第③章:地下の入口 (2)
迷うほどの長さじゃない。
そう思っていた。
実際、あの短い通路は、近づいてみると本当に大したことなかった。
コンクリートの壁。
少し湿った空気。
足音がやけに響く床。
左右に広がる空気も、別に変じゃない。
ただのトンネルだ。
そう言われれば、たしかにそうに見える。
……少なくとも、最初の三歩くらいまでは。
中に入っても、特に何も起きなかった。
爆発もしない。
変な影も出ない。
誰かに後ろから掴まれることもない。
ましてや、どこかの変な男が待ち構えていたりもしない。
その事実だけで、少しだけ肩の力が抜けた。
ああ、よかった。
やっぱりただの通路か。
そういうこともある。
こんな町だし、工事の途中のものが急にできても、まあ不思議では……いや、少しは不思議だけど。
多分、新しい橋でも作るのかもしれない。
先にトンネルだけ作っているのか、それとも何かの土台なのか。
俺は建築のことなんて何も知らないから、文句を言う筋合いもない。
たぶん、そういうのは外から見てるだけだと分からないんだろう。
でも、そう思ったのは本当に一瞬だけだった。
中に入って少し進んだ時、俺はふと、違和感に気づいた。
トンネルの奥が妙に暗い。
いや、暗いだけなら普通だ。
問題は、その暗さの中に、右側の壁の上の方だけ、ぽつんと薄い光があったことだ。
天井の近く。
壁の右上。
ほんのりと、ぼんやりと、白っぽい光。
強くはない。
でも、何かがある。
あまりにも中途半端に、そこだけ明るい。
……ん?
最初は、古い照明でも切れかけているのかと思った。
電球が弱ってるとか、天井のどこかに小さいライトが埋め込まれてるとか。
でも、なんかおかしい。
光源が見えない。
見上げても、そこにあるのはただ壁だ。
点灯している装置も、蛍光灯も、ランプもない。
俺は歩くのをやめた。
それから、少し戻って、その光の真下まで行ってみた。
近くで見ると、余計に変だった。
ない。
何もない。
ライトのカバーも、配線も、金具もない。
ただ、壁そのものが光っているように見える。
……は?
いや、そんなことあるか。
壁が光るって何だ。
ふざけてるのか。
ここ、いつの間にゲームのマップになったんだよ。
壁の一部に、ありえないほど小さいランプを仕込んでいるとか、そういうレベルじゃない。
まるで、壁に直接“明るさ”だけ貼りつけたみたいだった。
俺は目を細めた。
おかしい。
どう考えてもおかしい。
そう思って、何度も見直す。
でも変わらない。
光はそこにあるのに、光源はない。
「……なんだよ、これ」
小さく呟いた声が、トンネルの壁に吸われる。
自分の声が、少しだけ遠くに聞こえた。
試しに目をこすった。
瞬きをして、もう一度見る。
結果は変わらない。
壁の右上だけが、妙に明るい。
なんでだ。
俺の目がおかしいのか?
いや、今までこんな見え方をしたことはない。
少なくとも、今日に限って急におかしくなったとは思えない。
それで、ふと気づいた。
さっきまで耳に入っていた音楽が、止まっている。
俺はイヤホンの片方を指でつまんだ。
音がない。
音楽が消えている。
しんとした無音だけが残っていた。
……あれ?
スマホを取り出して画面を見た。
真っ暗だ。
電源が入らない。
ロック画面も出ない。
再生中の表示もない。
ただの黒い板みたいになっている。
いや、待て。
そんなはずないだろ。
さっきまで普通に使えていた。
俺、充電を怠るようなタイプじゃない。
むしろ、電池残量が六十パーセントでも不安になるくらいだ。
家を出る前だって、ちゃんと確認した。
なのに、急に切れるってどういうことだ。
画面を叩いてみる。
つかない。
長押ししてみる。
つかない。
……いや、つかないって何だよ。
嫌な予感が一気に濃くなる。
背中に、少しだけ冷たいものが走った。
俺はゆっくり振り向いた。
入り口の方を見る。
さっき入ってきたはずの場所。
そこに、出入口がある。
あったはずだった。
……ある。
あるにはある。
でも、なんか変だ。
よく見えない。
というより、見えるのに見えない感じだ。
トンネルの先が、さっきと違う。
前も後ろも、奥行きがあるはずなのに、どちらも妙に平面的に見える。
近づいてみると、さらに分かる。
その“奥”は、奥じゃない。
ざら、とした感触が指先に残った。
入り口の壁に触れたつもりだったのに、指先に何かべたつくものがついた。
……塗料?
