第⑯章:注意不足 (3)
病院という場所が好きな人間は、たぶんそんなに多くないと思う。
もちろん、働いている人は別だ。医者とか看護師とか、そういう人たちは毎日のようにいるわけだから、少なくとも俺みたいに入口へ入っただけで微妙に身体を固くすることはないだろう。
俺は苦手だった。
嫌い、と言うほど病院へ通った経験があるわけじゃない。でも、あの空気が駄目だ。
白い壁。白い床。消毒液みたいな匂い。静かな廊下。誰かが咳をしている音。知らない名前を呼ぶアナウンス。雑誌が並んだ待合室。少し古い椅子。自動販売機。受付の人が紙をめくる音。
全部が妙に真面目だ。
ゲームなら回復施設なんだから、もっと安心できる場所でもいいはずなのに、現実の病院には「ここへ来たということは何かがおかしいんですよ」という雰囲気が最初から漂っている。
しかも今日は。
俺自身が、その「おかしい何か」だった。
父と母が調べた結果、俺たちは上越地域医療センター病院へ来ていた。
日曜日でも対応してもらえるということで、電話をして、それから車で来た。
思っていたほど混んではいなかった。
そこだけは助かった。
もし待合室が人で埋まっていて、一時間とか二時間とか待たされたら、その間ずっと俺は、
血液を取られたらどうなる。
目を詳しく調べられたら。
アヒルフェが何かに映ったりする?
CTとかに魂って映るの?
とか考え続けていたと思う。
……魂がCTに映るわけないだろ。
たぶん。
『映ったら俺も驚く』
アヒルフェが言った。
『お前、今普通にいる?』
『いる』
『病院でも?』
『なぜ病院だけ消えると思った』
『いや、なんか』
『聖域だから霊体が消滅するとでも?』
『ちょっと』
『人間の創作物に毒されすぎだ』
俺は待合室の椅子へ座りながら、スマホを見るふりをした。
母は俺の隣。
父は少し離れたところで受付からもらった紙を確認している。
両親。
普通。
俺。
普通に見える。
頭の中には古い時代の道化騎士。
やっぱり変。
『もし何か見つかったら』
俺は心の中で聞く。
『何を』
『例えば、俺の血』
『ああ』
『普通じゃなかったら?』
『知らん』
『そういうところだけ無責任だな』
『俺は医師ではない』
『でも俺の身体治したじゃん』
『治療ではない』
『じゃあ何』
『修復に近い』
『もっと怖い』
アヒルフェは黙った。
俺はスマホの黒い画面に薄く映る自分の左目を見る。
灰色。
少し銀。
光の角度で金。
紫も混じる。
学校では、もう二日でほとんど誰も気にしなくなった。
でも病院だと違う。
医者。
この人たちは身体を見るのが仕事だ。
気づかないわけがない。
もし、
「これは人間の眼球ではありません」
とか言われたら。
……。
いや。
そんなことある?
でも俺の身体、一回かなり壊れたんだぞ。
それをアヒルフェが戻した。
正確にどこまで戻したのか、俺は知らない。
骨。
血。
神経。
目。
皮膚。
全部。
少なくとも外見は俺。
じゃあ中身も?
『考えすぎだ』
『誰のせいだよ』
『昨日まで逆世界へ行きたいと騒いでいた男とは思えんな』
『逆世界は逆世界。病院は病院』
『逆世界の方が百倍危険だ』
『それとこれとは別』
その時。
「荷川取さん」
呼ばれた。
心臓。
一回。
強く。
「……はい」
俺は立ち上がる。
母も。
父も。
逃げたい。
でも。
ここで逃げたら完全に怪しい。
診察室へ。
ノック。
入る。
「失礼します」
「どうぞ」
中。
机。
パソコン。
椅子。
医療器具。
白衣。
医者。
名札。
高原。
高原先生。
年齢はよく分からない。父より少し上か、同じくらいかもしれない。
眼鏡。
落ち着いた顔。
少なくとも狂った研究者には見えない。
そこは良かった。
「荷川取慧璃君ね」
「はい」
「高校一年生」
「はい」
「今日は、ご両親から聞いたところだと」
高原先生が俺を見る。
「髪の色が急に変わった?」
「……はい」
「白く?」
「そうです」
「染めたわけじゃない?」
「違います」
また。
これ。
何回目?
