第⑰章:名前を失った手帳 (5)
ここまで個人的な思いや、お休みをいただいていた間の事情を聞いていただき、本当にありがとうございました。自分の弱音を聞かせてしまうようで心苦しい部分もありましたが、皆様に誠実でありたいと思い、このような形で綴らせていただきました。不器用な私ですが、これからも温かく見守っていただければ幸いです。
そして、これからの活動について大切なお知らせがあります。
『鏡のエレジー』の更新と並行して、今後は私自身の中にある別のアイデアや創作意欲を形にするため、新しい物語の執筆・公開も計画しています。私の頭の中には、ずっと昔からの夢や、形にしたい世界観がたくさん詰まっています。それらを少しずつ皆様にお見せしていくことで、作家としての幅を広げ、より楽しんでいただける環境を作っていきたいのです。
私たちが迎えるこの11月、そしてこれからの日々を、最高のものにしていきましょう。私の持てるすべての情熱と才能をこのペンに込め、皆様の期待を超える最高のストーリーをお届けします。
10月31日のハロウィン、そしてこれからの展開に向けて、現在公開に向けて準備を進めています
長文となりましたが、最後まで読んでいただき心から感謝いたします。
これからも『鏡のエレジー』、そしてこれからの私の挑戦をよろしくお願いいたします。次回の更新、そして物語の続きをどうぞお楽しみに!
そのはずなのに。
その学校のどこかに、逆世界につながる異常がある。
しかも、それは俺が知っている場所だけに限らないのかもしれない。
……何だよ、それ。
俺が思っていたより、ずっと面倒な話じゃないか。
いや、最初から面倒だったのだ。俺が勝手に、自分の髪や目が変わったことを、何かの始まりだと考えていただけで。実際には、俺の知らないところで、もっと大きな問題が動いていたのかもしれない。
俺は、手帳の表紙を見た。
名前が四つ。
その名前が、逆世界で反応する。
そして、四人の生徒は、何かを見ている。
それだけの情報なのに、俺には、それがひどく不気味に思えた。
「……分かった。じゃあ、俺たちはどうするんだ?」
弥源治が尋ねた。
慶楽は、今度は迷わずに答えた。
「調査を続ける。まずは、四人の身に起きていることを、もう少し詳しく調べたい。それから、学校の中で異常が起きている場所を確認する。必要なら、逆世界へ入って、原因を探ることになると思う」
「……つまり、いつもの調査ってことか」
「そうだね。ただし、今回は少し慎重に進めたい。手帳に反応があった以上、何かが関係している可能性がある。相手が何なのか分からないうちは、無闇に動くべきじゃない」
慶楽はそう言ってから、俺を見た。
「それで、慧璃。君にも一緒に来てもらいたい」
「……え?」
思わず、聞き返してしまった。
「俺も?」
「もちろん。君は、あの場所に実際に入った経験がある。それに、君の状態についても、まだ分かっていないことが多い。今後のことを考えるなら、一度、俺たちと一緒に逆世界へ入ってもらう必要があると思う」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の奥が、急に熱くなった。
……来た。
ついに、来た。
俺が待っていた言葉だ。
リミナル・トラベラーズに加入してから、ずっと待っていた。何かを調べるとか、話を聞くとか、そういう準備段階ではなく、実際に彼らと一緒に行動する機会。俺が逆世界へ行き、何かを見て、何かを知り、自分の力を試す機会。
俺も、ようやくその一歩を踏み出せるのだ。
「本当に!? じゃあ、今から行くのか?」
思わず身を乗り出した。
慶楽は、そんな俺を見て、少しだけ苦笑した。
「いや、今日は行かないよ」
「……えっ」
「準備が必要だからね。それに、もう遅い。無計画に入るのは危険だ」
「そ、そっか……」
俺は椅子に座り直した。
胸の中で膨らんだ期待が、ほんの少しだけしぼんだ。
いや、別に、今すぐ行きたいと駄々をこねるつもりはない。準備が必要なのは分かるし、危険な場所へ行くのだから、慎重に行動するべきだということも理解している。
ただ、期待してしまったのだ。
今日、このまま逆世界へ行くことになるのかもしれない、と。
「じゃあ、いつ?」
