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第⑮章:地下の三人 (1)

「いつもお読みいただきありがとうございます。

新学期に伴う生活リズムの調整のため、今後の更新時間を日本時間の【22:00頃】に変更させていただきます。

学業や日常の予定と両立しながら、しっかりと作品を書き進めていくための調整となります。

これからも『鏡の悲歌』および『リミナル・トラベラーズ』の物語をお楽しみいただければ幸いです!」

 目黒凛果と知り合ってから、まだ数日しか経っていない。


 正確には、俺が勝手に「知り合った」と呼んでいるだけで、向こうがどの程度そう思っているのかは分からない。あいつは距離感が妙に独特だから、昨日初めて会った人間に対しても十年来の研究仲間みたいな顔で「魂の外殻についてどう思う?」とか聞きそうなところがある。


 実際、ここ数日の会話も大体そんな感じだった。


 幽霊。


 霊的残留物。


 宇宙波動。


 人間の意識が生み出す別層。


 死後の記憶。


 夢と現実の境界。


 あと、俺には何のことか分からない古代文字らしきもの。


 普通なら、たぶん途中で笑う。


 「何それ」とか、「中二病じゃん」とか。


 少なくとも以前の俺なら、内心ではかなりそう思っていたはずだ。


 でも今は無理だ。


 というか、笑う資格がない。


 つい数日前まで「俺は別世界に行ったんだ」と教室で主張して、その結果、同じような扱いを受けた人間が、今度は他人のオカルト趣味を見て笑うのはさすがに格好悪すぎる。


 それに。


 ……ちょっと面白い。


 認めるのは少し癪だけど。


 凛果の話は全部が全部まともだとは思わない。たぶん半分くらいは怪しい。いや、七割くらいかもしれない。でも、たまにアヒルフェが「その概念だけは使える」とか「人間側でも似た発想があったのか」と反応する。


