第⑱章:白樺の向こう側 (2)
三階へ続く階段を上りきると、廊下の空気が少しだけ冷たくなった気がした。
別に、特別な理由があるわけじゃない。窓が開いているわけでもなければ、空調の設定が変わったわけでもない。単純に、普段ほとんど人が立ち入らない場所だからだろう。白樺学園の三階には、現在使われていない教室や倉庫がいくつかある。ここにあるトイレもその一つで、清掃用具の置き場として使われているわけでもなく、扉には使用禁止を示す紙が貼られている。生徒がわざわざ近づく理由はないし、教師だって特別な用事がなければ来ない。そういう場所だった。
そして、俺が初めて逆世界に足を踏み入れた場所でもある。
……正確には、ここにあるトイレの中に入口があったわけじゃない。あのときは、もっと面倒で、もっと理解しがたい経緯があった。そもそも、あれを入口と呼んでいいのかも怪しい。気がついたら知らない場所にいて、歩いても歩いても出口が見つからず、最後には見覚えのある川の近くに出ていた。あれが夢だったと言われたら、今でも少しだけ信じたくなる。もちろん、身体に残った痛みや、父さんのカメラのことを考えれば、そんな都合のいい解釈はできないのだけれど。
俺はスマートフォンを取り出し、慶楽からのメッセージをもう一度確認した。
『三階の使用されていないトイレまで来てくれ。こちらは準備を始めている。着いたら連絡してほしい』
どうやら、ここで間違いないらしい。
扉の前で立ち止まり、耳を澄ませる。最初は何も聞こえなかったが、少し待つと、向こう側からかすかな話し声が漏れてきた。複数人の声だ。慶楽と銅崎、それから弥源治だろう。俺が来る前から何かを準備していると言っていたし、先に始めていたのかもしれない。
俺は一度だけ深呼吸してから、扉の取っ手に手をかけた。念のため、周囲に誰もいないことを確認する。別に悪いことをしているわけじゃないのに、こういう場所で人目を気にするのは少し変な感じだった。秘密組織の地下基地に入る主人公みたいな気分、と言えば聞こえはいいが、実際には学校の古いトイレに入ろうとしているだけである。しかも、そこにいるのは同じ学校の生徒が三人。秘密基地というより、放課後に集まった変わった同好会の部室だ。
扉をゆっくり開けると、三人の姿が見えた。
「……あ」
思わず、そんな声が漏れた。
三人とも、俺が想像していたよりも妙なことをしていた。
慶楽は壁際に立ち、両手に一本の細い紐を持っていた。紐は指と指の間に複雑に渡されていて、両手を動かすたびに、幾何学的な形が変化していく。最初はただの絡まった糸に見えたが、よく見ると、三角形や四角形に近い形を作っているようだった。あれは確か……あやとり、だったか。小さい頃に遊んだ記憶がある。指に紐を引っかけて、橋だの川だの、何かの形を作る遊びだ。俺はあまり得意ではなかった。途中で形が崩れて、結局ただの紐に戻ってしまうことが多かったからだ。
銅崎は、少し離れた場所で一枚の紙を持っていた。いや、紙というより、薄い葉のようなものだろうか。白っぽい表面に何かが書かれているようにも見えるが、俺の立っている位置からでは内容までは分からない。彼女はそれを片手で支え、もう片方の手で端を軽くなぞっていた。何かを確認しているようだった。
そして弥源治は、床にしゃがみ込んでいた。
その手には、缶詰があった。
……缶詰?
