第②章:昼休みの仮面 (2)
昼休みっていうのは、うるさい。
いや、別に悪い意味だけじゃない。
みんなが勝手にしゃべって、勝手に笑って、勝手に予定を決めて、勝手に機嫌を変える。
そういう雑音みたいなものが教室の中にずっと漂っていて、たまにそれが妙に心地よい瞬間もある。
少なくとも、何も起きない沈黙よりはずっといい。
何も起きない沈黙は、静かというより、こっちの神経をじわじわ削るからだ。
だから俺は、周りが少し騒がしいくらいの方が好きだ。
……まあ、好きっていうほどでもないけど。
少なくとも、今の何もない日常をひたすら見せつけられるよりはマシだ。
そんなふうに、どうでもいいことを考えながら、俺は半分ぼんやりしていた。
凛成も慧斗も秋山も、まだ何か話している。
何の話かはよく分からない。
映画だの、誰だの、どこだの、そんな感じだろう。
適当に聞き流しながら、俺は「まあ、こういう時間も悪くない」と思っていた。
いや、ほんとに。
こういうくだらない時間の方が、むしろ安心するのかもしれない。
少なくとも、何かが始まる前の静けさとしては、それなりにまともだ。
でも、俺がそんなふうに思っていた時だった。
ふっと、周りの声が止まった。
一瞬で、じゃない。
みんなが同時に息を止めたみたいな、あの嫌な切り替わり方だった。
最初は何かの拍子に会話が途切れただけだと思った。
けど、数秒たっても続かない。
凛成も慧斗も秋山も、みんな同じ方向を見て黙ってる。
……何だよ。
と思って、俺も顔を上げた。
最初は、誰かが立ってどこかへ行ったのかと思った。
でも違った。
全員、座ったまま静かになってる。
視線だけが教室の外――いや、正確には廊下の方に向いていた。
その先にいたのは、九頭見怜汰だった。
出た。
俺の中で、かなり上位に入るどうでもよくない、でも本気で関わりたくない相手。
この学校の“空気を悪くする専門家”みたいなやつだ。
ほんと、あいつを見ると毎回思う。
人間って、どうしてああも自信満々に嫌な顔ができるんだろうなって。
九頭見は、いつもの取り巻きと一緒だった。
本人は何もしていないような顔をしているくせに、周りにいる連中がもう完全に“九頭見の空気”に染まってる。
ああいうのを見ると、正直かなり気持ち悪い。
本人が一番偉いと思ってるんだろうけど、実際はその場の温度を下げてるだけだ。
しかも本人だけじゃなくて、周りまでまとめてだ。
九頭見は教室の前を通り過ぎる途中で、ひとりの男子のところで足を止めた。
宮慶和紘。
1-Bのやつだ。
たしか、前に一度だけグループ作業で一緒になったことがある。
その時も、あまり喋らないやつだなと思った。
背は……俺より少し低いくらいか、たぶん。
細い。
顔立ちも少し繊細で、髪が長めで、前髪がよく目元にかかってる。
なんというか、妙に柔らかい感じのするやつだ。
女っぽいって言うと少し違うけど、たしかに他のやつより線が細い。
でも、それは悪いことじゃない。
少なくとも俺は、ああいう静かな感じ、嫌いじゃない。
というか、宮慶は別に誰かに迷惑をかけてるわけでもない。
ただ自分のことをしているだけだ。
たぶん、絵を描くのが好きなんだと思う。
前にそういう話を少しだけ聞いたことがある。
絵。
いいじゃないか。
何かを作るのは、少なくとも無意味な騒ぎよりはずっとまともだ。
俺にはよく分からないけど、ああいう人間にはああいう人間の世界があるんだろう。
だけど、九頭見みたいなやつは、そういうものを許さない。
“普通じゃない”ってだけで気に食わないんだろう。
ほんと、面倒な思考回路だ。
自分が大したことないくせに、他人の違いだけは許さない。
そういうタイプは、だいたい自分の空っぽさをごまかしたいだけだ。
……まあ、口に出したら余計なことになるから言わないけど。
九頭見は宮慶の前に立つと、わざとらしく首をかしげた。
「おい、宮慶。もう描き終わったのかよ」
声がでかい。
わざと聞こえるように言ってる。
あれ、ほんとに腹立つんだよな。
普通に話す気が最初からない。
相手を会話に入れるんじゃなくて、晒し上げるために声を出してる。
そういうのを平気でやるから嫌われるのに、本人はたぶん分かってない。
宮慶は何も答えなかった。
俯いたまま、机に置いたものを少しだけ押さえている。
たぶん、スケッチか何かだろう。
見なくても分かる。
九頭見はそれを見て、鼻で笑った。
「で? いつまでその“変な絵描き”ごっこやるつもり?」
「……」
「まだそこにいるの? ほんと、空気読めないよな。そんなに浮きたいの?」
ああ、来た来た。
こういうのだ。
言葉だけで人を殴るやり方。
別に拳を使うわけじゃない。
その代わり、周りに見せる。
自分が相手より上だってことを、わざと見える形でやる。
ほんと、性格が悪いってこういうことを言うんだろうな。
九頭見の後ろには、いつもの二人がいた。
白石翔太と山埜琥珀。
