第⑤章:退屈なもう一日 (1)
あの教室での出来事から、十日が過ぎた。
十日。
たった十日でしかない。
だが、荷川取慧璃にとっては、ひどく長い十日だった。
人は、恥をかくと時間の感覚を失う。
特に、それが集団の前での失敗であれば、脳はその場面を何度も反芻し、似た音、似た視線、似た笑い声を勝手に引きずり出してくる。
笑い声は実際にそこになくても、耳の奥に残る。
視線は今も向けられているように感じる。
そして、何もしていない時間ほど、その感覚を強める。
2026年4月25日。土曜日。
白樺高等学校の校舎は閉じている。
だが、学校が閉じていても、学校で受けた傷は閉じない。
ニカワトリ家の二階。
南側の窓から薄い春の光が入るころでも、荷川取の部屋はほとんど暗かった。
彼は布団に潜り込んだまま、顔まで完全に覆っている。
外の世界を見ないためではなく、見たくないためだ。
視界を狭めることで、現実そのものを細くする。
布団の内部は、息が少しこもって、体温だけが残る。
汗の匂い、洗って間もないシーツの匂い、埃っぽい空気。
それらが混ざって、狭い箱の中にいるような感覚を作る。
十日間、彼はほとんど同じ姿勢で過ごしていた。
起きる。
食べる。
少しだけ水を飲む。
そして、また布団に戻る。
食事の時間だけは、母親の木葉が静かに部屋の外から呼びかける。
父親の柚禽も、必要以上には踏み込まない。
二人とも、十日前の出来事を知っていた。
知っているからこそ、無理に扉を開けない。
心配はしている。
しかし、強引に引きずり出せば、余計に悪くなることも分かっていた。
親のそういう柔らかさは、時に救いになる。
だが、今の荷川取にとっては、それすらも痛い。
優しくされると、自分がひどく壊れていることを、逆に意識してしまう。
だから彼は、できるだけ声を出さない。
部屋からも出ない。
布団の中で、ただ時間が通り過ぎるのを待つ。
待つことしかできない十日だった。
学校へ戻りたくない。
顔を見たくない。
笑い声を聞きたくない。
あの廊下。
あの教室。
あの、沈黙のあとに爆発した笑い。
それらが、脳裏で何度も再生される。
本人が止めようとしても、止まらない。
誰かに無視されるより、はっきり笑われる方が残酷だと、そこで初めて理解する。
荷川取は、それを骨のように覚えてしまった。
布団の中で、彼は破れたノートを手にしていた。
あの日、九頭見怜汰に破かれたページは、まだ完全には戻っていない。
破れた断面は白く裂け、紙繊維が少し浮いている。
文字の途中が途切れている箇所もある。
そこにあったはずの記録は、もう半分死んでいた。
荷川取はその紙片を何度も並べ直し、何度も元の順番を探した。
だが、どれだけ整えようとしても、破れた痕は消えない。
それを見るたび、胸の奥に冷たいものが沈む。
これが証拠だった。
これが、彼の「別の世界」の証拠だった。
これが壊れたということは、あの体験そのものが、彼の中で少しだけ現実感を失うことを意味していた。
――本当にあったのか。
――夢ではなかったのか。
――自分はただ、あまりに孤立していて、強い願望を見てしまっただけではないのか。
そういう疑いが、十日もあれば十分に育つ。
疑いは事実を削る。
傷のように、少しずつ、少しずつ。
だが、荷川取はまだ完全には折れていなかった。
折れたのはノートの紙だ。
彼の思考は、まだ一本だけ残っていた。
写真。
動画。
その二つだけが足りない。
凛成も慧斗も、そこを突いた。
秋山麗奈も、同じことを言った。
九頭見は、そこを嗤った。
つまり、必要なのは「見た」ではなく「見せる」ことだ。
その一点に気づいた時、荷川取は父親のことを思い出した。
柚禽の持っていたビデオカメラ。
昔、家族の旅行や行事を撮るために使っていた、少し古い機種だ。
今はあまり出番がないが、押し入れの奥にしまってある。
まだ使える。
少なくとも、電源は入るはずだ。
動画で残せれば、あの場所が本物だと示せるかもしれない。
