第⑤章:退屈なもう一日 (2)
鏡の向こうへ踏み込んだ荷川取慧璃は、まず周囲を見回した。
だが、あの浴室は、すでに最初の異常だけでほぼ十分だった。
壁。
床。
天井。
ひび割れ。
鏡の縁に残る曇り。
濃い赤に見えたものは、指で触れればただのぬるい水だった。
少しだけ鉄の匂いがする。
温度は低い。
だが、完全な冷たさでもない。
雨上がりのタイルよりはわずかに生温かい。
それだけが、現実と違っていた。
荷川取はカメラを首から下げたまま、静かに歩いた。
録画ランプはまだ赤い。
それが唯一、彼の中で現実を保っていた。
スマートフォンは違う。
取り出してみても、画面は沈黙したままだった。
電源は入らない。
充電表示も出ない。
ただの黒い板だ。
校内の電波ではなく、この場所そのものが、通信を拒絶しているように見える。
あるいは、何かが端末の存在を認めていないのかもしれない。
だが、ここで重要なのは、電話ではなかった。
重要なのは、カメラがまだ動いていることだ。
荷川取はそれを確認すると、少しだけ肩を落ち着かせた。
証拠は残る。
ならば、前へ進む理由はある。
浴室の内部をもう一度見渡す。
壊れた床。
修理跡。
鏡の前に残る不自然な湿気。
それ以外に、目立つものはない。
この場所そのものが入口であって、目的地ではないのだと、空間が語っていた。
つまり、本当に見なければならないのは、ここから先だ。
この浴室の向こうにある、学校全体の方だ。
荷川取は入口へ戻り、扉を引いた。
しかし、扉は動かなかった。
何度か力を込める。
びくともしない。
取っ手は冷たいまま。
木も金属も、彼の力を受け止めるだけで、何も返さない。
閉じ込められたのではない。
まだ、そう決まったわけでもない。
ただ、扉が開く条件が、今の彼には分かっていないだけだ。
扉の上部に視線をやる。
そこには、はっきりと文字があった。
「私立白樺高等学校」
荷川取の喉が、わずかに鳴った。
やはりだ。
やはり、この場所は白樺そのものに繋がっている。
この扉は、トイレの出口ではなく、もっと大きなものの入口なのだ。
学校の中心。
その奥。
空間の骨格。
そういうものへつながっているらしい。
だが、単純に開くわけではない。
ここには、何かの順序がある。
荷川取は扉の周囲を確認した。
特別な鍵穴はない。
スイッチもない。
ただ、鏡がある。
鏡はひび割れたまま。
表面には、少しだけ曇りが残っていた。
彼はそこで、鏡に近づいた。
すると、曇った面に、奇妙なものが浮かんでいるのに気づく。
水蒸気だ。
だが、ただの水蒸気ではない。
鏡の表面に、熱でもないのに文字が浮かび上がっていた。
白く、細く、少しだけ歪んだ筆記体。
そこには問いがあった。
「続行しますか」
荷川取は、しばらくその文字を見つめた。
ここが試されている。
そう理解するまで、ほんの数秒。
だが、その数秒の中で、彼の脳はすでに答えを決めていた。
続ける。
当然だ。
ここまで来て引き返す理由はない。
彼は壁の端に残った曇りを指でなぞり、そこへ一文字書いた。
「はい」
書いた瞬間、鏡の曇りがふっと揺れた。
空気が、ひどく薄くなる。
足元の水音が、遠ざかった。
そして、浴室全体が、ほんのわずかに震えた。
扉の奥から、低い音がした。
木が動く音でも、金属が軋む音でもない。
もっと深いところから来る、重たい機構の起動音だ。
その音と同時に、扉の縁が内側へわずかに沈む。
押し返すように、裂け目ができた。
荷川取は、カメラの録画を確認し、それから扉に手をかける。
今度は、容易に開いた。
扉の向こうは、光だった。
あまりにも強い光だ。
白い。
真っ白だ。
輪郭を奪うような白。
彼は反射的に顔をそむける。
だが遅い。
次の瞬間、目の前が完全に白へ塗りつぶされた。
その白の中で、音が来た。
叫び声のようなもの。
あるいは、叫び声に似た雑音。
