第③章:地下の入口 (1)
竜がいた。
いや、正確に言えば、竜みたいな何かがいた。
空を裂くように飛んでいて、尾は長く、鱗は火をはじくみたいに光っていた。
その下には、燃えている山があった。
山全体が赤く揺れていて、岩は崩れ、空気は熱で歪んでいた。
名前なんて知らないはずなのに、俺はその山がルリルの山だと知っていた。
しかも、自分がそこにいることも知っていた。
山の斜面を、俺は登っていた。
剣を持って。
しかも、その剣がどう見ても伝説級のやつだった。
名前はたしか、エクスカリバー。
……なんで俺がそんなものを持っているのかは分からない。
けど、持っている以上は持っているのだろう。
夢の中っていうのは、そういう理不尽を平気で押しつけてくる。
頂上に着く。
風が強い。
火の粉が飛ぶ。
そして目の前に、やけに巨大な竜――ミミルがいる。
いや、竜なんて単語で片づけるのが失礼なくらい大きかった。
翼を広げただけで、空の半分くらいを持っていかれそうな圧がある。
それでも俺は、剣を抜いた。
抜いたというより、抜くべきだと知っていた。
夢なのに、妙にそういうところだけ真面目だ。
剣を向ける。
ミミルを見上げる。
胸の奥に、何か熱いものが湧く。
そして俺は、意味もなく英語っぽい詠唱を始めた。
――たぶん、そういう場面だったんだと思う。
声は自分のものなのに、自分のものじゃないみたいで、でも妙に気持ちがよかった。
この瞬間だけは、俺が“選ばれた側”だった。
いつもみたいに退屈な教室の角で座ってるだけの俺じゃなくて、世界を背負ってる俺だ。
そういう感覚が、夢の中では何よりも本物っぽい。
だから、そのまま行けると思った。
あと少しで、何かが始まる。
そんな気がした。
――そこで、何かが軽く頭に当たった。
「……っ」
目が覚めた。
反射的に頭を動かしたせいで、余計にくらっとする。
まだ夢の熱が残っていて、視界の端が少しぼやけていた。
しばらく、何が起きたのか分からなかった。
山はない。
竜もいない。
エクスカリバーもない。
あるのは、静かな空気と、紙の匂いと、目の前に並んだ本棚だけだ。
……図書館か。
頭がじんわりしている。
たぶん、何かで軽く叩かれたか、あるいは机に突っ伏していたせいで頭がずれただけだろう。
目をぱちぱちさせながら周りを見ると、そこはいつものような教室じゃなかった。
本棚。
背の高い棚。
窓の模様。
丸い机。
椅子。
静かな空間。
図書館だ。
……まあ、当然なんだけど。
俺は机に座ったまま、少しだけ首を回した。
どうやら、またやってしまったらしい。
読んでるうちに寝た。
恥ずかしい。
しかも、たぶんそれなりに長く。
机の上には、さっきまで読んでいた本が転がっていた。
薄めの本だ。
絵が少しあって、文章もそんなに難しくない。
見た目はほとんど小さな昔話みたいな本だった。
たしか、俺が借りてきたやつだ。
中身は、どこかの小さな村を救うために、ひとりの騎士が予言を背負って旅をする、みたいな話だったと思う。
正直、内容を半分くらいしか覚えていない。
でも、悪くない話だった。
俺が寝落ちするくらいには。
ページをめくったまま顔を伏せていたから、たぶん俺は本に挟まれて寝ていたんだろう。
そりゃあ誰も起こさないわけだ。
迷惑をかけるほどじゃないし、図書館ってのはもともと静かだから。
むしろ、自分で起きろって話だ。
まったく、だらしない。
スマホを取り出して確認すると、画面にははっきりと時間が出ていた。
19:00。
……え。
かなり寝てたな。
図書館が閉まるのは八時。
もうそんなに余裕がない。
日付は、2026年4月14日、火曜日。
平日。
そして今日は、たぶんずっとひとりだ。
