第④.1章:私の大いなる活躍 (1)
【作者より / 読者の皆様へ】
いつも『鏡の挽歌』をお読みいただき、誠にありがとうございます。
本日更新する第④・①章は、物語の大きな転換点となる「遷移エピソード」です。
ナンバリングを「第4.1章」としたのは、この話が単なるつなぎではなく、主人公・荷川取慧璃の精神状態や周囲との関係性が大きく動く、非常に重要な心理的エピソードだからです。
文章自体はあえてシンプルで日常的な視点から描かれていますが、ここで起きる小さな歪みが、後の展開へと大きく繋がっていきます。
ぜひ、彼の高揚感と、そこから訪れる空気の変化を一緒に見守っていただければ幸いです。
一睡もしていない。
いや、正確には、寝ようとはした。
ベッドに入って、目を閉じて、天井を見て、もう一回ノートを開いて、また閉じて。
でも、駄目だった。
頭の中がうるさかった。
昨日見たものが、ずっと消えなかったからだ。
あの通路。
あの扉。
あの階段。
あの水。
全部、ノートに書いてある。
しかも、本当に書いてある。
夢なんかじゃない。
そう思えば思うほど、眠るどころじゃなかった。
だから、朝になった。
時計が鳴る前に、荷川取慧璃は起きていた。
というか、起きていたというより、ずっと待っていた。
もう少しで、あの話を誰かに見せられる。
この瞬間を、昨夜から何度も想像していた。
机の上にあるノートを見る。
ページには、昨日の記録がぎっしり書いてある。
扉。
配管。
天気。
階段。
水。
出口。
時間。
全部だ。
これで、もう誰にも“ただの思い込み”なんて言わせない。
――いや、言わせてもいい。
でも、そのあとで驚かせる。
その方が気持ちがいい。
制服に袖を通しながら、俺は何度もノートを開いた。
読み返すたびに、少しだけ胸が熱くなる。
たぶん、今日は誰かの顔が変わる。
驚く。
信じない。
目を丸くする。
そして、最後には認める。
俺が特別だってことを。
そういう場面を、もう何度も頭の中で繰り返した。
凛成。
慧斗。
秋山。
九頭見。
他のやつら。
全員が見る。
俺を見る。
それでいい。
俺は見られる側だ。
今日はそういう日だ。
家を出ると、空気は少し冷たかった。
でも気にならない。
むしろ、急ぎ足になる。
靴音が少し速い。
息も少し荒い。
それでも止まらない。
だって、今日は重要だ。
途中でほんの少しだけ足がもつれた。
……いや、別に焦ってるわけじゃない。
ただ、体がついてこないだけだ。
気分が先に走っている。
それだけのことだ。
荷川取慧璃は、今朝からずっとそういう顔をしている。
少し浮ついていて、少し偉そうで、少し落ち着きがない。
でも、それでもいい。
むしろ、それくらいじゃないと今日の自分らしくない。
白樺に着くころには、もう気持ちはかなり高ぶっていた。
校門をくぐる。
校舎を見る。
四階の教室へ向かう階段を上る。
この一つ一つの動作すら、今の俺には少し特別に見えた。
教室に入ると、何人かがもう来ていた。
俺はその視線を少しだけ気にしながら、自分の席へ向かう。
でも、すぐに言うのはもったいない。
こういう話は、最初に全部を出すより、少し溜めた方がいい。
みんなが揃ってからの方が、反応が大きい。
その方が、後で気持ちいいに決まっている。
俺はノートを机の上に置いたまま、わざと落ち着いたふりをした。
やろうと思えばできる。
“何かを知っている顔”というやつだ。
少し顎を引く。
少し目線を下げる。
考え込んでいる風に見せる。
簡単だ。
荷川取慧璃は、そういう演出くらいならできる。
しばらくして、凛成と慧斗が入ってきた。