だが、問題はそこではない。
カメラを持って行けるか、ではなく、そもそもどうやってあの場所に戻るのか。
学校へ入るのか。
どこから入るのか。
どの瞬間に、再びあの「別の世界」とつながるのか。
ここが分からない。
荷川取は布団の中で、十日間ずっとそれを考えていた。
食事中も。
水を飲む時も。
眠れない夜も。
何度も。
何度もだ。
そして、ひとつの小さな、だが無視できない手がかりが浮かび上がる。
三階の壊れたトイレ。
それは、最初はどうでもいい話だった。
慧斗と凛成が、昼休みに話していた些細な噂。
上の階の、修理中のトイレ。
鏡が割れた。
床がへこんでいた。
扉が少し開いていた。
そんな、ただの校内トラブルの一つとして流されるはずのものだった。
だが、荷川取は思い返す。
あの時、教室の中で聞いた言葉。
**「白樺高等学校」**という看板。
あの奇妙な地下通路で、突然現れた学校名。
学校の名が、あの場所で突然出てきたこと。
それが、ただの偶然とは思えない。
もし、あの場所と学校の三階の壊れたトイレが繋がっているのだとしたら。
もし、学校のどこかに、あの世界へつながる「入口」があるのだとしたら。
なら、探す場所はそこしかない。
荷川取は布団の中で、ゆっくりとノートを閉じた。
破れた紙の端が、指先に引っかかる。
痛い。
しかし、その痛みすら、今は妙に心を落ち着かせる。
十日間、何もできなかった。
だが、今日は違う。
今日は土曜日で、親は家にいる。
それは少し面倒だ。
だが、同時に、外へ出る理由を作ることはできる。
下見だ。
学校の様子を見に行く。
壊れた場所を確認する。
言い訳はある。
完全ではないが、十分だ。
しかも、今日は両親が家にいるからこそ、逆に注意が必要でもある。
木葉も柚禽も、あからさまに止めるような性格ではない。
しかし、息子の表情が少しでも変われば、すぐに分かる。
十日も塞ぎ込んでいた子どもが急に外へ出る。
それは親にとっては嬉しい一歩でもあり、同時に危うい兆候でもある。
荷川取はそのことを理解していた。
だからこそ、無理に堂々とはできない。
自然に。
さりげなく。
何でもないふうを装って出る必要がある。
彼は布団から腕だけを出して、時計を確認した。
午前。
まだそこまで遅くない。
学校の周辺を歩くには十分だ。
今日は、まず見に行く。
壊れたトイレ。
そこから何かが見えるはずだ。
そういう感覚が、十日間の沈黙の中でようやく形になっていた。
荷川取はゆっくりと起き上がる。
布団が肩から滑る。
部屋の中は薄暗い。
カーテンの隙間から差し込む朝の光は、まだ弱い。
机の上には、破れたノート。
その横には、ほこりをかぶった文房具。
そして、部屋の隅には、子どもの頃の玩具や古い漫画の山がある。
今はそれらを見ている余裕もなかった。
彼はノートを手に取り、紙片を何枚か慎重に挟み直す。
それから、机の引き出しを開けた。
そこには、父のビデオカメラを借りるための方法を考える代わりに、まず自分の部屋を出るための気持ちを整える時間が必要だった。
家の中は静かだ。
土曜日の朝の静けさは、平日とは違う。
人の動きが少ないぶん、家鳴りがよく響く。
廊下の板がきしむ音。
台所で水が流れる音。
どれも、小さいのに存在感がある。
彼はその音の中を、まるで何かに見つからないように歩く。
木葉は、朝の片づけをしていた。
柚禽は、工具か何かを触っていたのかもしれない。
どちらも、息子の様子を遠目に確認するだけで、声をかけすぎない。
その距離感が、今日はありがたい。
荷川取は、食卓の上に置かれたトーストや味噌汁にも目を向けず、ただ静かに立っていた。
彼の頭の中では、ひとつの行動だけが回っている。
学校へ行く。
三階へ行く。
壊れたトイレを見る。
もし入口があれば、そこで確かめる。
もし違っても、まだ終わりではない。
別の場所を探せばいい。
何も失っていない。
いや、失ったものはある。
だが、まだ取り戻せる。