それに重なる静電気。
耳の中で何かが擦れるような高いノイズ。
人の声が混ざっているようにも聞こえるが、言葉にはならない。
理解できる前に、全部が流れてしまう。
荷川取は一歩、二歩と前へ進む。
足元の感触が消える。
空間が、空間ではなくなる。
白が、視界の中で膨らみ、そして急に引く。
やがて、彼はもう一度、見えるようになった。
浴室は消えていた。
扉もない。
背後の白もない。
代わりに広がっていたのは、長い長い廊下だった。
左右へ、どこまでも続いている。
端は見えない。
奥行きだけがある。
床にはタイルではなく、鏡のように磨かれた面が敷き詰められていた。
だが、その表面は透明ではない。
そこに薄く満ちているのは、水のような赤い液体だった。
荷川取は最初、それを血だと思った。
だが、指先で触れてみると違う。
少しだけ温かい、色の濃い水だ。
まるで、数分前のカップに残ったコーヒーのような、生ぬるい温度。
血ほどの粘りはない。
けれど、見た目がそう見えるせいで、脳が危険信号を出し続ける。
荷川取は息を止めかけた。
この空間は、前に見たどの場所とも違う。
あの長すぎるトンネルでもない。
保守の扉が並ぶ維持通路でもない。
壁が塗られた灰色の部屋でもない。
ここは、もっと学校らしい。
だが、その「学校らしさ」が、あまりに異様だった。
天井を見上げる。
そこには、ロッカーが浮いていた。
正確には、吊られているのではない。
上下が逆だ。
扉が下を向いている。
そして、ロッカーの底面が天井に吸い付いている。
いくつも、いくつも。
列になっているものもあれば、斜めにずれているものもある。
ひとつひとつが、まるで空中に置かれた机のように静止している。
その光景を見ていると、荷川取の中で、現実の学校とこの場所の対応がゆっくりと崩れていく。
教室。
廊下。
ロッカー。
窓。
それらは本来、上から下へ、横へ、整然と並んでいるものだ。
だが、ここでは上下の前提が違う。
教室の構造が、まるで空間の記憶だけを残して引き伸ばされたみたいになっていた。
彼はカメラを回しながら歩く。
赤い液体が足首のあたりまで薄く広がる。
冷たいかと思えばそうでもない。
少しだけ暖かい。
乾いた空気の中で、その温度だけが妙に生々しい。
窓もある。
だが、窓の外には景色がない。
代わりに、白い花びらのようなものが無数に舞っている。
荷川取は最初、桜か何かだと思った。
だが違う。
葉脈のような細い筋が見える。
あれは、白樺の花だ。
大量の白樺の花が、外の空間を埋め尽くしている。
ところが、それらは緑ではない。
赤い。
鮮烈な赤だ。
ときどき、風に叩かれるように窓へ当たり、ぱち、と乾いた音を立てる。
その音は、小さくても耳につく。
学校のガラス窓が、外の何かに殴られている音。
そのたびに、荷川取の背中が少しだけ硬くなる。
なぜなら、それは単なる花の音ではなく、こちら側へ届こうとしている何かの音に聞こえるからだ。
彼は録画を続けた。
カメラのレンズ越しに見ると、世界はより奇妙だった。
色の飽和。
赤い床。
白い花。
逆さのロッカー。
少し遅れて聞こえる足音。
全部が、現実の基準からわずかにずれている。
だが、映像としてはちゃんと残る。
それが重要だった。
歩いていると、前方に一つの教室扉が現れた。
荷川取はその前で足を止める。
扉は赤かった。
古い民家の引き戸のような色合い。
木と紙の和風の質感を持っている。
だが、建付けは白樺の校舎らしく、現代の扉として存在していた。
その違和感が、ひどく目立つ。
彼は扉を引いた。
軽い。
想像していたよりも、ずっと軽い。
ぎぎ、と古い木が鳴る。
その向こうに広がっていたのは――
無限の暗闇だった。
廊下でも、教室でもない。
深い黒。
奥がない。
天井も床も、境目が分からない。
