第⑭章:二つの意識 (3)
そのまま机に突っ伏して、何をするでもなくぼんやりしていた。
昼休みはまだ少し残っている。
図書室は静かだった。紙をめくる音と、遠くで椅子が少し動く音。それから、窓の外から聞こえる運動部らしい掛け声。教室にいた時よりずっと楽だ。
こういう場所なら、誰かに話しかけられることもない。
俺はそう思っていた。
だから、机の上で何かが小さく擦れる音がした時も、最初はあまり気にしなかった。
ゴト。
「……ん?」
顔を少し上げる。
机の端に置かれていた本が、数センチ横へ動いていた。
さっきそこに本なんてあったっけ。
いや、あったかもしれない。
図書室なんだから本くらいある。
そんなことを考えながら視線を横へ動かす。
少し離れたところに、一人の女子生徒が立っていた。
白樺の制服。
そこまでは普通。
でも、それ以外が少し変だった。
制服そのものは規定通りに見える。でも、首元や袖口のあたりに黒と白の小さなアクセサリーがいくつか付いている。派手というほどではない。ただ、学校指定のものではない気がする。
それから脚。
……靴下?
いや、タイツ?
分からない。
俺は女の靴下の種類なんて知らない。
普通の黒いハイソックスとは違う気がする。黒と白が混ざっているというか、模様があるというか、何となく制服の中でそこだけ別の作品から持ってきたみたいに見える。
そして、肌。
白い。
いや。
かなり白い。
健康的な白さというより、照明の下だと少し紙みたいに見えるくらい白い。
髪は黒。
目もたぶん黒に近い。
胸元には一冊の本を抱えていた。
表紙はこちらからは見えない。
彼女は俺を見ていた。
かなり真っ直ぐ。
俺は一瞬だけ目が合った。
……何。
いや、分かる。
こういうタイプ、いる。
図書室にずっといて、成績がすごく良くて、話しかけると小さい声で答えるタイプ。
たぶん。
知らないけど。
俺は別に人を見た目で判断するつもりはない。
……多少はするけど。
でも、相手が話しかけてこないなら、こっちから無理に行く必要もない。
こういう大人しそうな人を無理に話へ巻き込むのも悪い。
俺は視線を戻した。
『あの服装』
アヒルフェが言った。
『何』
『少し妙だな』
『お前がそれ言う?』
『俺の話ではない』
アヒルフェのメジロ姿が机の端で女子生徒を見ている。
『装飾に意味がある可能性がある』
『意味?』
『象徴だ』
俺はまた少しだけ女子の方を見る。
『じゃあ、あの子も逆世界に入れるとか?』
『可能性は否定できない』
それを聞いた瞬間。
ちょっと興味が出た。
いや。
かなり。
もしそうなら。
さっきアヒルフェが言った「他にも逆世界を知る人間がいるかもしれない」という話。
まさかこんな早く見つかる?
しかも同じ学校。
ありえる。
物語なら、こういうところで出会う。
図書室。
謎の女子。
黒と白の装飾。
妙な本。
完全にそれっぽい。
もしかしたら、ナビゲーターとか。
あるいは最初から全部知ってるタイプ。
主人公より先に世界の裏側を知っていて、後から説明役になるやつ。
……来たかもしれない。
俺は少しだけ期待しながら、もう一度振り返った。
誰もいない。
「……え?」
さっきまでいた場所。
空。
女子生徒はいない。
どこ行った。
俺は少し身体を起こす。
左右を見る。
いない。
『消えた?』
『いや』
アヒルフェが言う。
『違う』
「何が――」
そこで。
すぐ横から視線を感じた。
顔を向ける。
「うわっ!」
いた。
俺のすぐ隣。
近い。
近すぎる。
さっき数メートル先にいた女子が、いつの間にか俺の机の横へ立っていた。
無言。
真顔。
俺を見ている。
心臓が一回だけ強く跳ねた。
びっくりしただけだ。
怖くはない。
たぶん。
「……何?」
俺が聞く。
女子生徒は答えない。
その代わり、俺の顔を少し覗き込んだ。
そして指を伸ばす。
俺の左目を指す。
「あなた」
「俺?」
「探してた」
……。
来た。
やっぱり。
俺は一瞬で確信した。
そうだ。
この子、分かってる。
俺の左目を見て、普通の人と違うと気づいた。
つまり逆世界。
あるいは心気。
もしかすると、俺みたいな人間を見分けられる。
やっぱりナビゲーター系か?
