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第⑱章:白樺の向こう側 (1)

 金曜日。


 五月十五日。


 朝、目を覚ましてからというもの、俺は何度も時計を確認していた。


 別に、寝坊が怖かったわけじゃない。むしろ逆だ。いつもなら目覚ましが鳴っても布団の中で数分は抵抗するし、母さんに二度目の声をかけられてようやく起き上がることだって珍しくない。それなのに今日は、目覚ましが鳴るより少し前に目が覚めた。スマートフォンの画面を確認して、まだ時間があると分かると、今度は残念そうに枕へ顔を埋める。起きたいのに、起きるには早い。早く学校へ行きたいのに、学校へ行ったところで授業を受けなければならない。考えてみれば、なかなか面倒な話だった。


 それでも、今日は特別な日だ。


 少なくとも、俺にとっては。


 リミナル・トラベラーズと一緒に、初めて逆世界へ入る日。先週の土曜日にあの妙なビデオレンタル店で彼らと出会い、日曜日には詳しい話を聞き、火曜日にはあの古びた手帳を見せられた。そして、今日。ようやく俺も彼らの活動に参加することになる。


 もちろん、実際に何をするのかはよく分かっていない。危険な場所へ入るという話なのだから、遠足や映画鑑賞のような気軽なものではないはずだ。場合によっては、命に関わることだってある。そこは理解しているつもりだった。


 ……理解しているつもり、というだけで、怖くないわけではない。


 けれど、それ以上に期待していた。


 何しろ、普通の学校生活では絶対に起こらないようなことが起きるのだ。漫画なら主人公が物語の本筋へ踏み込む直前、ゲームならチュートリアルが終わって最初の本格的なステージへ移る瞬間。そんな場面を想像してしまう。今まで背景の一部だった日常が、ようやく自分のための物語に変わるような、そんな気分だった。


 ……いや、実際には俺の人生がゲームになったわけじゃないし、主人公になったわけでもない。そもそも、あの三人は俺を特別扱いしているわけではない。あくまで新入りとして参加させるだけだ。それでも、何もないよりはずっといい。


 朝食を食べている間も、俺は何度か時計を見た。母さんに「今日はずいぶん落ち着かないね」と言われたけれど、適当に「そうかな」と返しておいた。父さんは新聞を読みながら、学校に遅れないようにとだけ言った。二人とも、俺が今日何を楽しみにしているのかは知らない。


 まあ、話せるわけもない。


 逆世界へ行くなんて説明したところで、まず信じてもらえないだろう。仮に信じてもらえたとしても、今度は止められるに決まっている。普通の親ならそうする。俺だって、自分の子供がそんな場所へ行くと言い出したら、まずは病院へ連れていくと思う。


 そう考えると、先日の病院での一件を思い出して、少しだけ複雑な気分になった。あのとき両親は本当に心配していた。俺の髪や目の変化を、ただの奇妙な見た目としてではなく、何か身体に異常が起きているのではないかと考えていた。医者から大きな問題はないと言われて安心したようだったが、だからといって俺の身体に起きていることが解決したわけではない。


 左目の奥には、今も妙な感覚がある。


 そして、そこにはもう一人いる。


『朝から随分と忙しないな。時計を眺めているだけで時間が早く進むとでも思っているのか?』


 頭の中に、聞き慣れた声が響いた。


 アヒルフェだ。


「別に。楽しみにしてるだけだよ」


『遠足へ行く小学生のような顔をしているぞ』


「うるさいな。初めての活動なんだから、少しくらい楽しみにしたっていいだろ」


『楽しむこと自体は否定しない。問題は、君が危険という言葉を都合よく頭の外へ追い出していることだ』


「追い出してないって。ちゃんと分かってるよ」


『ならば結構。死ぬ可能性を理解したうえで浮かれているのなら、少なくとも無知よりはましだ』


 朝から嫌なことを言う。


 ただ、アヒルフェの言い方にはいつも妙な説得力がある。あいつは俺を怖がらせようとしているというより、最初からそういうものだと説明しているだけなのだろう。実際、あいつにとっては逆世界で死ぬことなど、俺が想像しているよりずっと身近な出来事なのかもしれない。


