第④.1章:私の大いなる活躍 (3)
九頭見が、俺の肩に手を置いた。
その瞬間、少しだけ空気が変わった。
いや、変わったというより、こいつの手が触れたせいで、俺の中の何かがさらに熱くなった。
九頭見は、あの嫌な余裕を崩さないまま、少しだけ笑う。
「……かなり自信あるんだな」
その声は、妙に落ち着いていた。
まるで、こっちが騒いでいるのを面白がっているみたいだった。
いや、実際そうなんだろう。
九頭見はこういう時、いつもそういう顔をする。
人が本気で言ってることを、少しだけ高いところから見ているみたいな顔だ。
「本気だ」
俺は言った。
「ふざけてない」
そうだ。
ふざけてなんかいない。
昨日の夜に見たもの。
あの通路。
扉。
階段。
水。
ノート。
全部、真実だ。
俺はそれを見た。
俺はそこに行った。
だから、俺の話は真面目そのものだ。
……少なくとも、俺の中では。
九頭見は肩に置いていた手を少しだけ動かした。
その動作が、やけに軽い。
そして、さらに嫌なことを言う。
「それにしては、すごく“夢っぽい”話だな」
……夢。
またそれか。
その単語を聞いた瞬間、俺の中の何かがまた一段階沸いた。
いや、怒りだ。
怒り。
こいつら、みんな同じことを言う。
夢。
寝不足。
冗談。
ゲーム。
そういう言葉で、俺の話をまとめようとする。
ふざけるな。
俺は本気なのに。
「夢じゃない」
俺は言った。
「昨日、本当に行った」
「じゃあ、証拠は?」
九頭見が、少しだけ首を傾ける。
「そのノートだけか?」
「それが証拠だ」
「ノートに書くのは誰でもできる」
「……」
「絵でも文章でも、いくらでも作れるだろ」
「作ってない」
「でも、見てない俺からしたら、作ってるのと同じだ」
……その言い方。
腹立つ。
すごく腹立つ。
でも、まだ我慢できる。
まだだ。
「それに」
九頭見は続けた。
「もし本当にそんな場所があるなら、そんな簡単にお前だけが見つかるわけないだろ」
「……」
「荷川取、お前、ちょっと話が大きくなりすぎてる」
「なってない」
「なってる」
「なってない!」
声が大きくなった。
わざとじゃない。
でも、もう抑えられない。
周りの視線が集まる。
少しだけざわつく音がした。
そのざわつきが、さらに俺を焦らせる。
そんな時、横から慧斗の手が伸びた。
腕を掴まれる。
「荷川取、落ち着け」
慧斗が言った。
「ちょっと、声が……」
その言葉も、今の俺には火に油だった。
落ち着け。
またそれか。
どうして、みんな俺を落ち着かせようとする。
俺は間違ってないのに。
俺は嘘をついてないのに。
「落ち着けるわけないだろ!」
俺は慧斗の方を振り向いて叫んだ。
「なんで分からないんだよ!
俺は本当のことを言ってるんだぞ!」
「いや、でも……」
「でもじゃない!」
俺は、ほとんど叫んでいた。
「俺は見た!
別の世界だ!
別の通路だ!
違う場所だ!
なんでそれを誰もちゃんと聞かないんだよ!」
教室の中が、静かになる。
いや、静かになった気がした。
でも、その静けさは俺を落ち着かせるものじゃなかった。
逆だ。
静かだからこそ、周りの目が全部こっちにあるのが分かる。
その感じが、気持ち悪い。
俺は肩で息をした。
胸が上下する。
心臓がうるさい。
手が震える。
やばい。
少し、まずい。
でも止めたくない。
止めたら、俺の話が全部消える気がした。
そんな中で、九頭見は相変わらず落ち着いていた。
むしろ、落ち着きすぎていて腹が立つ。
あいつは、俺の腕を掴んでいた慧斗の手を見て、軽く鼻で笑った。
「ほら、周りが困ってるじゃん」
九頭見が言う。
「お前、ほんとにそんなに自信があるなら、もう少し静かに話せば?」
「……」
「でなきゃ、ただ騒いでるだけに見える」
その瞬間、俺はふっと視線を落とした。
机の上。
ノート。
あれがある。
あれを見せればいい。
ページ。
記録。
昨日の証明。
そう思って、ノートに手を伸ばした。
だが、その瞬間だった。
九頭見の手が、先にノートへ伸びた。
「……っ!」
思わず息を呑む。
何をする。
何だこいつ。
手が、勝手に動いた。
ノートのページが、ぴりっと音を立てる。
「おい、何を――」
俺の声は最後まで出なかった。
目の前で、九頭見がページを破いていた。
……。
最初、何が起きたのか分からなかった。
破く?
何を?
