第⑰章:名前を失った手帳 (3)
皆様、あらためてこんにちは。
なぜこの22日間、新しい章を公開できずにいたのか。その理由は、一言で言えば私自身の甘さと停滞にありました。言い訳がましく自分の日常を長々と語るつもりはありませんが、現在の私の現実について少しだけ触れさせていただきます。
私は現在、高校に通っている学生です。決して優等生というわけではなく、日々の課題やテストに追われながら、どうにか学生生活を送っています。特にこれからの季節は、次の試験や学業のプレッシャーが重なってくる時期です。もともと少し不安を感じやすい性格もあり、頭の中で物事をネガティブに大きく捉えてしまう癖があります。
それに加えて、家庭内の個人的な事情や、睡眠に関するトラブル(不眠気味なこと)、そして学校での人間関係や友人関係における小さなすれ違いなど、様々なことがこの1ヶ月の間に重なってしまいました。学校の音楽部での活動や、姉が働くレストランでの手伝い、母親のサポートなど、日々のルーティンだけでも手いっぱいになってしまい……。
気がつけば、小説を書くこと自体が、どこか機械的な「繰り返しの作業」のように感じられてしまっていたのです。物語を生み出す喜びよりも、「更新しなければならない」という義務感に心がすり減り、脳が完全にエネルギー切れを起こしてしまいました。「1,000ビュー達成」という素晴らしいマイルストーンを皆様からいただいたにもかかわらず、自分の内面が追いつかず、すべてが空虚に思えてしまったのです。
(※第4パートへ続く)
「慶楽先輩」
俺は、できるだけ自然な声で呼びかけた。
「ん?」
「じゃあ、そろそろ二人の過去とか、教えてくれたりしない?」
口にしてから、さすがに図々しかったかもしれないと思った。
だが、気になっていたのも事実だ。自分が逆世界に関わるようになった経緯を知りたいのと同じくらい、目の前の二人がどうしてそこにいるのか知りたかった。どういうきっかけで力を得たのか。どうして危険だと分かっている場所へ行き続けるのか。そもそも、何を目的にしているのか。
俺は、彼らのことをほとんど知らない。
同じグループに所属しているのに、名前と学年と、少しの性格しか知らない。そんな相手と、いつか命の危険がある場所へ行くかもしれないのだ。普通に考えれば、不安になって当然だろう。
慶楽はすぐには答えなかった。銅崎も、俺の顔を見たまま黙っていた。
やがて、慶楽は先ほど閉じたノートに手を置いた。
「それは、まだ話せない」
「……え?」
「君がこのグループに入ってから、まだほとんど時間が経っていないからね。お互いに知っておくべきことはあると思う。でも、誰にでも話せることと、そうじゃないことがある」
銅崎が静かに頷いた。
「私たちにも、それぞれ事情があるの。あなたに話したくないというより、今は話すべきではないということ」
「今は、ってことは……いつかは話してくれるのか?」
「それは、あなたがこれからどうするかにもよると思う」
銅崎の言葉は穏やかだったが、曖昧な約束をしているわけではなさそうだった。話せるようになる日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。少なくとも、俺が加入したからといって、彼らの過去まで自動的に共有されるわけではないということだ。
当たり前だ。
分かっている。分かっているけれど、少しだけ残念だった。
「俺たちは、ある目的があって動いている。逆世界が危険な場所だということは分かっているし、そこにいる何かが現実へ影響を及ぼす可能性も無視できない。だから、できる範囲で調べて、必要なら対処する。それが今の俺たちのやっていることだ」
慶楽は一度言葉を切った。
「少なくとも、誰かを傷つけるために力を使っているわけじゃない。それだけは信じてほしい」
俺は顔を上げた。
その言い方には、妙な重さがあった。自分たちの行動を正当化するための説明というより、俺がこれ以上不安にならないように、最低限のことだけ伝えようとしているように聞こえた。
けれど、俺はその目的の全貌を知らない。逆世界が危険だという話も、アヒルフェから聞いたものと、彼らから聞いたものが一致しているだけだ。何を調べているのか。何を対処しようとしているのか。どんな危険を想定しているのか。肝心な部分は、まだ見えてこない。
それでも、二人が俺を騙そうとしているようには見えなかった。
もちろん、見えないだけだ。人間は、嘘をつくときでも平然とした顔をしていられる。俺だって、親に話していないことがあるし、学校で本音を全部さらけ出しているわけでもない。秘密があるからといって、必ずしも悪人ということにはならないのだろう。
「……分かった。ごめん、また聞きすぎた」