いや、もっと特殊な役割かもしれない。
「この目のこと?」
「うん」
女子は少しだけ目を見開いた。
「同じ」
「同じ?」
「本にある」
……本?
彼女は胸元に抱えていた本を開いた。
俺の前へ差し出す。
見る。
表紙。
黒。
妙な図形。
星。
円。
幾何学模様。
ページの端には意味の分からない記号。
文字。
手書きの線。
……。
これ。
あれだ。
オカルト系。
絶対。
宗教なのか魔術なのか分からないけど、とにかくそういう本。
女子はページをめくる。
そこには一つの目の絵があった。
虹彩の中に何重もの線。
外側に記号。
周りには細かい説明文。
「この目」
女子が言う。
「あなたと同じ」
俺は絵を見る。
自分の目を思い出す。
もう一度絵。
……違くない?
「いや」
俺は言った。
「色違うけど」
「色は変わる」
「変わる?」
「個体で」
「個体……」
「でも構造は同じ」
女子は俺の左目をもう一度見る。
「宇宙エネルギーが入った時に、眼球は変わる」
「宇宙エネルギー」
「うん」
俺の期待が少しずつ下がっていく。
違う。
これ、たぶん違う。
逆世界を知ってる人じゃない。
ただのオカルト好きだ。
しかも、かなり深いタイプ。
「髪も」
女子が続ける。
「白くなってる」
「まあ」
「それも同じ」
「何と」
「宇宙干渉」
「……」
「高次のエネルギーが身体へ入った時、人間の色素は一度壊れる場合がある」
すごい。
全部言い切る。
迷いがない。
普通こういう話をする時って、「多分」とか「らしい」とか付けない?
この子は完全に断定する。
ちょっと怖い。
いや。
怖くはない。
ちょっとだけ変なだけ。
「なるほど」
俺は適当に頷く。
「そういう感じね」
「うん」
「じゃあ、そのエネルギー」
「うん」
「今ちょっと休ませないといけないから」
「休ませる?」
「そう」
俺は机に伏せる。
「だから、また今度」
『逃げるのか』
アヒルフェ。
『違う』
『明らかに会話を終了させようとしたな』
『だってこの子、絶対違うだろ』
『逆世界について聞かないのか』
『聞かない』
『なぜ』
『余計に混乱させそう』
『本人は既に十分混乱しているように見えるが』
『だからだよ』
俺は目を閉じる。
これで終わり。
そう思った。
「すごい」
女子が言った。
目を開ける。
「何が?」
「エネルギーを休ませられるの」
「……」
「すごい」
少し間。
「あなたもすごい」
俺は動かなかった。
言葉が頭の中で一度通り過ぎる。
あなたもすごい。
……。
もう一回。
「今」
俺はゆっくり顔を上げた。
「何て言った?」
女子が少し首を傾げる。
「あなたもすごい」
…………。
来た。
ついに来た。
俺は身体を起こした。
別に。
急に態度を変えたわけじゃない。
話がまだ終わってなかっただけ。
そう。
それだけ。
『ひどいな』
アヒルフェが言う。
『何が』
『先ほどまで明らかに相手を切り上げようとしていた』
『してない』
『“また今度”と言って伏せた』
『休もうと思っただけ』
『そして褒められた瞬間に起きた』
『偶然』
『見苦しい』
『うるさい』
俺は女子を見る。
「それで」
「うん」
「どの辺が?」
「何が?」
「すごいって」
「目」
「うん」
「片方だけ変わってる」
「まあね」
「綺麗」
「……そう?」
「紫と灰色」
女子は少し顔を近づける。
「光が入ると、少し金も見える」
「そうなんだよ」
俺はちょっと嬉しくなる。
ちゃんと見てる。
初めてだ。
秋山もカラコンとしては褒めてくれたけど、この子は違う。
自然に。
しかも特殊なものとして見ている。
「髪も」
「うん」
「黒と白の境目が綺麗」
「分かる?」
「うん」
「これ本当に染めてないから」
「知ってる」
「……知ってる?」
「エネルギー変質だから」
「……まあ、そこは置いといて」
理屈は違う。
でも結果は近い。
アヒルフェの力が入って変わった。
つまり普通じゃないエネルギーで変質した。
宇宙エネルギーという言い方が正しいかは知らないけど、完全に外れているとも言い切れない。
……いや。
ちょっと当たってるか?