彼はようやく、自分の中にほんのわずかな熱が戻っているのを感じていた。
恥辱でしぼんだ心は、完全には癒えていない。
だが、別のものに変わり始めている。
屈辱は怒りに変わる。
怒りは行動に変わる。
行動は、たまに希望の形をしている。
そして荷川取慧璃は、その希望を、まだ完全には信じていなかった。
だが、信じる必要はなかった。
必要なのは、動くことだ。
彼は破れたノートを胸の内側にしまい、ひっそりと家を出る準備を始めた。
今日、白樺へ行く。
ただの確認ではない。
壊れたトイレ。
壊れた鏡。
壊れた記録。
それらのどこかに、あの世界へ戻るための糸口がある。
十日ぶりに、荷川取は自分の足で外へ向かおうとしていた。
その足取りはまだ弱い。
だが、止まってはいなかった。
それから数時間後。
荷川取慧璃は、ついに小さなビデオカメラを手に入れていた。
それは最新式でも、高性能でもなかった。
むしろ古く、少し無骨で、角が丸く、手の中で安定しない。
ボタンの配置も分かりづらく、画面も小さい。
動画を撮るにも写真を撮るにも、最初は指先がもたつく。
慣れていない手つきでは、フレームもすぐにぶれる。
だが、荷川取にとっては、それでも十分だった。
必要なのは、完璧な映像ではない。
必要なのは、あの場所が本当に存在したという痕跡だけだ。
破れたノートでは足りなかった。
言葉だけでも足りなかった。
だから今、手のひらに収まる小さな機械が、彼の中ではほとんど救命具のような意味を持っていた。
問題は、機械ではない。
問題は、家を出る時点ですでに始まっていた。
母親の木葉は、息子の手にあるカメラを見た瞬間、わずかに眉を寄せた。
顔立ちには、心配と観察が同時に浮かぶ。
あれは、子どもが突然何かを始めようとした時にだけ出る表情だった。
荷川取の頬は、十日前より少し痩せて見えた。
目の下には薄い影が残っている。
だが、表情そのものは、以前より少しだけ動いていた。
完全な無気力ではない。
どこかへ行こうとする意志だけは、かろうじて残っている。
木葉は、そういうところに気づく。
母親というものは、子どもが言葉で隠しても、身体の重心や肩の角度で何かを読み取ってしまう。
それでも彼女は、すぐには踏み込まなかった。
無理に止めても、壊れたものは戻らないと分かっているからだ。
「そのカメラ、どうしたの?」
まずは、それだけを聞く。
荷川取は、少しだけ口角を上げた。
不自然すぎないように、でも沈みすぎないように。
その笑みは、本人が思っているほど自然ではなかったが、少なくとも攻撃的でもなかった。
「今日は天気がいいから、少し外で写真を撮ろうと思って」
彼はそう言った。
「気分転換。……ちょっと、息抜き」
声は落ち着いていた。
焦りも、恐れも、表面には出ていない。
木葉はその静けさを見て、危険を強くは感じなかった。
ただ、疲れている。
ひどく疲れている。
それだけが見えた。
それでも、母親としては放っておけない。
「一人で行くの?」
「うん」
荷川取は即答した。
「一人で行きたい。……少しだけ、外の空気を吸いたいだけだから」
「それなら、私も――」
「大丈夫」
彼は少しだけ言葉を重ねた。
「一人で行かせて。
戻ってくるから。
遅くなっても、戻る。
ちゃんと帰る」
木葉は、その言い方に、むしろ不器用な真剣さを見た。
息子は何かを隠している。
だが、それは自分を傷つけるためというより、何かを証明するための隠し方だ。
そういう危うさがある。
子どもは時々、壊れそうな方法で自分を守る。
それが見えるからこそ、親は完全には止められない。
木葉は短く息を吐いた。
そして、荷川取の髪を軽く撫でる。
指先が、少しだけ湿っている髪を梳いた。
「十時までには帰ってきなさい」
彼女はそう言った。
「それまでに電話もする。
何かあったら、すぐ出て」
「分かった」
荷川取はうなずいた。
「ちゃんと帰る」
「……約束よ」
「約束」
母親は、彼の肩に触れたまま、少しだけ目を細める。
