第④章:反射しない通路 (3)
あの巨大な管から落ちたあと、しばらくは本当に、ただ歩いていた。
……いや、正確には、歩くしかなかった。
足は少し痛い。
鼻もまだ少し熱い。
でも、止まるほどじゃない。
止まったら、またあの黒い場所とか、変な揺れとか、何か面倒なことが来そうな気がしたからだ。
この場所は、歩いている方がまだマシだ。
少なくとも、体が動いている間は、考えることを少しだけ後回しにできる。
通路はまた少しだけ変わっていた。
さっきまでよりも照明が明るい。
ただし、明るいといっても、安心できる明るさじゃない。
白と黄の中間みたいな、妙に乾いた光。
壁は相変わらず灰色。
でも、ところどころに汚れの筋がある。
埃の溜まり方も、均一じゃない。
空気も重い。
何かがずっと換気されていない場所の匂いだ。
鉄。
湿気。
古い布。
うっすら錆。
そんなものが混じっている。
俺は歩きながら、またノートを開いた。
記録しないと、だんだん場所の感覚が混ざる。
ここは、見ているだけだとすぐ同じに見える。
でも、実際は少しずつ違う。
だから書く。
壁の色。
照明の配置。
管の太さ。
床の質感。
扉の有無。
音の返り方。
湿気の濃さ。
……こういうのを残しておけば、あとで何かの役に立つかもしれない。
たぶん。
たぶん、だけど。
しばらく進んだ先で、角があった。
当然のように。
この場所は、まっすぐだと思ったら曲がるし、曲がると思ったらまたまっすぐになる。
だから、角があること自体にはもう驚かない。
……いや、少しは驚く。
でも、前ほどじゃない。
角を曲がる。
その瞬間、視界が変わった。
壁一面に、ポスターと光る看板が並んでいた。
「……は?」
思わず声が出た。
いや、出るだろ。
さっきまで機械の裏側みたいな場所を歩いていたのに、急にこんなのが並んでいたら。
壁には、古いアニメのポスターみたいなものが貼ってある。
色褪せてる。
でも、妙に目立つ。
そして、その横には、ネオンみたいに光る矢印の看板がいくつもある。
全部、こっちへ進めとでも言うみたいに、同じ方向を指している。
矢印の色もバラバラだ。
赤。
青。
黄。
緑。
紫。
しかも、一つだけじゃない。
何本もある。
何本も。
ほんと、うるさいくらいだ。
でも、ここではその“うるささ”が逆に頼もしい。
何もないよりは、ずっといい。
ポスターを見ていくと、そこには見覚えのあるような、ないような、妙に古い雰囲気の絵があった。
アニメ。
ニュース番組。
アイドル。
特撮。
どれも、1980年代っぽい。
いや、正確には、80年代の空気をわざと真似したみたいな感じだ。
日付も書いてある。
1985。
1982。
1987。
順番はめちゃくちゃ。
だが、全部古い。
……なんだこれ。
昭和っぽいのに、どこか違う。
古いテレビの中を歩いてるみたいだ。
いや、テレビというより、誰かの記憶の切れ端に入り込んだ感じかもしれない。
俺は少しだけ立ち止まって、ポスターの一枚を見た。
色はくすんでいる。
でも、光沢がある。
貼られてから長いのに、やけに残っている。
何を宣伝してるのかは半分くらい分からない。
でも、懐かしさだけはある。
懐かしいというより、懐かしいふりをしていると言った方が近いかもしれない。
看板の矢印は、まだこっちを促していた。
進め。
進め。
進め。
同じメッセージの繰り返し。
……まあ、言われなくても進むけど。
他に行く場所がないし。
途中で、一本だけ変な管があった。
通路の脇から、まるで誰かが雑に差し込んだみたいに飛び出している。
しかも、位置が悪い。
足を取らせるためにそこに置かれたとしか思えない。
俺は一瞬、足を引っかけそうになって、慌てて避けた。
「危なっ……」
こういうの、ほんと性格が悪い。
いや、性格じゃないか。
空間が悪い。
たぶん。
でも、ここまで来ると、わざとやっているようにしか見えない。
俺の通り道に、わざと邪魔を置いてるみたいだ。
……いや、むしろ、試しているのか?