 ……できれば、その経験談を俺にまで味わわせないでほしい。


 そんなことを考えながら、俺は学校へ向かった。


     *


 授業は、長かった。


 いや、正確にはいつも通りだったのかもしれない。教室の窓から入る五月の風も、黒板に書かれる文字も、教師の説明も、何一つ特別なことはない。いつもの白樺高校の教室で、いつものように生徒たちが机に座っている。誰かが欠伸をして、誰かが小声で話し、誰かがノートの端に落書きをしている。窓際の席では、風に揺れたカーテンが机の角に触れて、同じ動きを何度も繰り返していた。


 それだけだ。


 それだけなのに、今日はそのすべてが妙に遅く感じられた。


 黒板に書かれた日付を見て、今日が五月十五日だと改めて確認する。教師の声を聞きながらノートを開き、必要そうな部分だけを書き写す。別に授業を完全に無視しているわけではない。そんなことをすれば後で面倒になるし、母さんに成績のことで何か言われるのも嫌だった。


 だから、最低限はやる。


 ただし、頭の中の大部分は別の場所にあった。


 逆世界へ入るとき、俺はどうなるのだろう。あの三人はどんな準備をするのだろうか。前に見せられた地図や資料は持っていくのか。そもそも、あの世界に入るときは普通に歩いていけばいいのか。それとも、何か特別な手順が必要なのか。


 あの使われていない三階のトイレが入口になるのは分かっている。けれど、あの場所へ行けば必ず逆世界へ入れるのかは知らない。俺は以前、あそこから二度も向こう側へ行っている。だからといって、次も同じように入れる保証はない。


 ……いや、入れなかったら、それはそれで困る。


 せっかく今日まで待ったのに、入口が開きませんでした、ではあまりにも格好がつかない。ゲームで例えるなら、イベントの開始地点まで来たのにフラグが足りず、何も起こらずに戻されるようなものだ。そんな展開は嫌だった。


 俺は机の下で足を動かした。


 右、左、右、左。


 少しだけ膝を揺らし、シャープペンシルを指先で回す。上手く回せるわけではないので、何度か机の上に落とした。落とすたびに小さな音がして、隣の席の生徒が一度だけこちらを見た。俺は何でもない顔をしてペンを拾い、ノートへ視線を戻した。


 落ち着け。


 まだ時間はある。


 そう自分に言い聞かせている間にも、時計の針はゆっくりと進んでいく。授業の終わりを告げるチャイムが鳴るたびに、あと何時間目かを数え直した。昼休みになっても、午後の授業が始まっても、俺の意識はずっと放課後のことを考えていた。


 昼食の味も、正直あまり覚えていない。何を食べたかは覚えているのに、味がどうだったかは思い出せない。凛成たちと何か話した気もするが、会話の内容はほとんど頭に残っていなかった。


 たぶん、俺は相当浮かれていたのだと思う。


 そして、ようやく最後の授業が終わった。


 チャイムが鳴った瞬間、俺は思わず背筋を伸ばした。周囲の生徒たちが一斉に動き出し、椅子を引く音や鞄を開ける音が教室に広がる。教師が教室を出ていくと、誰かが「やっと終わった」と声を上げた。


 俺も心の中で同じことを言った。


 やっとだ。


 これで、ようやく。


 ……と思ったところで、まだ一つ残っていた。


 掃除である。


 そうだった。白樺高校には放課後の清掃時間がある。教室の床を掃き、机を整え、黒板を消し、ゴミを集める。普段なら特に気にしない時間だが、今日に限っては邪魔でしかなかった。


 もちろん、サボるつもりはない。そんなことをして先生に見つかれば余計に面倒になる。俺は自分の担当場所へ行き、箒を手に取った。床の隅に集まった埃を集め、机の脚に引っかかった紙くずを拾う。誰かが落とした消しゴムのカスが、窓際の床に小さく固まっていた。


