第⑯章:注意不足 (2)
最悪だ。
いや、本当に。
今までにも「最悪」と思ったことは何度かある。九頭見たちに笑われた時とか、逆世界で死にかけた時とか、知らない三人組から怪しい手紙が届いた時とか。
でも、こういう種類の最悪はまた違う。
現在。
俺は一階のリビング。
ソファ。
正面には父と母。
逃げ道。
ほぼなし。
状況をゲームっぽく言うなら、完全にイベント戦だ。
しかも戦闘じゃない。
会話選択肢を一つ間違えただけで好感度が落ちたり、後々の行動範囲が制限されたりする、一番面倒なタイプのイベント。
父――荷川取柚禽は、ローテーブルの向こう側。
母――木葉は、その隣。
俺は一人。
アヒルフェは頭の中。
見た目だけなら二対一。
実際には二対二のはずだけど、アヒルフェは絶対に表へ出て助けてくれない。
『当然だ』
『まだ何も言ってない』
『助けを期待しただろう』
『ちょっと』
『断る』
『知ってた』
母に髪を見られてから、まだ十分も経っていないと思う。
なのに今はもう家族会議。
展開が早い。
もう少しこう、「それ何?」から始まって、「ちょっと待ってて」で一時間くらい時間を稼げると思っていた。
無理だった。
母はまず父を呼んだ。
父は俺を見た。
黙った。
その後、二人で顔を見合わせた。
そして今。
「慧璃」
「うん」
父の声は怒っていない。
そこが逆に怖い。
怒鳴られる方がまだ分かりやすい。
「まず確認するけど」
「何」
「顔に何か開けた?」
「……何か?」
「ピアスとか」
「ああ」
そっち。
「してないよ」
「本当に?」
「してない」
父の目が俺の耳へ。
鼻。
口元。
俺は反射的に少し顔を引く。
「しないよ、勝手には」
……。
これは半分本当。
いや。
かなり本当。
勝手には、たぶんしない。
ただ。
考えたことはある。
耳。
片方。
それくらいならちょっと格好いいかもしれない。
あと、唇。
本当に小さいやつ。
でも別に顔中に金属を付けたいわけじゃない。
眉も鼻も舌も全部。
そういうのじゃない。
あくまで一個か二個。
アクセサリー。
……今考えることじゃない。
母が立ち上がる。
「ちょっと見せて」
「何を」
「顔」
「別に何もないって」
「いいから」
近い。
母が俺の頬へ手を添える。
右。
左。
耳。
「痛くない?」
「痛くない」
耳たぶ。
裏。
「穴はないね」
「だから言ったじゃん」
「鼻も」
「ない」
「口は?」
「開けてないって」
「ちょっと」
「ええ……」
仕方なく口元を見せる。
母。
真剣。
こういうの。
地味に恥ずかしい。
十五歳にもなって、母親に顔を近づけられて耳とか口とか確認される。
小学生ならまだ分かる。
高校生。
しかも日曜の朝。
何だこれ。
『随分と大切にされているな』
アヒルフェが言う。
『今それ言う?』
『観察だ』
『黙って』
「何?」
母が聞く。
「え?」
「今何か言った?」
「言ってない」
「そう?」
「うん」
危ない。
本当に危ない。
最近、アヒルフェへの返事を普通に口へ出す癖がついている。
それも直さないと。
母がようやく離れた。
「穴はないみたい」
父へ。
「うん」
「じゃあ」
父が今度は髪を見る。
「これは?」
「髪?」
「染めた?」
「染めてない」
「慧璃」
「本当に」
「怒るために聞いてるんじゃない」
「いや、だから本当に染めてないって」
父は少し眉を寄せる。
「じゃあ何で白いんだ」
「それは……」
知らない。
正確には。
アヒルフェ。
逆世界。
身体の再生。
たぶんその辺。
でも言えない。
「自然に」
「自然に?」
「そう」
「急に?」
「うん」
父の顔。
完全に納得していない。
当然だ。
俺だって自分じゃなかったら信じない。
「じゃあ見て」
俺は前髪を上げる。
「根元」
「根元?」
「染めてたら、伸びたところ黒くなるだろ」
「……まあ」
「だから」
母がまた近づく。
「見せて」
「はい」
今度は髪。
指で分けられる。
頭皮。
根元。
右。
左。
白い部分。
黒い部分。
俺はされるがまま。