俺の。
ノートの。
記録を。
「……っ、やめろ!」
声が、裏返った。
でも九頭見は止まらない。
そのまま、次のページにも手をかける。
びり、と。
音がした。
紙が裂ける音。
それが、思った以上に大きく教室に響いた。
「何してんだよ!!」
俺は立ち上がろうとした。
でも、慧斗の手がまだ腕を掴んでいる。
そのせいで、一歩遅れる。
遅れた、その一瞬が致命的だった。
「証拠、見てただけだろ」
九頭見が言う。
「ちょっと見づらいから、整理してるだけ」
「ふざけるな!」
俺は、もうほとんど叫んでいた。
「返せ! それは俺の――」
その時、九頭見がこちらを見た。
その顔は、あまりにも冷静だった。
しかも、冷静なまま、どこか淡々としている。
まるで、少し壊れた紙を直せばいいだけだと思っているみたいに。
「見てるだけじゃ分かんないからさ」
九頭見は言った。
「ほんとに見たなら、もう少しちゃんとした証拠を持ってこいよ」
……その言葉が、喉の奥に刺さった。
ちゃんとした証拠?
何だそれ。
何を持ってくればいい。
カメラか。
写真か。
動画か。
そんなの、昨日のあの時には無かった。
いや、あったとしても、スマホが壊れてた。
だから――
「俺は本当のことを言ってる!!」
気づいたら、叫んでいた。
「返せ! 返せよ!!」
九頭見は、少しだけ眉を上げた。
でも、手は止めない。
また、びり。
……っ。
視界が、一瞬で真っ赤になった気がした。
いや、実際には赤くなっていない。
でも、頭の中ではそうだった。
何かが切れた。
何かが、完全に。
俺は、掴まれていた腕を振りほどいた。
そして、そのまま、九頭見に向かって飛びかかった。
「っ、お前!!」
拳が出る。
自分でも止められない。
ただ、もう、身体が先に動いていた。
九頭見の顔に、俺の拳がぶつかった。
鈍い音。
それから、九頭見の顔が少しだけ横を向いた。
……当たった。
当たったんだ。
俺は、あいつを殴った。
でも、その瞬間より先に、俺はノートを引っ手繰った。
紙片が手の中でばさばさと鳴る。
破かれたページ。
裂け目。
ぐちゃぐちゃだ。
くそ。
くそ。
くそ。
何をしてくれたんだ。
俺は座り込むみたいにして、ノートを抱えた。
もう、めちゃくちゃだ。
ページがずれてる。
破れたところがある。
文字が途中で切れてる。
俺の記録が。
俺の証拠が。
昨日の全部が。
「……やめろよ……」
声が、今度は小さかった。
喉の奥が詰まる。
目の端が熱い。
でも、そんなの気にしていられない。
俺は、慌てて破れた紙を揃えようとした。
順番。
順番を戻さないと。
元通りにしないと。
手が震えて、うまくつかめない。
「おい」
九頭見の声が聞こえた。
「殴るのかよ、荷川取」
俺は顔を上げた。
九頭見は、片手で頬を押さえていた。
その表情は、さっきまでと違って少しだけ固い。
でも、怒鳴るほどではない。
むしろ、呆れたような顔だった。
「マジでやるとは思わなかったわ」
「……」
「お前、ほんとに変だな」
……変。
またそれか。
変。
おかしい。
夢。
寝不足。
全部、俺を否定する言葉だ。
そんなの、今はいらない。
その時、九頭見が少しだけ顔を動かし、後ろを向いた。
「おい、二人とも」
九頭見は言う。
「ちょっと押さえとけ」
その言葉で、白石と山埜が動いた。
俺は反射的に後ろを振り向く。
凛成と慧斗が、今まさにこっちへ来ようとしていた。
でも、それを白石と山埜が止める。
肩を掴む。
腕を押さえる。
凛成が「待て、やめろ!」と叫ぶ。
慧斗も何か言っている。
でも、白石と山埜がそれを遮る。
……最悪だ。
最悪。
何もかも最悪だ。
その時、九頭見がゆっくり立ち上がって、俺の方へ歩いてきた。
目が合う。
あの目。
嫌いだ。
ほんとに嫌いだ。
俺の話を、最初から最後まで“ちょっと面白い騒ぎ”みたいに見てる目だ。
「おい、荷川取」
九頭見が言った。
「気が済んだか?」
「……返せ」
「何を?」
「ノートだ!」
「……これか」
九頭見は、俺が取り返したノートの破れたページをちらっと見た。
そして、何でもないみたいに言う。
「もう、ぐちゃぐちゃじゃん」
その一言で、また何かが壊れた。
いや、壊れたというより、沈んだ。
深く、深く。
「お前がやったんだろ!」
俺は叫んだ。
「俺の証拠だ! 返せ!」
「証拠、ね」
九頭見はため息みたいに息を吐く。
「だから言ったじゃん。
そんなもん、証拠にならないって」
次の瞬間、九頭見の拳が飛んできた。
速い。
速すぎる。
俺は避けられなかった。
頬のあたりに、鋭い衝撃。
空気が抜ける。
「っ、う……」
床に少しだけよろける。
痛い。
熱い。
でも、それよりも腹が立つ。
殴られた。
簡単に。
たった一発。
それが、ひどく屈辱だった。
九頭見は手を軽く振って、自分の拳を見た。
「やめとけよ」
そう言って、淡々と続ける。
「お前、調子に乗りすぎ」
「……」
「さっきからずっと、空回ってる」
その言葉で、周囲の空気が動いた。
笑い。
小さな笑い声。
最初は誰か一人。
それが、少しずつ広がる。
……え?
