついていた。

 なんだそれ。

 開いてるのに、扉は閉じてる。

 しかも、さっきみたいに何か書いてあるわけじゃない。


 俺は扉の前に立ってみた。

 押す。

 ……開かない。

 引く。

 ……やっぱり開かない。

 力を入れても、びくともしない。

 まるで、扉自体が固まってる。


 「なんだよ」


 中に何かあるのかもしれない。

 でも、今のところ開けられない。

 見た目はどう見ても、道具入れとか、工具箱とか、そんな感じだ。

 たぶん、何か役に立つものがある気はする。

 でも、今は無理か。

 先へ進むしかない。


 少し行くと、今度は正面に普通の扉があった。

 普通の、はずだった。

 でも、近づいてみると、妙に小さい。

 さっきまでは普通サイズに見えたのに、よく見るとどんどん縮んでいる。

 いや、扉が小さくなったというより、周囲の空間が大きくなってるのか。

 分からない。

 でも、とにかく今はネズミ用かと思うくらいの大きさになっていた。


 ……え。


 さすがに、これは入れない。

 いや、入れそうで入れないというか、物理的に無理だ。

 しゃがめばいけるかと思ったけど、頭を下げても厳しい。

 俺、そこまで小さくない。

 というか、どんな扉だよ。

 ネズミでも通すつもりか?


 扉の前でしゃがみ込んで、少し覗く。

 中は暗い。

 でも、完全な闇じゃない。

 奥に何かがある気配はする。

 ……気配、だけ。

 それが余計に気味悪い。


 その先、さらに進むと、また部屋みたいな場所があった。

 小さな広場、という感じじゃない。

 四方の壁が少しだけ開いていて、そこに扉が並んでいる。

 左右と前。

 全部で、合計四つ。

 うち二つは前。

 一つは左。

 一つは右。

 でも、サイズがもうめちゃくちゃだ。


 前の一つは、ネズミサイズ。

 もう一つは、扉がない。

 空いている。

 真っ黒な空間だけがぽっかり開いている。

 左は、普通サイズよりかなり細い扉。

 しかも、俺が横を向いても入れないくらい細い。

 右は、巨大で分厚い扉。

 幅も高さもある。

 でも、どう見ても重そうだ。


 ……おいおい。

 なんだこの選択肢。


 完全に、分岐してる。

 しかも、どれも一筋縄ではいかなさそうだ。

 でも、こういうの、嫌いじゃない。

 むしろ、かなりいい。

 こういう“どれを選ぶか”って状況は、まるでゲームみたいだからだ。

 しかも、俺はその中にいる。

 最高じゃないか。


 最初に行くのは、やっぱりネズミサイズの扉だろう。

 いちばんどうしようもなさそうで、いちばん気になる。

 それから、細すぎる扉。

 そして、空白の扉。

 最後に巨大なやつ。

 順番は、そんなところだ。


 まず、ネズミサイズの扉。

 俺はしゃがんで、その前を少し蹴ってみた。

 ……特に何もない。

 ただの暗い空間だ。

 じゃあ、試しに鉛筆を一本、隙間に投げ込む。


 すると――

 鉛筆が、半分になって返ってきた。


 「……は?」


 思わず、間抜けな声が出た。

 いや、半分って何だよ。

 ほんとに意味が分からない。

 向こうに入れたものが、半分だけ戻る。

 じゃあ、手を突っ込んだら半分だけ無くなるってことか?