そう思った瞬間、少しだけ背筋がひやっとした。
この場所が、俺に反応してる。
そんな気がする。
ポスターの並ぶ通路を進むと、またひとつ扉が見えた。
今度は、これまでよりもずっと地味だ。
白っぽくて、少しだけ四角い。
まるで、ロッカーか何かみたいな質感。
というか、実際そう見える。
工具室の扉、みたいな感じだ。
近づいてみる。
やっぱり、維持保守っぽい。
でも、この場所では“維持保守”以外の扉もまだあるかもしれない。
それを考えると、少しだけ胸が高鳴る。
探索って、そういうものだ。
知らないものに出会う。
次がある。
それがいい。
取っ手を見る。
今度は錠前がない。
開けられそうだ。
……そう思って引いた瞬間、扉は前に倒れた。
「うわっ」
ほんとに、倒れた。
扉としてじゃなく、板みたいに。
重みもなく、支えもなく。
前へ、ぱたんと。
俺は一歩引いて避けた。
危ない。
でも、倒れた先はただの空間だった。
……え。
じゃあ、この扉の向こうは?
倒れた扉の先へ、慎重に顔をのぞかせる。
そこには、清潔な部屋があった。
床は乾いている。
壁も乾いている。
埃も少ない。
いや、少ないというより、ほとんどない。
床は均一な灰色。
装飾もない。
配管もない。
何もない。
まるで、誰かがこの部屋だけを綺麗に塗り直したみたいだった。
……なんだここ。
急に整ってるじゃないか。
さっきまでの古い配管だらけの通路と違って、ここはやけに静かだ。
乾いている。
ひんやりしているけど、湿気は少ない。
壁には模様もない。
まるで、灰色だけで塗りつぶした実験室みたいだ。
いや、実験室っていうほど何もないか。
とにかく、すっきりしすぎている。
逆に怖い。
中に入る。
足音が少しだけ軽く響いた。
さっきの場所とは全然違う。
ここには、何かが“置かれていた痕跡”がほとんどない。
もしかすると、この部屋は一時的な休憩場所なのかもしれない。
あるいは、何かを見せるためだけの部屋。
……どっちでもいいけど。
扉を振り返ると、もう普通の板みたいに見えた。
さっきまでの“倒れる扉”という感じもない。
この部屋に入った瞬間、少しだけ現実感が戻った気がする。
でも、それはすぐに消える。
なにせ、ここには他に何もないからだ。
部屋の中を歩く。
端から端まで見回したけど、扉は一つしかない。
俺が入ってきたやつだけ。
それ以外は、ない。
ただの四角い空間。
何のためにあるのか分からない。
……いや、もしかしたら、こういう部屋って“動かない場所”なのかもしれない。
通路と通路の間にある、少しだけ安定した場所。
そういうものが必要なのかも。
この場所、ずっと変化しているから。
変化し続けるものの中に、ひとつくらい固定された場所があるのは、むしろ自然かもしれない。
俺は部屋の中でしばらく立ち止まったあと、ノートを開いた。
書くことが多い。
ポスター。
古い年代。
矢印の看板。
白い四角い部屋。
倒れる扉。
通路の雰囲気。
そして、ここには“何もない”ということ。
それを忘れないように書く。
でも、書いている途中で、ふと思った。
……この部屋、もしかして“通過点”なんじゃないか。
何もない。
でも、ある。
それって、次のどこかへ行くための部屋にすごく似ている。
ここを抜けると、また別の場所に繋がる。
そういう感じがする。
だから、俺はこの部屋を少しだけ見直した。
ただの空っぽの四角じゃない。
何かを切り替えるための場所だ。
たぶん。
そう考えると、また少しだけ楽しくなる。
だが、その時だった。
部屋の外で、ぱち、ぱち、と小さな音がした。
電球が、弾けるような音。
いや、電気の泡が破裂するみたいな、妙な音だ。
俺は一瞬で顔を上げた。
……来たか?
