第⑭章:二つの意識 (2)
それから何時間か、授業は普通に続いた。
普通に。
というのが一番困る。
世界の裏側に妙な空間があって、俺の頭の中には道化騎士が住んでいて、その気になれば別世界へ行けるかもしれないというのに、学校側はそんな事情を一切考慮してくれない。
数学は数学だし、英語は英語だし、教師は宿題を忘れた生徒を普通に注意する。時計の針も、俺が退屈しているからといって早く進んだりはしない。
正直、ちょっとくらい何か起きてもいいと思う。
いや、怪物が窓を割って入ってくるとかは困るけど。
せめて授業中に停電するとか。
火災報知器が誤作動するとか。
体育館の屋根に謎の黒い鳥が集まるとか。
そういう「何か始まりそうなこと」が一つくらいあってもいい。
でも、何もない。
ただ教師が喋っている。
俺は聞いているふりをする。
アヒルフェは俺より真面目に聞いている。
何だこれ。
そして、ようやく昼休みになった。
チャイム。
その音を聞いた瞬間だけは、学校という制度を作った誰かに感謝したくなる。
教室の空気も一気に変わる。
授業中は同じ方向を向いていた全員が、急に好き勝手に動き始める。
椅子を引く音。
机を寄せる音。
弁当箱を開ける音。
ビニール袋。
ペットボトル。
廊下へ出ていく足音。
人間って不思議だ。
五十分間は黙って前を向いていられるのに、休み時間になった瞬間、全員が別の生き物みたいに喋り始める。
俺は机に頬杖をつきながら、教室を眺めた。
昨日ほど視線は来ない。
というか、ほぼ来ない。
朝も最初のうちは何人か見ていたけど、二日目になるともう慣れたらしい。
白い髪。
変な左目。
昨日なら話題だった。
今日は背景。
早い。
人間の適応力ってすごい。
すごいけど、今はあまり褒めたくない。
昨日の俺は、少なくとも少しは「変わった奴」だった。
今日はもう、「髪を変な色にしてる荷川取」くらいになっている。
たぶん明日には、もっとどうでもよくなる。
……まあ、別にいいけど。
本当に。
別に。
俺は何となく教室の入口を見る。
九頭見はいない。
白石も。
山埜も。
珍しい。
朝から一度も見ていない気がする。
もしかすると別の教室にいるのかもしれないし、休んでいるのかもしれない。
あるいは――。
誰か別の奴に絡んでいる。
それなら、それでいい。
……いや。
別の誰かが被害に遭うのを喜んでいるわけじゃない。
ただ、俺じゃないなら助かるというだけだ。
それくらい思ってもいいだろ。
人間なんてそんなものだ。
自分の家が燃えていない時に、遠くの火事を見て「大変だな」と思えるくらいの距離感が一番楽なんだと思う。
「慧璃」
秋山が声をかけてきた。
「ん?」
「今日、一緒に食べる?」
凛成と慧斗も近くにいた。
いつもの三人。
一瞬だけ考える。
昨日までなら普通について行っていたと思う。
でも、今日は何となく気分じゃない。
「いや、いい」
「え」
「ちょっと用事あるし」
秋山が眉を上げる。
「昼休みに?」
「まあ」
凛成がこっちを見る。
「もしかして……あの件?」
「その言い方やめて」
「え?」
「“あの件”って言うと、何かすごい事件みたいになるだろ」
「いや、実際ちょっと――」
「しかも妙に意味深だし」
「……悪かった」
「別に謝らなくていいけど」
俺は鞄の中を適当に探るふりをしながら言った。
「違うよ。ただ疲れただけ」
「授業で?」
「授業で」
「そんな疲れる?」
「俺には疲れる」
慧斗が少しだけ笑った。
それくらいならいい。
凛成が聞く。
「じゃあ、何か買ってくる?」
「いい」
「パンとか」
「自分で買う」
「でも――」
「大丈夫」
少し強く言いすぎた。
凛成が一瞬黙った。
俺はすぐに付け足す。
「一人で食べたいだけ」
「……そっか」
「うん」