それは、信じていない目ではなかった。
むしろ、信じたい目だった。
その視線が、荷川取には少しだけ重かった。
だからこそ、彼は顔を逸らさず、カメラを握り直す。
家を出る。
外は夜の手前だった。
まだ完全には暗くない。
空の色は青の底に沈みかけていて、街灯だけが先に目を覚ましている。
春の夜は、昼の明るさを少しだけ引きずったまま、静かに冷えていく。
風は弱い。
でも、歩いていると指先がわずかに冷える。
その冷たさが、今日の目的をかえって鮮明にする。
荷川取は歩きながら、カメラの使い方を確かめていた。
小さなモニター。
録画ボタン。
ズーム。
フォーカス。
撮影の切り替え。
どれもぎこちない。
たまに指がずれて、余計な場所を押してしまう。
画面に表示されるアイコンの意味も、完全には分かっていない。
それでも、動画が撮れることは理解した。
写真も撮れる。
つまり、証拠を残す道具としては十分だ。
その認識は、荷川取の背中を少しだけ真っ直ぐにした。
彼は今、結果を持ち帰るために動いている。
あの教室で奪われた尊厳を、少しでも取り戻すために。
十日前に壊れたノートの代わりに、壊れない証拠を持ち帰るために。
白樺高等学校の校舎が見えた時、彼の足は一度だけ止まった。
校門。
閉じられた門。
休日の学校は、平日とまるで違う顔をしている。
生徒の声がないぶん、建物は空洞のように見えた。
窓は黒く沈み、校庭は静かで、風の動きだけが見える。
こういう場所は、夜になると特に不気味だ。
昼のあいだは人で満たされている空間が、今は完全に無人の器になっている。
器は人がいないと、急に大きく見える。
音が消えると、奥行きが増す。
階段も廊下も、余白ばかりが目立つ。
荷川取は、校門の前でしばらく呼吸を整えた。
ここに来るだけで、胸の奥が少しざわつく。
十日前の笑い声が、校舎のどこかに貼りついている気がした。
実際には何もない。
だが、恥辱を受けた人間には、場所そのものが過去を再生して見える。
音がなくても、音が聞こえる。
視線がなくても、視線を感じる。
これは病的な反応ではなく、防衛の残滓でもある。
身体が、同じ痛みを避けようとして過剰に敏感になるのだ。
だが、今日はそこに引きずられすぎるわけにはいかない。
彼はカメラを握り、肩を少し引いて、学校の敷地に入った。
門を越える。
校庭は空っぽだ。
砂が少しだけ乾いている。
運動部のボールの音はない。
ただ、遠くで鳥の声がするだけだ。
その静けさは、かえって足音を大きくする。
荷川取はそれを嫌いながらも、同時に利用していた。
音があるから、自分の位置が分かる。
音があるから、何かがあればすぐ分かる。
正門の近くには警備員がいた。
だが、彼は明らかに退屈そうで、荷川取を一瞥しただけだった。
休日の来校者に、いちいち神経を尖らせるほどではない。
制服を着た生徒が一人で校内に入る程度なら、止める理由も薄い。
実際、荷川取は問題なく中へ入った。
そのまま、校舎へ。
廊下。
階段。
靴音。
窓から入る光は、校舎の中でいくぶん冷えていた。
白い壁は、どこか病院のようにも見える。
人がいないと、学校の空気は少しだけ医療施設に似る。
整っているのに、生気がない。
その無機質さが、荷川取の呼吸を浅くした。
彼はカメラを首からぶら下げ、必要ならすぐ録画できるようにした。
ポケットに入れると取り出しが遅れる。
だから、首掛けのままにする。
まだ使い方には慣れていないが、少なくとも落としにくい。
三階へ向かう途中、彼は何度も後ろを振り返った。
誰かがいる気配はない。
それでも、背後に視線のようなものを感じる。
それは実際の人物ではなく、記憶だ。
人は一度嫌な場所に傷を受けると、その場所の一部を脅威として記憶し続ける。
視覚より先に、身体が反応する。
足が遅くなる。
肩が硬くなる。
喉が乾く。
荷川取はその反応を、まるで自分の影のように引きずりながら歩いた。
三階の壊れたトイレ前に着く。
扉は閉まっている。
