第⑰章:名前を失った手帳 (4)
そんな停滞した日々の中で、私は何度もペンを止めかけました。「自分は作家として向いていないのではないか」「読者の期待を裏切っているのではないか」と、暗い思考の渦に飲み込まれそうになることもありました。
しかし、そんな私を救い出してくれたのは、他でもない家族や友人たちの温かい支え、そして何より、この場所で作品を待ち続けてくれる読者の皆様の存在でした。公開が止まっている間も、毎日コンスタントにアクセスしてくださる方々がいて、「明日こそは」と期待して待ってくれている人がいる。その事実に気づいたとき、私は自分の甘さを深く恥じました。
皆様がこの作品に注いでくれる温かさに報いるためには、ただ悩んで立ち止まるのではなく、自分の全力を注いだ「良い作品」を届け続けることしかありません。家族からは「お前の文章には才能があるのだから、もっと自信を持ちなさい」と励まされ、私も心を新たにしました。
ただ物語を楽しんでもらうだけでなく、私の頭の中にあるアイデアのすべてを形にし、もっと深みのある、心を揺さぶるようなコンテンツを提供したい。そのためには、自分自身の心身を整え、これまで以上に執筆に向き合う覚悟が必要だと痛感しました。
11月という素晴らしい季節が始まり、やがて私の一番好きなクリスマス、そして冬の足音が聞こえてきます。この新しい時期を境に、私は作家として生まれ変わり、より一層魅力的な物語を紡ぎ出すことをここに誓います。
(※第5パートへ続く)
弥源治が教室に入ってきてから、しばらくの間、俺たちは特に何もせずに待っていた。
正確に言うと、慶楽が何かを考えたり、ノートを確認したりしている間、俺たちが勝手に待たされていた。本人は別に急いでいる様子もなく、机の上に広げた紙を見比べては、何かを書き足したり、消したりしている。銅崎はそれを邪魔しないように近くで待機し、弥源治は椅子に座るなり、背もたれに体を預けていた。俺も空いている椅子に座っている。つまり、四人も集まっているのに、今のところ俺たちがやっていることは、ただの待ち時間だった。
……これ、わざわざ放課後に集まる必要あった?
いや、まだ何も始まっていないのだから、そう判断するのは早い。きっと慶楽には、俺たちを集めておかなければならない理由があるのだろう。実際、あいつはノートを確認する表情こそ真剣だったし、何か重要な話をするつもりなのは間違いない。そうでなければ、わざわざ俺を呼び出したりはしないはずだ。
たぶん。
こういうとき、「たぶん」という言葉は本当に便利だ。何も分かっていなくても、とりあえず考えているような気分になれる。俺の人生は、今のところ、この便利な言葉にずいぶん助けられている気がした。
それにしても、弥源治は疲れているようだった。
椅子に座ってからも、時折、目を閉じては開いている。眠いのか、体調が悪いのか、それとも単純に疲労がたまっているのか。制服の乱れも相変わらずで、襟元を直す気配すらない。以前会ったときには、初対面の俺をからかう余裕があったのに、今はその余裕さえなさそうだった。
……いや、でも、さっきからずっと気になっている。
今日、学校で何をしていたのだろう。
慶楽からは個人的な事情だと言われた。勝手に聞く権利はないとも言われた。だから、これ以上詮索するべきではない。それは分かっている。分かっているのだが、本人が目の前にいると、どうしても疑問が頭の中で膨らんでしまう。
そもそも、俺たちは同じグループのメンバーなのだ。今後、逆世界に入ることになるのなら、ある程度はお互いのことを知っておいたほうがいい。少なくとも、相手がどんな人間なのかくらいは把握しておきたいと思うのが普通ではないだろうか。
……いや、俺が単に気になっているだけかもしれない。
それを認めると少し格好悪いので、俺は自分の中でそれらしい理由をいくつか並べてみた。危険な場所へ行くための情報収集。仲間との信頼関係の構築。集団行動に必要な相互理解。うん、どれも間違ってはいない。間違ってはいないはずだ。
ただ、俺は弥源治のことを何も知らない。それが妙に引っかかっているだけなのかもしれなかった。
「……なあ、弥源治」
気がつけば、俺は声をかけていた。
弥源治がゆっくりと顔を上げる。思ったよりも真剣な目だったので、俺は一瞬だけ言葉に詰まった。
「何?」
「いや、その……今日、何かグループの活動でもしてたのか? それで遅くなったとか」
言ってから、少し後悔した。
別に、聞き方が悪かったわけではないと思う。普通の質問だ。少なくとも、俺の中ではそういうことになっている。だが、弥源治はすぐには答えず、じっと俺の顔を見ていた。
その沈黙が、思った以上に長く感じられた。
……あれ?