俺の中では、もう“九頭見の犬”で固定されている。
あいつら、ほんと、毎回みたいに一緒にいる。
九頭見が前に出る。
白石がその横で笑う。
山埜が少し遅れて付いてくる。
たぶん、自分たちでその関係に気づいてないんだろうけど、傍から見るともう完全にそうだ。
白石が、にやにやしながら宮慶の方を見た。
「おい宮慶、もう“綺麗な色”集まったの?」
山埜も続ける。
「それともまだ、ひとりでこそこそやってんの?」
「……」
「ほんとさ、ああいうのって何が楽しいんだろうな」
白石がわざと大きめに言う。
「普通にしてればいいのに」
いや、普通って何だよ。
そう思う。
こいつらの言う“普通”って、たぶん自分たちに都合のいい狭い箱のことだ。
そこからはみ出したやつを勝手に変だって言って、笑って、踏みつける。
それで自分たちが正しい気になってる。
ほんと、どうしようもない。
でも、こういう場面で一番嫌なのは、たぶん“やってる側”じゃない。
止めない周りだ。
止められないのか、止める気がないのか、どっちでもいいけど。
少なくとも、この教室の空気は、九頭見に都合よく沈黙している。
あれが一番きつい。
声を出さないことで、こっちに「見てるよ」と言ってくるからだ。
俺はその光景を見ながら、胸の奥が少しだけムカついていた。
九頭見みたいなやつは大嫌いだ。
いや、正確には、嫌いというより、見ていると気分が悪くなる。
自分を偉いと思い込んでるやつほど、人を雑に扱う。
で、その雑さに誰かが傷つく。
そのくせ本人は“ちょっとした冗談”のつもりなんだろう。
冗談で人の顔色が変わるなら、それはもう冗談じゃない。
……とはいえ、俺がここで何か言うかというと、別の話だ。
言えば面倒になる。
目立つ。
あとで絡まれる。
そういうのは分かってる。
分かってるから、俺は黙る。
黙って、少しだけ拳を握る。
それだけだ。
自分でも情けないと思う。
けど、情けないからこそ、簡単に正義ごっこなんてできない。
九頭見はまだ宮慶の前で何か言っている。
宮慶はほとんど反応しない。
肩が少しだけ固くなってるのが、遠目にも分かる。
でも、たぶん慣れているんだろう。
ああいう顔をするときの人間は、もうだいぶ前から何かを諦めている。
そういうの、見ていて分かる。
分かるから、余計に腹が立つ。
……ほんとは、ああいう時に、ひとつくらい何か言えたらよかったのかもしれない。
でも俺は、そういうタイプじゃない。
今のところは、まだ。
だから、何も言わない。
言わないまま、ただ見てる。
それが正しいのかどうかは分からないけど。
白石が笑いながら、宮慶の机の端を指で叩いた。
山埜はその横で、まるで当然みたいな顔をしている。
九頭見は相変わらず、相手の反応を待っているようで、実際は反応なんてどうでもよさそうな顔をしていた。
ああいうやつは、反応が返ってこなくても自分の勝ちだと思ってる。
だからタチが悪い。
俺はその様子を見ながら、思った。
ほんと、くだらない。
くだらないけど、目をそらせない。
こういうのが、学校の嫌なところだ。
表では何でもない顔をしていて、裏ではこうやって誰かを踏む。
で、それを見て見ぬふりするやつがまたいる。
何も知らないふりをするやつもいる。
全員まとめて、気持ち悪い。
……でも、だからこそ、俺は少しだけ思ってしまう。
あいつを一回くらい殴れたら、どんな顔をするんだろうって。
もちろん、そんなことを本気でやる気はない。
少なくとも、今は。
だが、脳の片隅ではちょっとだけ想像してしまう。
九頭見の鼻っ柱が折れるところ。
白石と山埜が慌てるところ。
教室が静かになるところ。
そういうのを一回くらい見てみたい。
……いや、見たいというより、見てもいい気がする。
別に大騒ぎしたいわけじゃない。
ただ、あのムカつく顔が少しだけ崩れるなら、それはそれで気分がいいだろうなって思うだけだ。
でも、結局は何もしない。
俺はただ座って、黙って、見ている。
それが一番安全だからだ。
自分でもそれが分かっているから、余計に腹立たしい。
正義感がないわけじゃない。
でも、正義感だけで動けるほど単純でもない。
……ほんと、面倒な世界だ。
それでも、今日の昼休みはまだ終わっていない。
九頭見の声は相変わらずで、宮慶は耐えている。
白石と山埜はその横でヘラヘラしている。
俺はその全体を見ながら、またひとつ、嫌なことを考えていた。
何も起きないよりはマシだ。
でも、こういう“起きたくないこと”ばかりじゃ、やっぱり足りない。
俺が待ってるのは、こんな小さい嫌悪感じゃない。
もっと別の何かだ。
もっと大きくて、もっと隠されていて、もっと俺の人生を変えるような何か。
……まだ来ない。
ほんと、まだ来ない。
九頭見のようなくだらない現実を見せつけられるたび、余計にそう思う。
俺の物語は、こんなところで終わるものじゃないはずだ。
少なくとも、終わってたまるか。




