第④.1章:私の大いなる活躍 (2)
午前中って、ほんとに長い。
長いくせに、何も起きない。
荷川取慧璃は、教室の椅子に座ったまま、何度も足を組み替えた。
そわそわする。
そわそわしてしまう。
だって、今日の昼には言うんだ。
昨日のあの場所のことを。
あの、普通じゃない通路のことを。
誰も知らない場所のことを。
それを話したら、みんな驚く。
きっと驚く。
その顔を想像するだけで、心臓が変にうるさくなる。
……いや、うるさくなるどころじゃない。
落ち着かない。
まるで、体の中に熱いものを詰め込まれてるみたいだ。
凛成も慧斗も、何度も俺のことを見てきた。
「荷川取、落ち着け」とか、
「そんなに机揺らすな」とか、
「なんか今日は変だぞ」とか。
そのたびに、俺は平気なふりをした。
平気なふり。
それが一番難しい。
でも、やるしかない。
今ここで落ち着いた顔をしてないと、昼に話す時の迫力が薄れる。
というか、薄れたくない。
俺は、あの時に見たものをちゃんと知っている。
だから、今日はそれを全部ぶつける。
最初は凛成と慧斗。
それから、昼休みになったら、もっと多くのやつらの前で話す。
その方がいい。
大勢の方が、反応がはっきりする。
こっちを見て、驚いて、黙って、次に何を言うか分からなくなる。
その顔が見たい。
そう思うたび、俺は机の下で指を鳴らしたくなる。
でも我慢した。
我慢。
こういう時は、大人っぽくしないといけない。
……いや、まだ十五歳だけど。
とにかく、堂々としていればいい。
荷川取慧璃は、そういう役をやるべきだ。
ようやく昼になった。
チャイムが鳴る。
それだけで少しだけ体が軽くなる。
でも、浮かれすぎるのはまだ早い。
弁当を取り出す。
そして、すぐに二人を呼んだ。
「……凛成、慧斗。こっち来い」
少しだけ低めの声で言ったつもりだった。
いや、実際には、かなり変な声だったかもしれない。
でも、二人はこっちを見た。
そして、いつものように、少しだけ困った顔をした。
「何その顔」
凛成が言う。
「何かあるの?」
慧斗も、弁当を持ったまま近づいてくる。
俺は、わざと少しだけ間を置いた。
ここで急いで言うと、ありがたみがない。
そういうものだ。
大事な話っていうのは、少しだけ溜めるといい。
溜めるほど、相手の顔が変わるから。
「話がある」
俺は言った。
「すごく大事な話だ」
凛成が、ああまた始まるかという顔をする。
慧斗は少しだけ眉を上げた。
でも、二人とも俺の前に座る。
昼休みの廊下の端。
少し静かな場所。
周囲には、弁当を食べる他の生徒たちがいる。
ざわざわとした音。
箸の当たる音。
誰かが笑う声。
窓の外は明るい。
今日もまた、普通の昼だ。
……でも、俺は違う。
「何を言うつもり?」
慧斗が先に聞く。
「昨日のことだ」
俺は胸を張った。
「俺は……別の世界に行った」
……言った。
ついに言った。
その瞬間、喉の奥が少しだけ熱くなった。
だが、止まらない。
ここで止まるのはもったいない。
凛成が、少しだけ目を丸くした。
慧斗も、ほんの少しだけ固まる。
よし。
反応は悪くない。
「別の世界?」
凛成が聞き返す。
「そう」
俺は頷いた。
「荷川取慧璃は、昨日、選ばれた」
その言葉を言う時、つい手が動いた。
まるで、舞台で演説してるみたいに。
片手を胸に当て、片手を前に出す。
自分でも少し大げさだと思ったけど、こういうのは演出が大事だ。
演出。
それがないと、ただの変な話で終わる。
「橋もないのに、入口があった」
俺は続ける。
「それで、中に入ったら、でかいトンネルみたいな場所があった。
扉があって、壁があって、光があって、変な部屋があって……」
「ちょ、ちょっと待て」
凛成が片手を上げる。
「何それ」
「だから、別の世界だって言ってるだろ」
「いや、そうじゃなくて……」
慧斗が少しだけ苦笑する。
「なんか、ゲームみたいな話だね」
その言葉で、少しだけ俺の眉が動いた。
ゲーム。
またか。
なんでこいつらはすぐにそういう言い方をするんだ。
俺は真面目なのに。
俺は本気なのに。
それなのに、軽く扱われるのは我慢ならない。
「ゲームじゃない」
俺は少し強く言った。
「本当だ。
ちゃんと見た。
記録もある」
そう言って、ノートを取り出す。
ページを開いて、二人の前に差し出した。
灰色の通路。
保守扉。
ポスター。
白樺の看板。
天気が変わる窓。
水。
鼻血。
全部書いてある。
文字は少し荒れているけど、読める。
読めるはずだ。
凛成と慧斗は、しばらくそのノートを見ていた。
そして、顔を上げる。
……ん?