「気にしなくていいよ。知らないことが多いのは当然だから。ただ、俺たちの過去より、まずは逆世界について知ってほしい。あそこは、君が思っている以上に危険だから」
「俺が思っている以上に、か……」
俺は苦笑した。
死にかけたことがある人間に向かって、まだ危険だと念を押す必要があるのだろうか。いや、あるのだろう。俺はあの場所を、まだほとんど知らないのだから。
そして、知らないものを知ったつもりになるのが、たぶん一番危ない。
頭の中で、アヒルフェが小さく鼻を鳴らした。
『少なくとも、その程度の理解に至ったことは褒めてやろう。君にしては上出来だ』
……一言余計なんだよ。
俺はため息を飲み込み、慶楽に向き直った。
「じゃあ、もう一つだけ」
「まだあるのか」
「いや、最後。たぶん」
銅崎が小さく笑った。慶楽は、もう慣れたというような顔で俺を見ている。
「……慶楽先輩って、やっぱりリーダーなの?」
聞いた瞬間、自分でも、なんてどうでもいい質問をしたのだろうと思った。
いや、どうでもよくはない。組織に所属した以上、誰が責任者なのかを知るのは大事だ。ゲームだって、パーティーのリーダーが誰なのか分からなければ、誰に話しかければいいのか困る。そういう意味では、かなり重要な情報である。
たぶん。
「一応、そういうことになるのかな」
慶楽は、少し困ったように笑った。
「俺が最初に動き始めたから、自然とまとめ役になっただけだよ。リーダーというほど立派なものじゃない」
「でも、実際に指示を出したりしてるんだろ?」
「必要なときはね」
「じゃあ、銅崎先輩が副リーダー?」
「そういう認識でいいと思う」
銅崎は特に否定しなかった。
「一夜月は、俺が判断を間違えそうなときに止めてくれるし、俺が見落としたことにも気づいてくれる。だから、俺の次に判断を任せることが多い。もちろん、状況によっては彼女の判断を優先することもあるよ」
「へえ……」
俺は銅崎を見た。
落ち着いている人だとは思っていたが、単に大人しいというわけではないらしい。初対面のときも、弥源治の冗談を止めたり、俺が話しやすいように間に入ったりしていた。あのときは、慶楽がリーダーで銅崎が補佐役、という印象を受けたが、実際にもそんな感じなのだろう。
「じゃあ、弥源治は?」
「普通のメンバーだね。君と同じ」
「えっ、俺と同じ?」
思わず聞き返した。
「いや、俺、まだ何もできないんだけど……」
「春人も、何でもできるわけじゃないよ。経験は君より少しあるけど、そこまで大きな差があるわけでもない。君が今の段階で何もできないのは、単に経験が足りないからだと思う」
「……本当に?」
「本当だよ。少なくとも、今から覚えていけばいいことはたくさんある」
慶楽は、そう言って軽く頷いた。
俺は何となく、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
弥源治と同じ立場だと言われても、素直に喜んでいいのかは分からない。あいつは初対面のときから、俺よりもこの状況に慣れているように見えたし、俺をからかう余裕まであった。俺は逆世界に関する知識こそ、アヒルフェからある程度教えられているものの、実際に自分で力を使ったことはほとんどない。
それでも、今の時点で置いていかれていると決まったわけではないらしい。
なら、少しくらいは希望を持ってもいいだろう。
……いや、別に期待しているわけじゃない。期待して失敗すると、余計に落ち込むからな。俺は慎重なだけだ。そう、慎重。
「分かった。じゃあ、これからよろしくお願いします、って感じか」
「うん。よろしく」
慶楽は気負うことなく答えた。
銅崎も、こちらを見て小さく頷く。
そのやり取りで、ようやく俺は自分が本当にグループの一員になったのだと、少しだけ実感した。とはいえ、正式な書類に名前を書いたわけでもなければ、会員証をもらったわけでもない。そもそも、俺は彼らの連絡先すら知らないのだ。組織として考えると、かなり危うい気がする。
連絡網くらい作ってくれないだろうか。
いや、まずはスマートフォンの番号を交換するところからだ。俺が何かあったときに、わざわざあの古いビデオレンタル店まで走っていかなければならないのは、どう考えても不便すぎる。逆世界に関する秘密を扱っているから、気軽に連絡先を交換できない事情でもあるのだろうか。それとも、単に慶楽が忘れているだけなのか。
……後者だったら、少し嫌だな。
「それで、今日は何のために集まったんだ?」
俺は銅崎に尋ねた。
「さっきから、ずっとそれが気になってるんだけど。新しいルールの説明とか? それとも、次に行く場所を決めるとか?」
「その話は、春人が来てからする」
「……またそれか」
「何か問題でも?」