いや、家に帰れば親はいるけど、日中はほぼひとりみたいなものだ。
母さんはたぶん仕事、父さんも仕事。
俺は俺で、今日のことをこなすだけ。
そのうち母さんから「大丈夫?」とかメッセージが来るだろう。
そういうのは分かる。
ありがたいとは思う。
思うけど、今はとにかく帰らないといけない。
俺は本を閉じて、軽く伸びをした。
ああ、眠い。
体の芯がまだぼんやりしている。
昼からずっと、どこかで眠気を引きずっていた気がする。
昨日、ちゃんと寝たつもりだったのに。
たぶん、授業で妙に疲れたんだろう。
それとも、単純に本の内容が頭に合っていたのか。
夢と物語がつながると、変に深く眠ってしまうことがある。
……いや、そんな大層なものでもないか。
俺は荷物をまとめて、立ち上がった。
本を棚に戻す前に、ちらっと表紙を見る。
騎士。
村。
予言。
そんな単語が並んでいた。
やっぱり、ああいう話はいい。
自分と全然関係ないはずなのに、少しだけ“始まりそう”な匂いがするから。
俺の現実には、まだそういう匂いが足りない。
館内の時計を見ると、七時を過ぎている。
もうのんびりしている場合じゃない。
図書館の外に出れば、帰り道はそこそこある。
家までの道は分かっているけど、暗くなる前に少しでも進んでおきたい。
八時になったら閉まるんだし、遅くなっても面倒なだけだ。
静かな館内を抜けて外に出ると、空気がひんやりしていた。
昼の温度とはまるで違う。
春の夜って、昼の薄いぬくもりが嘘みたいに消える。
空はもう少しで完全に夜になるところだった。
薄青さが残っていて、上の方には星がひとつ、ふたつ見え始めている。
ああいうのを見てると、少しだけ落ち着く。
大きいくせに、何も言ってこないからだ。
俺がいたのは、上越市立高田図書館。
家からは少し遠い。
別にわざわざ遠出するほどの場所でもないけど、こういう静かな場所が欲しい日もある。
今日がその日だったのかもしれない。
少なくとも、家にいるよりは、少しだけ自分の頭が整理される気がする。
……まあ、整理されたところで大して変わらないんだけど。
図書館の横には駐車場がある。
そこを抜けて、少し歩く。
周囲はそこまで人がいない。
車も少ない。
妙に静かだ。
こういう夜の空気って、ほんと何でもないのに、少しだけ特別に見える。
歩いていると、遠くに高田城跡が見えた。
昼ならただの歴史ある場所って感じだけど、夜になると、なんというか、急に重みが出る。
灯りと影のせいだろうか。
城そのものというより、城の“気配”みたいなものが見えてくる。
星がちらつく空を背景にすると、なおさらだ。
なんだか、ああいう場所は本当に何かを隠していそうに見える。
昔の俺なら、きっと「秘密の通路があるに違いない」とか思ってた。
今でも、まあ、ちょっとは思うけど。
……いや、ほんとに少しだけだ。
そんなに子どもじゃない。
たぶん。
スマホのイヤホンを引っ張り出して耳に入れる。
音楽を流した。
夜道って、無音だと逆に落ち着かない時がある。
多少の音がある方が、足音や風の音に気を取られなくて済む。
それに、何も聞こえないと、余計なことばかり考える。
余計なこと、か。
俺は今日、そういうものを考えすぎた気がする。
車の通りは少ない。
人も少ない。
こんなに静かだと、街全体が眠っているみたいだ。
いや、実際そうなのかもしれない。
みんな勉強してるのか、仕事してるのか、家で飯食ってるのか。
どれでもいいけど、俺からすると全部似たようなものだ。
ただ、そうやって別々の生活をしているくせに、誰もがちゃんと“何か”を持ってるように見えるのが不思議だ。
ふと、甘いものが欲しくなった。