よし。
来た。
俺は内心で少しだけ身構える。
ここだ。
ここで言う。
……と思ったのに、二人は俺の前を素通りして、別の話をしながら自分の席へ向かおうとした。
「おい」
思わず呼び止める。
「何かあったのか?」
凛成がこっちを見る。
慧斗も、少しだけ目を上げる。
「え? 何って、さっきの話のことだよ」
凛成が言った。
「え、聞いてないの?」
「さっきの話?」
「……いや、俺は今来たんだけど」
二人の顔が、少しだけ変わった。
それはたぶん驚きだ。
その驚きが、少しだけ気持ちいい。
よし。
まず一歩だ。
「で、何があったんだよ」
俺が聞くと、凛成が慧斗の方を見て、それから少し声を落とした。
「下の階のトイレ。
昨日から直してたやつあるだろ。
あそこ、朝になったらちょっと変になってたらしくて」
「変?」
「扉が少し開いてたんだって」
慧斗が補足する。
「で、最初に来た先生と警備の人が見たら、床が少し傷ついてて、鏡が一枚割れてたらしい」
……ああ。
それ、昨日の俺がいた場所だ。
でも、もちろん今は言わない。
そんな簡単に全部は出さない。
俺は少しだけ口元を引き締めた。
「ふうん」
「ふうん、って」
凛成が眉を上げる。
「え、知らないの?」
「知らない」
「いや、でもあそこ使えないのは前からだろ」
「そうだけど」
「だから、朝に入った人がびっくりしたって話」
「へえ」
俺は、できるだけ平静を装った。
でも、内心ではかなり笑っていた。
そうだろう。
そういうことが起きるんだ。
俺が昨日あそこにいたからだ。
あの場所は、俺が触れたから動いたんだ。
そう思うと、かなり誇らしい。
……いや、まだ言わない。
もっと溜める。
「で、結局誰がやったのか分かんないのか」
俺が聞くと、慧斗は首を振った。
「たぶん、昨日の夕方以降だと思うけど。
でも、誰も見てないみたい」
「そもそも昨日の夜に開けた形跡がなかったんだって」
凛成が少し面白がるように言った。
「だから、盗難とかじゃなくて、ただの異常って感じ」
……異常。
その言葉が、少しだけ胸に刺さる。
そうだ。
異常だ。
でも、それがいい。
普通の人間なら見逃す異常を、俺だけが見つけた。
俺だけが、そこを歩いた。
そう思えば、朝からこんなに嬉しいのも当然だろう。
俺は少しだけ前のめりになった。
「で、それだけ?」
「それだけっていうか、まだ調べてるみたい」
慧斗が答える。
「あと、カメラも見てるらしい」
「へえ」
「お前、ほんと興味なさそうだな」
凛成が呆れたように笑う。
興味はある。
かなりある。
でも、ここで全部を言うのは違う。
まだだ。
もっといいタイミングがある。
そういうのを選べるのが、俺の強さだ。
……たぶん。
「で、さ」
俺は少し声を低くした。
「今の話より、もっと大事なことがあるんだけど」
「なに」
「昨日、俺、すごいもの見た」
二人の視線が、はっきりこっちへ向く。
よし。
これだ。
この顔だ。
この反応を見たかった。
「は?」
凛成が言う。
「すごいものって何」
慧斗も少し困った顔で聞いてくる。
俺は少しだけ間を置いた。
大事なのはここだ。
焦ってはいけない。
驚かせるには、静けさがいる。
「俺、昨日……別の世界に行った」
言った瞬間、二人の空気が止まった。
やっぱりだ。
この反応。
たまらない。
凛成が、一拍遅れて笑いそうになる。
「……寝てないんじゃないの?」
慧斗は、少しだけ真面目な顔で俺を見る。
「それ、ほんとに?」
よし。
次だ。
今度はちゃんと出す。
俺はノートを机の上に置いた。
そして、ぺら、と一枚開く。