何か、まずいことを聞いただろうか。
もしかして、学校に来ていないことを指摘されたと思ったのか。それとも、個人的な事情に踏み込むなと怒っているのか。いや、でも、俺はそんなつもりで聞いたわけではない。単純に、何をしていたのか気になっただけだ。
だが、相手がどう受け取るかは別の話である。
弥源治の目が細くなったように見えた瞬間、俺の脳内では、最悪の展開がいくつか再生された。怒鳴られる。馬鹿にされる。面倒なことになる。最悪の場合、殴られる。
最後の展開だけ、妙に現実味があった。
俺は無意識に背筋を伸ばした。いや、別に怖がっているわけではない。突然怒鳴られたら誰だって驚くだろう。これは自然な防衛反応だ。そういうことにしておこう。
しかし、次の瞬間。
「……ははっ。何だよ、それ。心配してくれたのか?」
弥源治の表情が、ふっと崩れた。
「えっ?」
「いや、別に大したことはしてないって。ちょっとその辺で飯を食ってただけ。思ったより食べるのに時間がかかったんだよ」
「……それだけ?」
「それだけ」
あまりにもあっさりした答えだった。
俺は、さっきまで身構えていた自分が少し馬鹿らしくなった。何だよ。こっちは怒られるかもしれないと勝手に緊張していたのに、本人はただ食事をしていただけらしい。
いや、食事に時間がかかること自体は、別におかしくない。ゆっくり食べる人だっているし、量が多ければ時間もかかるだろう。俺だって、好きなものを食べているときは、食べ終わるまでにそれなりの時間を使う。
ただ、俺の質問に対して、あまりにも何も考えていないような答えだった。
「……じゃあ、学校には?」
「ん?」
「いや、だから、今日の授業とか……」
「お前、質問が多いなあ」
「いや、さっきから気になってただけだって!」
少し声が大きくなってしまい、俺は慌てて口を閉じた。
弥源治は、そんな俺を見て、また笑った。
「分かってるよ。そんなに焦るなって。別に怒ってねえから」
「……怒ってるように見えたんだけど」
「そうか? 悪い悪い。ちょっと考え事してただけだ」
そう言って、弥源治は椅子の背もたれに体を預け直した。疲れているのは変わらないようだったが、先ほどよりは表情が柔らかくなっていた。
「でもさ、初めて会ったときは、こっちが何か言うたびに警戒してたのに。今は俺のことを気にしてくれるんだな。いやあ、可愛いじゃん」
「はあ!?」
思わず声が裏返った。
「か、可愛くないだろ! 何言ってんだよ!」
「いや、可愛いって。心配して質問してくるあたりが」
「だから、心配とかじゃなくて……!」
言い返そうとしたが、うまい言葉が見つからなかった。
実際、少し気にしていたのは事実だ。だが、それをそのまま認めるのは、何だか負けたような気がした。俺は別に、誰にでも気を配るような優しい人間ではない。必要がなければ、他人の事情に首を突っ込むことだってしない。だからこそ、今の行動に特別な意味があるように扱われると、妙に居心地が悪くなる。
「それに、俺たち同い年だろ。可愛いとか、そういう言い方はおかしいだろ」
「同い年だからって、可愛いって言っちゃいけない決まりはないだろ?」
「そういう問題じゃない!」
「じゃあ、どういう問題だよ?」
「……っ」
言い返せなかった。
くそ。こういうとき、もっと気の利いた返しができればいいのに。漫画の主人公なら、ここで「お前のほうがよっぽど可愛いぞ」とでも言って、相手を黙らせるのだろうか。いや、そんな台詞を俺が言ったら、別の意味で黙られる気がする。下手をすれば、そのまま気まずい空気になる。やめておこう。
弥源治は、俺の反応を楽しんでいるようだった。
「まあ、いいけどな。俺はお前より、いろいろ経験してきたからさ」
「……何だよ、それ」
「お前は、たぶん、まだ知らないことが多いだろ?」
その言葉に、俺は少しだけ黙った。
弥源治の口調は軽かった。さっきまでの疲れも、今は冗談の裏側に押し込められているように見える。けれど、ほんの一瞬だけ、目の奥に何か別のものがあった気がした。
俺が知らないこと。
それは、確かに多い。