「三日後。五月十五日の金曜日にしよう」
「五月十五日……」
俺は頭の中で日付を確認した。
今日は五月十二日。火曜日。つまり、あと三日だ。
たった三日。
それだけ待てば、俺は初めて、リミナル・トラベラーズの三人と一緒に逆世界へ入ることになる。
そう考えると、また胸の奥が熱くなった。
だが、同時に、慶楽の言葉が少し引っかかった。
「……ところで、慶楽先輩。さっき、俺の状態についても分からないことが多いって言ってたよな。それって、どういう意味?」
「君は、この数日間、逆世界に入っていないんだよね?」
「うん。入ってないけど……」
「その間、自分の体に何か変化はなかった?」
「変化?」
俺は自分の手を見た。
髪の色は、相変わらず黒と白が混じっている。左目の色も変わらない。アヒルフェの声は、毎日のように聞こえる。時々、勝手に体を動かされることもあるが、それは今に始まったことではない。
それ以外に、何か変化があっただろうか。
「……いや、特にないと思うけど」
「そうか」
慶楽は、それ以上何も言わなかった。
ただ、少しだけ考え込むような顔をしていた。
「まあ、そのあたりも、金曜日に確認しよう。今は、これ以上考えても答えは出ないからね」
「……分かった」
俺は頷いた。
何かを見落としているのかもしれない。自分では気づいていない変化が、実際には起きているのかもしれない。だが、今の俺には、それを確かめる方法がなかった。
だったら、三日後を待つしかない。
「今日はここまでにしよう。詳しいことは、金曜日に改めて説明する。準備についても、そのときに話すよ」
慶楽は手帳をしまい、ノートを閉じた。
どうやら、これで今日の集まりは終わりらしい。
俺は少しだけ残念に思ったが、今度は素直に頷いた。重要な情報は得られたし、何より、逆世界へ行く日が決まった。それだけでも、今日ここへ来た意味はあったのだろう。
それにしても、あの手帳は何なのだろう。
持ち主が誰なのか分からない。なぜ四人の名前が書かれているのかも分からない。どうして逆世界でミアズマが反応したのかも分からない。
名前が四つ並んでいるだけの、古びた手帳。
それなのに、俺たちの知らない何かが、その向こう側にある。
……まるで、推理ゲームの序盤で見つかる、何の変哲もない証拠品みたいだ。
最初はただの小道具に見えるのに、後半になってから重要な意味を持つ。主人公が何気なく見た文字や、背景に映っていた小さな物が、実は事件の核心につながっていた。そういう展開は嫌いじゃない。むしろ、好きなほうだ。
ただし、自分がその事件に巻き込まれていなければ、の話だが。
俺は立ち上がり、制服の裾を軽く払った。
「あ、そうだ。慶楽先輩」
「何?」
「俺、まだみんなの連絡先を知らないんだけど。グループの連絡用のアプリとか、ないの?」
言ってから、今さらすぎる質問だと思った。
だが、必要なことだ。三日後に一緒に行動するのなら、連絡手段がないと困る。集合場所や時間が変更になったとき、いちいち学校の中を探し回るわけにもいかない。
慶楽は一瞬、きょとんとした顔をした。
そして、次の瞬間、申し訳なさそうに笑った。
「ああ……ごめん。そういえば、まだ交換していなかったね」
「……本当に忘れてたのかよ」
「いや、忘れていたというか、話す機会がなかったというか……」
「それを忘れていたって言うんだよ」
思わず突っ込んでしまった。
銅崎が小さく笑い、弥源治は「お前、意外と遠慮なく言うな」と楽しそうに言った。
いや、だって、普通に考えておかしいだろ。
異世界に関する調査をしている秘密のグループなのに、連絡先の交換すら済んでいない。組織としての体制がどうなっているのか、少し不安になる。俺が加入したばかりだからという理由は分かるが、それでも、連絡手段くらいは最初に教えておくべきだと思う。
……まあ、俺も自分から聞かなかったのだから、人のことは言えないのだけれど。
「じゃあ、まずはグループを作ろうか。表向きの名前は……そうだな、『Retro Video』でいいかな」
「レトロ・ビデオ?」
「本来の活動名をそのまま使うわけにはいかないからね。学校の中で見られても、古い映画の話をしているだけだと思われる名前にしておきたい」
「なるほど……」