何となく、嫌な予感がした。
この手の音は、たいてい何かが変わる前触れだ。
ここまで来て何も起きない方が不自然だし。
そして、次の瞬間。
部屋の照明が、すべて消えた。
「……っ」
暗い。
急に。
さっきまでの灰色の部屋が、真っ黒に沈む。
いや、真っ黒というより、何も見えない。
俺は反射的に身構えた。
また落ちるのか。
また回るのか。
そう思って、膝を少し曲げる。
でも、何も起きない。
ただ暗い。
その暗さの中に、自分の呼吸だけが浮いている。
……なんだよ。
何も起きないのが一番怖い。
いや、怖いというより、気持ち悪い。
音がない。
でも完全な無音じゃない。
遠くで、白いノイズみたいな音がしている。
古い蛍光灯が壊れかけた時の、あの低い唸りに似ている。
耳の奥に、じわっと残る音。
目を凝らす。
まだ何も見えない。
でも、しばらくすると、ほんの少しだけ、周囲の輪郭が戻ってきた。
ああ、よかった。
見えないわけじゃない。
ただ、消えたと思っただけだ。
その時、ふいに、目の前に一枚の看板が現れた。
最初はなかった。
いや、たぶん。
でも今はある。
白い板。
黒い文字。
そして、右向きの矢印。
書いてある文字を読んだ瞬間、俺は思わず止まった。
「私立白樺高等学校」
……。
……え?
なんで、ここに白樺があるんだ。
どうして、俺の学校がこんな場所に。
いや、待て。
これは何だ。
看板?
案内?
広告?
それにしても、白樺高等学校の文字がここにあるのは、あまりにも不自然だ。
俺は一歩近づいた。
看板の矢印は、通路の向こうを指している。
つまり、この先に白樺があるってことか?
……は?
そんなことあるわけない。
でも、ないとも言い切れないのが今の俺だ。
というか、ここまで来たら、ないと断言する方が無理だ。
もしかして。
もしかしたら、白樺にも同じような場所があるのか。
このトンネルみたいなものが、学校のどこかと繋がっているのか。
いや、逆かもしれない。
白樺の方が先にあって、こっちがその延長なのかもしれない。
……いやいや、それなら俺の学校、何なんだ。
ただの普通の私立高校じゃないのか?
胸の奥が、じわっと熱くなる。
もしかして、白樺は特別な場所なのか。
もしかして、俺がいる学校は、最初から“何か”と繋がっていたのか。
それなら話が変わる。
いや、かなり変わる。
俺がここに来たのは偶然じゃなくなる。
選ばれたってことになる。
……そうだ。
そうに違いない。
俺がここへ来たのは、単なる迷い込みなんかじゃない。
学校に隠された秘密。
忘れられた場所。
世界の裏側。
そういうものが、白樺のどこかにあるんだ。
そう思うと、胸がどんどん熱くなる。
そうだ。
俺は選ばれた。
この場所に導かれた。
そして、白樺もまた、俺を待っていたんだ。
たぶん。
絶対に。
そうでないと困る。
俺は看板を見つめたまま、しばらく動けなかった。
でも、そこにはもう迷いはなかった。
次に行くべき場所が、少しだけ見えた気がしたからだ。
そして、看板の矢印が示す方へ歩き出した。
通路の管が減っていく。
代わりに、壁が白くなっていく。
灰色だったはずの空間に、少しずつ、学校みたいな清潔さが混ざり始める。
……ああ、やっぱりだ。
繋がってる。
この先に、何かがある。
白樺高等学校と、この異様な場所。
どこかで繋がっている。
そして、その先にあるものが何なのか、俺はもう知りたくて仕方がなかった。
しばらく歩くと、扉が一つ見えた。
今度は白くない。
薄い灰色で、でもどこか硬い。
扉の前に立つと、ちょっとだけ緊張した。
いや、かなり。
手をかける。
開ける。
……その瞬間、景色が変わった。
目の前に広がったのは、壁も床も天井も、全部が管で埋め尽くされた部屋だった。
「……うわ」
すごい。
いや、すごいっていうか、気持ち悪い。
でも、面白い。
管が多すぎて、床と天井の境目が分からない。
壁にあるはずのスペースも、全部管。
大きいの。
小さいの。
太いの。
細いの。
全部が詰め込まれていて、空間そのものが配管でできているみたいだ。
そして、その中央に――
回転扉があった。
ぐるぐる回っている。
ずっと。
一定の速度で。
しかも、その扉の前後には、ちゃんと立てるような二つの台がある。
前と後ろ。
ここに立って、押して、回して、入る。
そういう構造らしい。
……なんだこれ。
回転扉って、こんな場所で使うやつか?