『調子に乗るな』
『でも近くない?』
『偶然だ』
『偶然でも当たってる』
『占い師の論法だな』
俺は女子に聞く。
「他には?」
「他?」
「俺見て、何か分かる?」
女子は俺をじっと見る。
顔。
髪。
左目。
制服。
手。
かなり真剣。
ちょっと恥ずかしい。
でも、ここまで来たら聞きたい。
「たぶん」
女子が言う。
「何?」
「超常的な力がある」
俺は少し口元を上げた。
「……まあ」
当たり。
かなり。
「だと思った」
「何で?」
「目」
「目だけ?」
「あと雰囲気」
雰囲気。
いい。
その言葉、かなりいい。
俺に「何かある」感じが出てるってことだ。
「なるほどね」
俺は少しだけ余裕を出す。
「まあ、その辺は……結構当たってる」
『気持ち悪いぞ』
『黙ってろ』
『急に偉そうになったな』
『別に』
『褒められたからか』
『違う』
アヒルフェが呆れたように沈黙する。
それから。
『それなのに、九頭見という少年には怯えるのか』
俺の眉が動いた。
「別に九頭見に怖がってないし」
声に出た。
女子が瞬きする。
「九頭見?」
「あ」
しまった。
「いや、何でもない」
「誰?」
「知らなくていい」
「敵?」
「違う」
『敵ですらない相手に怯えているのか』
「怯えてないって!」
少し声が大きくなった。
近くの本棚の向こうから誰かがこちらを見る。
俺は口を押さえた。
女子は俺を見たまま。
「……大丈夫?」
「大丈夫」
「今、誰かと話してた?」
「いや」
一瞬迷う。
「目」
「目?」
「これの影響」
自分の左目を指す。
「たまにこういう……反応がある」
女子の目が急に輝いた。
本当に。
物理的に光ったわけじゃないけど、表情が変わった。
「すごい」
「え」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「エネルギーと意識が分離してる」
「……」
女子が小さく跳ねた。
一回。
二回。
控えめだけど、本当にその場で少し跳ねた。
何だこの子。
でも。
悪くない。
俺は椅子を少し横へ引く。
「座る?」
「いいの?」
「うん」
「じゃあ」
女子が隣の椅子へ座る。
姿勢が妙に真っ直ぐ。
手に持っていた本を膝の上へ置く。
俺は今更ながら聞く。
「名前は?」
「目黒凛果」
めぐろ、りんか。
「目黒凛果?」
「うん」
「俺は荷川取慧璃」
「知ってる」
「……知ってるの?」
「昨日、聞いた」
「誰に」
「知らない人」
「それは知らないでいいのか?」
「うん」
駄目だろ。
たぶん。
まあいい。
「じゃあ、目黒」
「凛果でいい」
「……じゃあ凛果」
「うん」
「その本、何?」
凛果は本を机の上へ置いた。
開く。
さっき見えた目の図。
その次。
円。
三角形。
星。
意味の分からない文字列。
人間の身体みたいな図。
宇宙。
惑星。
古代文明。
波動。
意識。
霊。
全部が一冊に入っている。
「これ」
「うん」
「何の本?」
「宇宙意識と人間の内部構造」
「……すごいタイトル」
「面白い」
「そう?」
「うん」
俺は正直そこまで興味ない。
でも、アヒルフェが急に動いた。
机の上を、小さなメジロ姿で歩く。
もちろん凛果には見えない。
アヒルフェは開かれた本の上へ乗る。
『おい、踏んでるぞ』
『彼女には見えん』
『そういう問題?』
アヒルフェは細い脚でページの端を押さえながら、文字を追っている。
鳥が読書している。
かなり変な光景。
でも俺しか見えない。
少しして。
『……面白い』
『え?』
『これ、全部が無意味というわけではない』
『マジ?』
『勘違いするな。書かれている“宇宙霊”や“高次波動”が、そのまま正しいわけではない』
『じゃあ何』
『象徴の使い方だ』
アヒルフェはページを少し移動する。
『円。目。星。方向。身体との対応。人間がこういった象徴へ意味を与え続けてきたなら、逆世界では利用価値がある』
『魔法の本?』
『違う』
『呪文?』
『違う』
『禁止された術式とか?』
『君は少し黙れ』
『……』
『実際の効力はほぼない。だが、象徴としては使える。人間が信じた形というのは、あちらでは時に力を持つ』
俺は凛果を見る。
凛果はページを指でなぞっている。
『じゃあ、この子』
『少なくとも知識量はある』
『逆世界知ってる可能性は?』
『それはまだ分からない』