「いや、問題ってほどじゃないけどさ。俺、何も知らないまま呼ばれたから、ちょっと気になってるだけ」
「もう少し待って」
銅崎は、それ以上は説明しなかった。
俺は口を閉じた。
どうやら、今日は本当に何も教えてもらえないまま終わるのかもしれない。せっかく放課後の予定を変えてまで来たのに、ここで待っているだけというのは、少しばかり拍子抜けだった。もちろん、弥源治が来るまで待つ必要があるのは分かる。三人で話し合うことなのだろうし、俺だけ先に説明されても仕方がない。
それでも、暇だった。
俺は椅子に座り直し、再び自分の手を見つめた。指先を開いて、閉じる。爪の形も、皮膚の色も、普通の高校生のものだ。左目の色と髪のことさえなければ、俺は今でも、どこにでもいる生徒の一人だったはずだ。
普通の学校生活を送って、友達とくだらない話をして、ゲームをして、休日には寝坊する。将来のことを考えるのは面倒だけれど、いつかは何とかなるだろうと、漠然と思いながら過ごす。そんな生活を続けていたはずなのに、気がつけば、俺は知らない人間たちと空き教室に集まり、異世界について話している。
……人生って、もっと段階を踏んで変わるものじゃないのか。
何かが起きるなら、せめて前兆くらいあってもいいだろう。例えば、妙な夢を見るとか、知らない声が聞こえるとか、日常の中に小さな異変が増えていくとか。いや、実際にはそういう前兆があったのかもしれない。俺が気づかなかっただけで。
そう考えると、少しだけ嫌な気分になった。
自分の人生なのに、自分が気づかないうちに、何かが進んでいたのだとしたら。
そして、今もその続きが進んでいるのだとしたら。
俺は、いったいどこまで知らないままでいるのだろう。
窓の外から、部活動の終了を知らせる声が聞こえた。夕方の光が少しずつ薄くなり、教室の床に伸びていた日差しも、いつの間にか机の脚の下へ移動している。
慶楽はノートを開き直し、何かを書き込んでいた。銅崎は腕を組み、扉のほうを時折気にしている。
俺だけが、何もすることがなかった。
……いや、こういうときこそ、仲間のことをもっと知ろうと努力するべきなのかもしれない。けれど、さっき過去について尋ねて、今は話せないと言われたばかりだ。あまりしつこく聞くのも気まずい。何より、相手が話したくないことを無理に聞き出すのは、俺だって好きではない。
だから、待つしかなかった。
数分が経ったころ、廊下から足音が近づいてきた。
最初は、別の生徒が通り過ぎるだけだと思った。放課後の校舎では、誰かの足音など珍しくもない。だが、その足音は教室の前で止まり、扉の向こうで何かが軽くぶつかる音がした。
慶楽が顔を上げる。
銅崎も、扉へ視線を向けた。
そして、ノックもそこそこに、扉が開いた。
「……悪い。遅れた」
入ってきたのは、弥源治春人だった。
俺は、思わずそちらを見た。
制服は、前に会ったときと同じように少し着崩れていた。襟元は整っておらず、ネクタイもどこか中途半端な位置にある。髪は乱れ、顔には疲れがはっきりと浮かんでいた。眠そうというより、まともに休めていない人間の顔だった。肩も少し落ちていて、教室へ入ってきたあと、扉のそばで一瞬だけ立ち止まっている。
俺は、その姿を見て、ようやく一つのことを確信した。
やっぱり、こいつは授業に出ていない。
少なくとも、俺が想像していたような普通の学校生活を送っているわけではなさそうだった。
もちろん、今日だけ体調が悪かったという可能性もある。用事があって早退したのかもしれないし、何か別の事情があるのかもしれない。俺には、まだ何も分からない。
さっき慶楽に言われたことを思い出す。
誰かが学校に来ない理由を、単に怠けているからだと決めつけるのは簡単だ。
俺は、何か言おうとした。
「お前、今日学校にいた?」と聞けばいい。あるいは、「何組なんだ?」と、さっきの質問をそのままぶつけてもいい。いつもなら、そのくらいのことは何でもない顔で聞けたかもしれない。
けれど、弥源治の疲れた顔を見ていると、言葉が喉の奥で止まってしまった。
何を聞けばいいのか、分からなかった。
弥源治は俺の視線に気づいたのか、こちらを一瞥した。いつものように何か軽口を叩くかと思ったが、今日はその気配すらなかった。彼は短く息を吐いてから、慶楽たちのいる机へ歩いていく。
「……で、何の話?」
その声も、いつもより低く、かすれていた。
俺は黙って、彼の後ろ姿を見ていた。
同じ一年生。リミナル・トラベラーズのメンバー。俺より少しだけ経験があるらしい男。
それ以外のことを、俺は何も知らない。
そして、たぶん今の俺には、知らないままにしておくべきこともあるのだろう。
そう考えながら、俺は膝の上で組んでいた手を、ゆっくりとほどいた。