だが、どこか不自然な静けさがあった。
周囲の空気が薄い。
匂いも少ない。
古い建物特有の湿気が、ほんの少しだけ鼻を刺す。
そして、床の一部に、修繕の痕のような色の違いがある。
鏡のあるはずの場所へ近づくと、そこは既に半端に補修されていた。
割れた痕を隠すように、新しい材料が貼られている。
しかし、完全には隠れていない。
隙間がある。
すでに修理に入っているのは明らかだった。
荷川取は唇を噛んだ。
遅かったのかもしれない。
あるいは、まだ間に合うのかもしれない。
その境界は、今は分からない。
彼はカメラを起動し、録画ボタンを押した。
小さな赤い点灯。
画面が動く。
よし。
撮れている。
その確認だけで、胸の奥に少しだけ熱が戻る。
「ここだ……」
小さく呟き、彼はトイレの中へ入った。
中は、以前と同じようでいて、少し違った。
まず、床の破損は修復が始まっている。
だが、完全ではない。
割れたタイルの縁に、まだ汚れが残っている。
鏡は一部が外され、周囲に布か養生材のようなものが張られている。
水道の蛇口は閉じられていた。
洗面台の下には雑に置かれた工具箱。
つまり、ここは確かに“何かあった場所”として扱われている。
荷川取は、しばらくその場で回りを見た。
床。
壁。
鏡。
便器の列。
天井。
あの時の違和感を探す。
だが、見えるのはただの壊れた空間だけだ。
特別なものはない。
入口らしきものもない。
裂け目もない。
静かな空気だけが残っている。
……まさか、本当にただの修理中のトイレなのか。
そんな不安が、じわじわと芽を出した。
だが、その不安は、まだ諦めには至らない。
彼はカメラを両手で持ち、もう一度床を撮る。
鏡の外れた位置。
補修の痕。
破損の角度。
何度も録画する。
そして、何か変化が起きるのを待つ。
待つ。
待つ。
待つ。
だが、何も起きない。
秒針の音だけが、耳の奥で大きくなる。
静かだ。
静かすぎる。
汗が少しだけ背中に滲む。
カメラのレンズは、彼の指でわずかに震えていた。
その時、荷川取はふと気づいた。
鏡の代わりの養生材の端。
そこに貼られたテープの切れ目。
その下の壁が、わずかに違う色をしている。
少しだけ暗い。
ほんの少し。
だが、その暗さは、部屋の明るさと妙に噛み合わなかった。
彼は近づいた。
そして、テープの端を少しだけ持ち上げる。
しかし――
そこには何もなかった。
ただの壁だ。
何の仕掛けもない。
黒い裂け目もない。
ただ、修理中の壁。
それだけ。
荷川取の口元から、短い息が漏れる。
焦り。
困惑。
少しずつ、呼吸のテンポが乱れ始める。
彼はカメラの画面を見て、それからまた壁を見る。
録画は続いている。
しかし、映像の中には何もない。
ただのトイレだ。
ただの破損箇所だ。
ここで、彼の中の理屈が一度だけ大きく揺れる。
もし本当にあの場所があったなら、今ここにも何かしらの痕跡があるはずだ。
だが、ない。
ないという事実は、強い。
現実は、見えないものよりずっと説得力がある。
だから荷川取は、しばらくその場に立ち尽くした。
それでも、諦めるにはまだ早い。
彼はカメラを止めず、トイレの中をさらに調べる。
床。
鏡の枠。
洗面台。
水。
だが、何もない。
何も、起こらない。
――その時である。
荷川取が、鏡の前で髪を直そうとした。
十日前の屈辱が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
そこで、彼は無意識に鏡に映る自分の顔を見た。
疲れた顔。
少し痩せた頬。
目の下の影。
その瞬間、視界の奥に、別の影が立った。
背後。
鏡の中だけに。
その影は、荷川取の肩越しに、ほんのわずかに存在していた。
細い。
黒い。
人の形のようにも見える。
だが、はっきりしない。
輪郭が、鏡の向こう側で揺れている。
荷川取の背中が、びくりと跳ねた。
現実の空間では、何もない。
振り返っても、ただのトイレだ。
誰もいない。
空気だけがある。
だが、鏡の中では違う。