見下ろすと、指に赤茶けたような、いや、もっと曖昧な色の液がついている。
塗料みたいだ。
乾きかけの、少しざらついたやつ。
俺は眉をひそめた。
何なんだこれ。
まさか、壁に塗ってあるだけなのか?
しゃがんで、入り口の縁をよく見る。
そこには――
いや、違う。
そこに見えていた“入り口”は、入り口じゃなかった。
木だ。
板だ。
しかも、ぴったりはめ込まれている。
壁の向こうに空間があるように見せかけて、実際には、木板が隙間なく立てられているだけだった。
その上から、何か塗料で“トンネルの先”みたいな絵が描かれている。
……は?
口が、少しだけ開いた。
何だこれ。
いや、何だこれっていうか、ふざけてるのか。
トンネルの入り口と出口が、ただの絵?
塗装?
貼り付け?
いや、そんな単純なものじゃない。
見た目は本当にトンネルだった。
遠目では、ちゃんと奥行きがあるように見えた。
でも、近づくと違う。
平面だ。
俺は入り口側から、少しだけ指でなぞった。
木の表面。
その上に、トンネルの暗さを描いたような塗り。
ぞわっとした。
何かがおかしい。
おかしいというレベルじゃない。
ここまで来ると、もう説明が追いつかない。
「……おい」
誰に言うでもなく、声が出た。
返事は当然ない。
あるわけがない。
これ、夢か?
そう思った。
いや、夢であってほしい。
さっきだって、変な夢を見たばかりじゃないか。
山を登って、竜に向かって、剣を抜いて、意味の分からない詠唱をしていた。
あれの続きなら、まだ笑える。
笑える、か?
いや、笑えないかもしれないけど、少なくとも筋は通る。
だから俺は、念のため自分をつねった。
かなり強めに。
そして、もう一回、ほっぺたを叩いた。
痛い。
……痛い。
普通に痛い。
夢じゃない。
少なくとも、今の痛みは本物だ。
ふざけるな。
というか、なんでこんな時だけ痛覚がちゃんと働くんだよ。
腹が立つ。
俺は少し息を吐いた。
深呼吸。
落ち着け。
まだ分からない。
何かの手違いかもしれない。
工事かもしれない。
変な展示物かもしれない。
この町の誰かが、意味の分からないアートを作っただけかもしれない。
そうだ。
そうに違いない。
そう思いたい。
でも、納得できない。
壁が塗られてるだけなら、なんでスマホが落ちる?
なんで音楽が止まる?
なんで光源がないのに壁が明るい?
それに、さっきから感じるこの圧。
空気が、じっとりしている。
湿っているというより、何かに“見られている”みたいな落ち着かなさだ。
気のせいだ。
……そうだ、気のせいだ。
大丈夫。
俺は別に臆病じゃない。
何も起こらない。
ただの、ちょっと変な作りのトンネル。
そういうことにしておけば、何でもない。
俺はもう一度、入り口の板を押してみた。
すると、するりと一枚が外れた。
いや、外れたというより、落ちた。
内側に支えがなくなったみたいに、ふわっと崩れる。
その向こうに、黒い空間が見えた。
……ん?
板の裏側には、やっぱり“向こう側”がある。
普通の道が見える。
さっきまで歩いていた川沿いの道。
俺が通ってきたはずの場所。
それが、そこにあった。
なのに、手を伸ばそうとすると、ちょっと遠い。
試しに手を出す。
届かない。
いや、届くには届くんだけど、掴めない。
何かが少しズレてる。
距離が狂ってる。
足元の板の上で、俺は嫌な違和感を覚えた。
まるで、空間が一枚、薄皮みたいにずれている。
後ろを振り向く。
そっちも同じだった。
出口のはずの方にも、同じように板がある。
そして、その向こうには、さっきまで来た道が、やっぱり遠くに見える。
左右ではなく、前と後ろ。
なのに、どっちも“外”につながっているように見えて、つながっていない。
……何なんだよ、これ。
俺は試しに、入り口の方へ進んだ。
ほんの一歩。
すると、向こうの景色が少しだけズレた。
今度は出口の方へ行ってみる。
またズレる。
何だこれは。
見えているのに、近づけない。
近づいたはずなのに、遠ざかる。
胸の奥が少しだけ早くなる。
いや、早くなったというより、落ち着かない。
こういうの、嫌だ。
理屈が見えないのが一番嫌だ。
意味が分からないものには、ちゃんと意味が分からないなりの怖さがある。
俺は入り口と出口を交互に見た。
片方へ行けば、もう片方が戻る。
片方を見ている間に、もう片方は元に戻る。
……待てよ。
少しだけ考える。
もし、片方へ近づいた時に、もう片方が“元の位置に戻る”なら――
同時に両方を動かしたらどうなる?