逆世界についても、リミナル・トラベラーズについても、俺はほとんど何も知らない。自分の力についてすら、まだ理解できていない。今の俺にできることといえば、分からないことを質問して、返ってきた答えを覚えておくくらいだ。
だから、弥源治の言葉を否定することはできなかった。
「……まあ、それは、そうだけど」
「だろ? だったら、これから覚えていけばいいんだよ。そんなに難しく考えなくてもさ」
弥源治はそう言って、俺の肩を軽く叩こうとした。俺は反射的に身を引いたが、彼はそれを見て、また笑った。
「おいおい、そんなに警戒するなって。取って食ったりしねえよ」
「……初対面であんなことを言われたら、警戒もするだろ」
「ははっ、まだ根に持ってんのかよ」
「当たり前だろ!」
俺の声が教室に響き、銅崎が小さく笑った。慶楽も、ノートから顔を上げて、呆れたような表情をしている。
……何だか、少しだけいつもの空気に戻った気がした。
もちろん、弥源治の事情が分かったわけではない。学校に来ていない理由も、今日まで何をしていたのかも、結局ほとんど分からないままだ。だが、少なくとも、俺が勝手に想像していたような険悪な状況ではなかったらしい。
それだけでも、少し安心した。
「はいはい、そこまで」
慶楽が手を叩くようにして、俺たちのやり取りを止めた。
「そろそろ本題に入ろう。今日は、君たちに見てもらいたいものがある」
「見てもらいたいもの?」
俺と弥源治は、ほとんど同時に聞き返した。
慶楽は、机の上に置いてあったノートを閉じると、制服の内ポケットに手を入れた。そこから取り出したのは、一冊の古い手帳だった。
最初に見たとき、俺はそれが何なのか、すぐには分からなかった。
表紙は色褪せていて、角が潰れている。背表紙の部分は何度も折れ曲がったらしく、端の布が少し剥がれていた。紙の表面には細かな傷があり、何かに擦られたような黒ずみも見える。使い込まれたというより、長い間、雑に扱われていたもののようだった。
ただ、古いだけの手帳なら、学校にいくらでもありそうだ。
「……それ、何?」
俺は手帳を見ながら尋ねた。
「見た目は、ただの古い手帳だけどな」
弥源治も、俺と同じような反応をしていた。
「そんなのを見せるために、わざわざ集めたのか?」
「まあ、そう急がないでくれ」
慶楽は苦笑しながら、手帳を机の上に置いた。
「二人とも、クラスメイトが手帳やノートをなくしたって話を聞いたことはある?」
「……は?」
「誰かが、古い手帳を探していたとか。中に大事なものが書いてあるから、なくすと困るとか。そういう話」
俺は記憶を探ってみたが、思い当たることはなかった。
そもそも、クラスメイトが何を持ち歩いているかなんて、いちいち把握していない。教室で誰かがノートを落としたとしても、本人が騒いでいなければ気づかないだろう。弥源治も首を横に振った。
「いや、知らねえな。そもそも、俺は他人が何をなくしたかなんて、そんなに気にしてないし」
「俺も……。少なくとも、最近そういう話は聞いてないと思う」
慶楽は頷き、銅崎のほうを向いた。
「一夜月は?」
「私も知らない。自分の学年でも、そういう話は聞いていないわ」
「そうか。俺も、上の学年で心当たりはないんだ」
慶楽は、そこで一度、手帳の表紙を指先でなぞった。
「ただ、これは白樺高校の生徒が持っていたものだと思う」
「どうして分かるんだ?」
弥源治が尋ねた。
「細かいところに、この学校のものだと分かる印がある。表紙の内側にも、小さな書き込みが残っているんだ。生徒が使っていたものだということは、ほぼ間違いないと思う」
俺は身を乗り出して、手帳を眺めた。
確かに、よく見ると表紙の端に、小さな記号のようなものがあった。学校の備品に押されている管理番号にも似ているが、はっきりとは分からない。内側に何か書かれているというのなら、持ち主を特定できる可能性もあるだろう。
「それで、誰のものか分かったのか?」
「まだ分からない。だから、君たちにも見てもらいたいんだ」
慶楽は手帳を開いた。
紙が擦れる、乾いた音がした。