 普段なら気にも留めないものだ。


 それなのに今日は、その小さなゴミを拾うだけでも時間がかかっているように感じた。


 掃除を終えて、道具を戻す。机の位置を整え、忘れ物がないか確認する。ようやくすべてが終わったころには、放課後の教室から人が少しずつ減っていた。


 俺は鞄を肩にかけ、スマートフォンを確認した。


 まだ連絡はない。


 まあ、集合時間を細かく決めたわけでもないし、彼らも準備があるのだろう。先に三階のトイレへ行って待っていようか。あそこなら、少なくとも場所を間違えることはない。


 そう考えて教室を出ようとしたときだった。


『待て』


 頭の中で、アヒルフェの声がした。


「ん?」


『そのまま向かうつもりか?』


「そうだけど。先に行って待ってようかなって」


『その前に、やることがある』


「やること?」


『君には必要なものがある。これを用意しておかなければ、後々面倒になる』


 何だろう。


 俺は廊下へ出かけた足を止めた。


「必要なものって、何? 何か持っていくの?」


『そうだ。だが、今すぐ説明しても理解できるかどうかは怪しいな』


「いや、説明くらいしてくれよ」


『君にとって分かりやすい言葉に置き換えてやろう。君は、面白い能力と退屈な能力のどちらが欲しい?』


「……何それ」


 あまりにも唐突だった。


 面白い能力と退屈な能力。まるでゲームのキャラクター作成画面で、初期スキルを選ばされているような質問だ。しかも、どちらを選ぶかで今後の展開が変わるという、妙に重要そうな雰囲気まである。


「能力って、逆世界で使うやつ?」


『他に何がある』


「いや、そりゃそうだけど……。どんな能力でも、俺はすごいと思うけどな。炎を出したり、空を飛んだり、何かを召喚したり。そういうのって普通に格好いいだろ」


『格好いいかどうかを聞いているのではない』


「分かってるよ」


『本当に分かっているのなら、少しは考えて答えろ』


 俺は口を閉じた。


 確かに、能力という言葉だけなら何でも魅力的に思える。けれど、実際に自分が使うとなれば話は違う。たとえば、炎を出す能力を手に入れたとして、火力が弱すぎてマッチ程度の火しか出せなかったらどうする。逆に強すぎて、使うたびに周囲を燃やしてしまうようなものだったら困る。


 空を飛ぶ能力だって、自由に飛べるなら便利だろうが、落ちたら終わりだ。召喚能力も、呼び出せるものが役に立つとは限らない。ゲームなら弱いスキルでも使い方次第で強くなることはあるが、現実ではそう簡単にいかないだろう。


 まして、逆世界は普通の場所ではない。


「……つまり、最初から使い方が分かっている能力の方がいいってこと?」


『ようやく話が通じたな』


 アヒルフェは、どこか呆れたように息を吐いた。


『私はここ数日、君の適性を考えていた。君は逆世界に関する知識がほとんどない。戦闘経験もない。身体の使い方も未熟で、何より自分が何をしたいのかさえ明確に定まっていない。その状態で未知の能力を与えられれば、適応に時間がかかる』


「そこまで言わなくてもいいだろ……」


『事実だ。君の自尊心を守るために、現実を加工する趣味はない』


 ひどい。


 ただ、反論はできなかった。


 アヒルフェは続けた。


『逆世界における能力や武器、衣服といったものは、単純に本人の願望をそのまま形にするわけではない。あの世界は人間の感情や思考に反応するが、表層的な想像だけで何もかもが決まるほど単純ではない。本人の奥底にある価値観、記憶、恐怖、欲望、そして自分自身をどう認識しているか。それらが絡み合い、逆世界がその人間に適した形を構築する』


「適した形……?」


『ああ。言い換えれば、逆世界が人間を観察し、その人間の存在に合わせて姿を変える。君が頭の中で剣を思い浮かべたからといって、必ず剣が手に入るわけではない。君の内面に剣という形がどれほど根付いているか、剣を扱うという行為にどのような意味を見出しているか、それらも関係する』


 少し難しい。


 けれど、何となくは分かった。


 逆世界は、こちらの想像をそのまま実現する便利な場所ではない。人間の内側を読み取り、それに応じた形を作る。だから、同じ場所へ行ったとしても、人によって見えるものや得られる力が違うのだろう。


 俺が初めて逆世界へ行ったとき、あの学校が妙な姿に変わっていたのも、そのせいなのかもしれない。


「それで、俺には何が必要なの?」


『共通の基盤だ』


「共通の基盤?」


『私と君の間に、逆世界で扱うための共通した象徴が必要になる。身体を共有しているというだけでは不十分だ。君は君の認識で世界を見ているし、私は私の経験から世界を見ている。二つの意識が同じ身体に存在していても、逆世界で同じものを同じように扱えるとは限らない』