 だから、完全な無駄でもない。


 もちろん、俺は凛果本人にはそんなこと言っていない。


 言ったら絶対に調子に乗る。


 ……いや。


 俺が言えることじゃないな。


 そんなことを考えながら、五月九日の土曜日。


 俺は自分の部屋の鏡の前にいた。


 休日。


 学校はない。


 親は下にいる。


 俺は上。


 そして、鏡の中には相変わらず少し変わった顔をした俺がいる。


 白くなった髪。


 灰色の左目。


 光の加減で金と紫が混ざる。


 そして前より少し白く見える肌。


 ……本当に白い。


 最初は照明のせいかと思っていたけど、違う。


 白い。


 というか、白すぎる。


 風呂上がりに鏡を見ると特に分かる。


 前は普通に少し黄色っぽい肌色だったのに、今は照明によっては顔だけ陶器みたいに見える。


「これ、普通に病人っぽくない?」


 俺は鏡へ顔を近づけた。


『病人より、雪山で三日ほど放置された死体に近いな』


「お前、例えが最悪なんだよ」


 机の上では、メジロ姿のアヒルフェがこっちを見ている。


『しかし、君はよく鏡を見るな』


「確認してるだけ」


『何を』


「変化」


『顔を?』


「そう」


『随分と熱心だ』


「だから確認だって」


『自分に恋でもしているのかと思った』


「しないよ!」


 ……いや。


 鏡を見る回数は増えた。


 それは事実だ。


 でも別にナルシストとかじゃない。


 変化があるから確認しているだけだ。


 もし毎朝起きるたびに顔が少しずつ変わる可能性があったら、誰だって見る。


 普通だ。


 たぶん。


 それより大変なのは、両親だった。


 どういうわけか、まだ決定的には気づかれていない。


 いや、たぶん何かおかしいとは思われている。


 俺が家の中でも妙にフード付きのパーカーを着て、髪を隠して、顔を見られそうになると少し横を向く。


 そんな十五歳の息子がいたら、普通は怪しい。


 でも、あの日以降、両親は俺にかなり気を遣っている。


 学校での件があったからだ。


 たぶん、


 「無理に聞かない方がいい」


 みたいな判断になっている。


 俺としては非常に助かる。


 アヒルフェとしても、その方がいいらしい。


『今の状態を家族へ見せる必要はない』


 何度もそう言われている。


 理由も分かる。


 急に髪の色が変わった。


 片目の色も変わった。


 肌まで妙に白い。


 病院へ連れていかれる。


 血液検査。


 眼科。


 皮膚科。


 場合によっては精神科。


 そこまで行くかは知らないけど、とにかく面倒になる。


 そして俺は、自分が今の身体で何をされるのか分からない。


 だから隠す。


 少なくとも、もう少し状況が分かるまでは。


「でもさ」


 俺は鏡の前で前髪を少し持ち上げる。


「これ、ずっと隠すの無理じゃない?」


『いずれはな』


「学校ではもう出してるし」


『学校と家庭は違う』


「何が」


『親は君の身体へ責任を持っている。異常を見れば動く』


「まあ」


『同級生は見る。噂する。飽きる。終わりだ』


「……それ昨日すごく実感した」


『よかったな。学習したではないか』


「嬉しくない」


 俺は鏡から離れようとした。


 そこでアヒルフェが言った。


『だが、その顔は使える』


「何が?」


『素材として』


「素材?」


『ああ』


 嫌な言い方。


 俺はメジロを見る。


「どういう意味」


『君の顔立ちは悪くない』


「……」


 一瞬。


 本当に一瞬だけ。


 ちょっと嬉しかった。


「え、今褒めた?」


『事実を言った』


「もう一回」


『断る』


「いや、今の聞き間違いかもしれないから」


『悪くない、と言っただけだ』


「それって結構――」


『調子に乗るな』


「はい」


 早い。


『ただし、その白い肌と髪なら、少し手を加えれば形になる』


「何の」


『道化だ』


 俺は固まった。


「……道化?」


『そうだ』


「いや」


 少し考える。


「道化って、あれだろ」


『何だ』


「笑わせる人」


『……』


「あと、バカにされたり」


『……』


「王様の横にいて、変な服着て、みんなに笑われる――」


『もう一度言ってみろ』


 声が低くなった。


 あ。


 怒った。


 でも、何で。