影はまだそこにある。
ほんの一瞬だけ、背後に立ち続けている。
カメラが、その瞬間を捉えていた。
録画中の小さな赤い点。
荷川取はそれに気づくより先に、鏡の中の影を見てしまう。
そして、その影は、彼の記憶の奥にあるもう一つの影に重なった。
――あの時の、教師の背後。
――数日前、鏡に映ったあの異様な気配。
――得体の知れない、長い体のような輪郭。
呼吸が止まる。
身体が硬直する。
喉が鳴る。
反射的に、彼は振り返った。
しかし、そこには何もなかった。
「……っ」
声にならない息が出る。
次の瞬間、彼はもう一度鏡を見る。
すると、そこに今度は、巨大な怪物のような輪郭が一瞬だけ走った。
黒い。
歪んでいる。
人ではない。
形が崩れている。
その輪郭が、視界の奥で膨らみ、荷川取は反射的に後ずさりした。
足がもつれる。
カメラを握る手がずれる。
そして――
ガシャッ。
小さな機械が床に落ちた。
衝撃で、レンズ側が少し跳ねる。
録画が止まるかもしれない。
荷川取は慌ててかがみ込んだ。
だが、その瞬間、彼の視界から鏡が外れた。
鏡の中の怪物は、もういない。
代わりに映るのは、ただの壊れたトイレだ。
何もない。
何も、起きていない。
その静けさが、ひどく残酷だった。
荷川取は、震える手でカメラを拾う。
レンズの角が少しずれている。
液晶画面が一瞬だけ乱れる。
映像が続いているのか、止まったのか、分からない。
彼は焦って何度もボタンを押した。
だが、うまく反応しない。
そのうち、無理に押した指先がもう一度滑る。
カメラが、机の角か何かにぶつかり、小さく砕けるような音を立てた。
完全に壊れたわけではない。
しかし、少なくとも正常ではなくなった。
画面が揺れ、録画ランプも定かでない。
荷川取は、息を詰めた。
最悪だ。
父のカメラを壊したら、あとで何を言われるか分からない。
だが、それよりも今は、あの影が気になる。
気配。
背後。
鏡。
何かがいる。
彼は、今度はかなり慎重に立ち上がり、カメラを抱えたまま後ずさる。
背中が壁に触れる。
冷たい。
鏡の方を見る。
もう何もいない。
だが、さっき見たものの余韻が残っている。
視界の端だけが、まだおかしい。
そして、次の一歩を引こうとした時だった。
――足元が、ふっと抜けた。
床が沈んだわけではない。
何かに引きずられるような、落下の感覚。
荷川取の身体は、一瞬で視界の中心から外れた。
空気が薄くなり、耳の奥に静電気のような音が走る。
カメラを抱えたまま、彼は暗い穴へ落ちる。
まばたき。
その瞬間、世界が揺れた。
次に目を開けた時、荷川取はまだ同じトイレの中にいた。
だが、空気が違う。
湿度が変わる。
匂いが変わる。
壁の色がわずかに濃い。
床に落ちた破片の位置も違う。
鏡の補修材も、どこか歪んで見える。
それは、さっきまでの学校のトイレではなかった。
あの世界だ。
荷川取は、ひと呼吸遅れてそれを理解した。
同じ構造。
同じ場所。
だが、空気が違う。
これは、あの“向こう側”だ。
ここが入口だった。
今、ようやく確かめられた。
彼はカメラを抱える手に力を込めた。
壊れていない。
まだ動く。
まだ記録できる。
それだけで、胸の奥が熱くなる。
そして、そこに立つ荷川取慧璃の表情は、十日前とは少し違っていた。
恥辱に沈んだ少年ではない。
まだ不安はある。
だが、今度は確かに前へ進む者の顔だった。
彼は小さく息を吸い、カメラの録画ボタンを押し直す。
赤い点灯。
確認。
よし。
「……今度こそ」
誰に言うでもなく、そう呟く。
この場所を出たら、もう誰も彼をただの嘘つきとは呼べない。
動画がある。
映像がある。
証拠がある。
そして何より、ここは本当に存在している。
荷川取は、恐怖と興奮を同時に抱えたまま、ゆっくりとトイレの奥を見た。
今度は逃げない。
今度は記録する。
今度は、誰にも奪わせない。
この世界で、彼はもう一度だけ、自分の名前を取り戻す必要があった。