確かに、リミナル・トラベラーズなんて名前をそのまま使っていたら、誰かに見られたときに面倒かもしれない。何の集まりなのかと聞かれたら、説明に困る。古い映画を鑑賞するクラブという建前がある以上、それらしい名前にしておくのは合理的だ。
少しだけ、本物の秘密組織らしくなってきた気がする。
……いや、名前を変えただけで、実態は何も変わっていないのだが。
「これが俺の連絡先。何かあったら、まずはここに連絡してくれればいい。俺がすぐに返事をできない場合は、一夜月に連絡してほしい。緊急時なら春人だね」
「俺?」
弥源治が顔を上げた。
「そう。君は、こういうときに意外と対応が早いから」
「へえ。慶楽にしては、分かってるじゃねえか」
「自分で言うなよ……」
銅崎が呆れたようにため息をついた。
俺は三人の連絡先を順番に登録した。名前を入力し、プロフィール画像を確認し、保存する。たったそれだけの作業なのに、妙に緊張した。
こうして見ると、三人とも普通の高校生だ。
もちろん、普通という言葉がどこまで当てはまるのかは分からない。逆世界に出入りしている時点で、俺たちはすでに普通の生徒とは違うのかもしれない。それでも、スマートフォンの画面に表示される名前や写真は、どこにでもいる人間のものに見えた。
俺は、まず慶楽のプロフィール画像を確認した。
そこに写っていたのは、首飾りだった。
背景には、何かの写真の裏側らしいものが見える。首飾りは少し古びたようなデザインで、細い鎖の先に、小さな飾りがついていた。写真そのものは暗く、撮影された場所も分からない。誰の首飾りなのか、何のためのものなのかも、もちろん分からなかった。
ただ、何となく気になった。
慶楽自身の顔でもなければ、風景でもない。わざわざ首飾りの写真をプロフィール画像にしているのだから、何か意味があるのかもしれない。
……いや、勝手に深読みするのはやめておこう。
人のプロフィール画像を見て、勝手に事情を想像するなんて、さっき自分が弥源治に対してやりかけたことと同じだ。別に、何か意味があるとは限らない。単に気に入った写真なのかもしれないし、インターネットで見つけた画像を使っているだけかもしれない。
それでも、少しだけ気になった。
次に、銅崎のプロフィール画像を開いた。
こちらは、曇り空の下で撮影されたような写真だった。ベッドの上にバイオリンが置かれ、その近くに犬が一匹いる。全体的に暗い色合いで、午後の遅い時間か、天気の悪い日の室内を撮影したもののように見えた。
銅崎は音楽関係の活動をしているらしいし、個人でバイオリンのレッスンも受けていると七瀬が言っていた。だから、バイオリンの写真を使っていること自体は不思議ではない。犬も飼っているのかもしれない。家の中で撮った写真なら、本人が撮影したものという可能性もある。
もっとも、これも勝手な想像だ。
プロフィール画像だけで、相手の家庭環境まで分かるわけがない。俺は画面を閉じ、最後に弥源治の画像を確認した。
……猫だった。
一匹の猫が、地面に置かれた餌を食べている。
写真は少し粗く、光の当たり方も不自然だった。猫の毛並みはところどころ汚れているように見え、背景には道路らしきものが写っている。どこかの路地で撮影された写真なのかもしれない。
「……お前、猫好きなの?」
思わず聞いてしまった。
「ん? ああ、まあな」
「へえ……」
「何だよ、その反応」
「いや、別に。ちょっと意外だっただけ」
「猫が好きなのに、意外も何もねえだろ」
「まあ、それはそうだけど……」
弥源治は肩をすくめた。
そのまま、何も説明しなかった。
俺も、それ以上は聞かなかった。
三人のプロフィール画像は、どれも少しずつ違っていた。首飾り。バイオリンと犬。道端で餌を食べる猫。どれも普通といえば普通だし、少し変わっているといえば変わっている。本人の写真ではないという点では共通しているが、それだけで何かを判断することはできない。
もしかしたら、三人ともインターネットで拾った画像を使っているだけかもしれない。
あるいは、自分で撮った写真なのかもしれない。
慶楽の首飾りには、何か思い出があるのだろうか。銅崎のバイオリンは、彼女自身のものなのだろうか。弥源治が撮影した猫は、どこかで出会った野良猫なのだろうか。