銀色の円筒形。上部には開け口がついていて、側面には魚らしき絵が印刷されている。どう見ても缶詰だった。少なくとも、俺の知っている範囲では、缶詰以外の何物でもない。
三人が何をしているのか、まったく分からなかった。
「お、来たね」
最初に俺に気づいたのは弥源治だった。缶詰を持ったまま、いつもの軽い調子で手を振ってくる。
「お疲れ、荷川取くん」
銅崎も顔を上げた。慶楽は指に紐を絡めたまま、こちらを見ている。
「こんにちは。遅くなりました?」
「いや、予定どおりだ。ようこそ、荷川取」
慶楽はそう言って、手にしていた紐をゆっくりと外した。作りかけの形は崩れ、ただの一本の紐に戻る。少しだけ残念そうに見えたのは、俺の気のせいかもしれない。
「まずは扉を閉めてくれ。外に声が漏れると面倒だからな」
「あ、はい」
俺は後ろを振り返り、扉を閉めた。金具が古いのか、最後に小さく軋む音がした。念のため、取っ手を引いてきちんと閉まっていることを確認する。これで外から誰かが入ってこない限り、しばらくは邪魔されないだろう。
もっとも、学校の施設内で三人の生徒と一緒に何かをしているだけなのだから、誰かに見られたところで大問題になるとは限らない。問題は、俺たちがこれからしようとしていることを説明できないことだ。『今から異世界に行きます』などと言ったら、保健室に連れていかれるか、最悪の場合、親に連絡されるだろう。普通に考えれば、それが正しい対応だと思う。
「さて」
慶楽がこちらに向き直った。
「これから俺たちは、白樺学園の逆世界に入る。前に話したとおり、今日がお前にとって初めての本格的な調査になる。ただし、その前に知っておいてもらいたいことがある」
「知っておくこと?」
「そうだ。準備も必要だし、実際に入るための手順もある。逆世界は、思いつきで入って無事に帰ってこられるほど単純な場所じゃない。前回のお前は、かなり特殊な入り方をしたようだからな」
「ああ……まあ、そうですね」
俺は曖昧に頷いた。
前回の入り方について、詳しく説明しようとすると長くなる。自分でも何が起きたのか完全には理解していないし、あれを再現しろと言われても絶対に無理だ。そもそも、再現したいとも思わない。あんな経験をもう一度するくらいなら、普通に入口を使ったほうがいい。
「まず、逆世界に入るためには、特定の条件が必要になる。偶然迷い込んだり、何かに引きずり込まれたりする場合は別だが、俺たちが意図的に出入りする場合には、それを利用する」
慶楽は床に置いてあった小さな袋を拾い上げ、その中から透明な容器を取り出した。
中には、黒っぽい液体のようなものが入っていた。
いや、液体と呼んでいいのか分からない。容器を傾けると、ゆっくりと底のほうへ流れていくのだが、水のように滑らかではない。少し粘り気があり、表面には薄い膜のようなものが浮かんでいる。光の当たり方によって、黒にも灰色にも見えた。じっと眺めていると、表面に小さな波紋が生まれたような気がした。
「これが『次元の水たまり』だ」
「……次元の水たまり?」
聞き慣れない言葉だった。
「名前をつけたのは俺だよ」
弥源治が、缶詰を持ったまま口を挟んだ。
「正式名称じゃないからね。というか、正式名称があるのかどうかも知らない。見た目が水たまりっぽかったから、そう呼んでるだけ」
「水たまり……」
俺はもう一度、容器の中身を見た。
確かに、何かが溜まっているという意味では水たまりに似ているかもしれない。ただし、学校のグラウンドにできる水たまりとは似ても似つかない。あちらは雨水が地面に溜まったものだが、こちらは明らかに普通の物質ではない。そもそも、こんなものが学校のトイレに置かれている時点でおかしい。
「もちろん、文字どおりの水たまりじゃない。これは心気が凝縮したものだ」
「心気……?」
「簡単に言えば、魔法だ」
慶楽はあっさりと言った。
「魔法?」
「そう。お前にも分かる言葉で説明するなら、魔法だ。心気は逆世界で活動するための根本的な力であり、さまざまな現象を引き起こすためのエネルギーでもある。俺たちが今持っているものも、逆世界の中で使う能力も、基本的にはそれと関係している」