『でも、知らないまま役に立つ知識を持ってる?』
『あり得る』
なるほど。
一気に価値が上がった。
いや、人間を価値で見るのは良くない。
分かってる。
でも今はそういう意味じゃない。
「凛果」
「うん」
「一つ聞いていい?」
「何でも」
「例えばさ」
俺は少し声を落とす。
「すごく広い場所で」
「うん」
「終わりがなくて」
「うん」
「扉を開けても、全然違うところに出て」
「うん」
「階段もおかしくて、人もいなくて――」
キーンコーンカーンコーン。
チャイム。
最悪のタイミング。
俺は天井を見る。
「……今?」
昼休み終了。
図書室にいた生徒たちが一斉に動き始める。
本を閉じる。
椅子を戻す。
廊下へ出る。
アヒルフェが俺を見る。
『やめておけ』
『何で』
『彼女が知らなかった場合、こちらから余計な情報を与えることになる』
『でも』
『まだ初対面だ』
『……』
『慎重にしろ』
それもそうか。
さっき俺自身、知らない人間へ逆世界のことを話す危険について言われたばかりだ。
凛果がオカルトに詳しいだけなら、「無限の異世界」とか話し始めた時点で、さらに面倒な方向へ行く可能性もある。
「じゃあ」
俺は立ち上がる。
「続き、また今度」
凛果も立つ。
「うん」
「本の話も」
「持ってくる」
「ありがとう」
俺はパンの袋と空になった飲み物をまとめる。
教室へ戻らないといけない。
図書室を出る前に一度振り返る。
凛果がいる。
立っている。
こっちを見ている。
俺は軽く手を上げる。
廊下へ出る。
数歩歩く。
何となくまた振り返る。
まだ立っている。
同じ場所。
同じ姿勢。
全然動いてない。
……。
ちょっと怖い。
いや。
変わってるだけ。
別に悪い子ではない。
たぶん。
『あれを見ても、まだ“心理的に危険な人間ではない”と思うか』
『言い方が悪い』
『事実だ』
『ちょっと独特なだけ』
『随分と寛容になったものだ』
『役に立つかもしれないし』
『褒めてくれたからだろう』
『違う』
『そうか』
『本当に違う』
『ならそういうことにしておこう』
階段へ向かう。
俺はさっきより少しだけ気分が良かった。
たった一人。
しかも、かなり変な方向からだけど。
俺の変化を「すごい」と言った。
特別だと思ってくれた。
それだけ。
それだけなのに。
何となく、昨日から胸の奥に引っかかっていたものが少しだけ軽くなった。
『機嫌が良くなったな』
『別に』
『声が違う』
『お前に関係ない』
『俺は君の頭の中にいる。嫌でも分かる』
『じゃあ見ないで』
『無理だ』
『最悪』
『まあいい』
アヒルフェは少しだけ間を置いた。
『あの少女が使えるなら、それで十分だ』
『“使える”って言い方やめろよ』
『では、“役に立つ可能性がある”』
『それも大体同じ』
『君もさっき同じことを考えていただろう』
『……』
読まれてる。
やっぱり。
「とにかく」
俺は小さく言った。
「凛果か」
目黒凛果。
覚えた。
変な本。
変な理論。
妙に白い。
動かない。
俺の目を見て、宇宙エネルギーと言った。
そして。
俺をすごいと言った。
……最後のは別に重要じゃない。
たぶん。
「また話してみる」
『好きにしろ』
「もしかしたら、逆世界について何か知ってるかもしれないし」
『可能性は低いが、ゼロではない』
「じゃあ調べる価値ある」
『そうだな』
階段を上がる。
昼休みは終わった。
また授業。
また黒板。
また教師。
退屈。
でも。
今度は少しだけ違う。
この学校の中にも、俺の知らない人間がいる。
俺の知らない知識を持っている人間。
もしかしたら。
本当に他にもいるのかもしれない。
逆世界を知っている奴。
力を持っている奴。
俺と似た何かを経験した奴。
そう考えると。
学校がほんの少しだけ、昨日までとは違って見えた。
そして俺の頭の中では、相変わらずもう一つの意識が静かに俺を見ていた。
『慧璃』
『何』
『次の授業では、声に出して返事をするな』
『分かってる』
『本当に?』
『たぶん』
『……先が思いやられるな』
俺は少し笑った。
二つの意識。
一つの身体。
そして、もしかすると。
俺たち以外にも、こちら側と向こう側の境目に触れている人間がいる。
まだ何も分からない。
でも。
昨日よりは、少しだけ面白くなってきた気がした。