考え始めると、いくらでも想像できる。
けれど、今はそれを口にするつもりはなかった。相手のことを知りたいからといって、何でも聞けばいいわけではない。そういうことくらいは、俺にも分かる。
……まあ、さっきまで質問ばかりしていた人間が言うことではないのだけれど。
「よし、グループに追加したよ」
慶楽が言った。
スマートフォンに通知が届き、俺は画面を確認した。
グループ名は『Retro Video』。
参加者は、慶楽、銅崎、弥源治、そして俺。
たった四人のグループだった。
名前も、アイコンも、特別なものではない。古い映画について話し合うためのグループだと言われれば、誰も疑わないだろう。実際、表向きにはそういうことになっているのだから、当然だ。
それでも、俺は画面を見ながら、妙に嬉しくなっていた。
……何だろう、この感じ。
連絡先を交換しただけだ。グループに追加されただけだ。別に、何か特別なことが起きたわけではない。学校の友達とグループを作ることなんて、今までにも何度かあった。クラスの連絡用だったり、課題の相談用だったり、ゲームの約束をするためだったり。
それなのに、今回は少し違っていた。
俺は、リミナル・トラベラーズの一員になった。
これから、彼らと一緒に逆世界へ行く。
自分の知らない世界を見て、そこで起きていることを調べる。今までの普通の学校生活では経験できなかったことを、これから経験することになるのかもしれない。
そう考えると、スマートフォンの画面に表示された四人の名前が、少しだけ特別なものに見えた。
「じゃあ、試しに何か送ってみようか」
慶楽が言った。
「え? 何を?」
「ちゃんと連絡が届くか、確認しておきたいからね」
そう言って、慶楽はグループに短いメッセージを送った。
『確認。届いている?』
俺のスマートフォンが震えた。
続いて、銅崎からもメッセージが届く。
『こちらも確認です。問題なさそう?』
「……いや、二人とも真面目すぎない?」
俺が呟くと、弥源治が笑った。
「じゃあ、俺も送るか」
次の瞬間、画面にスタンプが表示された。
犬が片手を上げているスタンプだった。
……まあ、普通だ。
そう思った直後、もう一つ届いた。
今度は、変な顔をした猫のスタンプ。
さらに、よく分からない生き物が踊っているスタンプ。
そして、何かに驚いて転んでいる犬。
「……おい」
俺は画面を見つめた。
通知が続けて表示される。
また犬。今度は猫。次は、妙に古いアニメーションのスタンプ。さらに、何かを叫んでいる謎のキャラクター。
「おい、ちょっと待て! 何個送ってくるんだよ!」
「はははっ! ちゃんと届いてるか確認してんだろ?」
「一個で分かるだろ!」
「いや、いろんな種類が届くか確認しないとな!」
「そんな確認方法があるか!」
俺は慌てて画面をスクロールした。
通知が増える。増える。まだ増える。
……何だ、こいつ。
スタンプの種類が多すぎる。しかも、妙に趣味が偏っているような、そうでもないような、統一感のないラインナップだった。かわいい犬や猫もあれば、意味不明な顔をしたキャラクターもある。古いものも新しいものも混ざっている。これだけの数を集めるには、それなりの時間がかかったはずだ。
「春人、ちょっと送りすぎ」
銅崎が小さく笑いながら言った。
「えー? まだ全然あるけど」
「まだあるの!?」
俺は思わず声を上げた。
弥源治は悪びれる様子もなく、さらにスタンプを送ろうとした。
「やめろ! もう確認できただろ!」
「お前、スタンプ持ってねえの?」
「持ってるけど、こんなに大量には持ってない!」
「じゃあ、欲しかったら言えよ。いくらでも送ってやるから」
「いや、いらないとは言ってないけど……!」
言いかけて、俺は口を閉じた。
……いや、何を言っているんだ、俺は。
別に、スタンプが欲しいわけではない。たぶん。いや、少しだけ興味はあるが、それは今の話とは関係ない。
銅崎は、そんな俺たちのやり取りを見て、肩を震わせていた。
「春人は、自由時間のほとんどをスタンプ集めに使っているから。欲しいものがあれば、本人に聞いてみるといいわ。たぶん、持っていないもののほうが少ないと思う」
「……そんなに?」
「おい、余計なこと言うなよ」
「事実でしょう?」