魔法。
その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中にいくつかの映像が浮かんだ。魔法陣、杖、呪文、空中に浮かぶ文字、手のひらから放たれる光。ゲームや漫画ではお馴染みの要素だ。魔法使いという存在は、俺が子供の頃から好きだった。剣で敵を殴るより、遠くから炎や雷を飛ばすほうが格好いいと思っていたし、魔法陣を描いて召喚するような演出にも憧れていた。
ただ、現実に魔法という言葉を聞くと、少し違った感覚になる。
「……本当に魔法なんですね」
「今さら疑うのか?」
「いや、疑っているわけじゃないですけど。改めて言われると、なんというか……」
「夢がある?」
「まあ、そんな感じです」
「実際には、夢よりも厄介な代物だけどね」
銅崎が淡々と付け加えた。
「使い方を間違えれば、自分の身体や認識にまで影響する。便利な道具だと思わないほうがいいよ」
「……はい」
俺は少しだけ背筋を伸ばした。
魔法という響きは魅力的だが、便利な道具ではないということくらいは分かる。ゲームならMPが尽きれば使えなくなるだけだが、現実ではそう簡単に済まないのだろう。前に聞いた話でも、心気を使いすぎると幻覚や認知の異常が起きるらしい。俺はまだ、その危険性を実感できていない。だからこそ、実際に使う前に覚えておく必要があるのだと思う。
「次元の水たまりは、心気が特定の場所に凝縮してできるものだ。これが存在する場所では、条件が整えば逆世界への入口を作れる」
慶楽は容器を少し持ち上げた。
「この表面を見てくれ」
言われるままに、俺は顔を近づけた。
最初は黒っぽい膜が揺れているだけだった。しかし、目を凝らしていると、その表面に何かが映っていることに気づいた。
空だった。
青でもなく、灰色でもない。どこまでも続いているような、奇妙な空が映っていた。雲のようなものがゆっくりと流れているが、その向こうには何もない。太陽も月も見当たらず、地平線すら存在しない。ただ、空という概念だけがそこにあるようだった。
「……空?」
「そう見えるだろう?」
「ここ、トイレですよね?」
「そうだな」
「じゃあ、なんで空が映ってるんですか?」
「だから、普通の水たまりじゃないと言った」
いや、そういう説明で納得できるほど、俺の頭は柔軟ではない。床に置かれた容器の中に、存在しない空が映っている。しかも、そこにはこの学校の天井も、蛍光灯も、俺の顔も映っていない。普通なら鏡や水面に映るはずのものが、まるごと無視されている。
何かの映像を投影しているのかとも思ったが、容器の角度を変えても景色は崩れなかった。
「この空は、いつでも誰にでも見えるわけじゃない。一般の人間には、ただの汚れた水や、何も入っていない容器にしか見えない場合もある。逆世界と共鳴している人間や、俺たちのように認識が変化した人間には、比較的はっきりと見える」
「つまり、俺にも見えるってことは……」
「少なくとも、お前はもう普通の人間と同じではないということだ」
慶楽はそう言って、容器を床に戻した。
その言葉は、思っていたよりも重く感じられた。
普通ではない。
以前なら、そう言われることを少しだけ期待していたかもしれない。自分が特別な存在だと分かれば、今までの退屈な日常にも意味が生まれると思っていたからだ。でも、実際にそう言われると、何とも言えない気分になる。嬉しくないわけではない。むしろ、少し嬉しい。ただ、それがどういう意味なのかを考えると、素直に喜べなくなる。
「それで、入口を作るために必要なのが『影落とし』という手順だ」
慶楽は再び説明を始めた。
「初めて入る人間は、自分の持ち物や、自分を象徴するものに心気を染み込ませる。これによって、逆世界における自分の存在を固定するための基準を作るんだ」
「自分の持ち物に、心気を?」
「そう。何でもいいわけじゃない。自分が大切にしているものでも、自分を表していると思うものでもいい。あるいは、これから自分を表すものにしたいと考えているものでも構わない。心気を染み込ませた物品は、逆世界におけるお前の存在を形作るための足場になる」