 アヒルフェの言葉は、いつもより少しだけ説明的だった。


 普段のあいつなら、俺が理解できないことを承知で話を進める。だが今回は、わざわざ俺にも分かるように言葉を選んでいるように思えた。


『そのために、少々特殊な方法を使う。逆世界には、本人の認識を補助するための触媒が存在する。武器や装飾品、道具など、形はさまざまだ。今回は君に合うものを用意する』


「それって、俺の能力に関係するもの?」


『そうだ』


「じゃあ、何を使うの?」


『それを今から取りに行く』


 そう言って、アヒルフェは一度言葉を切った。


 そして、妙に楽しそうな声で続けた。


『ところで、君はウイルスについて知っているか?』


「……は?」


 今度は本当に意味が分からなかった。


 能力の話をしていたはずなのに、急にウイルスである。学校の保健の授業か、あるいは生物の教科書でも読み始めるつもりなのだろうか。


「知ってるよ。ウイルスだろ?」


『その返事だけでは、知っているとは言い難いな』


「いや、知ってるって。人間の身体に入って、病気にしたりするやつだろ。細胞に入り込んで、増えていく……みたいな」


『随分と雑な説明だな。細胞とウイルスの区別も曖昧ではないか』


「細かいことはいいだろ!」


『君は高校生だろう。もう少し勉強していると思っていたが、どうやら私の期待が高すぎたようだ』


「期待なんてしてないくせに」


『当然だ。期待していたら、今頃は失望している』


 言い返す言葉が見つからなかった。


 そもそも、何でウイルスの話をしているのか。


『いいか。ウイルスには、宿主の環境に適応しながら増殖するものがある。逆世界の構造も、それに似ている部分がある』


「似ている?」


『逆世界は、訪れた人間の認識や精神的な特徴を取り込み、それをもとにその人間が存在するための形を整える。もっとも、ウイルスのように単純な仕組みではない。だが、既にある構造を利用しながら新しい形へ変化するという意味では、例えとして悪くない』


 俺は少し考えた。


 つまり、逆世界は人間に合わせて変化する。そこに入る人間がどのような存在なのかを読み取り、その人間が使いやすい形に調整する。能力も、武器も、身に着けるものも、その過程で生まれる。


 ……たぶん。


「それなら、俺が何かを思い浮かべれば、それになるってこと?」


『違うと言ったはずだ。君の思考だけで決まるのではない。本人が自覚している願望よりも、無意識に抱えているものの方が強く反映される場合もある。逆世界は君の注文を聞く店員ではない。君自身の内面を材料にして、勝手に形を作る』


「勝手にって……」


『だからこそ、触媒が必要になる。君が何を基準に自分を表現するのか、その方向性をある程度固定するためのものだ』


 そこで、ようやく話がつながった。


 俺とアヒルフェは同じ身体にいる。だからこそ、逆世界へ入ったときに俺たちの認識がばらばらにならないよう、共通の基盤を作る必要がある。そうしなければ、俺の内面とアヒルフェの経験が衝突して、能力の形が安定しないのかもしれない。


「それで、何を使うんだよ」


『トランプだ』


「……トランプ?」


『ポーカーに使う、一般的な五十二枚のカードだ。ジョーカーが二枚入っているものなら、なおいい』


 俺は数秒間、黙っていた。


 トランプ。


 あの、数字や絵柄が印刷されたカードの束。


 手品やポーカー、ババ抜き、七並べなどに使う、どこにでもある遊び道具。俺の部屋にも昔買ったものが一つあった気がする。けれど、まさか逆世界で使う重要な道具がそれだとは思わなかった。


「……もっとこう、特別なものじゃないの?」


『特別なものが必要だと誰が言った?』


「いや、だって。能力の触媒だろ? 何か古代の魔導書とか、伝説の宝石とか、そういうのを想像するじゃん」


『そのようなものを用意しても、君が扱えなければ意味がない。君にとって身近で、形を認識しやすく、複数の意味を持たせられるものがいい。カードはその条件を満たしている』


「複数の意味?」


『数字、絵柄、色、役割、組み合わせ。カードは一枚でも意味を持つが、複数を組み合わせることで別の意味を生み出す。さらに、ゲームによって価値や役割が変わる。君のように何をしたいのか曖昧な人間には、都合がいい』