「まあ、そうだけどさ……」
弥源治は、少しだけ気まずそうに頭をかいた。
俺は、画面に並んだ大量のスタンプを見つめた。
なるほど。
弥源治が学校に来ていない理由は、まだ分からない。普段、何をしているのかも分からない。だが、少なくとも、自由時間に何をしているのかについては、一つだけ情報が増えた。
スタンプ集め。
……いや、これはこれで、どういう趣味なんだよ。
とはいえ、俺だって、他人に趣味を説明できるほど立派な人間ではない。ゲームに時間を使い、動画を見て、漫画を読んで、何となく一日を終える。そういう生活を送っている俺が、人の趣味を変だと言うのも違うだろう。
人それぞれ、時間の使い方は違う。
ただ、弥源治の場合は、少しだけ極端な気がした。
「……まあ、いいや。連絡先は分かったし、これで大丈夫だな」
慶楽が、ようやく話をまとめた。
「今日はもう帰ろう。細かいことは金曜日に説明する。それまでに、何か変わったことがあったら、グループに連絡してくれればいい。急ぎじゃなければ、個別に送ってくれても構わないよ」
「分かった」
俺は頷いた。
「それじゃあ、解散。残ったものは俺が片づけておくから、みんなは先に帰っていいよ」
「手伝わなくていいの?」
銅崎が尋ねた。
「大丈夫。ここは俺が使っていた場所だし、片づけるものも多くないから」
「……じゃあ、少しだけお願いしてもいい?」
「何かあるの?」
「うん。ちょっと、あとで相談したいことがあるから」
銅崎は、そう言ってから、俺のほうを見た。
「慧璃くんは、先に帰って大丈夫よ。今日はありがとう」
「あ、うん。分かった」
俺は頷き、スマートフォンをポケットにしまった。
弥源治も椅子から立ち上がり、軽く伸びをした。
「じゃあ、俺も帰るわ。金曜日、遅れないようにする」
「……本当に頼むよ」
慶楽が苦笑した。
「分かってるって」
弥源治は片手を振り、教室を出ていった。俺もそのあとに続き、廊下へ出る。銅崎は慶楽と一緒に残るらしく、扉のところで軽く手を振ってくれた。
「またね、慧璃くん」
「うん。また」
扉が閉まった。
俺は廊下を歩きながら、何となく振り返った。
教室の中では、慶楽が机の上の資料を片づけ始めているのが見えた。銅崎は彼のそばに立ち、何かを話している。二人の声までは聞こえない。俺が知っているのは、二人がまだ話すことを残しているらしい、ということだけだった。
……俺には、まだ知らないことが多い。
今日だけで、それを何度も思い知らされた。
弥源治が学校に来ていない理由。慶楽と銅崎が抱えている事情。手帳に書かれた四人の名前。逆世界の影響が、俺以外の生徒にも及んでいる可能性。
どれも、今の俺には答えが出せないことばかりだ。
それでも、何も分からないまま終わったわけではない。
三日後、俺は彼らと一緒に逆世界へ入る。
その日になれば、少なくとも今よりは多くのことを知ることができるだろう。もちろん、危険なこともあるだろうし、知らないほうがよかったと思うこともあるかもしれない。それでも、俺は待ち遠しかった。
俺はスマートフォンを取り出し、もう一度『Retro Video』のグループを開いた。
四人の名前が並んでいる。
まだメッセージは少ない。確認用の短い文章と、弥源治が大量に送ってきたスタンプがあるだけだ。グループとしては、まだ始まったばかりという感じだった。
俺は画面を眺めながら、歩く速度を少しだけ落とした。
……何だか、楽しくなってきた。
いや、別に、浮かれているわけではない。これから危険な場所へ行くのだから、もっと真剣に考えるべきだというのは分かっている。俺が何もできないまま足を引っ張る可能性だってある。そもそも、逆世界がどんな場所なのか、俺はまだほとんど知らない。
それでも。
これから何かが始まるのだと思うと、少しだけ胸が弾んだ。
ゲームで言えば、ようやく最初の仲間が揃い、次のステージへ進むための準備が整ったところだ。まだ装備も足りないし、スキルもまともに使えない。敵がどれほど強いのかも分からない。だけど、少なくとも、俺はもう一人ではない。
慶楽がいる。銅崎がいる。弥源治がいる。
そして、俺の頭の中にはアヒルフェがいる。
……いや、最後の一人は、仲間と呼んでいいのか分からないけれど。
『聞こえているぞ』