俺は、そこに何かがびっしり書き込まれているのだと思っていた。日記かもしれないし、授業の記録かもしれない。持ち主が誰かに見られたくない秘密を書いていた、という可能性だってある。古い手帳というだけで、少しばかり想像が膨らんでしまうのは、たぶん俺がそういう物語を見すぎているせいだろう。
しかし、実際に開かれたページには、ほとんど何も書かれていなかった。
白い紙が続いている。
ところどころに汚れがあり、端が破れかけているページもある。何ページかは、濡れたあとに乾いたように波打っていた。けれど、文字らしい文字は見当たらない。
そして、一つのページだけに、名前が並んでいた。
「……名前?」
俺は思わず呟いた。
そこには、四人分の名前が書かれていた。
横田璃日斗。麻生啓成。中井亜朱奈。豊島偲万。
どれも、普通の日本人の名前だった。少なくとも、俺が見た限りでは、何か特別な意味がありそうには思えない。名前の横には、日付も説明もない。四つの名前が、ただ同じページに並べられているだけだった。
「……これが、何なんだ?」
弥源治が、俺の考えを代弁するように言った。
「名前が書いてあるだけじゃねえか。誰かの知り合いでもメモしたんじゃないのか?」
「普通なら、そう考えるだろうね」
慶楽は、静かに頷いた。
「ただ、これを見つけた場所が問題なんだ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は顔を上げた。
慶楽は俺を見ていた。
「この手帳は、白樺高校の三階にある、使用禁止のトイレで見つけたんだ」
……三階。
使用禁止のトイレ。
俺の頭の中で、何かが小さく引っかかった。
あの場所だ。
俺が初めて逆世界へ入った場所。いや、正確には、逆世界へ続く異常に遭遇した場所。何度も思い出したくないと思いながら、忘れることもできなかった、あの三階のトイレ。
俺は、手帳を見つめたまま、しばらく何も言えなかった。
「……それって、俺が前に話した場所だよな?」
「そう。君が最初に異常を経験した場所と同じだ」
慶楽は俺の反応を注意深く見ていた。
「だから、念のために聞いておきたい。これ、君のものじゃないよね?」
「違う。俺、こんな手帳を持ってないし、見たこともない」
答えは即座に出た。
俺が使っているノートは、学校で配られたものか、自分で買ったものだ。こんな古びた手帳を持ち歩いた記憶はない。そもそも、俺は日記をつける習慣すらない。毎日何かを書き残すなんて、三日も続かない自信がある。
それに、俺があのトイレに入ったとき、この手帳を見た覚えもなかった。
「本当に、初めて見る。俺のじゃないよ」
「……そうか」
慶楽はそう答えたが、完全に納得したようには見えなかった。
別に、疑われても困らない。俺は本当に知らないのだから、これ以上説明できることはない。ただ、俺の反応を見ている慶楽の目が、何かを確かめようとしているように感じられた。
「念のため、俺はこの手帳を逆世界へ持っていった」
「え?」
思わず声が出た。
「持っていったって……そのまま?」
「そう。気になるものがあったら、現実で調べるだけじゃなく、逆世界でも確認することにしているんだ。もちろん、危険がないと判断できる範囲でね」
危険がないと判断できる範囲。
その言葉に、俺は何となく引っかかった。
あの世界に、危険がないと判断できる範囲なんて本当にあるのだろうか。俺は一度、まともな準備もないまま、あそこで死にかけた。目の前の三人が俺より多くの経験を積んでいるのは分かるが、それでも、逆世界が安全な場所ではないことに変わりはない。
慶楽も、それを理解しているからこそ、慎重な言い方をしたのだろう。
「それで、どうだったんだ?」
銅崎が尋ねた。
慶楽は手帳のページを開いたまま、四つの名前を指した。
「名前の周囲に、澱みがあった」
「澱み……?」
「逆世界で見える、あの黒い汚れのようなものだよ。俺たちは便宜上、ミアズマと呼んでいる。強い異常や、何かの影響が残っている場所で見つかることがある。普段の汚れとは違う。手帳のほかの部分にはほとんどなかったのに、この四つの名前の周囲だけ、はっきりと反応が出た」
