第⑰章:名前を失った手帳 (1)
病院から帰ってきてから、二日が経った。
たった二日。
なのに、妙に長く感じる。
別に何かがあったわけじゃない。むしろ逆だ。何もなかった。朝起きて、学校へ行って、授業を受けて、昼飯を食べて、帰ってきて、寝る。たまにアヒルフェと話して、たまに目や髪のことを思い出して、また忘れる。
それだけ。
病院で「大きな異常はない」と言われたことも、最初のうちは少し気になっていたけど、二日も経つとだんだんどうでもよくなってきた。髪が白いからといって毎朝鏡を見るたびに驚くわけでもないし、左目が灰色だからといって授業中ずっと片目を隠しているわけでもない。
人間というのは慣れるらしい。
自分の身体が変になっても。
……いや。
変になったという言い方はよくないか。
珍しくなった。
そう。
珍しくなっただけだ。
医者もそう言っていた。
危険ではない。
今のところは。
この「今のところ」という部分だけが少し気になるけど。
『医者の言葉尻をいつまで気にしている』
頭の中からアヒルフェの声がした。
『別に』
『気にしている顔だ』
『顔で分かるの?』
『お前は思考がそのまま表情に出る時がある』
『最悪じゃん』
『特に不安な時と、何かを企んでいる時は分かりやすい』
『企んでない』
『今も少しだけ逆世界へ行きたそうな顔をしている』
俺は机に頬杖をついた。
教室の窓から外を見る。
普通の校庭。
普通の空。
普通の生徒。
普通の学校。
……退屈。
ものすごく退屈だった。
いや、学校なんだから退屈なのは当たり前なんだけど。
問題は、その退屈さを以前とは違う基準で感じるようになったことだ。
少し前までなら、授業がつまらないとか、スマホを触れないとか、早く帰りたいとか、その程度だった。
今は違う。
俺は知ってしまった。
この世界の裏側に、もう一つの世界がある。
人間の感情や思考から生まれたかもしれない場所。
現実の建物と重なっているのに、まったく違う姿をしている場所。
怪物がいて。
意味の分からない空間があって。
俺にはアヒルフェがいて。
そして。
俺はその世界へ入れる。
……なのに。
何も起きない。
「……」
俺は机の上のシャーペンを指で回した。
回して。
落とした。
拾った。
また回した。
また落とした。
自分でも馬鹿みたいだと思う。
『退屈なら勉強でもしたらどうだ』
「嫌だ」
『即答だな』
「今はそういう気分じゃない」
『なら何をしたい』
「ミッション」
『……』
「何かないの?」
『私に聞くな』
「だってお前、昔からそういう世界にいたんだろ」
『昔から、という言い方は気に入らんな』
「じゃあ昔じゃないの?」
『時間の話をすると面倒になる』
「ほら」
俺は小さく笑った。
授業中だから声は出さない。
……まあ、少しくらいならいいだろう。
それより。
本当に何もない。
リミナル・トラベラーズに入った。
秘密基地みたいな場所も見た。
逆世界についても少し教えてもらった。
なのに。
次の日から普通の高校生。
何だこれ。
ゲームなら序盤のチュートリアルが終わったところで、突然ログインボーナスだけ配られて放置されている状態だ。
せめて次のクエストくらい出してほしい。
俺は「第一の仲間を得た!」みたいな気分だったのに。
現実には。
誰も連絡してこない。
そもそも。
俺はケイラク先輩の連絡先を知らない。
銅崎先輩のも知らない。
弥源治のも知らない。
……。
待って。
俺、グループに入ったんだよな?
普通こういうのって連絡先交換しない?
現代の高校生だぞ?
スマホがあるんだぞ?
グループチャットとか作らないのか?
『お前が聞かなかったからだろう』
「……」
『自分から連絡先を聞けばいい』
「なんか恥ずかしい」
『昨日まで自分を主人公だと思っていた男が、連絡先一つで恥ずかしがるのか』
「それはそれ」
『都合のいい自我だ』
「うるさい」
銅崎先輩は二年生。
慶楽先輩は三年生。
だから授業で見ないのは別におかしくない。
学年が違えば教室も違う。
廊下ですれ違わないことだってある。
でも。
弥源治。
あいつは一年生だったはずだ。
俺と同じ。
なのに、俺はまだ一度も教室で見ていない。
というか。
あいつ、本当に学校に来ているのか?
制服は着ていた。
間違いなく白樺の制服だった。
でも。
あの着崩し方。
あれを朝から夜までやっているなら、教師に何か言われないのか。
シャツ。
ジャケット。
全部適当。
髪も長い。
顔には傷みたいなものもある。
普通なら、どこかで教師に止められそうなものだけど。
……もしかして。
あいつは学校では別人みたいにしている?
それとも。
単純に俺が知らないだけ?
