第⑮章:地下の三人 (2)
普通なら、こういう怪しい招待状を受け取ったら、その日の夕方くらいに行くと思う。
まだ明るい。
人通りもある。
何かあった時に助けを呼べる。
店も開いている。
最悪、交番まで走れる。
つまり、明らかに安全。
でも俺はそうしなかった。
理由は単純だ。
両親に怪しまれる。
昨日まで学校で色々あって、何日も休んで、ようやく戻った息子が土曜日の夕方に突然、
「ちょっと西城町の古いビデオ屋に行ってくる」
と言ったら。
絶対に聞かれる。
誰と?
何しに?
何時に帰る?
どこの店?
電話番号は?
そこまで来たら面倒だ。
しかも今の俺は、家の中では髪と目まで隠している。
外へ行く準備を始めた時点で、絶対どこかで見られる。
だから。
俺は待った。
夜まで。
正確には、午後九時。
明日は日曜日。
五月十日。
学校はない。
多少寝不足になってもどうにかなる。
問題は。
どうやって出るか。
そして。
もし本当に危険な相手だった場合、どうするか。
俺は机の上に置いた一本の包丁を見た。
……包丁。
いや。
言い方を変えよう。
護身用の刃物。
駄目だ。
言い換えても危ない。
「これ、本当に持っていく?」
『持ち出したのは君だろう』
「そうだけど」
『今さら俺に確認するな』
アヒルフェは、いつものメジロ姿で机の端に止まっていた。
俺が持ってきたのは、台所の奥にあった比較的小さな包丁だった。
果物とか。
野菜とか。
そういうのを切るやつ。
たぶん。
料理しないから詳しくない。
他の包丁の後ろに入っていたので、少なくとも今夜いきなり両親が、
「あれ? 奥の小さい包丁がない!」
となる可能性は低い。
……低いはず。
「危なくない?」
『刃物は危険だから刃物なのだ』
「そういう意味じゃなくて」
『なら何だ』
「もし警察に見つかったら」
『その時は説明しろ』
「何て」
『“夜九時に秘密の招待状を受け取って、知らない場所へ向かうため護身用に持っていました”』
「絶対怒られるだろ」
『俺もそう思う』
「じゃあ止めろよ」
『君は聞いたところで持っていくだろう』
「……」
その通り。
俺は包丁を布で巻いて、鞄の中へ入れた。
正直。
怖い。
普通に。
でも、素手よりマシ。
相手が本当に危ない人間だった時、何もないよりは。
たぶん。
俺は部屋の鍵を閉めた。
照明を消す。
パソコン。
机のライト。
全部。
部屋を暗くする。
窓から外を見る。
道路。
街灯。
近所の家。
人はいない。
下の階からはまだ光が漏れている。
父と母は起きている。
まずい。
もう少し待つ。
俺はベッドの端へ座った。
スマホ。
時刻。
21:08。
あとどれくらい。
十分?
二十分?
こういう時だけ時計って進まない。
学校の授業はいつまでも終わらない。
休みは一瞬。
そして親が寝るのを待つ時間は永遠。
時間って絶対、人間を馬鹿にしてると思う。
そんなことを考えていた時。
コンコン。
「……!」
ドア。
俺の身体が固まった。
「慧璃?」
母。
最悪。
俺は口を手で覆った。
返事しない。
寝たふり。
「慧璃、もう寝た?」
もう一度。
俺は動かない。
呼吸まで少し小さくする。
意味あるかは知らない。
数秒。
そして。
「……寝ちゃったみたい」
ドアの向こうで母の声。
少し離れたところから父の声が聞こえる。
「そうか」
「明日でいいね」
「うん」
何を聞こうとしていたんだ。
知らない。
でも今はどうでもいい。
足音が遠ざかる。
俺はゆっくり息を吐いた。
『随分と緊張するのだな』
『当たり前だろ』
『犯罪者のようだ』
『お前が言うな』
『俺は何もしていない』
『今、俺を夜中に怪しいビデオ屋へ行かせようとしてる』
『君が行くと決めた』
『……』
また正論。
嫌になる。
さらに待つ。
廊下の光が消える。
一階。
リビング。
最後に玄関側の灯り。
消えた。
家の中が静かになる。
窓から見えるのは、他の家の明かりと街灯だけ。
「よし」
『本当に行くのか』
「今さら?」
『最終確認だ』
「行く」
『怖いのに?』
「怖くない」
『嘘だな』
「……ちょっとだけ」
『その方がまだ賢い』
俺は窓を開けた。