俺は、改めてページを見つめた。
紙の上には、何もない。
ただ、四人の名前があるだけだ。
それなのに、逆世界へ持っていくと、何かが反応するという。
「……それって、名前を書かれた人に何か起きているってこと?」
「その可能性がある。少なくとも、偶然で片づけるには不自然だと思った」
「でも、名前が書いてあるだけだろ? その四人が、何か関係しているって決まったわけじゃないんじゃねえの?」
弥源治の言うことはもっともだった。
名前が書かれているからといって、その人物に異常が起きているとは限らない。誰かが偶然書いたのかもしれないし、手帳の持ち主が知り合いの名前をまとめていただけかもしれない。俺だって、ノートにクラスメイトの名前を書くことくらいはある。たとえば、グループ課題の担当者をメモするときとか、何かを借りた相手を忘れないようにするときとか。
ただ、問題は場所と、ミアズマの反応だった。
普通なら、そんな二つが結びつくことはない。
逆世界という異常な場所に、異常な反応を示す手帳が落ちていた。そのページには、四人の名前が書かれている。
それだけで、十分に気味が悪かった。
「だから、調べたんだ」
慶楽は続けた。
「四人とも、この白樺高校に在籍している。横田璃日斗は一年A組。麻生啓成は三年G組。中井亜朱奈は二年B組。そして、豊島偲万は一年B組だ」
名前とクラスが、次々と口にされていく。
俺は、頭の中でそれぞれの人物を思い浮かべようとしたが、誰一人として顔が浮かばなかった。横田という苗字なら、どこかで聞いたことがあるような気もする。麻生も、中井も、豊島も、珍しい名前ではない。だが、それが誰なのかは分からない。
「四人は、お互いに知り合いというわけでもないらしい。学年もクラスも違うし、共通の部活動や委員会があるわけでもない。本人たちにも確認したけど、互いに顔を知らないと言っていた」
「……どうやって確認したんだ?」
「ちょっとしたアンケートだよ。学校の設備に関する調査という名目で、話を聞いた」
慶楽は、少しだけ視線を逸らした。
たぶん、全部を正直に説明したわけではないのだろう。だが、見知らぬ生徒に突然「あなたの名前が異世界で反応する手帳に書かれていたので、何か変なことが起きていないか教えてください」と聞くわけにもいかない。そんなことをしたら、相手は困惑するだろうし、教師に報告される可能性だってある。
学校の設備に関するアンケートというのは、ずいぶん無難な口実だと思った。
俺も、もし誰かにそんな質問をされたら、適当に答えて終わらせるだろう。
「それで、何か分かったのか?」
「……少しね」
慶楽はノートを開き、そこに書かれた記録を確認した。
「最初に、横田璃日斗。彼は最近、廊下で落としたプリントを拾おうとしたとき、床が赤く染まったのを見たらしい」
「床が……赤く?」
俺は思わず聞き返した。
「水みたいに、床全体が赤く見えたそうだ。血のようにも見えたと言っていた。かなり驚いて、顔を上げたら、いつもの床に戻っていたらしい」
その説明を聞いた瞬間、俺の背中に冷たいものが走った。
赤い床。
水のように広がる色。
俺は、逆世界の光景を思い出していた。あの世界では、現実の建物がそのまま残っていることもあれば、意味の分からない色や形に塗り替えられていることもある。床が液体のように見えたり、壁の模様が生き物のように動いたりする。俺が最初に見たあの場所も、学校であるはずなのに、学校ではない何かへ変わっていた。
「次に、麻生啓成。彼は友人と歩いていたとき、窓の向こう側が白樺の葉で埋め尽くされるのを見たそうだ。まるで、葉っぱの雪崩が窓に押し寄せてくるように見えたらしい。驚いて振り返ったら、何もなかった」
「……白樺の葉?」
俺は、窓の外を見た。
五月の木々は、緑が濃くなり始めている。白樺の葉が窓の向こうに広がる光景そのものは、別に不自然ではない。だが、それが雪崩のように窓を覆い尽くすとなると話は違う。
それは、現実の風景ではない。
俺が知っている、あの世界の風景だ。