何だ、その顔は。
「これが全部?」
凛成が聞いた。
「全部だ」
「写真は?」
「ない」
「動画は?」
「ない」
「音声は?」
「ない」
……なぜか、そこで少しだけ空気が変わった。
凛成が、ほんの少しだけ口元を歪める。
慧斗は困ったような顔をした。
その反応を見て、俺は一気にむっとした。
「何だよ」
俺が言う。
「それが全部の証拠だ」
凛成が、少しだけ肩をすくめた。
「いや、でもさ」
「でもじゃない」
「だって、写真も動画もないんでしょ」
「昨日、電話が突然切れたんだ」
「ふうん」
その“ふうん”が、やけに軽い。
「本当に?」
「本当だって言ってるだろ」
「……」
「お前、疑ってるな」
「疑うっていうか……」
凛成は少しだけ目をそらした。
「ちょっと、信じにくい」
はっきり言われると、かなり腹が立つ。
……いや、かなりどころじゃない。
でも、ここで怒鳴るのは違う。
まだだ。
俺は深呼吸した。
「信じにくいのは分かる」
俺は言った。
「でも、本当だ。
俺は昨日、あそこに入った。
で、戻ってきた」
「……」
「それだけじゃない。
あの場所には、出口もあった。
階段もあった。
水もあった。
天気まで変わった。
普通じゃないだろ」
「普通じゃないのは分かるけど……」
慧斗が少しだけ言い淀む。
「荷川取、昨日ほとんど寝てないでしょ」
「寝てない」
「やっぱり」
「だから違うって言ってるだろ!」
少しだけ声が大きくなった。
廊下の端にいた他の生徒が、ちらっとこっちを見る。
……見た。
見たな。
その視線が、少しだけ痛い。
でも、今はそれどころじゃない。
「俺は本気だ」
低く言う。
「ふざけてない」
「いや、でも」
「でもじゃない」
俺はノートを軽く叩いた。
「これが証拠だ」
その時、横から少し冷たい声がした。
「……へえ、証拠ね」
振り向くと、秋山麗奈がいた。
相変わらず、面倒な感じで、相変わらず、そういう空気を持って現れる。
何かを知ったような顔。
人の話を途中から聞いて、勝手に判断してくる顔。
ほんと、苦手だ。
「何だよ」
俺は言った。
「今、見てたの?」
「見てたけど」
「なら、分かるだろ」
「何が?」
「俺が別の世界に行ったってことだ」
「……は?」
秋山が、少しだけ眉を上げる。
そして、例のあの口調で言った。
「動画も写真もないのに?」
……やっぱりそこか。
その反応、ほんとに嫌だ。
なんで、こうも同じところを突いてくるんだ。
まるで、全部が俺の不利になるようにできているみたいだ。
「ないんだよ」
俺は言い返す。
「だからノートに書いてある」
「それ、便利だね」
「何だよ、その言い方」
「だって、そうでしょ」
秋山は肩をすくめた。
「証明できないじゃん」
……証明。
証明。
証明か。
その単語が、今の俺には妙に腹立たしい。
どうして、俺が見たものをいちいち外から証明しないといけないんだ。
見た。
行った。
それで十分だろ。
俺の体験は、俺のものだ。
なのに、なんで疑われる。
「お前ら、信じる気がないだけだろ」
俺は少しだけ声を荒げた。
「俺は本当のことを言ってる」
「はいはい」
秋山が軽く流す。
その瞬間、俺の中で何かがぷつっと切れそうになった。
いや、切れたかもしれない。
「ふざけるな」
思わず、言葉が出る。
「俺は真面目に言ってる」
「……」
「昨日、俺は本当に別の世界に行った。
見た。
歩いた。
記録した。
それを笑うな」
声が、思っていたより大きかった。
周囲の生徒がまた、こちらを見る。
静か。
急に静かになる。
……くそ。
でも、もう止められない。
凛成が少しだけ手を上げた。
「荷川取、落ち着けって」
「落ち着いてる」
「落ち着いてないだろ」
「落ち着いてるって言ってるだろ!」
その時、少し離れたところから、別の声が聞こえた。
「何やってんだよ、さっきから」
九頭見怜汰だった。
あの顔。
あの、見下したような目。
白石と山埜を連れて、やってきた。
ほんと、最悪のタイミングで来る。
でも、逆に言えば、今はちょうどいい。
こいつらにも聞かせればいい。
俺が本気だってことを。
「荷川取、また変なこと言ってんのか」
山埜が、少し面倒そうに言った。
「廊下の向こうまで声が聞こえたぞ」
白石も、横で笑っている。
「また例のやつ?」
「違う」
俺は即答した。
「今日は本当の話だ」
「本当の話、ねえ」
九頭見が、少しだけ目を細める。
「それで、何だ。
また夢でも見たのか?」
……その言い方。
嫌だ。
ものすごく嫌だ。
でも、ここで引くわけにはいかない。
「夢じゃない」
俺は言った。
「昨日、俺は別の世界に行った」
「……」
「橋のないトンネルを見つけた。
そこから入って、巨大な通路を歩いた。
変な扉もあった。
階段もあった。
水の部屋もあった。
全部、本当だ」
教室の空気が、少しずつ変わる。
いや、変わったような気がした。
でも、誰もはっきり反応しない。
ただ、聞いている。
聞いているだけだ。
九頭見が、少しだけ鼻で笑った。
「で?」
「で、って何だ」
「それで、何がしたいんだよ」
「何がしたい、って……」
俺は言い淀む。
でも、すぐに言い返す。
「俺が特別だってことを分かってほしい」
「は?」
「俺は、選ばれたんだ」
「……」
「昨日のあれは、偶然じゃない。
俺だから行けたんだ」
その瞬間、九頭見の表情が少しだけ変わった。
ほんの少し。
でも、見逃さなかった。
あの顔。
少しだけ、面白そうな顔だ。
……何だ。
こいつ、笑ってるのか?