夜の空気。
冷たい。
五月とはいえ、夜は少し寒い。
俺の部屋は二階。
玄関から出ると音がする可能性がある。
だから窓。
漫画なら簡単。
窓枠に足をかける。
屋根。
壁。
地面。
スタッ。
完璧。
現実は。
「うわ」
足が滑った。
「待っ――」
ズルッ。
ドン。
「っ……!」
地面。
尻。
右肘。
普通に痛い。
声を出さないように口を押さえる。
最悪。
全然スタッじゃない。
ドンだった。
『見事だ』
『黙れ』
『侵入者なら今ので死んでいる』
『侵入じゃなくて脱出だから』
『どちらでも同じだ』
俺は地面に座ったまま家を見る。
灯り。
……つかない。
誰も起きない。
助かった。
ゆっくり立つ。
尻を払う。
肘。
少し擦った。
血は出ていない。
問題なし。
「行くぞ」
『君が言うと格好がつかないな』
「本当にうるさい」
俺は家の前を離れた。
少し歩く。
一本隣の通り。
街灯の下まで来てから、スマホを出す。
地図。
西城町。
「ここから二十分くらい」
『歩きで?』
「うん。少し多く見て二十五分」
『周囲を見ろ』
「見てる」
『後ろも』
「無理」
『俺が見る』
アヒルフェが俺の肩あたりに移動する。
もちろん重さはない。
見た目だけ。
でも、この姿の時は俺の周囲をある程度見ることができるらしい。
正確には数メートル。
俺自身の視界とは別方向。
前。
後ろ。
横。
同時に全部ではないけど。
補助視界。
ゲームでいう三人称カメラみたいなものだ。
「便利だよな、それ」
『君のために存在する能力ではない』
「でも使ってる」
『今はな』
「じゃあ後ろ見て」
『既に見ている』
「酔っ払いとかいたら教えて」
『なぜ酔っ払いだけだ』
「夜ってそういう人いるだろ」
『泥棒もいる』
「やめて」
『刃物を持った人間も』
「俺だよ」
『その通りだ』
最悪。
歩く。
夜の上越。
昼間とは全然違う。
昼なら普通に通っている道なのに、夜になるだけで妙に広く見える。
街灯と街灯の間。
暗い。
住宅。
閉まった店。
自販機の光。
たまに走る車。
信号。
そして、思ったより人がいない。
俺はこういう時間に一人で出歩いたことがほとんどない。
そもそも十五歳。
普通は夜九時過ぎに一人で街を歩かない。
だから少しだけ変な感じがする。
自由。
……というより。
悪いことをしている感じ。
誰かに見つかったら怒られる。
警察に声をかけられるかもしれない。
でも。
その緊張も少し面白かった。
いや。
面白いと思うとまたアヒルフェに馬鹿にされる。
でも、仕方ない。
俺は今。
秘密の招待状を持って。
夜の街を歩いて。
知らない組織の拠点へ向かっている。
これだけ聞くと完全に物語だ。
『足が遅くなっている』
『考えてた』
『何を』
『別に』
『怖くなったか』
『違う』
少しだけ。
本当は。
後悔してる。
家に戻ろうかな。
今ならまだ。
でも。
行きたい。
答えがあるかもしれない。
俺が見た場所。
あの無限の空間。
学校の裏側。
あれについて知っている人間。
俺以外にも。
それを確かめたい。
『アヒルフェ』
『何だ』
『一つ聞いていい?』
『既に聞いている』
『そういうのいいから』
『言え』
「お前さ」
小声。
周りに誰もいないから、少しくらいなら声に出せる。
「逆世界のこと全部知ってるんじゃないの?」
『全部ではない』
「でも、俺よりは知ってるだろ」
『当然だ』
「じゃあ何で他の人間必要なんだよ」
少し沈黙。
「お前が教えればいいじゃん」
『知識と運用は別だ』
「何それ」
『例えば君は、自動車というものの存在を知っている』
「うん」
『構造も多少は知っているだろう』
「まあ」
『では今すぐレーシングカーを運転して高速で事故なく走れるか』
「……無理」
『それと同じだ』
アヒルフェの声が少しだけ低くなる。
『俺は逆世界を知っている。多くの場所。多くの存在。多くの法則。だが、今の俺は完全な身体を持たない』
「……」
『そして君は』
「何」
『何も知らない』
「言い方」
『事実だ』
アヒルフェは続ける。
『君はまだ逆世界を遊戯のように見ている』
「ゲームみたいって思うくらいいいだろ」