「ならいいけど」
秋山が肩をすくめる。
「じゃあ私たち行くね」
「うん」
「ちゃんと食べなよ」
「子どもじゃない」
「その言い方する人、だいたいちゃんと食べないから」
「食べるって」
俺は手を軽く振った。
三人は教室を出ていった。
その背中を見送りながら、少しだけ息を吐く。
『見事だな』
アヒルフェが言った。
『何が』
『あの三人が嫌いなのだろう?』
『違う』
『ではなぜ避けた』
『避けてない』
『一緒に食事をする誘いを断った』
『今日は一人でいたいだけ』
『嫌っている』
『嫌ってないって』
俺は席を立った。
『ただ、今はあんまり近づきたくないだけ』
『それを嫌悪と呼ぶ場合もある』
『違うって。ほら、俺らには今、色々あるだろ』
『色々?』
『逆世界とか、お前とか』
『彼らが逆世界へ入る危険があると?』
『可能性はある』
『ないな』
『なんで言い切れる』
『現時点では、少なくとも君の友人であるというだけで危険が移る証拠はない』
『でも念のため』
『嘘が下手だな』
『……』
『単純に気まずいのだろう』
『うるさい』
教室を出る。
昼休みの廊下は人が多い。
それが少し嫌だった。
別に人混みが苦手というほどじゃない。
でも、今日みたいな気分の時は、全員が楽しそうに見える。
それがうるさい。
誰かが笑っている。
誰かがスマホを見せている。
誰かが弁当を持って走っている。
俺と関係ない人たち。
俺がいなくても普通に楽しそうな人たち。
……当たり前なんだけど。
売店でパンと飲み物を買った。
適当に選んだ。
焼きそばパン。
紙パックのカフェオレ。
あと小さいチョコ菓子。
健康的かと言われたら微妙だけど、昼飯としては成立している。
たぶん。
会計を済ませて、俺は廊下へ戻る。
『で』
俺は頭の中で聞いた。
『どこで食べる?』
アヒルフェが一瞬黙った。
『俺に聞いているのか?』
『そう』
『珍しいな』
『何が』
『君が俺の希望を確認するとは思わなかった』
『だって一緒にいるし』
『感心した』
『本当に?』
『いや、皮肉だ』
『最悪』
『君は単に座る場所を決められないだけだろう』
『……』
『図星か』
『別に』
『なら好きな場所へ行けばいい』
『それが決まらないから聞いてるんだよ』
『やはりそうではないか』
腹立つ。
俺は階段の前で一度止まった。
『じゃあ、お前ならどこ行く?』
『図書室』
『……』
『何だ』
『昼休みに図書室?』
『静かだ』
『もっと面白い場所ないの?』
『食事をしながら騒ぐ必要があるのか』
『そういう意味じゃない』
『それに、本がある』
『最悪に地味』
『知識を嫌う者ほど、無知を誇る』
『急に刺してくるなよ』
仕方なく図書室の方向へ歩き始めた。
その途中。
階段横の死角になっている場所で、二人の男子生徒の声が聞こえた。
俺の名前。
たぶん。
「……荷川取だろ?」
足が止まる。
反射だった。
俺は壁の角に少し隠れた。
『何をしている』
『静かに』
『盗み聞きか』
『違う。情報収集』
『呼び方を変えても行為は同じだ』
『いいから』
声は少し離れたところから聞こえる。
二人とも知らない。
たぶん別クラス。
「昨日見た?」
「見た見た」
「髪白いやつ」
「そう」
来た。
やっぱり話題になってる。
そうだ。
直接言わないだけ。
本人の前で騒ぐのは恥ずかしいとか、そういうやつだ。
むしろ陰で話されてる方が、ちょっと本物っぽい。
俺は耳を澄ませた。
「目も変じゃなかった?」
「カラコンだろ」
「ていうか、あれ中二病じゃね?」
……。
一瞬。
何を言われたのか理解するまで、ちょっと時間がかかった。
「確かに」
二人が笑う。
「なんか前も異世界行ったとか言ってたんだろ?」
「そうそう」
「完全にそれじゃん」
「高校でやるのきついな」