「道化って、笑われる役――」


 右腕が勝手に動いた。


 速い。


「え?」


 バンッ。


「いっっっっ――!」


 拳が自分の頬に入った。


 かなり強い。


 視界が一瞬揺れる。


 椅子から半分ずり落ちた。


「痛っ! 痛い痛い痛い!」


 口の中に鉄っぽい味。


 舌で確認する。


 少し切れている。


「血出た!」


『だから言っただろう』


「言ってないだろ! もう一回言えって言っただけだろ!」


『警告だった』


「分かるか!」


 俺は頬を押さえる。


 普通に痛い。


 こいつ、本当に容赦がない。


「ていうか、お前さ」


 少ししてから気づく。


「今の、俺の力じゃないよな?」


『何が』


「パンチ」


『君の腕だ』


「それは分かる。強さ」


 俺は自分の右手を見る。


 別に鍛えていない。


 筋肉も普通。


 むしろ平均以下かもしれない。


「俺、自分で自分殴ってここまで痛くできる?」


『できる』


「いや、あんな速度出ないだろ」


 アヒルフェが少し間を置いた。


『説明するなら……機械に近い』


「機械?」


『お前が運動器具を使う時、自分の意思で動かすだろう』


「まあ」


『だが、器具そのものが生み出せる負荷は、お前の筋力とは別だ』


「……」


『俺が身体へ干渉する場合も似ている』


 アヒルフェは机の上を一歩歩いた。


『これは俺の肉体ではない。だからこそ、君が普段自分で無意識に抑えている出力を超えて動かすことはできる』


「それ、結構ヤバくない?」


『ああ』


「じゃあ、例えば」


 少し考える。


「誰か殴ったら?」


『殺せる可能性もある』


 軽い。


 言い方が軽すぎる。


「は?」


『条件次第だ』


「いやいや」


『ただし、その場合、お前の腕も無事では済まない』


「……」


『筋肉。腱。骨。関節。それらの許容範囲を超えて動かせば壊れる』


「つまり」


「『俺が全力出せば、お前の腕ごと壊す』」


『簡単に言えばな』


「最悪じゃん」


『だから期待するな』


「何を」


『俺が何でも代わりにやることをだ』


 アヒルフェの声が少しだけ冷たくなる。


『何度も言っているが、俺は君の従者でも、便利な戦闘装置でも、喧嘩の代理人でもない』


「別にそこまで思ってない」


『少し思っていた』


「……」


『図星か』


「ちょっとだけ」


『愚か者』


 俺は頬を押さえたまま立ち上がる。


「じゃあ、戻るけど」


『何に』


「道化」


『ああ』


「何するの」


『顔を作る』


「……まさか」


 嫌な予感。


「メイク?」


『そうだ』


「嫌だ」


『なぜ』


「何で俺が化粧しないといけないんだよ」


『誰も女装しろとは言っていない』


「そういう問題じゃなくて」


『顔の印象を変えるだけだ』


「いやでも」


『君の今の外見なら、俺の意匠を少し再現できる』


「……」


 俺は鏡を見る。


 白い肌。


 白が混じった髪。


 左目。


 確かに、ちょっとそういう方向へ寄せたらかなり変わるかもしれない。


 ……。


 ちょっと興味ある。


「何が必要?」


『化粧品』


「俺持ってない」


『母親は?』


 ……。


 嫌な流れ。


 でも。


 面白そう。


 俺は部屋のドアを少し開ける。


 階段の下を見る。


 静か。


 耳を澄ます。


 外から声。


 母。


 父。


 窓から庭側を確認すると、母が外で父と話している。


 父は車を洗っていた。


 今なら。


「……行ける」


『何を始める気だ』


「お前が言ったんだろ」


 俺はフードを深くかぶる。


 階段を下りる。


 一階。


 静か。


 両親の寝室。


 普通なら入らない。


 でも、今日は少しだけ借りる。


 ……借りる。


 盗むわけじゃない。


 使ったら返す。


 だからセーフ。


 たぶん。


 俺は引き出しを開ける。


 服。


 小物。


 それから、母が使っているらしい小さなポーチ。


「これ?」


『知らん』


「お前が言い出したんだろ」


『中身を見ろ』


 開ける。


 色々。


 何だこれ。


 細い棒。


 小さい箱。


 ブラシ。


 粉。


 クリーム。


 黒いやつ。


 茶色いやつ。


 ピンク。


 女性は毎朝こんなの使ってるの?


