第⑰章:名前を失った手帳 (2)
読者の皆様、いつも『鏡のエレジー』をお読みいただき、本当にありがとうございます。長らく更新が途絶えてしまい、ご心配をおかけしたことをお詫び申し上げます。
まずはじめにお伝えしたいのは、今回の第17章(全5パート)はすでにご用意が完了しているということです。今回はあわずじっくりと読み応えを楽しんでいただけるよう、長めのボリュームで執筆いたしました。最初の2パートは約5,000〜6,000文字、後半の2パートは約10,000文字の大ボリュームとなっております。短時間で読み終わるものではなく、しっかりと浸っていただける物語をお届けしたかったため、今後はこのような長めのスタイルを中心に執筆していく予定です。
そして、この「前書き」のスペースを借りて、更新が止まっていたこの22日間のこと、そして私の近況について少しだけお話させてください。物語本編とは直接関係のない個人的な出来事ですので、もしストーリーだけを楽しみたいという方は、この部分は読み飛ばしていただいても構いません。ただ、長期間お待ちいただいた読者の皆様へ、せめてもの誠意として、私の言葉で理由をお伝えできればと思いました。
日本の文化やプライバシーの観点から、あまり赤裸々に自分のプライベートを語るべきではないかと悩んだのですが、私自身の心境の整理と、支えてくれる読者の皆様への率直な思いとして、少しずつこの前書きに綴っていこうと思います。
(※第3パートへ続く)
銅崎一夜月の後ろを歩きながら、俺は自分が何をしに行くのか、改めて考えていた。
いや、考えるまでもない。リミナル・トラベラーズの連中に呼び出されたのだから、用件はどうせ逆世界に関することだろう。新しい規則の説明か、次に調査する場所の相談か、それとも俺が知らない間に何か問題が起きたのか。可能性はいくつか浮かんだが、どれも決定打に欠けていた。そもそも、あの三人とまともに顔を合わせたのは、まだ数日前のことだ。加入したばかりの新入りに、そんなに頻繁に重要な話が舞い込んでくるものなのだろうか。
ゲームなら、加入イベントの直後にチュートリアルが始まり、最低限の装備を渡され、最初のクエストへ向かうのが定番だ。仲間になったばかりの主人公を、何の説明もなく待機させ続けるゲームなんて、プレイヤーから苦情が殺到するに違いない。少なくとも俺なら、レビューに「テンポが悪い」と書く。星は二つくらいだ。
ところが、現実にはクエスト一覧もなければ、親切な案内役もいない。あるのは、学校の廊下を先に歩く銅崎の後ろ姿と、俺の頭の中に住み着いた性格の悪い幽霊だけだった。
『不満があるなら、本人に直接伝えればいい。君は自分が主人公であることを期待しているくせに、主人公として必要な行動を取るのは嫌いらしい』
頭の内側から、聞き慣れた声がした。
……本当に、こいつは人の考えを台無しにする才能だけなら一流だと思う。
俺は銅崎に聞こえない程度に息を吐いた。アヒルフェの言うことが正しいかどうかはともかく、今ここで不満をぶつけても仕方がない。俺だって、呼び出された理由くらいは知りたいのだ。
「こっちだ」
銅崎は廊下の途中で曲がり、普段はあまり人が出入りしていない教室の前で足を止めた。掲示物も少なく、扉の横には使われなくなったらしい備品が積まれている。放課後の校舎にはまだ部活動の声が響いていたが、この辺りまで来ると、それもずいぶん遠くに聞こえた。
「ここ?」
「そう。入って」
言われるままに扉を開けると、そこは机と椅子がいくつか残された空き教室だった。窓際のカーテンは半分だけ閉じられ、五月の午後の日差しが床に細長い帯を作っている。黒板には消し残しの白い線があり、教卓の端には誰かが置き忘れたらしいチョークが一本転がっていた。特別なところなど何もない。むしろ、学校の中で最も物語が起きそうにない場所と言ってもいい。
俺が中へ入ると、銅崎は後ろ手に扉を閉めた。
そして、窓際に置かれた机のそばに、もう一人いることに気づいた。
「お、来たか」
慶楽智皓だった。
彼は椅子に座り、机の上に置いたノートを閉じたところだった。赤みのある髪はいつもどおり整っているが、その顔には、以前会ったときよりも少し疲れが見えた。目の下に薄い影があるというほどではない。それでも、何かを考え続けていた人間特有の、意識を完全には休めていない感じがあった。