また笑う。
俺は動かなかった。
中二病。
知っている。
もちろん知っている。
漫画とかアニメとかでもよく使われる言葉。
自分には特別な力がある。
秘密の設定がある。
世界の裏側を知っている。
そういうことを本気みたいに言う時期。
それが痛い。
恥ずかしい。
後から思い出して死にたくなる。
みたいな。
……いや。
でも俺の場合、本当にある。
本当に異世界みたいな場所に行った。
本当に頭の中にアヒルフェがいる。
本当に髪と目が変わった。
だから違う。
全然違う。
あいつらが知らないだけ。
それだけ。
『行くぞ』
アヒルフェが言った。
『まだ』
『十分聞いただろう』
『別に気にしてない』
『なら、なぜ隠れている』
『何言うか知りたかっただけ』
『知った』
『……』
『そして傷ついた』
『傷ついてない』
『君は本当に分かりやすいな』
『うるさい』
『声のないところまで強がる必要はない』
『強がってない』
俺はその場を離れた。
普通に。
早足じゃない。
逃げてもない。
ただ歩いただけ。
廊下。
階段。
窓。
春の光。
全部、普通。
俺も普通。
……普通。
いや。
それが嫌だったんじゃなかったっけ。
『気にするな』
アヒルフェが言った。
『気にしてない』
『ならその返事も必要ない』
『……』
『他人は、自分が理解できる言葉で君を見る。今の彼らにとって、お前は“奇妙な格好をした少年”だ。それ以上でも以下でもない』
『分かってる』
『ならいい』
『……』
『だが、痛かったのなら痛かったで構わない』
『黙れよ』
『承知した』
その素直さが逆に腹立つ。
俺は図書室へ入った。
昼休みの図書室は思ったより静かだった。
完全に無人ではない。
何人かいる。
でも教室よりずっと静か。
本棚。
長い机。
椅子。
窓から入る光。
紙の匂い。
古い本と新しい本が混ざった、独特の空気。
俺は一番端の席に座った。
パンを開ける。
焼きそばパン。
ソースの匂い。
普通。
食べる。
すぐ終わる。
カフェオレ。
甘い。
チョコも食べる。
合計で十分もかからなかった。
食事なんて一人だとこんなものだ。
喋る相手がいないと、口は食べることしかやらない。
『で』
俺は机に肘をついた。
『何か役に立つ本ないの?』
『何についてだ』
『力』
『ない』
『即答?』
『少なくとも、この図書室に“逆世界における心気運用概論”などという本が置かれているとは思えない』
『魔術とかオカルトとか』
『あるだろう』
『じゃあ読めば?』
『参考にはなるかもしれないが、直接的には役に立たない』
『何で』
『人間の世界で作られた魔術体系と、逆世界で働く法則は同一ではない』
『でも似てる部分は?』
『ある』
『じゃあ意味あるじゃん』
『遠回りだ』
『時間あるし』
『なら読め』
『……面倒』
『君は本当に面白いな』
『褒めてる?』
『呆れている』
俺はそのまま机に伏せた。
「じゃあ、チャイム鳴るまでここでいいや」
『歩かないのか』
「疲れた」
『なるほど』
「何」
『実に説得力のある理由だ』
「その言い方やめろ」
『君は先ほどから非常に疲れているからな。特に身体は健康そうだが』
「……性格悪い」
『知っている』
「最低」
『それも何度か聞いた』
俺は顔を少し横に向けた。
窓の外。
校庭。
遠くに何人か見える。
走っている奴。
座っている奴。
昼休み。
みんな勝手に過ごしている。
「お前には分かんないだろ」
『何が』
「こういうの」
『曖昧だな』
「一人っていうか」
自分で言い始めて、少し後悔した。
でも、口から出た。
「誰にとっても特別じゃない感じ」
アヒルフェは黙った。
「いてもいなくても変わらない感じ」
『……』
「昨日はまだ、見た目変わったから何か変わると思ってた」
小さく笑う。