 大変すぎるだろ。


「これ全部顔に塗るの?」


『全部ではない』


「何で知ってるの」


『知識だ』


「女なの?」


 沈黙。


『何を言っている』


「いや、詳しいから」


『それだけで性別を決めるな』


「じゃあ男?」


『今それは重要か?』


「ちょっと」


『重要ではない』


 また逃げた。


 俺は使えそうなものを何個か持って、急いで部屋を出た。


 階段を上がる。


 自室。


 ドアを閉める。


 鍵。


「よし」


『座れ』


「命令口調やめて」


『時間を浪費するな』


 俺は鏡の前へ座った。


 アヒルフェが指示する。


『黒い細いもの』


「これ?」


『おそらく』


「おそらくって何だよ」


『使え』


「目に刺さったらどうする」


『君の手はそこまで不器用なのか』


「緊張させるな」


 俺は恐る恐る使う。


 たぶんアイライナー。


 名前くらいは聞いたことある。


 目の周り。


 ほんの少し。


 普通の化粧みたいに綺麗に整えるというより、輪郭を強くする。


 左目側。


 少し長く。


 下に細い線。


 そこから小さな印。


「これ、サーカスっぽくない?」


『黙れ』


「いや、でも」


『続けろ』


 次。


 頬。


 何か薄く色を入れる。


 赤くするのかと思ったら、アヒルフェはむしろ色を消す方向へ指示する。


 白さを強調。


 ただし完全に真っ白にはしない。


 頬の一部にだけ薄い赤。


 左右非対称。


 さらに、左側に小さな涙みたいな印。


 右側には、笑っているようにも見える細い線。


 全部やって。


 俺は鏡を見る。


 ……。


「思ってたより」


『何だ』


「悪くない」


『当然だ』


「お前、本当に詳しいな」


『道化を侮辱するな』


「まだ怒ってる?」


『当然だ』


「執念深い」


 鏡の中の俺は、かなり違って見えた。


 完全な化粧ではない。


 舞台役者みたいでもない。


 普通の顔の上に、少しだけ別の人格を重ねた感じ。


 左目の異様さが強くなる。


 白い肌。


 黒と白の髪。


 そこへ薄い線。


 ……格好いい。


 いや。


 自分で言うのも何だけど。


 かなり。


「これ、学校で――」


『やめろ』


「まだ何も言ってない」


『分かる』


「一回くらい」


『やめろ』


「はい」


 その時。


 コンコン。


 ドア。


 俺は固まった。


「慧璃?」


 母。


 最悪。


「はい!」


 声が裏返る。


「開けるよ?」


「待っ――」


 ガチャ。


 ドアが開いた。


 俺は反射的に顔を両手で覆った。


 フードも引っ張る。


 母が立っている。


 数秒。


 沈黙。


 母の視線が机へ。


 化粧品。


 俺。


 化粧品。


「……それ」


「え」


「私の?」


「……」


 終わった。


「ちょっと見てただけ」


「見てた?」


「どういうのかなって」


 母は少しだけ困った顔をした。


 でも、怒らない。


「使うのは別にいいけど」


「……いいの?」


「次から一言言って」


「あ、はい」


「勝手に持っていかれると探すから」


 思ったより普通。


 俺は化粧品をまとめて差し出す。


「ごめん」


「うん」


 母が受け取る。


 そして。


「顔見せて」


「え」


「何してたの?」


「何も」


「慧璃」


「本当に」


 母の手がフードへ伸びる。


 俺は一歩下がった。


「ちょっと!」


「……」


 母が止まる。


 空気が少し変わった。


 まずい。


 拒絶しすぎた。


「ごめん」


 俺はすぐ言う。


「今ちょっと変だから」


「……そう」


 母は数秒だけ俺を見る。


 それから、追及しなかった。


「分かった」


 助かった。


 たぶん、また気を遣わせた。


 少しだけ罪悪感。


 でも今は仕方ない。


「あ、それと」


 母がポケットから何か出す。


「これ、慧璃宛て」


「俺?」


「玄関に置いてあった」


 紙。


 封筒。


「誰から?」


「分からない」


「郵便?」


「違うみたい」


「……」


 母は封筒を渡す。


「変なのじゃないといいけど」


「うん」


「じゃあ、返しておくね」


「ありがと」


 母が出ていく。


 ドアが閉まる。


 俺はしばらく動かなかった。


『危なかったな』


「お前のせいだよ」


『俺は化粧品を盗めとは言っていない』


「借りたんだよ」


『無断で』


「……」


 俺は封筒を見る。


 白。


 普通。


 宛名。


 俺。


 荷川取 慧璃 様。


「手紙?」


 今、2026年だぞ。


 スマホ。


 メール。


 SNS。


 メッセージ。


 何でもある。


 それなのに手紙。


 手紙が来る時なんて、学校とか役所とか、料金とか、何か嫌なものくらいじゃない?


「借金?」


『十五歳で何をした』


「いや、知らないけど」


 封を開ける。


 中に一枚。


 紙。


 上にロゴ。


 変なロゴだった。


 VHSカセット。


 それと、たぶん高田城のシルエット。


 それが交差している。


 文字はレトロ。


 九十年代の古いビデオ店みたいな雰囲気。


 ただ、その周りにある記号が変だ。


 文字なのか、模様なのか。


 よく分からない。


 宗教団体みたい。


「……何これ」


 ロゴの下。


 読める文字。


 リミナル・トラベラーズ


 俺は少し止まった。


「リミナル……トラベラーズ?」


『知らんな』


「俺も」


 そして本文。


 最初の一文。


 読んだ瞬間。


 背中が少し冷えた。


『もし、この世界とは別に“もう一つの世界”があると言われたら、君は信じるだろうか?』


 ……。


「おい」


『読め』


「これ」


『最後までだ』


 続ける。


 内容は途中から急に普通になった。


 古い映画。


 クラシック映画。


 VHS。


 昔の作品を集める。


 鑑賞する。


 西城町。


 小さな映画クラブ。


「何これ」


『映画の集まりらしいな』


「最初の一文と繋がってないだろ」


 さらに読む。


 活動内容。


 古い映像作品の保存。


 鑑賞会。


 興味があれば来てほしい。


 あなたは大きな戦力になるかもしれない。


「戦力?」


『妙な言葉を使う』


「映画見るだけで?」


 そして。


 最後の方。


 俺の指が止まる。


『もし君が、“果てのない通路”や、“無数の扉”、そして“ロッカーの並ぶ世界”について話したいのなら、ここでは笑う者はいない。』


 ……。


 何。


 息が止まった。


 ロッカー。


 無限の通路。


 扉。


 あの場所。


 俺が入った場所。


 学校。


 逆世界。


「……知ってる」


『そうだな』


「何で?」


『それを調べるための招待ではないのか』


「いや、でも」


 怖い。


 普通に怖い。


 どうやって知った。


 誰が。


 何で俺。


 学校の誰か?