そこに書いた文字を指でなぞる。
灰色。
配管。
扉。
階段。
水。
白樺。
全部だ。
「本気だよ」
俺は言った。
「ちゃんと記録してある」
「え……」
凛成の声が少しだけ下がる。
「何それ」
「昨日の夜、俺はそこにいた」
「……いや、ちょっと待て」
凛成が困った顔になる。
「お前、寝てないから変なこと言ってるんじゃないの?」
「寝てないのは事実だよ」
俺は少しむっとして言い返した。
「でも、見たものは見たんだ」
慧斗が、少しだけノートを覗き込む。
俺はそれを見て、ほんの少しだけ得意になった。
だろう。
ちゃんと書いてある。
ちゃんと残ってる。
これで終わりじゃない。
「……これ、かなり細かく書いてあるね」
慧斗が言う。
「そりゃ書くよ」
俺は答えた。
「忘れたくないし」
「じゃなくて、ほんとに行ったなら、危なくない?」
「危なくない」
「いや、危ないだろ」
凛成がツッコむ。
危なくない。
そう言い切りたい。
でも、さすがに少しは危なかった。
いや、かなり危なかったかもしれない。
でも、そこは黙っておく。
今は俺が特別な話をしている最中だからだ。
「昨日の俺は、そこでいろいろ見た」
俺は少し胸を張った。
「だから、今日はその話をしようと思ったんだ」
「……」
「俺が普通じゃないって、分かっただろ」
凛成と慧斗は、顔を見合わせた。
その反応だけで、もう少し面白い。
たぶん、どう返していいか分かっていない。
そりゃそうだ。
こんな話、普通の人間には急すぎる。
「それで、昨日のトイレの話と繋がるの?」
慧斗が聞く。
「たぶん繋がる」
俺は即答した。
「いや、絶対繋がる」
「なんで断言できるの」
「俺が見た場所だから」
「……意味分からない」
意味が分からなくていい。
今はまだ、分からない方がいいんだ。
全部を一気に出してしまうのはもったいない。
だから、ここでは少しだけ匂わせる。
それで十分だ。
だが、俺が続きを言おうとしたところで、教室のドアが開いた。
次の生徒が入ってくる。
だんだん人が増えてくる。
朝のざわめき。
椅子を引く音。
挨拶。
机を叩く音。
クラスが起きていく。
……ちっ。
今か。
少し惜しい。
でも、これはこれでいい。
みんながいる時間の方が、後で話す時に効く。
昼休みなら、もっといい。
全員が揃う。
その前に、まずは今の二人を完全に引っ張る。
そうすれば、あとの連中にも広がる。
俺はノートを閉じた。
そして、少しだけ声を落とす。
「昼に、もう一回話す」
「え」
「その時、ちゃんと聞いて」
「いや、お前……」
凛成が半分呆れている。
「ほんとにその話するの?」
「する」
俺は言い切った。
「その時は、もっとちゃんと証拠も見せる」
慧斗が少しだけ目を細める。
「本当に、変な顔してるよ。今日」
「してない」
「してるって」
「……」
「寝てないでしょ」
「寝てないけど、関係ない」
「あるよ」
……うるさい。
でも、うるさいくらいでちょうどいいのかもしれない。
今の俺は、もう少しで全部を話したくなるくらい高ぶっているからだ。
この気持ちを、ちゃんと見せたい。
でも、まだ全部は見せない。
俺はそういうところで、ちゃんと我慢できる。
教室の中は、少しずつ朝の顔になっていく。
窓の外の光も、机の影も、いつもより少しだけ鮮明だ。
俺はその中で、じっと待つ。
昼休み。
その時に、全員の前で言う。
俺が見たものを。
俺が手にしたものを。
そして、俺が“特別”だということを。
今日は、きっといい日になる。
いや、もう半分くらいはそうなっている。
荷川取慧璃は、そう信じていた。