『よくない』
珍しく、即答だった。
『あそこには、君が想像している以上のものがある』
「……例えば?」
『今は言わん』
「またそれ」
『知らない方がいいものもある』
「怖がらせたい?」
『逆だ』
少しだけ間。
『今の君は、怖さを知らなさすぎる』
その言葉。
少しだけ残った。
『初めてまともに逆世界へ入るなら、案内できる者がいた方がいい。退路を知る者。危険を見分ける者。君が勝手に何かを触ろうとした時に止める者』
「それ、お前じゃない?」
『一人では足りない』
「一人じゃない。俺もいる」
『君を人数に数えるな』
「ひどい」
『現状は荷物に近い』
「もっとひどい」
でも。
意味は分かった。
アヒルフェが何でも知っていて、何でもできるわけじゃない。
こいつにも限界がある。
それが少し意外だった。
今まで俺の中では。
アヒルフェ=超強い謎の存在。
みたいな感じだったから。
「じゃあ、お前の本当の能力って何?」
『以前話した』
「自動保存?」
『そうだ』
「それ以外」
『今は必要ない』
「何で」
『そのうち分かる』
「……」
またそれ。
絶対何か隠してる。
でも今は聞いても仕方ない。
歩く。
かなり歩いた。
途中。
コンビニ。
閉まった小さな店。
駐車場。
川。
街灯。
アヒルフェは何度も左右を確認していた。
『右から車』
「分かってる」
『後ろ、自転車』
「え」
ベル。
チリン。
「うわ」
避ける。
自転車が通り過ぎる。
『便利だろう』
「まあ」
『感謝しろ』
「ありがとう」
『素直で気味が悪い』
「お前本当に何なの」
さらに歩く。
やっと目的地周辺。
高田城跡を囲む川の近く。
夜の水。
暗い。
街灯が反射している。
昼なら普通に景色として見られるのに、夜だと少し怖い。
水って何で夜になると全部深く見えるんだろう。
落ちたら終わりみたいに。
「ここ?」
『地図では』
「もうすぐ」
角を曲がる。
人はいない。
道も静か。
正直。
かなり怖い。
俺は鞄の位置を確認する。
包丁。
ある。
使いたくない。
絶対。
でも、あるだけで少し安心する。
さらに進む。
最初に見えたのは、小さな化粧品店。
閉まっている。
その隣。
英語の看板。
自転車関係?
たぶん。
詳しく読まない。
その横。
小さな駐車スペース。
そして。
その奥。
「……あれ?」
一店舗。
大きな看板。
錆びている。
照明は消えている。
でも文字は読める。
VIDEO RENTAL
……。
「ここ?」
『他にそれらしいものはない』
「古っ」
思わず言った。
本当に古い。
平成初期。
いや、もっと前?
分からない。
映画でしか見ないような店。
看板は少し色褪せている。
窓。
中に光。
開いている。
こんな時間に。
人はいない。
……怖。
「やっぱり罠じゃない?」
『入る前なら帰れるぞ』
「……」
俺は数秒立ち止まった。
帰る?
いや。
ここまで来た。
入る。
「行く」
『そうか』
ドア。
押す。
チリン。
小さな鈴。
中。
古い匂い。
紙。
プラスチック。
少し埃。
そして、棚。
大量のケース。
VHS。
たぶん。
プラスチックの箱に古い映画のジャケット。
日本映画。
外国映画。
ホラー。
アニメ。
知らないタイトルばかり。
右側。
レジ。
古い。
その横に何か機械。
「これ何」
『俺に聞くな』
「録音機?」
『知らん』
「巻き戻すやつ?」
『知らん』
アヒルフェが知らないなら俺も知らない。
店内の照明は弱い。
完全に暗いわけじゃない。
でも明るくもない。
壁。
星。
青。
紫。
昔のビデオ店とかゲームショップにありそうな装飾。
天井近くに小さな星のシールまである。
床。
木。
その上に一枚のカーペット。
宇宙。
銀河。
惑星みたいな模様。
「……何ここ」
『趣味が強いな』
「お前に言われたくないと思う」
誰もいない。
「すみません」
声。
返事なし。
「誰かいますか?」
なし。
俺は少しだけ奥へ進む。
レジ。
近づく。
電源。
……抜かれてる。
「営業してるの?」
『灯りは点いている』
「でもレジ死んでる」
テレビ。
ブラウン管。
古い。
小さい。
二十一インチくらい?