完全に動物病院。
『面白いな』
『何が』
『検査される珍獣に見える』
『黙れ』
「……本当に白い」
母が言った。
声が少し変わる。
「染料っぽくない」
「でしょ」
ちょっと得意になる。
ほら。
証明。
学校でもこれをやればよかった。
いや。
月野先生にもやった。
あの人、塗料とか言った。
最悪。
父も立ち上がる。
「ちょっと」
「何」
「俺も見る」
「二回目?」
「いいから」
父まで髪を確認。
家族全員。
俺の頭。
そこまで珍しいか。
珍しいか。
珍しいな。
「……染めてないな」
「だから言ったじゃん」
「じゃあ」
母が今度は俺の左目を見る。
「目」
来た。
「これも?」
「これも」
「コンタクト?」
「違う」
「外せる?」
「外せない」
「じゃあちょっと上向いて」
「え」
「いいから」
また。
顔。
近い。
母が俺の下まぶたを少し引く。
「痛い痛い」
「ごめん」
「コンタクトだったら分かる?」
「多分」
母は左右を比べる。
右。
普通の暗い茶色。
左。
灰色。
銀。
金。
紫。
「……ない」
「でしょ」
俺は解放される。
でも。
母の顔。
さっきよりずっと悪い。
怒っているんじゃない。
心配。
本気の。
それを見ると、少し嫌になる。
自分が。
「慧璃」
「うん」
「これ、いつから?」
「……少し前」
「少し前って」
「ゴールデンウィークくらい」
「何で言わなかったの?」
「……」
言えないから。
それだけ。
でも。
普通に考えれば。
自分の身体が急に変わったのに、親へ一言も言わない。
怪しい。
すごく。
「別に痛くないし」
「痛いかどうかだけじゃないでしょ」
「でも」
「目の色も変わってるんだよ?」
「見えてる」
「そういうことじゃなくて」
母の声が少し強くなる。
俺は黙る。
父が間に入るみたいに聞く。
「他に何かしてないか?」
「何を」
「酒」
「してない」
「煙草」
「してない」
「薬」
「してない!」
そこだけは強く言った。
「絶対してない」
「本当に?」
「本当」
「誰かから何か貰ったり」
「ない」
「学校の外で変な人と付き合ったり」
……。
昨日。
古いビデオ屋。
夜。
三人。
包丁。
地下室。
秘密組織。
……。
「……ない」
『今の間は何だ』
『黙れ』
いや。
変な人ではある。
でも薬とかそういう意味じゃない。
だから嘘じゃない。
たぶん。
「何でそんなこと聞くの」
俺は少しだけ不満そうに言う。
「急に髪と目の色が変わったから」
父。
「何か身体に影響することをした可能性も考えるだろ」
「してない」
「ならいい」
「信じてる?」
「そこは信じてる」
少し。
安心。
父は続ける。
「ただ、だからこそ余計に分からない」
「……」
「学校の先生は何も言わなかったのか?」
「ああ」
「こんなに変わってるのに?」
「白樺って、そこまで厳しくないから」
「髪の色を?」
「うん」
俺は少し説明する。
「制服とかはちゃんと着ろって言われるけど、髪とか細かいところはそこまでじゃない。染めてても、よっぽど変じゃなければ注意されるくらい」
「そうなの?」
母。
「多分」
「多分?」
「俺、染めてないから実際知らないけど」
「……」
「先生にも一回言われた。染めたのかって」
「それで?」
「違うって言った」
「先生は?」
「ストレスとかなら病院行った方がいいって」
言った瞬間。
失敗した。
母と父。
同時に反応。
「病院」
母。
あ。
「いや」
「先生もそう言ったの?」
「まあ」
「じゃあ」
「いや、でも別に」
父が結論を出す。
「行こう」
「どこ」
「病院」
来た。
最悪のルート。
「いや」
「何で」
「必要ない」
「どうして分かる」
「だって普通に元気だし」
「元気でも病気はある」
「でも」
「目の色が急に変わるのは普通じゃない」
「……」
「髪も」
「……」
「それに肌も前より白くないか?」
気づかれた。
今。
それ。
言わないでほしかった。
母も俺の手を見る。
「……本当」
「いや、元々白かったし」
「ここまでじゃなかった」