「本当に染めてません」
「うん。疑って怒ってるわけじゃないよ」
「ならいいです」
高原先生が少し笑った。
「見てもいい?」
「どうぞ」
俺は前髪を上げる。
先生が髪を分ける。
根元。
頭皮。
白い部分。
黒い部分。
「……なるほど」
「染めてないですよね」
「そう見えるね」
「ほら」
俺は少しだけ両親を見る。
母。
困った笑い。
父。
何とも言えない顔。
『勝ち誇るところではない』
『でも証明』
『相手は既に疑っていない』
高原先生は別の部分も確認する。
「いつ頃から?」
「ゴールデンウィークくらい」
「一日で?」
「……気づいた時には」
「少しずつじゃなく?」
「多分、一気に」
「痛みとか、頭皮のかゆみは?」
「ないです」
「髪が大量に抜けた?」
「ない」
「最近、かなり強いストレスは?」
「……」
ある。
ありすぎる。
逆世界。
怪物。
身体ぐちゃぐちゃ。
死にかけ。
アヒルフェ。
学校。
笑われる。
九頭見。
全部。
「まあ」
「ある?」
「ちょっと」
母が横から俺を見る。
その視線。
やめて。
「学校で色々あったみたいで」
母が言った。
「なるほど」
先生が頷く。
そして。
「他に変化は?」
俺は黙る。
母。
即答。
「目もです」
……母。
言った。
「目?」
高原先生が俺を見る。
「……左です」
仕方なく顔を向ける。
先生。
止まる。
ほんの少し。
目。
俺の左目。
「これは」
近づく。
俺。
少し後ろへ。
「ちょっと見せてもらっていい?」
「はい」
怖い。
普通に。
高原先生が小さなライトを使う。
光。
「眩しい」
「ごめんね。少し我慢して」
右。
左。
瞳孔。
眼球。
俺は指示されるまま上。
下。
右。
左。
「コンタクトじゃないね」
「だから言ったじゃないですか」
「いや、それは今初めて聞いた」
「あ」
そうだった。
高原先生が少し興味深そうに俺を見る。
嫌。
その顔。
医者が「珍しい」と思ってる顔に見える。
「視力は?」
「普通です」
「左だけ見えにくいとか?」
「ない」
「逆に見えすぎる?」
……。
そこ。
少し考える。
「普通より……いいかもしれない」
「前より?」
「多分」
「ぼやける?」
「ないです」
「痛み」
「ない」
「異物感」
「ない」
「熱い、冷たい、しびれる感じ」
「ない」
「光が異常に眩しい?」
「ない」
「飛蚊症とか、光が走る感じは?」
「ないです」
「じゃあ日常生活では問題なし?」
「全然」
本当に。
もう自分でも忘れる。
鏡を見た時にだけ「あ、そうだった」と思うくらい。
高原先生はしばらく診てから、椅子へ戻った。
「かなり珍しいね」
俺。
少し反応。
「珍しい?」
「うん」
「どのくらい?」
「正確な確率をここで言うのは難しいけど、日常的に何人も見るものではない」
……。
いい。
ちょっと。
いい。
「でも」
先生が続ける。
「世界で君だけ、というような話でもない」
……。
下がった。
少し。
『残念だったな』
『うるさい』
「珍しいけど、珍しいこと自体がすぐ危険という意味ではないよ」
「そうなんですか」
「そう」
そこから。
いくつか確認。
血圧。
体温。
脈。
簡単な神経の反応。
皮膚。
目。
髪。
話。
思っていたより普通だった。
血を大量に取られることもない。
変な機械の中へ入れられることもない。
そして。
しばらくして。
高原先生は父と母へ向き直った。
「今の診察で見る限り」
俺。
緊張。
「急いで命に関わるような異常は見当たりません」
……。
よし。
まず。
生存。
確定。
いや、生きてるんだから分かってるけど。
「本当ですか?」
母。
「少なくとも、今この場で緊急性を疑う所見はないです。視機能にも大きな問題はなさそうですし、神経症状も出ていない」