「中井亜朱奈は、最近、変な夢を見るようになったと言っていた。学校の中が真っ暗で、廊下や教室が壊れていて、何か分からないものが歩き回っている夢だそうだ。本人は、換気設備の異常で睡眠が浅くなっているのかもしれないと考えているらしい」
「夢……」
俺は、指先を握りしめた。
暗い校舎。壊れた教室。そこにいる、何か分からないもの。
それも、知っている。
知りたくなかったが、知っている。
「最後に、豊島偲万。彼女は三階のトイレから声が聞こえたことがあるそうだ。誰かが話しているような声だったらしい。ただ、使用禁止になっている場所だから、気になったけど中には入らなかったと言っていた」
……三階のトイレ。
俺は、息をするのを忘れた。
あの場所だ。
俺が最初に異常を経験した場所。逆世界へつながる入口。慶楽が手帳を見つけた場所。
四人の証言は、どれも別々の出来事だった。床が赤くなる。窓を葉が覆い尽くす。暗い校舎の夢を見る。使用禁止のトイレから声が聞こえる。それぞれの体験だけなら、見間違いや夢、疲労による錯覚で説明できるかもしれない。
だが、俺には分かってしまった。
それらは、あの世界で見た光景と似ている。
あまりにも、似ていた。
俺が初めて逆世界へ入ったとき、学校は学校のままではなかった。現実の建物を土台にしながら、そこに何か別のものが重なっていた。床も、窓も、廊下も、知っているはずの場所なのに、意味が変わっていた。そこにあるはずのないものが現れ、あるはずのものが消えていた。
そして今、俺以外の生徒たちも、その片鱗を見ている。
……どういうことだ?
俺だけが見ていたわけじゃないのか。
俺が特別だから、あの世界に入れたわけではないのか。
いや、そもそも、俺は特別なのだろうか。
そんな疑問が頭の中で一気に膨らんだ。だが、どれも答えが出ない。俺はただ、目の前の手帳を見つめていた。
紙の上に並ぶ四つの名前。
何の変哲もない、普通の名前だ。
それなのに、その名前の周囲には、俺たちの知らない何かがまとわりついている。
「……その四人、逆世界を見たんじゃないのか?」
俺は、ようやく口を開いた。
「見たというか……知らないうちに、あの世界に触れているんじゃないか。俺が見たものと、話が似ている。赤い床も、葉っぱに覆われた窓も、壊れた学校も、トイレから聞こえる声も……全部、あの場所で起きてもおかしくないことだと思う」
言いながら、俺は自分の声が少し震えていることに気づいた。
怖かったのだと思う。
四人が何かを見たという事実だけなら、まだよかった。だが、それが逆世界に関係しているのだとしたら、話は違ってくる。俺があの場所で経験したことは、俺一人の問題ではなかったのかもしれない。学校の中で、誰にも気づかれないまま、何かが広がっているのかもしれない。
しかも、俺はその原因も、仕組みも、止め方も知らない。
「……正解だよ」
慶楽が言った。
俺は顔を上げた。
「少なくとも、今の段階では、その可能性が一番高いと思う。四人が見たものは、逆世界の影響が現実側へ漏れ出していると考えれば説明がつく。本人たちが境界を越えたかどうかまでは分からないけど、何らかの形で接触している可能性はある」
「じゃあ、あの四人は危険な状態なのか?」
弥源治が尋ねた。
「危険かどうかは、まだ断定できない。ただ、何かが起きているのは間違いないと思う。四人の名前が同じ手帳に書かれていて、その周囲にミアズマが反応した。さらに、四人全員が、逆世界に似た異常を経験している。これだけ条件が重なれば、偶然だとは考えにくい」
慶楽は、手帳を閉じた。
「そして、彼らに何かが起きているのなら、白樺高校全体が無関係だとも言い切れない。学校という場所そのものが、何かの影響を受けている可能性があるからね」
教室の中が静かになった。
俺は、窓の外を見た。
いつもどおりの校舎。いつもどおりのグラウンド。いつもどおり、部活動をしている生徒たちの声が聞こえる。明日になれば、また授業が始まる。先生が黒板に文字を書き、生徒がノートを取り、誰かが居眠りをして、誰かがくだらない話をする。俺も、その中の一人として一日を過ごすだろう。