いや、違う。
興味を持ったのかもしれない。
「なるほど」
九頭見が言った。
「じゃあ、その別の世界の話、ここで全部言えよ」
「……」
「証拠があるなら、ちゃんと説明できるんだろ?」
……来た。
来たぞ。
これだ。
今こそ、俺の話を全員に聞かせる時だ。
俺は一瞬だけ息を吸って、頷いた。
「いいだろう」
俺は言った。
「昨日の夜、俺は家へ帰る途中で橋のないトンネルみたいな場所を見つけた。
入ったら、すごく長い通路だった。
そこには、保守って書かれた扉がたくさんあって、電気の扉とか水の扉とか、変なのがあった」
「……」
「あと、途中で壁が開いて、別の部屋に入った。
その部屋は灰色で、天気が見える窓があった。
雨が降ったり、雷が出たりした。
それから、階段の部屋にも行った。
そこは水が落ちてきて、溺れそうになった」
「……」
「最後は、川のそばに戻った。
関川の近く。
時間は一時間しか経ってなかった。
でも、俺には何時間もいたように感じた」
「……」
「つまり、俺は別の世界を見たんだ」
言い切った。
最後まで。
だから、もう後には引けない。
しばらく、沈黙。
静か。
あまりにも静かだ。
誰もすぐには何も言わない。
その沈黙が、逆にひどい。
俺は、ひとりで立っている気分になった。
凛成が、まず口を開いた。
「……荷川取」
「何だ」
「お前、それ本気で言ってるの?」
「本気だ」
「……」
「何度言わせる」
慧斗が少しだけ困った顔で、ノートを見た。
「でも、これだけじゃ……」
「だから何だ」
「いや、うん……」
慧斗は言葉を探している。
「もし本当にそうなら、すごいと思うけど……」
「だろ」
「でも、やっぱりちょっと……」
その“ちょっと”が、ものすごく腹立たしい。
でも、まだ終わっていない。
俺は周囲を見回した。
みんな、聞いている。
誰も大きく笑ってはいない。
何人かは、少しだけ興味深そうにしている。
何人かは、面倒そうにしている。
でも、少なくとも完全には流していない。
よし。
いい感じだ。
その時、九頭見がゆっくり口を開いた。
「……つまり、荷川取は」
彼は少しだけ笑った。
「“選ばれた”って言いたいわけだ」
俺は、その言い方に少しだけむっとした。
でも、あえて答える。
「そうだ」
俺は言う。
「俺は選ばれた。
昨日、あの場所を見つけたのは俺だけだ。
あの世界は、俺のために開いた」
「……」
「だから、これは本当だ」
……言った。
言い切った。
もう十分だ。
あとは反応を見るだけだ。
九頭見は腕を組む。
白石は半笑い。
山埜は、少しだけ顔をしかめた。
秋山は、相変わらず疑わしそうに見ている。
でも、みんな一応は聞いた。
聞いたんだ。
それが重要だ。
俺は胸を張った。
ノートを握り直す。
これでいい。
これで、少なくとも“俺の話”をした。
昼休みの廊下に、ちゃんと俺の声が残った。
それだけで、今日は意味がある。
……そして、内心ではもう次のことを考えていた。
もし誰かが信じなくてもいい。
今日の反応が薄くてもいい。
次にあの場所へ行って、もっと見せればいい。
その時には、もっと大きな証拠があるかもしれない。
あるいは、もっとすごい何かを手に入れているかもしれない。
そう思うと、また少しだけ、胸が熱くなる。
まだ足りない。
もっと。
もっと驚かせたい。
もっと証明したい。
荷川取慧璃は、本当に特別なんだと。
沈黙の中で、俺だけが少しだけ笑っていた。
たぶん、誰にも見えないくらいの小さな笑いだったけど、それで十分だった。
だって、今日の昼はもう、ただの昼じゃない。
俺の話が、ちゃんと始まったんだから。