最初、何が起きたのか分からなかった。
でも、すぐに理解した。
笑われている。
俺が。
今の俺が。
その事実が、喉を締め付ける。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
笑い声が増える。
白石が、山埜が、誰かが、口元を押さえている。
秋山も、黙って見ている。
でも、その目は……
その目は、やっぱり少しだけ笑っていた。
やめろ。
やめてくれ。
見るな。
笑うな。
違う。
俺はおかしくない。
俺は間違ってない。
俺は、昨日、本当に行ったんだ。
なのに、どうして。
呼吸が、急にしづらくなる。
胸が痛い。
というか、苦しい。
なんだこれ。
なんでこんなに息が詰まる。
汗が出る。
手が震える。
足元が少し揺れる。
……やばい。
まずい。
このままだと、本当に倒れる。
笑い声が、聞こえる。
聞こえすぎる。
誰かが何かを言っている。
でも、もう内容は入ってこない。
ただ、笑いの音だけが耳に刺さる。
その中で、凛成と慧斗と秋山を見た。
三人とも、笑ってはいない。
でも――
顔を下げている。
視線を落としている。
手を口元に当てている。
その仕草が、もう答えみたいだった。
……笑いたいんだ。
笑いたいのを、抑えてる。
それが、分かる。
分かってしまう。
だから、余計に痛い。
やめろ。
なんでだ。
なんで誰もちゃんと見ない。
なんで誰もちゃんと聞かない。
どうして、俺だけがこんな――
心臓が、どくん、と跳ねた。
次の瞬間、吐き気が来る。
喉の奥まで苦いものが上がってくる。
目の前が少しだけ滲む。
誰かの笑い声が、遠くなる。
でも、消えない。
消えない。
どこまでも追ってくる。
……やだ。
やだ。
やだやだやだ。
違う。
違うんだ。
俺は――
俺は、別の世界を見た。
あれは本当だ。
どうして誰も分からない。
気づいた時には、涙が落ちていた。
ぽつ、と。
頬をつたう。
それが嫌で、余計に目をこする。
でも止まらない。
視界が揺れる。
息がうまく入らない。
喉が痛い。
胸が苦しい。
もう無理だ。
「……っ」
声にならない声が漏れた。
俺はノートを抱えたまま、後ろに一歩下がる。
でも、どこにも逃げ場がない。
目の前には九頭見。
後ろには笑い声。
横には視線。
前にも、後ろにも、全部が嫌だ。
――逃げろ。
頭の中で、誰かがそう言った気がした。
だから俺は、逃げた。
椅子を蹴るみたいに立ち上がって、教室の出口へ向かって走った。
「おい、荷川取!」
凛成の声が聞こえた気がした。
慧斗の声も。
でも、振り向けない。
振り向いたら、終わる気がした。
だから、俺はただ走った。
廊下。
階段。
誰かがこっちを見る。
でも、見ないふりをする。
その視線が痛い。
痛いけど止まれない。
適当に近くの空き教室に飛び込んだ。
そこは誰もいない。
机がいくつか並んでいて、窓が一つだけある。
静かだ。
静かすぎる。
俺はその場で膝から崩れた。
ノートを抱えたまま、床に座り込む。
息が上がる。
肩が震える。
目からまだ涙が出る。
歯を食いしばる。
でも、止まらない。
「……っ、くそ……」
声が震えた。
情けない。
すごく情けない。
でも、もうどうにもならない。
泣いてる。
泣いてしまってる。
こんなの、最悪だ。
こんなの、見られたくなかった。
ノートを胸の前で強く抱える。
破れたページ。
ぐしゃぐしゃの紙。
それでも離したくない。
あれだけが、俺が見たものの証拠だから。
あれだけが、昨日の俺を残してくれるものだから。
でも、今はもう、どうでもよくなりそうだった。
苦しい。
悔しい。
腹が立つ。
悲しい。
全部が一度に来る。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
……ただ、家に帰りたい。
今は、それだけだった。
もう、特別とか、選ばれたとか、そんなのどうでもいい。
今はただ、誰にも見られずに、静かなところへ行きたい。
俺は床に顔を伏せた。
ノートを抱いたまま、喉の奥から小さく息が漏れる。
……帰りたい。
ただ、帰りたい。
今すぐ、家に。