「でも一日で終わった」
『それで?』
「別に」
『なら話すな』
「……」
『続きを言え』
何だこいつ。
時々こういうところがある。
「透明みたいで嫌なんだよ」
『透明ではない』
「そういう意味じゃない」
『分かっている』
「じゃあ言うなよ」
『君が大袈裟に言うから訂正しただけだ』
「……本当に嫌な奴」
『それも知っている』
俺は目を閉じた。
「お前はいいよな」
『何が』
「そういうの気にしなさそう」
少し間があった。
『……そう思うか』
「うん」
『俺が何を経験してきたかも知らずに?』
「……」
『何を失い、誰に忘れられ、何を見てきたかも知らないのに?』
声が少しだけ変わった。
怒っているわけではない。
でも、いつもの軽い皮肉より冷たかった。
『知らないことを、都合よく想像するな』
俺は黙った。
アヒルフェも、それ以上は言わない。
少しだけ空気が重くなる。
俺は机の木目を見る。
細い線。
傷。
誰かが昔つけたペン跡。
「……悪かった」
小さく言う。
『聞こえなかった』
「もう言わない」
『それでいい』
しばらく沈黙。
図書室の中では、誰かがページをめくる音がする。
静か。
静かすぎて、自分の呼吸が分かる。
少しして、アヒルフェが言った。
『一つだけ、考えておいた方がいい』
「何」
『逆世界へ行くなら、二人だけでは効率が悪い』
「俺とお前?」
『そうだ』
「でもお前、強いんだろ」
『俺自身が完全な身体を持っているわけではない』
「まあ、メジロだし」
『この姿は関係ない』
「はいはい」
『それに、お前は未熟だ』
「そこ強調する必要ある?」
『ある』
「……」
『入口の確認。周辺監視。退路の確保。物資。負傷時の対応。記録。全てを一人の身体で行うのは愚かだ』
「じゃあどうする?」
『探せ』
「何を」
『他の人間だ』
俺は少し顔を上げた。
「他の?」
『逆世界を知る者』
「いるの?」
『いる可能性は高い』
「なんで」
『お前だけが人類史上初めて入口を見つけたとでも思っているのか』
「……まあ」
『本気で思っていたな』
「ちょっとだけ」
『救いがない』
「じゃあ、どうやって探すんだよ」
『知らん』
「は?」
思わず声が出た。
近くにいた生徒がこっちを見る。
俺はすぐ黙る。
『お前さあ』
『何だ』
『今すごい大事なところだっただろ』
『だからといって、知らないものを知っているふりはできない』
『“探せ”って言ったのお前じゃん』
『必要性を説明しただけだ』
『方法は?』
『考えろ』
『俺が?』
『お前の学校だ』
『またそれ?』
『便利な事実だからな』
最悪。
本当に。
でも、言っていること自体は分かる。
俺たち以外にも、あの世界を知っている人間がいる。
もし本当にいるなら。
それはかなり大きい。
俺一人だけじゃない。
ということになる。
……それはそれで、少し複雑だけど。
特別じゃなくなる。
いや。
別にいい。
同じことができる奴がいたって、俺が俺であることは変わらない。
たぶん。
それに仲間がいるなら、RPG的にも普通だ。
パーティー。
前衛。
後衛。
支援。
回復。
俺は何になるんだろう。
魔法使い?
召喚士?
特殊職?
カードを使うなら、かなり変則型。
……悪くない。
『また何か想像しているな』
『してない』
『嘘だ』
『いいだろ、別に』
俺は時計を見る。
昼休みはまだ少し残っている。
教室へ戻るには早い。
図書室を歩く気にもならない。
本を読む気もない。
誰かに会いたいわけでもない。
なら。
ここでいい。
何もしない。
机に伏せる。
アヒルフェは多分、その辺の本でも眺めている。
俺は窓の光を見ながら、ゆっくり目を閉じた。
少なくとも今は、一人じゃない。
そう考えると少しだけ楽だった。
……本人には言わないけど。