「それ、褒めてる?」


『評価しているだけだ』


 どう考えても褒めてはいない。


 それでも、トランプという選択自体には興味が湧いた。カードを武器にするキャラクターなら、漫画やゲームにもいる。投げたカードが刃物のようになったり、絵柄によって能力が変わったり、カードの中から何かを呼び出したりする。そういう設定は、普通に格好いいと思う。


 何より、剣や銃を持つよりは自分に合っている気がした。


 俺は運動が得意ではないし、近距離で相手と殴り合うのも嫌だ。できれば遠くから何かをして、危険なものには近づかずに済ませたい。そういう意味では、カードという道具は悪くない。


「分かった。買えばいいんだろ?」


『話が早くて助かる。珍しいこともあるものだ』


「いちいち嫌味を言わないと会話できないのかよ」


『君が余計なことを言わなければ、私も余計な返答をする必要はない』


 俺は小さく息を吐き、鞄を持ち直した。


 今日の集合場所へ向かう前に、少しだけ寄り道をすることになった。


 学校の外へ出ると、五月の午後らしい空気が広がっていた。


 日差しはまだ明るく、校門の近くに植えられた木々の葉が風に揺れている。道路の向こうでは、帰宅する生徒たちが何人か固まって歩いていた。自転車のブレーキ音、遠くを走る車の音、どこかの家から聞こえる犬の鳴き声。学校の外へ出れば、いつも通りの街がある。


 俺はスマートフォンで近くの店を確認した。


 特別なものを買う必要はないらしい。普通のトランプでいいのなら、文房具店か玩具を置いている店に行けば見つかるだろう。幸い、学校からそれほど離れていない場所に小さな店がある。


 歩きながら、俺はアヒルフェに尋ねた。


「本当に普通のやつでいいんだよな?」


『ああ』


「高いやつとか、何か特別な加工がされたものじゃなくて?」


『必要ない』


「じゃあ、百円ショップとかでもいい?」


『構わない。ただし、五十二枚とジョーカー二枚が揃っているか確認しろ。欠けているものを買っても意味がない』


「分かったよ」


 会話をしながら歩いていると、いつの間にか店の前に着いていた。


 そこは大きな店ではない。入口の横には日焼けした商品案内が貼られていて、ガラス越しに文房具や日用品が並んでいるのが見えた。店の前には自転車が二台停まっており、片方の前籠には買い物袋が入っていた。


 俺は自動ドアをくぐった。


 店内は少しだけ狭く、商品棚が通路の両側に並んでいる。蛍光灯の白い光が天井から降り注ぎ、床には買い物客が歩いた跡なのか、細い擦り傷がいくつもあった。入口付近には季節商品が置かれていて、奥にはノートや筆記用具、電池などが並んでいる。


 トランプはどこだろう。


 玩具の棚を探すと、すぐに見つかった。いくつか種類があったが、どれも普通のカードだった。青い裏面のもの、赤い裏面のもの、少し高級そうな黒い箱に入ったもの。中にはキャラクターの絵柄が印刷されたカードもあったが、アヒルフェが求めているのはそういうものではないらしい。


『それでいい』


「どれ?」


『赤い箱のものだ。余計な装飾がなく、標準的な構成になっている』


 俺は赤い箱を手に取った。


 表面にはトランプの絵柄が描かれている。箱の角には少しだけ擦れた跡があり、裏側にはカードの枚数やサイズが書かれていた。特別なものではない。むしろ、どこにでもある商品だ。


 これが、逆世界で何か重要な役割を持つことになる。


 そう考えると、少し不思議だった。


 伝説の武器や古代の遺物なら、見た目だけでも何かありそうな雰囲気がある。けれど、これは違う。普通の店の棚に並んでいて、誰でも買える。誰かが買って、友達と遊んで、飽きたら引き出しにしまっておく。そんなものだ。


 それなのに、俺にとってはこれから始まる何かの入口になる。


 ……そういうのは、嫌いじゃない。


 俺はレジへ向かい、代金を支払った。店員は特に何も言わず、商品を小さな袋に入れて渡してくれた。買い物自体は数分で終わった。


 何も大きな出来事は起きていない。


 店を出た瞬間に空が暗くなったわけでも、カードが勝手に光り始めたわけでもない。通りを歩く人たちが振り返ることもなかった。世界が変わった様子もない。


 ただ、俺はトランプを買った。


 それだけだ。


 けれど、袋を持って学校へ戻る道のりは、行きより少しだけ楽しく感じられた。これから何が起こるのか分からないという不安はある。それでも、自分が何かを準備しているという感覚は悪くなかった。