「待っていたよ。まあ、正確には弥源治を待っているところだけど」
「……弥源治?」
俺は思わず聞き返した。
「そう。春人のこと」
「ああ、いや、それは分かってるけど」
分かっている。名前くらい覚えている。初対面で刃物を持った俺をからかい、銅崎に頭を叩かれていた、あの妙に馴れ馴れしい男だ。
ただ、少し気になることがあった。
俺は慶楽と銅崎を交互に見た。二人とも、俺が何か言うのを待っているようだった。いや、実際には特に待っていなかったのかもしれないが、こういう沈黙が生まれると、俺はどうしても何か言わなければならない気がしてしまう。会話の空白を埋めるために、別に必要でもない言葉を探してしまうのだ。
「……そういえばさ、弥源治って、何組なの?」
結局、口から出てきたのはそんな質問だった。
慶楽がわずかに眉を上げた。
「何組?」
「いや、俺と同じ一年だろ? なのに、学校で全然見かけないから。今日も見てないし、前に会ったときも、学校の中で会ったわけじゃなかったしさ。普通、同じ学年なら廊下とか教室とかで、もう少しくらい顔を合わせるものじゃないのか?」
言いながら、俺は自分の質問が少し妙な方向へ進んでいることに気づいた。まるで、クラスメイトの出席状況を把握していないことを責めているみたいだ。別に、弥源治の担任でも学級委員でもないのに。
ただ、気になったものは仕方がない。
慶楽と銅崎については、それほど不思議ではなかった。二人は俺より上の学年だから、授業も教室も違う。廊下ですれ違わない日があってもおかしくないし、そもそも俺は、学校にいる人間全員の顔を覚えているわけではない。慶楽に関しては、話し方や態度からして、授業も課題もそれなりにこなしているのだろうと思う。何となく、学校生活に追われている人間の雰囲気がある。もっとも、余裕があるようには見えない。むしろ、何かと気にかけることが多くて、ずっと頭の中が忙しそうだった。
銅崎についても、今日、七瀬が音楽関係の活動をしていると話していた。授業以外にも予定があるなら、俺と行動が重ならないのは普通だ。
問題は弥源治だ。
あいつは俺と同じ一年生のはずなのに、制服を着ているところしか知らない。学校の制服を着ているのだから、学校に通っているのだろう、と考えるのが自然だ。だが、そもそも制服を着ていることと、毎日授業に出ていることは同じではない。制服を着たまま一日中校内をうろつくことだって、理屈の上ではできる。
いや、できるけど。普通はしないだろ。
それに、あいつの制服はいつ見ても少しだらしない。着崩しているというより、最初から整える気がないような感じだ。ネクタイや襟元がどうなっていたか、正確には覚えていないが、少なくとも、俺が知っている真面目な生徒の身だしなみではなかった。
もしかしたら、何か事情があるのかもしれない。
そう考えると、単に面倒くさがりなだけだと決めつけるのも違う気がした。もちろん、本人が本当に面倒くさがりなだけという可能性もある。人間なんて、外から見ているだけでは分からないものだ。俺だって、他人から見ればただの無気力な高校生だろうし、そこに幽霊が一人同居しているなど、誰が想像するだろうか。
「弥源治が学校で何をしているか、気になる?」
慶楽が尋ねた。
「いや、何をしているかっていうか……同じ学年なのに、見ないなって。もしかして、どこか別のクラスにいるのかと思って」
「別のクラスにいるのは、まあ、そうだろうね」
「いや、そういう意味じゃなくて」
思わず突っ込むと、慶楽は小さく笑った。銅崎は壁際に寄りかかったまま、こちらを静かに見ていた。二人とも、何かを隠しているというより、俺が踏み込もうとしている場所を慎重に見極めているようだった。
「春人が学校にあまり顔を出さない理由は、本人の個人的な事情だ。俺から勝手に話す権利はない」
「……ああ、そっか」
それ以上、言葉が出てこなかった。
慶楽の声は、別に冷たくはなかった。怒っているわけでも、俺を追い払おうとしているわけでもない。ただ、ここから先は話さない、と明確に線を引いていた。
「一つだけ言えるとしたら、誰かが学校に来ない理由を、単に怠けているからだと決めつけるのは簡単だってことかな。人によっては、そうするだけでも難しい事情がある。外から見ている側には、それが分からないことも多いからね」