「それを持っていれば、入れるんですか?」
「そうだ。正確には、それが逆世界へ入るための『通行証』になる。心気を染み込ませたあと、次元の水たまりから影が生まれる。その影を通じて、本人が逆世界へ移動できるようになる」
「影を通じて……?」
「文字どおり、影が入口になる。詳しい仕組みを説明しても、今は理解できないだろうから省くが、初めてなら少し気分が悪くなるかもしれない。身体が引っ張られるような感覚があるし、平衡感覚も狂う。人によっては吐く」
「吐くんですか?」
「吐くよ」
弥源治が、缶詰を軽く振りながら答えた。
「俺も最初は気持ち悪かったな。床が床じゃなくなる感じっていうか、身体の向きが分からなくなる感じ。目を開けているのに、どこを見ているのか分からないんだよね。まあ、慣れれば大したことないけど」
「それ、慣れていいものなんですか……?」
「慣れないと困るからね」
それはそうだ。
俺は自分の胃のあたりを軽く押さえた。吐くという話を聞いただけで、少し気分が悪くなった気がする。俺は乗り物酔いをするタイプではないが、あのときの無限回廊で感じた不快感を思い出すと、あまり楽観的にはなれない。あれは歩いているだけで方向感覚が狂っていった。今度は身体そのものが別の場所へ移動するというのだから、もっとひどいことになる可能性もある。
「ただし、今の説明で一番重要なのは、入口の作り方じゃない」
慶楽の声が少しだけ強くなった。
「心気を染み込ませる物品の選択だ。お前が何を選ぶかによって、逆世界での姿や能力の方向性が変わる。だから、適当に選ぶな。俺たちはすでに自分の物品を決めているが、お前の場合は初めてだから、ここで一度考えてもらう」
「選んだものによって、能力が変わるんですか?」
「そういうことだ。お前の内面や自己認識が、選んだ物品を通じて逆世界に表れる。たとえば、筆を持ってきて、それに自分の存在を重ねるとする。そうすれば、筆を中心とした能力が生まれるかもしれない。文字を書く、絵を描く、何かを描写する。そういう方向に発展する可能性がある」
「筆で……魔法を使うとか?」
「その可能性もある。だが、どんな能力になるかは本人次第だ。物品だけで決まるわけではない。お前が何を考え、何を望み、どんな自分を表現したいのか。それらが重なって、逆世界での形が作られる」
なるほど。
つまり、単なる装備選択ではないということだ。
ゲームなら、最初に剣士か魔法使いかを選ぶようなものだと思っていたが、もっと根本的な話らしい。自分がどういう存在でありたいかを、物を通して表現する。逆世界では、それが姿や能力にまで影響する。
そう考えると、少しだけ怖い。
何を選ぶかによって、自分の可能性が決まってしまうような気がしたからだ。
「ちなみに、みんなはどうしたんですか?」
俺が尋ねると、慶楽は弥源治に視線を向けた。
「本人に見せてもらうといい」
「俺?」
弥源治は少しだけ首を傾げたが、すぐに手元の缶詰を持ち上げた。
「これだよ」
「……それですか?」
「うん」
「缶詰ですよね?」
「そう。ツナ缶」
「なんで?」
思わず、率直な疑問が口から出た。
弥源治は缶詰の側面を指で叩いた。軽い金属音が、静かなトイレに響く。
「別に、ツナが好きだからってわけじゃないよ。これを見ると、猫を思い出すんだ」
「猫?」
「そう。俺は猫が好きでさ。自由気ままで、誰かに媚びるわけでもなく、好きな場所で寝て、好きなときに動く。必要なときは逃げるし、気に入らない相手には近づかない。ああいう感じが、俺の理想に近いんだよね」
弥源治は缶詰を手の中で転がした。
「猫そのものになりたいわけじゃないけど、自分のことを考えると、どうしても猫みたいなイメージが浮かぶ。だから、猫の餌になるツナ缶を選んだ。別に深い理由はないよ。俺にとっては、これが一番しっくりきたんだ」
「それで、能力も猫みたいなものになったんですか?」
「まあ、そういうこと。詳しくは逆世界に入ってからのお楽しみ」
「お楽しみって……」
俺は缶詰を見つめた。
ツナ缶。
猫。
自由気まま。
そして、能力。
……いや、待て。
一つの缶詰を持っているだけで、逆世界では能力を得られるということなのか?