俺は弥源治のことをほとんど知らない。
名前。
一年生。
リミナル・トラベラーズの三人目。
それだけ。
聞こうと思えば聞ける。
でも、なんとなく聞きづらい。
変な家庭事情があったら嫌だ。
学校へ来ない理由があったら嫌だ。
「なんでお前、学校に来ないの?」なんて聞いて、実は深刻な事情でした、なんてことになったら最悪だ。
俺はそこまで空気が読めないわけじゃない。
……たぶん。
だから、今のところは放置。
そういうことにしておく。
授業終了のチャイムが鳴った。
俺は時計を見る。
やっと。
放課後。
この時間だけは好きだ。
授業という名の拘束から解放される。
俺は教科書を鞄へ突っ込み、シャーペンやノートを適当に入れていく。
「慧璃」
前の席から声がした。
凛成。
「今日、一緒に帰ろうぜ」
「え?」
板柿凛成が振り返る。
その横に七瀬慧斗もいる。
「ちょっと寄りたいところあるんだけど」
「どこ?」
「まあ、見てからのお楽しみ」
「……怪しい」
「怪しくないって」
凛成が笑う。
その笑い方。
何というか。
ちょっと必死だ。
まるで断られたら本当に泣きそうな顔をしている。
「……」
俺は二人を見る。
別に。
予定はない。
リミナル・トラベラーズから連絡が来るわけでもない。
逆世界へ行く予定もない。
アヒルフェから「今日はこれをしろ」と言われるわけでもない。
家へ帰ったって暇。
「いいけど」
「マジ?」
「うん」
「よし!」
凛成が妙に嬉しそうにする。
そこまで喜ぶ?
俺と帰るだけだぞ。
ちょっと怖い。
「じゃあ行こうぜ」
「待って、慧璃。ノート」
「え?」
慧斗が俺の机を指す。
「それ、教室に置いていくつもり?」
「あ」
数学のノート。
俺は慌てて鞄へ入れた。
「……今日、ちょっとぼんやりしてない?」
「そう?」
「うん」
慧斗がそう言った。
俺は答えなかった。
まあ。
最近は考えることが多い。
逆世界。
リミナル・トラベラーズ。
アヒルフェ。
自分の能力。
これから何が起きるのか。
……考えても答えは出ないけど。
俺たちは教室を出た。
廊下。
他の生徒たち。
部活動へ向かう人。
友達と話す人。
先生に呼ばれる人。
普通。
全部普通。
その時だった。
少し先。
廊下の向こうから。
見覚えのある姿が歩いてくる。
「……あれ?」
俺は足を止めた。
黒髪。
制服。
落ち着いた歩き方。
銅崎一夜月。
リミナル・トラベラーズの二人目。
彼女だった。
俺の方を見て。
ほんの一瞬。
目が合った。
俺は反射的に立ち止まる。
慧斗も彼女を見る。
「あれ?」
「どうした?」
「いや、あの人」
慧斗が少し声を落とす。
「銅崎先輩じゃない?」
「そうだけど」
「やっぱり?」
凛成が俺を見る。
「知ってるの?」
……。
来た。
これ。
ちょっとだけ。
自慢できる。
「うん」
「え?」
「まあ」
俺は少しだけ胸を張る。
「知り合い」
「……」
凛成。
慧斗。
二人とも俺を見る。
「なんで?」
「どうして?」
「……」
俺は困った。
そこまで聞かれるとは思わなかった。
「ちょっと話したことがあるだけ」
「へえ」
凛成が妙な顔をする。
「慧璃、いつの間にそんな交友関係を……」
「別に大したことじゃない」
「いや、結構大したことじゃない?」
慧斗も少し興味を持ったようだった。
「銅崎先輩って、確か音楽系の部活だよね」
「そうなの?」
俺が聞く。
「知らないの?」
「知らない」
「音楽部だったと思う。あと、個人で音楽のレッスンも受けてるとか」
「へえ」
俺は銅崎先輩を見る。
確かに。
言われてみれば、そういう雰囲気はある。
でも。
俺の中では「リミナル・トラベラーズのメンバー」という印象の方が強い。
だから学校で見ると変な感じがする。
普通の高校生。
それなのに。
あの地下室。
あの逆世界。
あの話。
全部知っている。
何だか、NPCの設定資料を先に読んでしまった気分だった。
こいつ、実は重要人物なんだ。
でも周囲は誰も知らない。
そういうキャラ。
ゲームなら序盤の街に普通に立っていて、後半で突然「実は王国の元騎士でした」とか言い出すタイプ。
……いや。
銅崎先輩が王国の元騎士は変か。
でも。
ちょっとだけ。
そういう感じがする。
「慧璃」
銅崎先輩が俺の方へ歩いてきた。
「はい」
「少し時間ある?」
凛成と慧斗が俺を見る。
俺も二人を見る。
「何か用ですか?」
「うん」
銅崎先輩は少しだけ声を落とした。
「話したいことがある」
……。
その瞬間。
俺の中で。
何かが切り替わった。
学校の話じゃない。
普通の先輩後輩の話でもない。
多分。
「例のこと」。
リミナル・トラベラーズ。
逆世界。
そういう話。
俺は凛成と慧斗へ向き直った。
「ごめん。俺、ちょっと行かなきゃ」
「え?」
「先輩に呼ばれたから」
「……」
二人とも変な顔をする。
特に凛成。
さっきまで一緒に帰ろうとしていたのに。
「また今度な」
「……うん」
「じゃあ」
俺は銅崎先輩の方へ歩く。
その途中で。
「慧璃」
凛成が呼んだ。
「何?」
「……また明日な」
「うん」
それだけ。
俺は軽く手を上げた。
そして。
銅崎先輩の隣へ並ぶ。
「どこへ?」
「少し場所を変えよう」
「……やっぱり、あれ?」
「うん」
銅崎先輩が頷く。
俺は少しだけ笑った。
ようやく。
何かが始まるらしい。
……多分。
いや。
始まってくれ。
さすがに、二日も三日も何もないのは退屈すぎる。
俺は銅崎先輩について歩き出した。
そして。
まだ俺は知らなかった。
その日、彼女が俺に見せようとしているものが、俺の知っている「逆世界」という言葉を、もう一段深く変えてしまうものだということを。