「照明」
「ずっと同じ照明だよ」
強い。
母。
こういう時。
記憶力強い。
俺は反論を探す。
ない。
『断れ』
アヒルフェ。
『どうやって』
『必要ないと言え』
『今言った』
『押し通せ』
『無理だろ』
『医者は危険だ』
『何が』
『お前の身体が通常と違う』
『分かってるけど』
『血液。眼球。皮膚。神経。何か異常を見つければ、検査は増える』
『……』
『検査が増えれば記録が残る』
そこ。
少し怖い。
『さらに異常が説明できなければ、別の医療機関へ回される可能性もある』
『そこまで?』
『可能性の話だ』
『じゃあどうする』
『行くな』
『簡単に言うなよ』
「慧璃」
母。
俺は顔を上げる。
「本当に」
心配。
分かる。
その顔。
怒ってない。
責めてもない。
ただ。
怖がっている。
俺のことを。
……。
ずるい。
こういう顔。
ずるい。
俺が「嫌だ」で終わらせたら、もっと心配する。
たぶん。
ずっと。
「……分かった」
『慧璃』
「行く」
声に出す。
母の顔が少し緩む。
「今日?」
「日曜だから」
父がスマホを見る。
「開いてるところ探す。無理なら明日か」
「うん」
『何をしている』
アヒルフェの声。
明らかに不満。
『仕方ないだろ』
『仕方なくない』
『あの顔見た?』
『見た』
『じゃあ分かるだろ』
『分からん』
『母親だぞ』
『だから何だ』
『だから……』
言葉。
出ない。
理屈じゃない。
母親が心配してる。
父も。
だったら。
少しくらい。
言うことを聞く。
それだけ。
『お前もないの?』
『何が』
『誰かだから、言うこと聞いたこと』
『ない』
即答。
『一回も?』
『ない』
『絶対嘘』
『勝手に決めるな』
『じゃあ、お前は本当に自分で全部決めてた?』
少し。
沈黙。
……。
何。
今の間。
『アヒルフェ?』
『今はお前の話だ』
『怪しい』
『それより医者だ』
逃げた。
でも。
確かに。
今は医者。
病院。
検査。
俺は自分の左目を触る。
普通。
触った感じ。
普通。
髪も。
肌も。
だけど。
中。
どうなってるんだろう。
アヒルフェが俺の身体を再生した。
その時。
何をした?
人間の身体をそのまま戻した?
それとも。
何か混ざった?
もし血を調べられて。
変なものが出たら。
もし画像検査とかされて。
何か普通じゃないものが見つかったら。
……。
『今さら怖くなったか』
『お前が怖がらせたんだろ』
『事実を並べただけだ』
『最悪』
『だが、もう了承した』
『うん』
『なら準備だけはしておけ』
『何を』
『分からん』
『役に立たない!』
俺は心の中で叫ぶ。
父はスマホで病院を調べている。
母はまだ俺の髪を見ている。
俺はソファに座ったまま。
何となく。
昨日の夜を思い出した。
リミナル・トラベラーズ。
地下室。
怪物の絵。
逆世界。
危険。
秘密。
昨日まで。
俺はもっと。
世界の裏側に入っていくことばかり考えていた。
今日。
現実世界の病院が怖い。
何これ。
普通、逆じゃない?
『慧璃』
『何』
『一つだけ』
『何』
『もし異常を見つけられても、余計なことは言うな』
『逆世界とか?』
『当然』
『お前のことも?』
『絶対に』
『分かった』
『本当に?』
『分かったって』
俺は少しだけ深呼吸する。
医者。
大丈夫。
たぶん。
普通に診てもらう。
原因不明。
終わり。
それでいい。
それ以上は。
何もない。
……はず。
「今日、行けそうなところある?」
母が父へ聞く。
「一つ、休日診療やってるところがある」
「じゃあ電話してみよう」
「うん」
俺は固まった。
今日。
もう。
行くの?
『バカとり』
『今それ言うな』
『昨日は秘密組織へ一人で行けたのに』
『病院とこれは違う』
『何が』
『色々!』
アヒルフェが小さく笑う。
腹立つ。
でも。
俺も少しだけ。
本当に少しだけ。
笑いそうになった。
たぶん。
怖い時に誰かが頭の中で馬鹿にしてくるのも。
悪いことばかりではない。
……いや。
やっぱり腹立つけど。