「つまり、ツナ缶で能力を手に入れたんですか?」
「そういう言い方をされると、なんか安っぽく聞こえるね」
「いや、だって……」
「分かるよ。俺も最初はそう思ったから」
弥源治は笑った。
俺も少しだけ笑ってしまった。だって、どう考えても面白い。世界の裏側にある異世界で、猫のような能力を使う少年。その能力の原点がツナ缶。どこかの漫画に出てきてもおかしくない設定だが、主人公の武器が缶詰というのは、さすがに珍しいだろう。
もっとも、本人にとっては真剣な選択だったのだろうし、笑いすぎるのも失礼だ。俺は口元を押さえて、なるべく普通の表情に戻した。
「慶楽先輩と銅崎先輩は?」
「俺は、今はまだ見せないほうがいいだろう」
慶楽はそう答えた。
「俺たちの物品や能力については、逆世界に入ってから必要な範囲で説明する。銅崎も同じだ」
「別に隠すほどのものじゃないけどね」
銅崎は手にしていた紙のようなものを軽く持ち上げた。やはり、こちらからでは内容が見えない。
「ただ、今は君の選択が先。私たちのものを見て、余計な影響を受けても困るから」
「なるほど……」
確かに、他人の選択を見れば、それに引っ張られてしまうかもしれない。俺が何を選ぶかは、俺自身が決めなければならないということだろう。
慶楽は俺のほうを向いた。
「お前は、何を持ってきた?」
「これです」
俺は鞄から、さっき購入したトランプを取り出した。
赤い箱。一般的なサイズ。表面には金色の装飾があり、中央に大きく『POKER』と書かれている。中身は五十二枚のカードと二枚のジョーカー。どこにでもある、普通のトランプだ。特別な力があるわけでもなければ、誰かから譲り受けた大切な品というわけでもない。
それでも、俺はこれを選んだ。
「トランプか」
慶楽は箱を見て、少しだけ考えるような顔をした。
「悪くない選択だと思う。数字、スート、絵札、ジョーカー、組み合わせ……意味を持たせられる要素が多い。お前がそれを自分の象徴として認識しているなら、能力の方向性にも幅が出るだろう」
「そうなんですか?」
「もちろん、実際にどうなるかは分からない。だが、少なくとも選択肢の多い物品だ。お前がどんな能力を望んでいるのかにもよるが、使い方次第では面白いものになるかもしれない」
その言葉を聞いて、少し安心した。
やっぱり、トランプは悪くない。
カードを投げて攻撃する。カードに魔法を封じる。数字や絵柄によって効果が変わる。召喚や結界にも使える。漫画やゲームでは、カードを武器にするキャラクターは意外と多い。俺が知っている作品でも、カードを操って戦う人物は何人もいるし、そのたびに格好いいと思っていた。
何より、俺は剣や槍を振り回して戦うより、遠距離から何かを飛ばすほうがいい。
近接戦闘は怖い。
敵が目の前まで迫ってくるというだけで、俺はまともに動けなくなると思う。だったら、離れた場所から攻撃できる能力のほうがいい。カードなら、そのイメージにも合っている。
「ちなみに、スマートフォンでもいいんですか?」
「構わない。自分を表していると思うなら、何でもいい。もちろん、持ち込めるかどうかや、逆世界でどんな形になるかは別の問題だがな」
「じゃあ、筆でも、時計でも、何でも?」
「そうだ。自分が何者でありたいか。それを表現できると思うものならいい。お前が筆を選び、筆を通して自分の存在を表現するなら、筆に関係した能力が生まれるかもしれない。スマートフォンを選ぶなら、それに関係する能力になる可能性もある」
「……スマートフォンだと、どんな能力になるんでしょう?」
「さあな。通信、記録、撮影、情報処理、光の操作。いくらでも考えられる。ただし、期待したとおりになるとは限らない。能力の方向性は、本人の認識と心気の反応によって変化する」
「なるほど」
俺はスマートフォンを見た。
黒い画面。少し傷のついたケース。画面の端には、以前落としたときについた小さなひびがある。普段から持ち歩いているし、生活の中で使う時間も長い。自分を表すものとして選んでも、決して不自然ではない。