父も少し安心した顔。
「髪は?」
「白くなっている部分については、限局的な色素の変化……いわゆるポリオーシスに近い状態として考えることはできます」
……。
ポリ。
何。
俺は先生を見る。
「ポリ……?」
「ポリオーシス」
「何ですかそれ」
「一部の毛だけ色素が減って、白く見える状態」
「病気?」
「それ自体は“見た目の変化”を指す言葉に近い。原因はいくつかある」
「じゃあ俺は?」
「ここで断定はできない」
なるほど。
分からない。
「ただ」
高原先生が言う。
「急激な身体的・精神的ストレスのあとに、本人が“急に白くなった”と感じるケースはある。実際には毛の色素変化そのものだけじゃなく、黒い毛と白い毛の見え方の比率が変わることもあるからね」
「……」
半分くらい分からない。
俺が医者になったら。
たぶん。
患者に説明している途中で自分が分からなくなる。
絶対向いてない。
「目については」
来た。
「左右で虹彩の色が違う、いわゆる虹彩異色の状態だね」
「それ危ない?」
母。
「必ずしも」
「急にでも?」
「そこは少し慎重に見た方がいい」
俺の心臓。
ちょっと上がる。
「炎症や外傷などでも色が変わることはある。ただ、今のところ痛みも視力低下も強い充血もない。今日の簡単な診察だけでは原因を決められないけど、緊急性は低そうです」
「じゃあ」
父。
「体質みたいな可能性も?」
「あります。先天的な素因が今まで目立たなかった可能性もあるし、色素の変化が後から表面化することもあります」
俺。
聞く。
「祖先?」
先生が少し笑う。
「すごく遡れば、遺伝的な要素も完全には否定できないというくらい。別に“昔の誰かと同じ目が突然出た”と断定できるわけじゃないよ」
「なるほど」
分からん。
要するに。
珍しい。
でも今すぐ死なない。
それでいい。
『随分と都合よく要約したな』
『重要なのそこだろ』
『まあ、今はな』
先生は母と父を見る。
「ただ、私がむしろ気になるのは」
嫌な予感。
「ストレスの方です」
来た。
母。
父。
同時に俺を見る。
やめろ。
「学校で何かあったと聞いています」
「まあ」
「髪が直接ストレスだけでこうなった、とここで言い切ることはできない。でも、慧璃君自身がかなり強い負担を感じていた可能性はあります」
母の顔。
また。
あの顔。
「本人が平気と言っていても?」
「あります」
父も真面目。
俺。
逃げたい。
「高校生くらいだと、自分でもどれくらい追い詰められていたか分からないこともありますから」
「俺、追い詰められてないけど」
三人。
俺を見る。
「……多分」
弱くなった。
最悪。
高原先生は別に怒らない。
「そう思っているなら、それでもいい」
「いいんですか」
「でも、何か眠れない、食欲が落ちる、学校へ行くのが怖い、気分がずっと沈む、身体症状が続く。そういうことが出たら、ちゃんと家族か学校か、医療機関に相談して」
「はい」
「目についても、色の変化が進むとか、痛みや見え方の異常が出たら眼科で詳しく診てもらうこと」
「分かりました」
「髪も変化が広がるなら皮膚科で」
「はい」
終わり。
思ったより。
普通。
俺。
宇宙人認定されない。
人体実験施設にも送られない。
政府にも捕まらない。
アヒルフェも見つからない。
全部。
大丈夫。
『最初からそこまで飛躍していたのか』
『ちょっと』
『病院へ来るだけで秘密研究所まで想像するな』
『でも可能性』
『ないとは言わん』
『ほら!』
『冗談だ』
『お前が冗談言うなよ!』
診察が終わる。
母と父は何度も先生に礼を言った。
俺も。
「ありがとうございました」
「うん。無理しないようにね」
「はい」