そんなことを考えた瞬間、俺は自分で自分の考えが嫌になった。
やめろ。
こういう時に妙なことを試したくなるのが、たぶん悪い癖だ。
でも、考えてしまった以上、やるしかない。
いや、やるしかないってほどじゃないけど、気になるだろ。
俺はゆっくりと、入り口側に寄った。
そこから、すぐ反対側を見た。
出口の板は、さっきより少しだけ遠い。
でも、完全には動いていない。
まだそこにある。
よし。
じゃあ――
俺は反対側へ向かって一歩踏み出し、同時に振り返った。
すると、遠かったはずの出口の板が、さっと元の場所に戻る。
ほら。
やっぱりそうだ。
俺が見ていない方は、元に戻る。
じゃあ、見ながら触ればいい。
……たぶん。
少しだけ、心臓が嫌な音を立てる。
でも、ここまで来ると引き返す方が気持ち悪い。
俺は入り口側へ近づいて、すぐに振り返った。
その瞬間、反対側の板が目の前に戻る。
俺は反射的に、その板に手を伸ばした。
掴んだ。
……いや、掴んだと思った。
手の中に、ドアノブの感触があった。
冷たい金属。
丸いノブ。
ちゃんとした扉だ。
よし、これなら――
そう思った瞬間、扉が遠ざかった。
「……っ、は?」
思わず声が漏れた。
ノブは手の中にあるのに、扉全体が後ろへ引っ張られる。
ありえない。
いや、ありえないとかいうレベルじゃない。
ちょっと待て。
何だこれ。
俺が引けば引くほど、向こうが離れていく。
まるで、距離そのものが逃げているみたいだ。
俺はもう一度手を伸ばした。
触れる。
掴む。
離れる。
いや、離れるって何だよ。
物理が変だ。
変どころじゃない。
めちゃくちゃだ。
それでも、何度か繰り返す。
掴んで、離れて、掴んで、離れて。
そのたびに、扉は少しずつ遠ざかる。
でも、完全には消えない。
どこかに、必ず“ある”。
……いや、待て。
それより、今俺は何をしているんだ。
この状況、完全におかしいだろ。
なのに、なぜか俺はまだ“何とかなるかもしれない”と思っている。
おかしいのは分かってる。
でも、分かっているのに、まだ全部を否定できない。
だって、もしこれが本当に夢なら、俺はもう一度起きるはずだ。
でも、起きない。
もしこれが何かの演出なら、誰かがそろそろ出てくるはずだ。
でも、誰も出てこない。
ただ、扉だけがある。
それが、少しずつ、少しずつ、離れる。
俺はもう一度、強く扉を押し込んだ。
その時、手元で何かが外れるような感触がした。
板の基礎。
それを支えていた木材が、ひどくあっさりと抜ける。
そして次の瞬間、扉が――
というより、その先の空間が、急に静止した。
……止まった?
いや、止まったというより、固定されたみたいだった。
扉の向こうにあったはずの“どこか”が、急に動きをやめる。
それから、俺は気づく。
扉の向こうは、もうトンネルじゃない。
黒い。
ただ黒い。
光も影も、奥行きすらも、はっきりしない。
空洞というより、空白。
でも、その空白は怖いというより、むしろ“そこにある”としか言えなかった。
何もないのに、何かがある。
そんな感じだ。
俺は、扉の取っ手を握ったまま、しばらく動けなかった。
怖い。
……いや、違う。
怖いっていうより、これはもう、理解できないだけだ。
理解できないものに、俺の頭がようやく追いついていない。
でも、それでも思う。
何だこれ。
これは、たぶん、ただのトンネルじゃない。
少なくとも、俺が今まで知っていた“トンネル”じゃない。
それでも――
それでも、俺は少しだけ、胸の奥で思ってしまった。
これ、もしかしたら。
ほんとに、何かが始まるやつかもしれない。