俺は視線を落とした。
……それは、そうかもしれない。
けれど、俺には弥源治の事情が何も分からない。どんな家庭なのか、何か問題があるのか、そもそも学校に行きたくないのか、それとも行けないのか。情報がない以上、頭の中で勝手に想像するしかない。しかも、想像したところで正解にたどり着ける保証はない。
物語なら、こういう場面で過去の回想が始まる。主人公が仲間の秘密を知り、相手の抱えていた傷に気づき、少しずつ理解を深めていく。だが、現実には、他人の事情を知るための都合のいい回想シーンなど存在しない。本人が話さない限り、こちらは知らないままだ。
そして俺は、知らないままでいることに、少しだけ落ち着かなさを感じていた。
いや、別に心配しているわけじゃない。たぶん。
ただ、同じグループの人間が何を考えているのかくらい、知っておいたほうがいいと思っただけだ。これから一緒に逆世界へ行く可能性があるのなら、なおさらだろう。仲間の性格も事情も知らずに行動するなんて、ゲームで言えば、ステータスもスキルも分からないキャラクターをパーティーに入れるようなものだ。攻略する側としては、少し不安になる。
もっとも、俺自身のステータスだって、まともに把握できていないのだが。
「……分かった。ごめん、変なこと聞いて」
「いや、謝るほどのことじゃないよ」
慶楽はそう言ったが、それで話が終わったことは分かった。
俺は空いている椅子に腰を下ろした。座面が少し硬く、脚が床をこする音が思ったより大きく響いた。教室の中には、窓の外から聞こえる運動部の掛け声と、遠くの廊下を走っていく生徒の足音が薄く入り込んでいる。誰かが笑っていた。誰かが教師に注意されていた。いつもどおりの学校の放課後だ。
なのに、この部屋の中だけ、妙に空気が重い。
俺は膝の上で手を組み、指先を眺めた。何かを話したほうがいいのか、それとも黙っていたほうがいいのか。こういうときの正解は、いつまで経っても分からない。
初対面のときは、もっと騒がしかった気がする。俺がナイフを持っていたせいもあるだろうが、弥源治はやたらと口を挟み、銅崎はそれを止め、慶楽は話をまとめていた。あのときは、三人とも妙な連中だと思った。今もその印象は変わっていないが、少なくとも、ただの変わり者の集まりではないらしい。
彼らには、俺の知らない事情がある。
当然のことだ。分かりきった話なのに、実際に目の前に突きつけられると、少しだけ居心地が悪かった。
「……あのさ」
気づけば、また口を開いていた。
銅崎がこちらを見る。慶楽も、急かすことなく視線を向けてきた。
「一つ、聞いてもいい?」
「どうぞ」
慶楽が答えた。
「二人って、いつから力を使えるようになったんだ? というか、いつから逆世界に入れるようになったの?」
今度は、さっきよりも慎重に尋ねた。
自分でも、質問が多いとは思う。けれど、分からないことだらけなのだ。俺が逆世界について知っていることの大半は、アヒルフェから聞いた話でしかない。それも、あいつがどこまで正直に話しているのか分からないという問題がある。あいつは必要な情報を隠すことにためらいがないし、俺が理解できる範囲に合わせて説明していると言いながら、わざと難しい言葉を使っている節さえある。
なら、実際に逆世界へ出入りしている人間の話を聞くのは、決して無駄ではないはずだ。
慶楽と銅崎は、すぐには答えなかった。
二人は一度、互いに視線を交わした。ほんの一瞬だったが、俺にはそれが妙に長く感じられた。何か相談しているのか、それとも、どこまで話していいか考えているのか。俺には分からない。
やがて、慶楽が小さく息を吐いた。
「……君は、本当によく質問するね」
「えっ。あ、ごめん」
反射的に謝ってしまった。
「いや、責めているわけじゃない。ただ、知りたいことが多いんだなと思って」
「まあ、それは……そうだけど」
否定できなかった。
知りたいことは多い。多すぎるくらいだ。自分の髪や目が変わった理由、アヒルフェが俺の体にいる理由、逆世界が何なのか、どうして俺がそこに関わることになったのか。考え始めれば、疑問はいくらでも増えていく。
そして、俺は自分が知らないことに、思った以上に耐えられないらしい。