でも、これを選ぶのは違う気がした。
スマートフォンは便利だ。情報を調べられるし、友達と連絡も取れる。ゲームもできるし、動画も見られる。俺の生活にとって重要な道具ではあるが、俺自身を象徴するものかと聞かれると、少し違う。
俺はスマートフォンそのものになりたいわけじゃない。
一方で、トランプならどうだろう。
カードは、ただの紙切れだ。けれど、数字や絵柄によって意味が変わる。組み合わせによって強さも変わる。ジョーカーのように、どんな役割にもなれるものだってある。そういう曖昧さが、俺には魅力的に思えた。
何より、格好いい。
……結局、それが一番大きな理由かもしれない。
「荷川取」
慶楽の声が聞こえた。
「時間をかけて考えるのは構わないが、あまり長くは待てない。ここは学校の施設内だ。誰かに見つかる可能性もあるし、俺たちが長時間ここにいることを不審に思う人間が出てくるかもしれない。準備が整ったら、できるだけ早く入る」
「あ、はい」
俺はトランプの箱を握り直した。
選択はもう決めている。少なくとも、他のものを選ぶつもりはない。だが、慶楽の説明を聞いてから、妙に慎重になってしまった。
トランプを選んだら、俺はどうなるのだろう。
どんな姿になるのか。どんな能力を手に入れるのか。逆世界の中で、どんな戦い方をするのか。カードを投げるだけなのか、それとも魔法陣のようなものを作れるのか。召喚術や結界も使えるのか。もしかすると、カードを使って相手の能力を封じたり、運命を操作したりすることだってできるかもしれない。
考え始めると、いくらでも想像が広がってしまう。
そして、俺の頭の中には、もう一人の声があった。
『だから、最初からそれを使えばいいと言っただろう』
「……分かってるよ」
俺は小さく呟いた。
『ならば、さっさと始めろ。こちらは随分と待たされている』
「ちょっとくらい考えさせてくれよ」
『何を考える必要がある? お前はすでに最善の選択をしている』
「それはお前が勝手に決めてるだけだろ」
『勝手に決めているのではない。事実を述べているだけだ』
いつものように、頭の中で声が響く。
アヒルフェだ。
最近では、こうして会話することにも慣れてきた。もちろん、慣れたからといって、他人の声が頭の中から聞こえる状況が普通になるわけではない。俺の身体の中に別の意識が存在しているという事実は、いまだに奇妙だし、時々どうしようもなく気持ち悪くなる。
ただ、今はそれよりも、こいつの言い方が気になった。
「最善って、何が?」
『トランプだ。お前が持っているそれは、私の力を受け入れる器として十分に適している。むしろ、これ以上のものを探すほうが難しい』
「……お前の力を受け入れる?」
『そうだ。お前と私が一つの身体を共有している以上、逆世界でお前がどのような形を得るかは、私の存在とも無関係ではない。お前が選ぶ物品は、その形を定着させるための触媒になる。ならば、私の力を活かせるものを選ぶべきだ』
「でも、それって本当に俺の能力なのか?」
『何を言っている?』
「お前の力を使うためのものなら、結局はお前の能力を俺が使うだけなんじゃないのか?」
『……』
一瞬、返事が途切れた。
それから、アヒルフェは少し呆れたような声で言った。
『お前は本当に面倒なことばかり気にするな。お前の能力になるのだから、お前の能力だ。それ以上でも以下でもない』
「そんな簡単に割り切れる話じゃないだろ」
『簡単な話だ。私の力は優れている。お前がそれを利用できる。ならば、何も問題はない』
「いや、そういうことじゃなくて……」
『いいから、早く使え。私は逆世界に入るのを楽しみにしている』
「俺はもう少し考えたい」
『考える必要などない。お前の選択は正しい。私の力を得られるのだからな』
「だから、それをお前が決めるなって」
『……ああ、実に面倒だ。お前のように何でもかんでも疑ってかかる人間と一緒にいると、こちらまで頭が悪くなりそうだ』
「それはひどくないか?」
『事実だ』