荷川取はわずかに身を引いたが、引いたところで扉はまだそこで開いている。
彼は一瞬だけためらったあと、録画ボタンを見て、それからその黒の中へ踏み込んだ。
すると、扉が閉まった。
後ろで、音が消える。
代わりに、彼の足元に感触が戻った。
床は、机だった。
それも普通の机ではない。
極端に高い。
高すぎる。
その上に立っているのに、足元の空間の感覚が変だ。
荷川取はそっと下を見る。
すると、遥か下の方に、机の脚が見えた。
非常に小さい。
まるで、彼自身が巨大な机の天板の上に乗っているみたいだった。
いや、実際そうなのだ。
足元の床は、無数の机が縦に積み上がり、上端だけが地面になったような構造だった。
つまりここは、机の迷宮だ。
荷川取は、思わず喉を鳴らした。
机の天板は、ところどころ軋む。
ひとつひとつがわずかに揺れている。
古い木材のきしむ音。
乾いた摩擦音。
遠くで、どこかの椅子が落ちるような鈍い音もした。
全部が低く、そして不安定だ。
彼はまず、足元を確かめながら進む。
机の平面が、つるりとした瞬間に不穏な揺れを見せる。
どうやら、ここでは“歩く”というより、“机の上を渡る”に近い。
しかも、遠くの机が少しずつ回転し始めている。
天板が回ると、進行方向が変わる。
つまり、通路そのものが動いている。
「……くそ」
小さく漏れる声。
しかし、荷川取は止まらない。
彼はカメラを抱え、バランスを取りながら前へ進んだ。
机の配置は迷路のようだ。
ところどころ、机と机の間に黒い穴がある。
落ちればどうなるか分からない。
そのため、足を止める余裕はない。
前方の机が、突然、わずかに傾いた。
荷川取は反射的に足を引く。
だが、机はそれだけでは終わらない。
次の机が横にずれ、別の机が回転して彼の視界を塞ぐ。
まるで、この空間は彼を通したくないかのように、机を並べ替えている。
それでも、彼は進んだ。
その先に、机の連なりの終わりが見えたからだ。
天板の列の先端に、ひとつだけ大きな穴が開いている。
そこだけ床がない。
黒い空間が、机の間にぽっかりと口を開けていた。
あれが出口だ。
荷川取は直感した。
理由はない。
だが、そう思える何かがある。
この場所では、空白は意味を持つ。
何もない場所ほど、次へ繋がっている。
彼は最後の机へ飛び移った。
その瞬間、背後で大きな衝撃音がした。
誰かが机を叩いたような音。
だが振り返っても何もない。
何も見えない。
ただ、空間の奥が少しだけ歪んでいるように見える。
――誰かいる。
そう判断したわけではない。
だが、身体が先に反応した。
背筋が冷える。
この場所では、見えないものほど危険だ。
彼はすぐに前へ向き直った。
そして、穴に身を乗り出す。
黒い。
深い。
だが、その黒の底から、なぜか廊下の赤い光がわずかに差していた。
つまり、これは別の層への抜け穴だ。
荷川取は、迷わずそこへ身を沈めた。
数秒の落下。
風がない。
音もない。
ただ、身体だけが下へ滑る。
次に視界が戻った時、彼はまた、さっきの長い廊下に立っていた。
赤い床。
逆さのロッカー。
白い花。
何も変わっていないように見える。
しかし、今度はカメラがちゃんとその一部を捉えていた。
荷川取は、すぐに画面を確認した。
録画は続いている。
赤い点も点灯したままだ。
映っている。
ちゃんと映っている。
――証拠がある。
その事実だけで、彼の体はわずかに軽くなった。
完全ではない。
だが、少しは前に進んでいる。
少なくとも、ここで見たものは消えない。
荷川取は視線を上げた。
廊下の奥には、まだ何かある。
すべてを見終えたわけではない。
その先にも、別の教室、別の扉、別の空間が続いているのかもしれない。
証拠は手に入った。
だが、彼の足はまだ止まらなかった。
まだ見ていないものがある。
それを確かめずに帰るのは、あまりにも惜しい。
彼はカメラを抱え直し、廊下の奥へ歩き始めた。