 主人公が冒険に出る前に装備を整えるようなものだ。


 まあ、俺の場合は店で買った普通のトランプ一つだけど。


 学校へ戻るころには、校舎の周囲にいた生徒たちもかなり減っていた。


 部活動へ向かう生徒や、友達と一緒に帰る生徒の姿はまだあったが、校門の前は先ほどより静かになっている。俺は敷地内へ入り、鞄の中から買ったばかりのトランプを取り出した。


 赤い箱。


 新品なので、表面には傷も汚れもない。手の中で軽く振ると、中のカードが小さく擦れ合う音がした。箱の側面を確認してみる。ジョーカーが二枚入っていることも書かれている。


「これでいいんだよな?」


『問題ない』


「本当にこれが何かになるのか?」


『君がそれをどう扱うかにもよる。少なくとも、今の段階では十分だ』


 俺は箱をもう一度眺めた。


 やっぱり、普通のトランプにしか見えない。


 これが剣になるのか、盾になるのか、それとも何かを呼び出す道具になるのか。アヒルフェはまだ詳しく説明するつもりがないらしい。何度尋ねても、逆世界へ入れば分かるとしか言わなかった。


 少しくらい教えてくれてもいいのに。


 ただ、今はそれでいいのかもしれない。何もかも事前に説明されてしまえば、初めて見るときの驚きもなくなる。ゲームだって、攻略サイトを見ながら進めるより、自分で仕組みを探した方が楽しいことはある。


 ……もちろん、命がかかっていなければの話だが。


 俺はトランプを鞄の中へしまった。


 そのとき、スマートフォンが震えた。


 画面を見ると、通知が一件届いている。差出人は慶楽智皓。先日交換した連絡先からのメッセージだった。


 俺はすぐに画面を開いた。


慶楽智皓


三階の使用されていないトイレまで来てくれ。


こちらは準備を始めている。着いたら連絡してほしい。


 来た。


 ようやく。


 俺は画面を見たまま、少しだけ口元が緩むのを感じた。


 たった数行のメッセージだ。特別な言葉が書かれているわけでもない。絵文字もないし、面白い冗談もない。けれど、今の俺にとっては十分だった。


 これから、あの場所へ行く。


 あの使われていない三階のトイレ。初めて逆世界へ入った場所であり、あの奇妙な出来事の始まりでもある。以前は、あそこへ近づくことさえ嫌だった。あのときの恐怖や、身体が壊れていく感覚を思い出せば、今でも背中が冷たくなる。


 それなのに、今日は自分から向かおうとしている。


 人間というのは、随分と勝手な生き物だと思う。


 怖かった場所を、今度は楽しみにしている。逃げ出したかったものに、自分から近づこうとしている。たぶん、俺はまだ逆世界の危険性を本当の意味では理解していないのだろう。知識として聞いているだけで、実際に何が起こるのかを十分に想像できていない。


 それでも、足は動いた。


 校舎の入口をくぐり、廊下を進む。階段を上り、二階を通り過ぎて、三階へ向かう。窓から差し込む夕方の光が、廊下の床に長い四角形を作っていた。掲示板には部活動の案内や学校行事の予定が貼られ、壁際には掃除用具が整然と並んでいる。


 何も変わっていない。


 いつもの学校だ。


 けれど、俺は知っている。


 この場所の向こう側に、普通の人間が知らない世界があることを。


『浮かれているな』


「そりゃそうだろ」


『今から向かう場所が、君にとってどれほど危険な場所か忘れたわけではあるまい』


「忘れてないよ」


『ならば、せめて自分の足元を見て歩け。期待に目を奪われて転ぶようでは、あまりにも滑稽だ』


「分かってるって」


 俺は階段の最後の段を上がり、三階の廊下へ出た。


 目的の場所は、もうすぐそこだ。


 鞄の中には、新しいトランプが入っている。スマートフォンには、慶楽からのメッセージが残っている。そして、俺の身体の中には、アヒルフェがいる。


 準備が整っているのかどうかは分からない。


 自分が何を得るのかも、まだ分からない。


 それでも、今日から何かが始まる。


 俺はそう信じて、廊下の奥へ歩き出した。

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