歩きながら口に入れられるやつ。
疲れてる時って、ああいうのが妙に効く。
駅前に寄るほどでもない。
でも、セブン-イレブンならある。
しかも、家の近くのやつは二十四時間開いてる。
そのことを思い出した瞬間、少しだけ気分が上がった。
グミでも買っていこう。
そう思った。
俺はいつもの道から少し外れて、コンビニのある方へ向かうことにした。
夜の道は静かで、アスファルトの色も暗い。
でも、コンビニの灯りだけは妙に遠くからでも分かる。
ああいう光を見ると、なんとなく安心する。
人の気配があるって分かるからだ。
……別に、寂しいわけじゃないけど。
曲がり角をひとつ抜けると、駐車場の明かりが見えた。
そして、その向こうに、赤と緑の見慣れた看板。
セブン-イレブン 上越東城店。
小さいけど、ちゃんと明るい。
こういう店はありがたい。
街のどこにでもあるようで、いざ夜に歩くとないと困るものだ。
自動ドアが開く。
軽い音。
中から少し暖かい空気が流れてくる。
店員は、レジの近くでスマホを見ていた。
視線を上げて、機械的だけどちゃんとした声で迎えてくる。
「いらっしゃいませー」
俺は軽く会釈だけして、店内を見回した。
お菓子の棚。
飲み物。
雑誌。
弁当。
何もかもが明るい。
夜なのに、こういう場所だけは昼みたいだ。
その明るさが少しだけ現実感を薄める。
俺が探すのは、だいたいいつも決まってる。
グミまる。
小さくて、柔らかくて、甘くて、ちょうどいいやつ。
子どもの頃からずっと好きだ。
別に高級なお菓子じゃない。
でも、こういうのが一番しっくりくる。
見つけやすいし、食べやすいし、何より変に気取っていない。
棚の端に、それはあった。
オレンジっぽい袋と、別の味の袋。
俺は少しだけ迷って、二袋取った。
値段は、たしか二百十数円。
財布の中身を確認すると、ちゃんと足りる。
よかった。
こういう時に小銭が足りないと、地味に落ち込むからな。
レジに持っていくと、店員は相変わらず無表情気味に、でもちゃんと仕事をしてくれた。
支払って、袋を受け取る。
紙の感触は少しだけ薄い。
でも、帰り道に食べるには十分だ。
店を出たところで、ひとつだけ袋を開ける。
小さなグミを一粒、口に入れる。
甘い。
やっぱりこれだ。
こういう小さなものが、変に疲れた頭にはちょうどいい。
袋はバッグにしまう。
あとは歩くだけだ。
北へ向かう。
少し歩くと、鴨島へつながる橋がある。
その橋を渡ると、家の方へ帰るための道がまた変わる。
今日は、そっちではなく、いつもの少し静かなルートを行くことにした。
川沿いの舗装路。
関川の横を通る、あの道だ。
最近は、あのルートを通ることが多い。
高田城とか中心部の方へ行った帰りには、こっちの方が落ち着くからだ。
左側には家が並んでいる。
右側には川。
街灯の光が水面に少しだけ揺れている。
夜の川って、昼と違って静かすぎるくらい静かだ。
でも、その静けさが悪くない。
何も言わずに流れているから、見ていても疲れない。
道を進むと、少し下ったところで、そこから上へ上がる道がある。
大きい通りに戻るための坂だ。
そこを抜けると、河原町公園の横を通る道につながる。
さらに少し行けば、家に着く。
このルートも、もう慣れた。
数か月前まではあまり通らなかったけど、高田城のあたりに行った時の帰りに何度か使ってから、もう“普通の道”になっている。
歩きながら、また余計なことを考える。
九頭見怜汰のことだ。
あの金曜の一件。
正直、少しだけ言い返しすぎた気がする。
いや、かなり。
今さら思い返すと、あれはほとんど挑発みたいなものだった。
でも、後悔しているかと聞かれると、半分くらいは後悔、半分くらいはむしろ少しすっきりしている。