相変わらず、腹の立つ奴だった。
ただ、今回に限っては、こいつの言っていることがまったく理解できないわけでもない。トランプを選んだのは、アヒルフェが勧めたからではない。俺自身が考えて決めたことだ。カードを使う能力が欲しいと思ったし、それが自分に似合うとも思った。だから、選択そのものに後悔はない。
問題は、その先だった。
俺がトランプを選んだとして、実際にどんな能力を手に入れるのかは分からない。慶楽の話では、物品はあくまで自分を表現するための足場であって、そこから生まれる力は本人の内面によって変化するらしい。
つまり、俺がどんな自分を望んでいるかが重要になる。
それなら、なおさら慎重になるべきじゃないだろうか。
「慶楽先輩」
「何だ?」
「もし、トランプじゃなくてスマートフォンを選んでいたら、どんな能力になっていたと思いますか?」
「さっきも言ったが、通信や記録、情報処理など、スマートフォンの性質に関連したものになる可能性がある。ただし、それだけで決まるわけではない。お前が何を望むかによって、結果は変わる」
「例えば、スマートフォンから光を出すだけとか?」
「それも一つの可能性だな」
「……それだけ?」
「実際にどうなるかは分からないと言っただろう」
俺は少しだけ眉をひそめた。
光を出すだけ。
いや、光を出す能力が役に立たないとは限らない。暗闇を照らすことができるし、目くらましにもなるかもしれない。使い方によっては戦闘にも利用できるだろう。
でも、俺が欲しいのはそういう能力ではなかった。
「お前が心配しているのは、それか?」
頭の中でアヒルフェが尋ねてきた。
「何が?」
『選択を間違えた結果、つまらない能力を得ることだ』
「……まあ、そうだよ」
『ならば、心配する必要はない。トランプを選んだ場合、お前は多様な能力を扱えるようになる。複数の攻撃手段を持ち、状況に応じて異なる効果を使い分けることができる。単純な投擲武器としてだけではない。カードを通じて構造を作り、何かを召喚し、攻撃を展開することも可能だ』
「そんなことまでできるのか?」
『可能性の話だ。だが、少なくとも私の力を基礎にすれば、単純な能力に終わることはない』
「……本当に?」
『私を誰だと思っている』
その言い方には、いつもの傲慢さがあった。
『私は永遠の夢の十二騎士、道化騎士アヒルフェだ。お前が望む程度の力ならば、いくらでも与えてやれる。カードを投げて敵を貫くことも、複数のカードを組み合わせて異なる術を発動させることもできる。お前は遠距離から攻撃し、必要に応じて防御や召喚を行う。いわば、あらゆる状況に対応できる魔術師だ』
「魔術師……」
『そうだ。お前が好む言葉で言うなら、強力な魔法使いだな。黒いカードを操り、敵を圧倒する。実にお前らしい』
その言葉を聞いて、俺はトランプの箱を見下ろした。
黒いカード。
強力な魔法使い。
遠距離攻撃。
召喚。
防御。
確かに、魅力的な響きだった。
俺がゲームをするとき、最初に選びたくなるのは魔法使いの職業だ。剣士や騎士も格好いいが、魔法使いには独特の魅力がある。戦場の後方から状況を見渡し、呪文を唱え、巨大な魔法を発動する。相手が近づく前に勝負を決める。そういう戦い方ができるなら、俺にとって理想的だった。
しかも、ただの魔法使いではない。
カードを使う魔法使い。
それなら、見た目にも個性がある。黒いカードを宙に浮かべ、指先で操り、攻撃のたびに異なる札を使う。場合によっては、カードから何かを呼び出すことだってできる。そういう演出を想像すると、自然と胸が高鳴った。
……いや、待て。
俺はそこで、少しだけ考え直した。
アヒルフェは、どうしてそこまでトランプを勧めるのだろう。
単純に相性がいいからかもしれない。俺の選択を尊重しているだけかもしれない。だが、こいつは今まで、俺のことを何度も利用できる器だと言ってきた。自分の目的のために俺を必要としていることも隠していない。そんな相手が、俺にとって都合のいい能力を用意してくれると、どうして信じられる?