その姿は、十日前に床へ崩れた少年とは少し違う。
まだ脆い。
だが、今度は証拠を持っている。
そして、その証拠の先に、さらに別の何かがあると知っていた。
この学校は、まだ終わっていない。
荷川取慧璃は、赤い床の上を歩きながら、何度も窓を見た。
窓の外では、葉が舞っていた。
白い樹皮の欠片みたいなものが、風に押されて何度も窓へぶつかる。
ぱた、ぱた、と軽い音がする。
その音は、最初はただの春の風景に見えた。
少しだけ美しい。
少しだけ静か。
少しだけ、学校という箱の外を思わせる。
だが、見続けるほど、その美しさは別の形へ変わっていく。
葉の動きは、どこか焦っている。
風に遊ばれているというより、外側から無理やり押しつけられているようだった。
窓ガラスに当たるたび、葉脈が一瞬だけ貼りつき、また剥がれる。
そのたび、光が白く裂ける。
赤い花の影も混じる。
外の景色はたしかに綺麗だった。
だが、その綺麗さは、長く見ていると目を逸らしたくなる種類のものだった。
理由は単純だ。
綺麗なものは、壊れる時にひどく目立つ。
そしてこの場所では、何かが壊れる予感だけが、常に先に来る。
荷川取はカメラを抱え直した。
録画ランプはまだ赤い。
その小さな光だけが、彼に現実を返している。
彼の歩幅は、最初より少し小さい。
肩はわずかに固い。
喉の奥には、さっきから少しずつ重いものが積もっている。
はっきりした恐怖ではない。
だが、放っておくと首筋にまで這い上がってくる、鈍い不快感だ。
それでも、足は止まらない。
止まる理由がない。
ここまで来て、引き返すのはもっと怖い。
証拠がある。
カメラがある。
あの赤い廊下も、逆さのロッカーも、机の迷宮も、動画に残っている。
その事実は、十日前に壊されたノートよりもずっと強い。
これがあるなら、荷川取慧璃はもう“嘘つき”ではない。
少なくとも、完全な嘘つきではない。
いや、それだけでは足りない。
彼はそれを知っていた。
ただ「見た」というだけでは、また笑われる。
ただ「撮った」というだけでは、まだ弱い。
もっと。
もっと大きな証拠が必要だ。
もっと誰も否定できない何かが必要だ。
そのために、彼は進んでいる。
「特別であること」を証明したい欲求は、静かな形では終わらない。
認められたいという願いは、認められない時間が長くなるほど、骨のように硬くなる。
そして荷川取の場合、それはもう、単なる承認欲求ではなかった。
彼の中では、「特別でない自分」を受け入れたくない気持ちと、誰かに見返したい気持ちが、同じ芯を共有していた。
だから、彼は歩く。
だから、彼は記録する。
だから、彼はまだこの場所を見て回る。
だが、その前進は、だんだんと別の何かを呼び込んでいた。
最初は気のせいだった。
廊下の奥が少し長く見える。
曲がり角の先が、いつもより暗い。
背後の音が、ほんの少し遅れて返ってくる。
そういう小さな違和感だ。
普通なら、ただの錯覚で済ませる程度のもの。
しかし、この場所では、小さな違和感はすぐに積み重なる。
荷川取は何度か立ち止まり、背後を振り返った。
だが、そこには何もない。
長い廊下。
赤い床。
逆さのロッカー。
白い花。
そして、静かな窓。
何もない。
誰もいない。
そのはずだった。
それなのに、彼の首筋だけが、少しずつ硬くなる。
これは、前の通路では起きなかった感覚だった。
あの時は、空間が変化することが先に来た。
扉が開く。
階段が現れる。
水が落ちる。
机が積まれる。
そうした“現象”が先行していた。
だが今は違う。
何かがいるかもしれない、という感覚だけが、先に背中へ貼りついている。
見えない。
だが、いるかもしれない。
そう思わされる。
その違いは大きい。
人は、見えている危険より、見えない危険に長く耐えられない。
荷川取の呼吸も、そこで少しだけ浅くなった。