どっちつかずだ。
ほんとに面倒な話だ。
ただ、もうひとつ思う。
あれから九頭見たちに何かされたかと言われると、まだ何もない。
そのことに、少しだけ安心している自分がいる。
でも、同時に怖い。
あいつが何もしてこないのは、単に今は別の相手をいじめてるだけかもしれないし、あるいは、もっと嫌なタイミングを待ってるだけかもしれない。
そう考えると、胸の奥が少しだけ重くなる。
くそ。
俺、もしかしてちゃんと怖がってるのか。
いや、違う。
怖くない。
怖くなんてない。
ただ、少しだけ気にしてるだけだ。
ほんの少し。
それだけだ。
……それにしても、もう一週間だ。
新学期が始まって、もう七日も経った。
その間に起きたのは、九頭見に絡まれかけたことくらいで、俺の“何か大きいことが始まる感”は、まだどこにも来ていない。
最悪だ。
このままじゃ、ほんとにただの高校一年生として、ただの普通の春を過ごすことになる。
それだけは嫌だ。
嫌だけど、どうにもならない。
そういうのが、いちばん気に食わない。
俺は歩きながら、つい下を向いた。
アスファルト。
靴。
川の気配。
家の灯りはまだ少し先だ。
足元を見ていると、余計に考え込む。
“俺の生活はこんなものか”とか、“このままなのか”とか、“いつ始まるんだ”とか。
そういうのを考え始めると、だんだん気分が沈む。
……やめろ、こういうの。
今は夜道だ。
余計なことを考える時間じゃない。
家に帰って、飯食って、少しだけ寝て、また明日だ。
たぶん、そういうふうに繰り返すしかない。
繰り返していれば、いつか何か起きる。
……起きるはずだ。
起きなかったら、さすがに俺の方がもたない。
その時だった。
関川沿いの道を少し進んだところで、視界の先に、妙なものが見えた。
トンネルみたいなもの。
いや、トンネルって言っていいのか分からない。
橋の下の暗がりみたいな、でも橋はないような、短い通路みたいなやつだ。
しかも、こんなもの、前からあっただろうか。
少なくとも、俺は毎回ここを通るわけじゃないけど、何度も見ている道だ。
こんな構造物、あったっけ。
……え、何だこれ。
ちょっと待て。
工事でもしてたか?
いや、でも工事の音なんて聞いてない。
封鎖もされてない。
看板もない。
そもそも、こんな場所にトンネルを作って何の意味があるんだ。
橋の下でもないのに、ただそこに“口”みたいな空間がある。
意味が分からない。
俺は足を止めた。
少しだけ風が吹く。
川の音が、いつもより遠く聞こえる。
そのトンネルの中は暗くて、奥がよく見えない。
でも、別に長いわけじゃなさそうだ。
短い。
ほんの数歩で抜けられそうな距離に見える。
……短いからこそ、逆に変だ。
こんなの、前からあったかな。
いや、絶対に気づいていなかっただけじゃないか。
でも、俺はこの道を割と通っている。
少なくとも、今日みたいに何も考えず歩いてきたわけじゃない。
それなのに、今になって急にそこにあるように見えるのは、どういうことだ。
頭の中で、さっきまでの苛立ちが少しだけ止まる。
代わりに、妙な引っかかりが残った。
見慣れた道のはずなのに、見慣れていないものがある。
それだけで、空気の重さが変わる。
何でもないふりをするには、少しだけ存在感が強い。
……まあ、短いし。
通れないことはない。
ただの通路だ。
何も起きるわけがない。
たぶん。
うん、たぶん。
俺はそのトンネルを、じっと見た。
そして、ほんの少しだけ、足をその方へ向けた。
何かが、そこにある気がした。
まだ、何かは分からない。
でも、少なくとも“何もない”とは言い切れなかった。