 先生?


 クラスメイト?


 それとも。


 本当に逆世界を知ってる奴?


「これ罠じゃない?」


『可能性はある』


「誘拐?」


『可能性はある』


「宗教?」


『可能性はある』


「薬?」


『なぜ薬に行く』


「西城町の古い店に呼び出すんだぞ。普通に怖いだろ」


『なら行かなければいい』


「……」


 俺はもう一度読む。


 最後。


『本日中に返答がない場合、こちらから改めて君を探す。』


 署名。


 LIMINAL TRAVELERS


「怖っ」


 思わず声が出た。


「何これ。脅しじゃん」


『少なくとも、礼儀のある招待状ではないな』


「今日中に来ないと探しに来るってこと?」


『そう読める』


「絶対ヤバい奴らじゃん」


『しかし』


 アヒルフェの声が少し変わる。


『彼らは君が入った場所を知っている』


「……」


『それは重要だ』


「うん」


『偶然ではない可能性が高い』


「うん」


 俺は手紙を机へ置く。


 怖い。


 かなり。


 でも。


 同時に。


 ……めちゃくちゃ気になる。


 もし本当に。


 あの場所を知っている人間がいるなら。


 俺以外にも。


 逆世界へ入れる奴がいるなら。


 それって。


 すごくない?


 いや。


 ちょっと悔しいけど。


 俺だけじゃない。


 でも、それより。


 ようやく誰かと話せる。


 「異世界に行った」と言っても笑わない人間。


 そういう奴ら。


 それだけでも。


 行く価値はある。


「行く」


『即決か』


「いや、どう考えても行くだろ」


『危険だぞ』


「分かってる」


『分かっていない顔だな』


「でもさ」


 俺は手紙を持ち上げる。


「これ知ってるんだぞ」


『だからこそ危険とも言える』


「逆に考えれば、仲間かもしれない」


『あるいは君を利用したい者かもしれない』


「その時は」


 少し考える。


「……逃げる」


『賢明だ』


「でも、何か持ってった方がいいな」


『武器か』


「そう」


 部屋を見る。


 何がある。


 カッター。


 駄目。


 学校じゃないし、持ち歩くのも怖い。


 傘。


 今日は晴れ。


 不自然。


 金属の水筒。


 殴れなくはない。


「護身用に何か――」


『相手が本当に危険なら、お前が部屋から持ち出せる程度の物では大差ない』


「夢ないな」


『現実だ』


「じゃあどうする」


『周囲を確認する。出口を覚える。一人で奥へ入らない。知らない飲食物を口にしない』


「薬物対策?」


『人間社会では基本だろう』


「……意外と分かってるじゃん」


『君よりはな』


「むかつく」


 俺はもう一度手紙を見る。


 リミナル・トラベラーズ。


 古い映画クラブ。


 西城町。


 無限の通路。


 ロッカー。


 別世界。


 ……。


 どう見ても怪しい。


 怪しすぎる。


 でも。


 俺がもしゲームの主人公なら。


 こういう招待状は絶対にサブイベントじゃない。


 いや。


 むしろメインクエストの入口だ。


 秘密の組織。


 地下基地。


 古い映画店。


 世界の裏側を知る三人組。


 ギルド。


 情報屋。


 特殊部隊。


 もしかすると、俺をずっと監視していた組織。


 ……いい。


 かなりいい。


『また妄想しているな』


「してない」


『口元が笑っている』


「気のせい」


『鏡を見ろ』


「……」


 確かに少し笑っていた。


 俺は慌てて真顔に戻す。


「とにかく」


 手紙を折る。


「行く」


『分かった』


「お前もいるし」


『俺を盾にするな』


「精神的に」


『それなら好きにしろ』


 俺は鏡を見る。


 まだ顔には、さっき作った道化の薄い化粧が残っている。


 これで行く?


 ……いや。


 絶対やめた方がいい。


 初対面でこれだと、向こうより俺の方が怪しい。


 俺は急いで落とし始める。


「西城町か」


『場所は分かるのか』


「大体」


『なら準備しろ』


「うん」


 そう答えた瞬間。


 胸の奥に少しだけ怖さが戻る。


 でも。


 それより大きいものもあった。


 期待。


 好奇心。


 そして。


 ようやく。


 俺以外にも、“あっち側”を知っている人間がいるかもしれない。


 その事実だけで。


 今の俺には十分だった。

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