その下にまた機械。
VHSデッキ。
たぶん。
俺がさっき録音機と思っていたものも似ている。
奥。
布。
大きな白っぽいシーツ。
形からして、下にソファがある。
少しめくる。
革。
古い。
擦れている。
「秘密基地感ある」
『そうか』
「こういう組織って大体地下とか古い店にいるんだよ」
『君はまだ組織だと決めているのか』
「だってリミナル・トラベラーズだぞ」
『三人くらいの同好会かもしれない』
「それはない」
俺はレジの奥を見る。
カーテン。
その裏。
扉。
南京錠。
……。
「ほら」
『何が』
「秘密の部屋」
『ただの倉庫かもしれん』
「いや、これは絶対地下への入口」
『根拠は?』
「雰囲気」
『君の人生は雰囲気で進んでいるな』
俺は鞄を開ける。
包丁。
出す。
布を外す。
手。
少し震える。
「誰かいますかー?」
返事。
なし。
「……」
静か。
冷蔵庫みたいな機械の低い音。
どこかの蛍光灯。
ジジ。
そして。
チリン。
入口の鈴。
俺は振り返った。
三人。
……。
本当に三人。
入口に立っていた。
一人目。
俺と同じくらいの身長。
少し高いかも。
茶色い髪。
長い。
男。
顔の一部に傷みたいな跡。
大きな傷ではない。
でも、何かにぶつけたとか、切ったとか。
そういう感じ。
白い肌。
目は黒か茶。
暗くてよく分からない。
そして。
白樺の制服。
……雑。
ブレザー。
着てるというより引っ掛けてる。
シャツも少し乱れている。
ネクタイも適当。
完全に。
寝起きか。
酔っ払い。
いや、高校生だから酒は駄目だろ。
でも雰囲気だけなら酔っ払い。
二人目。
中央。
少し背が高い。
赤っぽい髪。
首くらいまで。
耳も隠れる。
肌はやや白い。
目。
青?
水色?
光のせいで分からない。
服は制服じゃない。
白い上着。
首元が少し高い。
マフラーみたいな襟。
黒いパンツ。
三人の中で一番まとも。
ただし。
目が疲れている。
かなり。
徹夜明けみたいな。
三人目。
女の子。
中央の男より少し低い。
肩までの黒髪。
白い肌。
目の色は暗くて分からない。
服は普通。
上に野球ジャケットみたいなのを着ている。
三人の中では一番「普通の人」。
たぶん。
沈黙。
俺。
三人。
包丁。
……。
状況が最悪。
『慧璃』
『何』
『刃物を下げろ』
『でも』
『今のところ、最も危険人物に見えるのは君だ』
『……』
確かに。
夜。
古いビデオ屋。
十五歳。
包丁。
どう考えても俺が犯罪者。
でも。
すぐ下げるのも負けた感じがする。
俺は少しだけ握ったまま。
無言。
中央の赤髪の男が一歩近づく。
俺も少しだけ包丁を上げる。
警告。
来るな。
そういう意味。
でも。
男は全然気にしない。
さらに一歩。
そして。
手を差し出した。
「荷川取慧璃」
「……」
俺の名前。
やっぱり知ってる。
男は疲れた目のまま、ほんの少しだけ口元を動かした。
「ようこそ」
声。
落ち着いてる。
低い。
そして。
「――アナログ形式によるクラシック映画鑑賞クラブへ」
……。
俺は数秒。
本当に。
何も言えなかった。
ギルド。
秘密組織。
異世界対策機関。
超常現象研究会。
そういうものを想像していた。
でも。
出てきた名前は。
アナログ形式によるクラシック映画鑑賞クラブ。
長い。
地味。
……。
「え?」
俺は思わず聞き返した。
赤髪の男は、差し出した手をそのままにしていた。
後ろの茶髪の男が、少しだけ笑った。
黒髪の女の子は、俺の包丁を見ていた。
そしてアヒルフェが。
『言っただろう』
と。
ものすごく楽しそうでもなく。
ものすごく呆れた声で言った。
『三人程度の同好会かもしれない、と』
……。
嘘だろ。
俺の秘密組織。
開始三秒で。
映画クラブになった。