もしかしたら、トランプを選ばせることで、アヒルフェ自身にとって都合のいい能力を作ろうとしているのかもしれない。
あるいは、俺が他の物品を選んだ場合、こいつの力を十分に使えなくなるのかもしれない。
それなら、トランプを選ばせたい理由も分かる。
「……お前さ」
『何だ』
「本当に俺のために言ってる?」
『当然だ』
返事は早かった。
あまりにも早すぎて、逆に怪しく感じるくらいだった。
『お前が無力なままでは、私も困る。お前が生き残り、力を得て、逆世界で活動できるようになれば、私にとっても都合がいい。つまり、お前の利益と私の利益は一致している』
「それって、俺のためというより、自分のためでもあるってことだよな」
『何を今さら。私はお前の友人ではない』
「……」
『だが、だからといって、私がお前に不利益を与える理由もない。少なくとも今はな』
最後の一言が、どうにも引っかかった。
少なくとも今は。
つまり、いつかは違うかもしれないということだろうか。いや、こいつは最初からそういう奴だった。自分の目的を隠さず、必要なら俺を利用する。それでも、今のところは俺を殺すつもりもないし、力を貸してくれると言っている。
結局、俺にできることは限られている。
俺はアヒルフェを完全には信用していない。だけど、こいつの力が必要なのも事実だ。
そして、何よりも。
俺は、役立たずになりたくなかった。
逆世界に入るのは初めてだ。慶楽たちと比べれば経験もないし、戦闘能力だってほとんどない。俺は普通の高校一年生で、身体能力が特別に高いわけでもない。喧嘩が強いわけでもない。危険な場所で冷静に判断できる自信もない。
それでも、ここまで来たのだ。
せっかく普通ではない世界に関わることになったのに、そこで何もできないまま終わるのは嫌だった。
どうせなら、何か面白い力が欲しい。
特別な存在になりたい。
ただの一般人ではなく、誰かに認められるような何かが欲しい。
大魔術師でも、黒魔導士でも、アークメイジでもいい。そういう名前が似合うような存在になりたかった。漫画やゲームの主人公みたいに、何か一つでも自分だけの武器を持ちたかった。
そして、今までの俺が手に入れたものを、ここで失いたくなかった。
まだ何も始まっていないのに、もう自分の力が決まってしまうような気がする。もし選択を間違えたら、せっかくの可能性を台無しにしてしまうのではないか。そんなことを考えてしまう。
もちろん、そんな単純な仕組みではないのだろう。慶楽も、物品だけで能力が決まるわけではないと言っていた。それでも、最初の選択が重要であることに変わりはない。
だから、俺は慎重になっている。
「荷川取くん」
銅崎の声がした。
「大丈夫?」
「え?」
「少し黙っていたから。何か迷っているのかと思って」
「ああ、いや……大丈夫です」
俺は慌てて顔を上げた。
三人がこちらを見ている。慶楽は急かすでもなく、ただ静かに待っていた。弥源治は缶詰を持ったまま、少し面白そうに俺を眺めている。銅崎は俺の手元にあるトランプを見ていた。
「トランプで決めているんだろう?」
慶楽が尋ねた。
「はい。これにするつもりです」
「なら、あとは心気を染み込ませるだけだ。難しいことはない。次元の水たまりに触れさせて、自分の存在を重ねるように意識すればいい」
「意識する……」
「自分を表すものだと認めることだ。無理に何かを考えようとする必要はない。お前がそれを選んだ理由を思い出せばいい」
「分かりました」
俺は赤い箱を両手で持った。
箱の表面は少しざらついていた。金色の文字の部分は滑らかで、指先でなぞると微妙な凹凸がある。店で買ったばかりだから、傷も汚れもほとんどない。新品の紙製品特有の、少し乾いた匂いがした。
この中には五十四枚のカードが入っている。
スペード、ハート、ダイヤ、クラブ。数字と絵札。ジョーカー。
たったそれだけのものだ。
けれど、これが俺の力になるかもしれない。
「……よし」
俺は一度だけ、息を吸った。
その瞬間、頭の中でアヒルフェが笑ったような気がした。
『ようやく決めたか』
「まだ何もしてない」
『ならば、早くしろ。私もそろそろ退屈してきた』
「お前は少しくらい黙ってろ」
『無駄な時間を使うなと言っているのだ』
本当に、こいつは最後までこういう調子だ。
俺はもう一度、容器の中に浮かぶ空を見た。
次元の水たまり。
心気。
影落とし。
そして、逆世界。
言葉だけなら、どれも現実離れしている。だけど、俺の手の中にあるトランプは本物だ。ここにいる三人も本物で、俺の身体も、心臓の鼓動も、今感じている緊張も、すべて現実だった。
これから俺は、もう一度あの世界に入る。
今度は偶然ではない。
自分の意思で、自分の選択で。
そして、そこで何かを手に入れる。
少なくとも、俺はそう信じていた。