診察室を出る。
廊下。
病院。
さっきまであんなに怖かったのに。
終わると急にただの建物。
不思議。
ボス部屋だと思って入ったら、イベント会話だけで終わった感じ。
会計。
説明。
少し待つ。
それから外。
空気。
病院の中より少し暖かい。
駐車場。
車。
普通の日曜日。
俺は少し前を歩く。
その時。
「慧璃」
母。
振り返る。
「何?」
母は少し言いにくそうにしていた。
「ごめんね」
「何が」
「気づかなくて」
「……」
「そんなにしんどかったなら」
「いや」
「学校のことも」
父も横にいる。
「俺たちに言ってよかったんだからな」
「……」
「別に怒らないし」
母。
「笑ったりもしないよ」
その言葉。
ちょっと。
刺さった。
学校で。
笑われた。
誰も信じなかった。
でも。
親には。
そもそも言わなかった。
信じるとか信じない以前に。
俺が勝手に隠した。
それなのに。
二人が。
「気づけなかった」と自分たちを責めている。
……。
違う。
それは違う。
「別に」
俺は言う。
「父さんと母さんのせいじゃないから」
「でも」
「本当に」
少し。
言いづらい。
「俺が言わなかっただけ」
それは。
本当。
全部じゃないけど。
本当。
「だから」
俺は少しだけ笑う。
「そんな顔しなくていいよ」
母。
少し黙る。
「……うん」
父が言う。
「何かあったら、今度は言えよ」
「分かった」
「本当に」
「分かったって」
また。
約束。
……。
ちょっと胸が痛い。
俺は今。
昨日の夜に家を抜け出したこと。
逆世界。
アヒルフェ。
リミナル・トラベラーズ。
全部隠している。
だから。
「何も隠すな」と言われて、「分かった」と答えるのは。
かなり。
嘘。
『罪悪感か』
『うるさい』
『図星だな』
『今は言えないだろ』
『そうだ』
意外。
『お前もそう思う?』
『当然だ。全てを正直に言うことが善とは限らん』
『……』
『だが』
『何』
『隠すなら、それによって生まれる重さも自分で持て』
アヒルフェ。
時々。
急にちゃんとしたことを言う。
ずるい。
『分かった』
『ならいい』
俺は駐車場を少し先へ歩く。
「慧璃、車こっち」
父。
「あ」
逆。
俺は方向転換。
『注意不足』
『黙れ』
母が少し笑う。
父も。
俺も。
さっきまでの重い空気が、ほんの少しだけ軽くなる。
今日は疲れた。
本当に。
朝起きた。
アヒルフェを無理やり起こした。
馬鹿なあだ名を付けられた。
母に見つかった。
家族会議。
病院。
診察。
原因不明。
でも。
死なない。
目も見える。
髪もただ白いだけ。
少なくとも、今のところは。
それに。
両親とも少し話せた。
全部は無理。
でも。
少しくらい。
前より。
話せた気がする。
「帰ろ」
俺は言った。
「うん」
母。
「今日は家でゆっくりしよう」
「そうする」
父が車の鍵を開ける。
俺は後部座席へ。
ドアを閉める。
窓の外。
病院。
遠ざかる。
俺は自分の左目に指を触れる。
普通じゃない。
でも。
今日は「危険じゃない」と言われた。
それだけで少し安心した。
『満足か』
アヒルフェ。
『まあ』
『人間の医者も侮れんな』
『お前、ちょっと心配してた?』
『していない』
『嘘』
『していない』
『絶対ちょっとしてた』
『バカとり』
『それで逃げるな』
返事なし。
……。
まあいい。
俺は座席へ身体を預けた。
今日はもう。
何も起きなくていい。
本当に。
秘密組織も。
逆世界も。
宇宙エネルギーも。
怪物も。
全部。
今日だけは休み。
そう思いながら目を閉じる。
たぶん。
この時の俺はまだ知らなかった。
自分が「何も起きない日」を退屈だと思えること自体が、かなり贅沢だったということを。