頭の中で、アヒルフェが静かに言った。
『君は、まだ何も知らない。何もできない。今の段階で浮かれているのは、あまり賢い選択とは言えないな』
「……分かってるよ」
俺は小さく呟いた。
周囲を歩いていた生徒が、ちらりとこちらを見た。俺は慌てて口を閉じる。最近、こういうことが増えた気がする。頭の中で会話をしているだけなのに、うっかり声に出してしまうのだ。傍から見れば、独り言を言っている変な人間にしか見えないだろう。
『それに、君はまだ、自分の力をまともに扱えない。逆世界で何が起きるかも分からない。君が期待しているような冒険が待っている保証など、どこにもない』
「……だから、分かってるって」
『なら、少しは落ち着いたらどうだ』
「無理」
今度は、声に出さずに答えた。
アヒルフェは、呆れたように沈黙した。
俺は再びスマートフォンを見た。
グループ名は『Retro Video』。
画面の中には、三人の連絡先が並んでいる。慶楽の首飾り。銅崎のバイオリンと犬。弥源治の猫。どれも、少しだけ気になる写真だった。いつか、本人たちから話を聞ける日が来るのかもしれない。もちろん、聞けないままかもしれない。
今は、それでいい。
知りたいことが増えたのなら、これから少しずつ知っていけばいいのだ。相手が話したくないことを無理に聞く必要はないし、分からないことを全部、今すぐ解決する必要もない。
そう考えると、少しだけ気が楽になった。
俺は歩きながら、グループに短いメッセージを送った。
『今日はありがとう。金曜日、よろしく』
送信した直後、少しだけ恥ずかしくなった。
……いや、普通だろ。別に変な文章ではない。むしろ、礼儀正しいほうだ。これくらいのメッセージを送るのは、何もおかしくない。
数秒後、慶楽から返事が届いた。
『こちらこそ。金曜日はよろしく』
続いて、銅崎からも。
『気をつけて帰ってね』
そして、弥源治からは。
犬が敬礼しているスタンプが一つ。
……こいつ、本当にスタンプしか送らないつもりなのか?
俺は思わず笑ってしまった。
少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
校舎を出ると、夕方の風が頬を撫でた。五月の空はまだ明るさを残していて、雲の隙間から薄い光が差し込んでいる。校門の外には、帰宅する生徒たちの姿があった。自転車を押して歩く者、友達と話しながら駅へ向かう者、スマートフォンを見ながらゆっくり歩く者。どこにでもある、普通の放課後の風景だ。
俺も、その中の一人として歩き始めた。
いつもと同じ道。いつもと同じ景色。いつもと同じ学校帰り。
それなのに、今日は少しだけ違って見えた。
三日後には、俺は逆世界へ行く。
あの異常な場所へ、今度は一人ではなく、仲間と一緒に。
そこで何が起きるのか、俺には分からない。手帳の名前が何を意味しているのかも、四人の生徒に何が起きているのかも、まだ答えは出ていない。もしかしたら、金曜日にもっと厄介な問題が見つかるかもしれない。俺が想像しているより、ずっと危険なことが待っている可能性もある。
それでも、俺は期待していた。
今までの人生にはなかった何かが、ようやく始まろうとしている。
普通の高校生として、普通に学校へ通い、普通に毎日を過ごしていく。そんな生活に、俺はどこか物足りなさを感じていた。何かが起きてほしい。自分だけの物語が始まってほしい。そんなことを、何度も考えてきた。
そして、実際に何かが起きた。
その結果が、今の俺だ。
変わった髪と目。頭の中にいる幽霊。逆世界という、現実の裏側に広がる異常な場所。そして、リミナル・トラベラーズという、まだよく知らない仲間たち。
……もしかしたら。
これは、本当に始まりなのかもしれない。
もちろん、そんなふうに考えるのは、少しばかり早いだろう。俺はまだ何もできないし、何も成し遂げていない。期待したところで、思いどおりになるとは限らない。むしろ、思いどおりにならないことのほうが多いのかもしれない。
それでも、今だけは。
少しくらい、夢を見てもいいだろう。
俺はスマートフォンをポケットにしまい、夕暮れの道を歩き続けた。
金曜日まで、あと三日。
その三日間が、今までよりもずっと長く感じられそうだった。