でも、よく見ると、その扉には二つの顔があった。
片方は真っ白。
中央には、黒い文字で**「出口」。
さっきの扉とは違うけど、これはこれで出口っぽい。
もう片方は灰色**。
横に長い取っ手。
そして、水滴のマーク。
あの水の扉っぽい感じだ。
……なるほど。
つまり、ここで分岐するのか。
白い方は、出口。
灰色の方は、水。
たぶん、そういうことだろう。
なら、試すしかない。
……いや、どうせ試すなら、白い方が先かな。
でも、ここまで来たら灰色の方も気になる。
さっき水の扉でひどい目にあいかけたけど、逆に、あれの続きかもしれない。
俺は少しだけ迷ってから、灰色の方を選んだ。
そっちの方が、なんとなく“次”がありそうだったからだ。
水。
この場所で水なら、何かが起きる。
そう思った。
取っ手を押す。
開いた。
中から水は来ない。
よかった。
というか、少しだけ拍子抜けした。
扉の先は、階段だった。
いや、正確には、建物の階段っぽいものだ。
壁はレンガ風。
でも、色は落ち着いた灰色。
階段は上へ、上へ、ずっと続いている。
天井を見上げると、その先も暗くて見えない。
まるで、階段がそのまま無限に伸びてるみたいだった。
……また、無限かよ。
だけど、嫌じゃない。
むしろ、こういうのはかなりいい。
階段っていうのは、いかにも“次の階層”って感じがする。
上へ行けば、何かがある。
そういう雰囲気がある。
そして、壁の途中に、窓があった。
小さく、上の方に。
俺はそれを見つけると、すぐに階段を数段上って近づいた。
窓の外は――
真っ暗だった。
完全な暗闇。
遠くの空みたいな、深い黒。
星も月もない。
ただ、黒い。
……何もない。
その時、俺はノートを取り出した。
窓の形。
光の有無。
外の暗さ。
そして、さっきは何もなかったこと。
書く。
記録しておく。
こういう細かい違いは、後で意味を持つかもしれない。
でも、何か足りない気がした。
窓をもう一度見る。
すると、今度は、そこに小さな雨粒みたいなものが見えた。
ぽつ。
ぽつ。
ほんとに少しだけ。
窓の外に降っているのかもしれない。
いや、違う。
これは、天気が変わっているのか?
……天気?
そんな馬鹿な。
でも、そういう考えが頭に浮かんだ。
もしこの窓が外の状態を映しているなら、ここには“気象”みたいなものがあるのかもしれない。
雨。
風。
曇り。
雷。
そういうのが、ここでは表示される。
……いや、ありえる。
この場所なら、何でもありえる。
さらに見ていると、今度は遠くで雷のような光が走った。
雨はない。
でも、雷だけが見える。
さっきとは違う。
さっきは雨。
今は雷。
つまり、窓は“天気”を切り替えるものかもしれない。
おい。
めちゃくちゃ面白いじゃないか。
これは記録しないといけない。
俺はすぐにノートへ書き足した。
窓の外の状態が変化する。
雨。
雷。
組み合わせあり。
時間で変わる可能性。
……よし、十分だ。
そして、もう一度窓の方を見る。
今度は、雨と雷が同時に見えた。
……ほんとに天気が切り替わるのか。
というか、切り替わるというより、重なっているのかもしれない。
それなら、相当便利だ。
というか、面白すぎる。
そうしているうちに、ふと気づく。
窓のところから、ぽつと音がした。
……?
見ると、ノートの端に水滴が落ちていた。
いや、俺のノートに?