知らないままでいるのは怖い。けれど、知ったところで何かを変えられるとは限らない。そんな矛盾を抱えたまま、俺は質問を続けている。
「ただ……俺は、自分がどこまで分かっていないのかも分かっていないんだ。だから、せめて君たちがどんな経験をしてきたのか、少しでも知っておきたいと思った」
慶楽の声は穏やかだった。
その言葉を聞いて、俺は少しだけ肩の力を抜いた。怒られたわけではない。質問するなと言われたわけでもない。それだけのことなのに、妙に安心してしまう自分がいた。
「俺が力を使えるようになったのは、ゴールデンウィークより前だよ」
「ゴールデンウィークより前……?」
慶楽の表情が変わった。
先ほどまでの、少し疲れたような顔から、何かを確かめようとする顔へ。銅崎も壁から背中を離し、わずかに姿勢を正した。
「それから、逆世界には入ったの?」
「いや、入ってない」
「一度も?」
「……たぶん」
「たぶん?」
「いや、正確には、俺が自分の意思で入ろうとしたことはない。前に話しただろ? 俺はあの場所に入ったとき、途中で死にかけて、それで……まあ、いろいろあって」
そこまで言って、俺は口をつぐんだ。
あまり詳しく説明したくなかったというのもある。あのときのことを思い出すと、今でも体の奥に嫌な感覚が残る。折れた骨の痛み。息ができなくなったときの苦しさ。自分の体が自分のものではなくなっていくような、あのどうしようもない感覚。実際には、アヒルフェが俺の体を修復したおかげで生きているのだが、だからといって、死にかけた経験がなかったことになるわけではない。
そして、俺の頭の中には、その話を聞いている本人がいる。
『正確には、君は逆世界への接続を一度経験している。だが、君の意思で境界を越えたわけではない。そこを混同しないことだ』
アヒルフェの声が、静かに割り込んだ。
『それに、私が君の認識を制限していることも、理由の一つだろう。未熟な器に、扱えもしない景色を見せたところで、壊れる時期を早めるだけだ』
……そういう言い方をされると、俺が何もできない子供みたいに聞こえるんだが。
いや、実際、何もできていないのだから反論しづらい。
俺は頭の中で言い返すのをやめ、慶楽に視線を戻した。
「俺の中にいるやつが、あまり自由にさせてくれないんだ。逆世界のことを知っているのはそいつのおかげだけど、同時に、俺が勝手に動くのも止められてるみたいでさ」
「……なるほど」
慶楽は考え込むように視線を落とした。指先で机の縁を軽く叩き、何かを頭の中で整理しているようだった。
「それは、少し興味深いね」
「興味深いって……」
「いや、悪い意味じゃないよ。力が目覚めたあと、君が逆世界へ入っていないというのは、俺たちの知っている事例とは少し違う。普通なら、何らかの形で再び境界に引き寄せられることがある。君の場合は、その過程が止められているのかもしれない」
「それって、いいことなのか?」
「今の段階では分からない」
即答だった。
期待していた答えではなかったが、適当な安心を与えられるよりは、ずっとましだった。分からないことを分からないと言える人間は、それだけで少し信用できる気がする。もちろん、それだけで信用しきれるほど、俺はお人好しではないけれど。
「ただ、今ここで結論を出すのはやめておこう。確認するには、もっと情報が必要だ。君の状態についても、俺たちが知っていることだけでは説明しきれない部分が多いからね」
「……そっか」
また、分からないことが増えた。
俺は膝の上に置いた手を見つめ直した。指を少し曲げると、関節がかすかに鳴った。普通の手だ。少なくとも、見た目にはそうだ。これでカードを武器にしたり、黒いインクのようなものを出したり、異世界の怪物と戦ったりすることになるらしい。
どう考えても、順番がおかしい。
普通なら、力の使い方を学んでから危険な場所へ行くべきだろう。俺の場合は、危険な場所で死にかけたあとに、力があるらしいと知らされた。しかも、説明役は性格の悪い幽霊である。導入としては、もう少し丁寧に作ってほしかった。これが小説なら、編集者に構成を見直せと言いたくなる。
……いや、そもそも、俺はこの話の主人公なのか?
そう考えたところで、頭の中のアヒルフェが笑った気がした。
やめろ。今はその話をするな。