それでも彼は進む。
なぜなら、止まれば恐怖が完成するからだ。
動いていれば、恐怖はただの予感に留まる。
彼はそれを本能的に知っていた。
廊下の幅は、少しずつ広がっていた。
左の壁と右の壁が、まるで呼吸するように離れていく。
最初は普通の校舎の廊下に見えた。
だが、今は違う。
横へ横へと余白が増え、そのたびに新しい扉が現れる。
教室の数が増えたわけではない。
空間そのものが増殖している。
赤い床が延びる。
窓が並ぶ。
そして扉。
扉は、見えるだけで安心できるものではなかった。
閉ざされているという事実は、同時に中身の存在を示している。
何もないなら扉はいらない。
そこに扉があるということは、向こう側に何かがある。
荷川取はそれを意識しながら歩くたび、少しずつ心拍が速くなるのを感じた。
たくさんの扉。
それらは規則正しく並んでいるようで、微妙に高さも大きさも違う。
あるものは普通より少し高い。
あるものは窓付きだ。
あるものは、表面の塗装が剥がれている。
どれも、ただの学校の扉には見えない。
同じ建物の中なのに、別々の年代が混ざっている。
古い木目。
新しい金属。
紙のように薄いもの。
重そうなもの。
それらが一列に並ぶ光景は、静かであるぶん、余計に不気味だった。
その中で、荷川取は視線の端に何度も“動き”のようなものを拾った。
窓の外。
廊下の奥。
扉の隙間。
ほんの一瞬、そこに何かが立ったように見える。
それも、形を持つ前の影だ。
人の形かどうか分からない。
だが、見た瞬間だけ、脳が「何かがいる」と言ってくる。
次の瞬間には消える。
だから確認できない。
確認できないから、余計に残る。
これは幻覚にも似ているが、荷川取のそれはただの錯覚ではない。
錯覚であってほしい、という願いが混じっている。
そして願いは、たいてい現実を薄くする。
彼は立ち止まった。
胸が、少しだけ痛い。
息を整えようとしても、うまくいかない。
喉のあたりに、冷たいものが引っかかっている。
怖い。
確実に怖い。
けれど、その恐怖の中に、別の感情もある。
進まなければならないという、妙な責任感だ。
証拠がある。
証拠があるのに、まだ足りない。
もっと見なければならない。
もっと撮らなければならない。
もっと、誰も否定できないところまで行かなければならない。
荷川取はその考えに掴まれる。
掴まれることで、立っていられる。
やがて彼は、再び歩き出した。
だが、その時にはもう、背後の感覚がはっきりしていた。
追われている。
それが何かは分からない。
人かもしれない。
影かもしれない。
この場所そのものの視線かもしれない。
だが、少なくとも“見られている”ことだけは、空気の重さで分かる。
これは、前の通路ではなかった。
あの場所は、壊れた構造が並ぶだけだった。
だがここでは、何かが彼に反応している。
空間が、彼の動きに合わせて少しずつ張り詰める。
音も、距離も、空気も。
すべてがわずかに彼に向いている。
荷川取はカメラを握り直した。
その指先はまだ冷たくない。
だが、じっとりと汗ばんでいた。
彼はレンズを前へ向ける。
もし本当に何かがいるなら、今度はそれを撮る必要がある。
ただの空間ではなく、“追ってくるもの”を。
窓の外では、赤い花びらがまたひとつ、ガラスを叩いた。
ぱちん、という軽い音。
その一音が、廊下全体へ細く伸びる。
荷川取の肩が、ほんのわずかに跳ねる。
そして彼は、その音と同時に、確かに理解した。
この場所には、何かがいる。
それが人であれ、怪物であれ、あるいはもっと曖昧な何かであれ。
もう、ただの空っぽの学校ではない。
それでも、荷川取慧璃は歩く。
恐怖が首まで上がってきても、進む。
証拠があるからだ。
証拠があれば、自分の正しさを取り戻せる。
そして、それが彼にとっては、ほとんど生きる理由に近かった。