どこから?
慌てて見上げる。
すると、また一滴。
また一滴。
しかも、今度はもっとはっきりした。
窓の外に見えていた雨が、こっちに来ている。
「……え?」
次の瞬間、目に水が落ちた。
「っ、痛っ……」
反射的に目をこする。
いや、こすったら余計にひどい。
慌てて手を引っ込める。
それでも、もう遅い。
机……いや、階段の手すりに落ちた水が、ぽつぽつと増えている。
俺の服にも。
ノートにも。
小さな点が、どんどん広がる。
……おいおい。
見上げると、雨はもう止まりそうにない。
いや、止まるどころか、増えている。
最初は小雨だった。
それが、少しずつ強くなる。
次第に、窓の外だけじゃなく、この階段の周囲にも水気が広がってきた。
壁が濡れる。
手すりが濡れる。
床も。
……まずい。
これはかなりまずい。
水、来てる。
しかも、かなりの量だ。
俺は階段の真ん中まで移動して、上を見た。
すると、さっきまでは何もなかった天井の奥から、ごうっという音がした。
そして、次の瞬間――
大量の水が落ちてきた。
「っ、わああっ!」
慌てて横に飛ぶ。
けれど、完全には避けられない。
水が肩を打つ。
服が一気に重くなる。
冷たい。
かなり冷たい。
いや、冷たいとかいうレベルじゃない。
もう、このまま飲まれたら終わる。
さらに上から、また水。
また水。
階段の上の方から、どんどん落ちてくる。
まるで、上に巨大なダムでもあるみたいだ。
いや、ダムどころか、海かもしれない。
さっきの窓の天気とかいう可愛いものじゃない。
これは完全に量が多すぎる。
……待て。
海?
その言葉が浮かんだ瞬間、背筋がぞっとした。
このままじゃ、溺れる。
俺、泳げないのに。
いや、いけない。
そんなことを考えてる場合じゃない。
とにかく、戻る。
出口を探す。
さっきの扉。
階段。
何でもいい。
俺は慌ててノートを拾い上げた。
これだけは絶対に落とせない。
これが、俺がここにいた証拠だ。
絶対に必要だ。
濡れてるけど、まだ読める。
まだだいじょうぶ。
水の音がどんどん大きくなる。
階段の下、横、上。
全部から音がする。
もう、部屋全体が水に飲まれる直前みたいだった。
俺は走った。
いや、走ったというより、転ばないように駆け上がる。
どこへ向かう?
もちろん、さっきの扉だ。
出口なのか入口なのか分からないけど、少なくとも今はそこしかない。
だが、行きかけて、ふと足を止めた。
……いや、待て。
ノート。
ノートだけは絶対に必要だ。
俺は一瞬だけ振り返って、床に落ちかけたノートを掴み直した。
その瞬間、また水が肩に当たる。
冷たい。
痛い。
でも、持った。
よし。
その時、背後でまた大きな音がした。
どぼん。
え。
今度は何だ。
振り返ると、階段の上の方から、さらに大量の水が流れ込んできていた。
それも、一気に。
まるで、誰かが栓を抜いたみたいに。
いや、栓を抜いた、じゃない。
上にあった全部が崩れ落ちてきている。
……やばい。
これ、ほんとにやばい。
俺はもう迷わなかった。
とにかく、戻る。
さっきの扉へ。
その手前にあった白い空間。
どこでもいい。
今はそこしかない。
そして、さっきの扉のところまで戻ると、すぐに中へ飛び込んだ。
いや、飛び込むしかなかった。
後ろではもう水が追ってきている。
階段の上から落ちる音。
壁を叩く音。
もう、全部がうるさい。
扉を閉める。
その瞬間、背後で水が壁を打つ音がした。
ごうっ、と。
それから、少し遅れて、扉そのものが震える。
ああ、やっぱりだ。
ここも同じか。
水は外で止まらない。
この部屋に入ったら、また別のどこかに行くのかもしれない。
扉を押さえながら、息を整える。
水の音はまだする。
少しだけ。
でも、だんだん遠くなる。
少なくとも、今すぐ呑まれる感じではなくなった。
……よかった。
たぶん、ひとまずは大丈夫だ。
次の瞬間、空気がふっと軽くなった。
体が浮くような感覚。
いや、浮くというより、引っ張られる。
頭の奥で、少しだけ耳鳴りがした。
ざざっ。
静電気みたいな音。
視界が一瞬だけ白くなった。
次に開いた時には――
俺は、どこかの川の端にいた。
「……っ!?」
足元は濡れている。
草も、石も、全部湿っている。
手にはノート。
服も少し濡れている。
でも、さっきまでの水の地獄はない。
周囲には、静かな夜。
川の流れ。
遠くの街灯。
風。
それだけだ。
俺は一瞬、何が起きたのか分からなかった。
……いや、かなり分からなかった。
さっきまで階段の上で水に追われていたはずなのに、今は川のそばだ。
しかも、何もない。
誰もいない。
ただ、冷たい夜の空気だけ。
……帰ってきた、のか?