 それはかなり嫌だ。

 絶対に嫌だ。

 試す勇気はない。


 ……でも、ある意味、分かりやすい。

 この扉は、入れたものを半分にする。

 それ以上でも以下でもないのかもしれない。

 だったら、危険すぎる。

 手なんて入れられない。

 でも、何かを“入れる”必要がある場所なのかもしれない。

 それなら、相当やばい扉だ。


 次は、細い扉。

 俺は立ち上がって、そっちへ行った。

 開ける。

 ……あっけないくらい簡単に開いた。


 でも、その先は木だった。

 いや、扉の内側に、薄い木板があって、それがぴしっと張りついているみたいだった。

 押しただけで、ぱきんと小さく割れる。

 脆い。

 すごく脆い。

 その向こうにも、やっぱり暗い空間がある。

 でも、中へ入るには狭すぎる。

 しかも、俺の手を伸ばしても届かない。

 ……いや、入れない。

 無理だ。


 半分にした鉛筆をまた差し入れてみる。

 今度は、返ってこない。

 ……なるほど。

 ここは中があるにはあるけど、触れ方が違うのかもしれない。

 でも、今の俺には使い方が分からない。


 そして、空白の扉。

 いや、扉というか、ただの黒い穴。

 壁にぽっかり空いた、完全な無。

 覗いても何も見えない。

 音も吸われる。

 ためしに、消しゴムを投げた。


 カツン、と床に落ちる音がした。


 ……落ちた。

 つまり、下にはちゃんと床がある。

 空白に見えているだけで、進める空間がある。

 誰もいない。

 足音もない。

 でも、床はある。

 それなら、たぶんここが“正解”だ。


 最後に巨大な扉。

 これは、ただ大きい。

 分厚い。

 重い。

 押してもびくともしない。

 引いても無理。

 無理、というか、動く気配がない。

 たぶん、何か別の条件が必要なんだろう。

 今の俺には足りない。

 力とか、鍵とか、何かしらの条件が。

 でも、今は考えなくていい。

 少なくとも、あとで試す候補としては残しておく。


 じゃあ、空白の扉だ。

 俺はひとつ深呼吸して、その黒い穴の前に立った。

 ちょっとだけ、怖い。

 でも、怖いだけだ。

 進めない理由にはならない。


 ……よし。

 行くか。


 俺は数歩下がって、少しだけ勢いをつけた。

 そのまま、黒い空間へ飛び込む。


 体が、ふっと沈む感覚。

 でも落下じゃない。

 水に近い。

 いや、薄い膜を突き抜ける感じか。

 たしかに、何かが身体にまとわりついた。

 冷たい。

 しっとりしてる。

 まるで、空気の中に薄い水の膜が張っていて、それを破って入ったみたいだった。


 しばらくして、背中に違和感が来る。

 ……あれ、衣服が少し濡れてる?

 いや、濡れてるというより、霧の中に入った後みたいな水気だ。

 さっきまで乾いていたはずなのに、背中も腕も、少しだけ湿っている。

 ほんの少し。

 でも、確かに。


 そのまま、足元が抜けた。


 「っ――!」


 体が落ちる。

 いや、落ちるっていうか、滑る。

 地面がない。

 あるはずの床が、急に傾斜したみたいに変わる。

 右へ、左へ、いや違う。

 今度は下。

 ぐいっと引っ張られる。


 気づいた時には、俺は巨大な管の上を転がっていた。

 大きい。

 人一人どころじゃない。

 何人か並んで歩けそうなくらい太い金属の管。

 その表面が、斜めになっている。

 つまり、滑り台みたいになってる。


 「うわあっ!」


 空気が顔に当たる。

 冷たい。

 早い。

 思わず膝を抱える。

 いや、膝を抱えるっていうか、体を縮めるしかない。

 落ちる。

 どこへ行くのか分からないけど、とにかく落ちる。

 その間、視界の端に、管の壁が流れていくのが見えた。

 右。

 左。

 上。

 下。

 もう、どれがどれだか分からない。


 しばらくすると、管は急に終わった。


 「っ!」


 地面に、どんと叩きつけられる。

 痛い。

 かなり痛い。

 でも、折れてはいない。

 たぶん。

 少なくとも、動ける。

 俺は転がった勢いで、少し離れたコンクリートの床に手をついた。

 息が詰まる。

 咳き込む。

 くそ、こういう落ち方は本当に嫌だ。


 膝をついたまま顔を上げる。

 そこに見えたのは、また別の空間だった。


 巨大な管。

 しかも、さっきまで滑っていたそれが、上へ向かって傾いている。

 まるで、逆さまの滑り台だ。

 上へ行くのに使うものじゃない。

 なのに、確かに上に伸びている。


 ……待てよ。


 さっきの管、地面じゃなかったのか。

 いや、地面っぽく見えてただけで、ただの斜面か。

 つまり、ここは管の上を通路みたいに使っている場所なのかもしれない。

 もしくは、上へ登るための移動装置。

 どっちにしても、普通じゃない。


 そう思って、管の先を見上げてみた瞬間だった。


 ぐん、と視界が回った。


 管が、今度は垂直になった。

 いや、最初から垂直だったのかもしれない。

 でも、俺にはさっきまで斜めに見えていた。

 それが一瞬で立ち上がる。


 「っ、うわ!」


 鼻先に、硬い何かが当たった。

 ごん、という鈍い音。

 反射的に顔を押さえる。

 痛い。

 ちょっとだけ血の味がする。

 ……鼻、切れたか。

 ほんの少しだけだろうけど、少し出てる。


 くそ。

 これは地味に面倒だ。

 でも、まあ、死ぬほどじゃない。

 鼻血くらいなら、まだ笑える。

 たぶん。

 ……いや、笑えないか。


 鼻を押さえながら、周りを見る。

 ここはさっきまでの灰色の通路とは違う。

 でも、管はまだある。

 そして、空間は続いている。

 むしろ、どこまでも。


 ……面白い。

 かなり面白い。

 この場所、どんどん変わる。

 少しも飽きない。

 しかも、まだ何も全部は見ていない。

 つまり、まだ先がある。


 俺はゆっくり立ち上がった。

 鼻を押さえた手の指先に、少しだけ赤いものがついている。

 大したことはない。

 でも、これも記録だ。

 ノートに書いておかなきゃいけない。


 ……それにしても、だんだん本当に楽しくなってきた。

 さっきのトンネルもそうだったけど、この場所はただの迷路じゃない。

 たぶん、もっと“階層”がある。

 進むたびに、何かが変わる。

 何かを試されている。

 そう思うと、胸の奥がまた熱くなる。


 いいじゃないか。

 こういうのを俺は待ってたんだ。

 ただの帰り道じゃない。

 ただの裏道でもない。

 俺が本当に踏み込むべき“物語”が、ここにはある。


 鼻血を軽く拭って、俺は前を向いた。

 その先には、まだ見たことのない通路が続いている。

 管。

 錆。

 湿った空気。

 古い光。

 そして、まだまだ先へ。


 よし。

 これはもう、かなりいい。


 俺はノートを握り直しながら、次の一歩を踏み出した。

 ここから先で何が待っているのか。

 それを確かめるのが、たまらなく楽しみだった。

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