いや、待て。
どうやって?
どうやってここまで?
何が起きた?
分からない。
でも、少なくとも今は生きている。
それだけは分かる。
バッグを見る。
ある。
スマホもある。
濡れてない。
……え?
恐る恐る電源を入れてみると、画面が普通に点いた。
20:00。
……は?
俺は固まった。
さっき図書館を出た時、たしか七時だった。
だったはずだ。
なら、ここで過ごしたのは……
一時間。
……一時間?
いや、待て。
そんなはずない。
体感では、少なくとも二時間か三時間はいた。
あの長さ。
あの揺れ。
あの水。
あの階段。
あれで一時間はないだろ。
ありえない。
でも、時計はそう言っている。
……何だこれ。
時間の感覚、おかしい。
もしかしたら、あの場所では時間の進み方が違うのか。
いや、違うっていうより、折りたたまれてるような感じかもしれない。
ほんと、意味が分からない。
でも、そんなことより大事なのは、もうひとつある。
ノート。
俺は慌てて開いた。
濡れているページもある。
でも、文字は読める。
さっき書いたこと、見たこと、感じたこと。
全部、残っている。
残ってる。
よかった。
これがあれば、俺が本当にあそこを歩いた証拠になる。
ページをめくる。
配管。
扉。
灰色の部屋。
ポスター。
白樺高等学校。
天気の変化。
水。
鼻血。
全部、書いてある。
……完璧だ。
俺はしばらく、そのノートを見つめていた。
少しだけ震えが残っている。
でも、それは怖さだけじゃない。
興奮も混じっている。
だって、これは本物だ。
夢じゃない。
俺が見たものは、ちゃんとここに残ってる。
そして、もう一度だけ思う。
……俺、やっぱり選ばれたんじゃないか。
じゃないと説明がつかない。
こんな場所に入れたのも。
戻ってこられたのも。
記録が残ったのも。
全部、俺だからだ。
そういうことにしておくしかない。
夜の川は静かだった。
風が少し冷たい。
でも、俺の胸の中はさっきよりずっと熱い。
この先にもっと変なことがある。
それはもう確信に近かった。
そして、その変なこと全部を、俺は自分のものにしたい。
見つけたい。
知りたい。
手に入れたい。
バッグを肩にかけ直す。
ノートを握る。
スマホの画面を見て、少しだけ笑った。
20:00。
たった一時間。
でも、俺にとっては、長い大冒険だった。
そして――
明日になれば、俺はきっと、このことを誰かに話したくてたまらなくなる。
いや、話すだけじゃない。
見せたい。
自分が何を見たのか。
どれだけすごい場所に入ったのか。
それを、みんなに分からせたい。
……そうだ。
俺は“選ばれた”。
これで、もう間違いない。
だから明日、学校に行ったら――
俺はきっと、あの連中に言ってやる。
俺は、見つけたんだ。
そう思いながら、俺はゆっくりと家へ向かって歩き出した。
足は少し痛い。
でも、それでもいい。
だって、今の俺には、それ以上に大事なものがあるからだ。
このノート。
この記録。
そして、これから始まる、俺だけの話。




