第⑭章:二つの意識 (1)
自分の意識と会話したことはあるだろうか。
たぶん、普通にあると思う。
例えば、朝起きた時に「今日学校行きたくないな」と考えて、その直後に「いや、行かなきゃ駄目だろ」と自分で自分に言い返すとか。コンビニで菓子を買おうとして「これ昨日も食べたよな」と思いながら、「でも別に一日一袋くらいならいいだろ」と勝手に許可を出すとか。
あれも一種の会話だ。
もちろん、本当に誰かと話しているわけじゃない。
自分で質問して、自分で答えている。
自分の頭の中で、自分が二役やっているだけ。
俺も昔からそういうことは普通にやっていた。
というか、俺はたぶん人より多かったと思う。
何か失敗した後で「あれは仕方なかった」と自分に言い聞かせたり、何かしようとして怖くなった時に「別に怖いわけじゃない」と自分で理由を作ったり。
……今考えると、俺の頭の中って昔から結構うるさかったのかもしれない。
ただし。
今は少し事情が違う。
俺が、
「今日は何を食べようかな」
と考える。
すると。
『何でもいいだろう。栄養があるものを食え。』
と、知らない男が返してくる。
いや、もう知らない男ではない。
アヒルフェだ。
俺の中にいる、もう一つの意識。
自分の考えに自分が答えるのと、他人が本当に答えてくるのは全然違う。
当然だけど。
たまに一瞬だけ、自分がどこまで考えたのか分からなくなる時がある。
今のは俺?
それともアヒルフェ?
今浮かんだ言葉は自分の考え?
それともあいつが横から言った?
そういう感じ。
世の中には、頭の中で聞こえる声に悩まされる人もいるらしい。
病気だったり、強いストレスだったり、脳とか精神の問題だったり。
そういうものについて俺は詳しくない。
ただ、少なくとも俺の場合はそれとは違う。
……たぶん。
いや、違う。
アヒルフェは本当にいる。
俺の腕を勝手に動かしたこともあるし、俺の知らないことを知っているし、何より俺が死にかけた身体を元に戻した張本人だ。
だからこれは幻聴じゃない。
本物の同居人が頭の中にいる。
そう考えると余計に怖い気もするけど、そこは考えないことにする。
しかも、こいつには姿まである。
今も俺の机の左端に、一羽の小さなメジロが止まっていた。
もちろん、他の誰にも見えない。
俺にだけ見える。
小さな身体。
黄緑色っぽい羽。
目の周りの白い輪。
いかにもメジロ。
最初は、どうしてこんな姿なのか分からなかった。
アヒルフェ本人も気に入っていなかった。
というか、今でも気に入っていないと思う。
でも何日か一緒に過ごしているうちに、大体分かった。
たぶん、俺のせいだ。
俺はメジロが好きだ。
ものすごく詳しいわけじゃない。
野鳥観察が趣味とかでもない。
双眼鏡を持って山へ行ったり、鳥の鳴き声だけで種類を当てたりもできない。
でも、なんとなく好きなのだ。
小さい。
丸い。
色が綺麗。
枝に止まっている時の感じもいい。
たぶん、動物の中でもかなり上位。
もしかすると一番好きかもしれない。
だから、俺の頭の中でアヒルフェが「見える姿」を作ろうとした時に、一番近い形としてメジロが選ばれた。
そういうことらしい。
……ということは。
もし俺の一番好きな動物がサイだったら、どうなっていたんだろう。
机の上に巨大な霊体のサイ。
廊下を歩く俺の横を、誰にも見えないサイが並走。
授業中、教卓の横でサイが先生を睨んでいる。
狭いトイレにもサイ。
自室にもサイ。
寝る時も枕元にサイ。
…………。
メジロで良かった。
『今、非常にくだらないことを考えているな』
アヒルフェが言った。
『なんで分かるんだよ』
『君の意識の近くにいるからだ』
『全部読めるの?』
『全部ではない』
『じゃあ今何考えてた?』
『俺が犀の姿だった場合について』
『ほぼ読めてるじゃん』
『君は思考が単純だからな』
『うるさい』
そんなやり取りをしている間も、授業は進んでいた。
今日は五月七日。
昨日学校へ戻ったばかりで、今日も当然のように授業がある。
休み明けって、どうして二日目から急に普通になるんだろう。
昨日までは「久しぶり」とか「ゴールデンウィーク何してた」とか、そういう空気が少し残っていたのに、一日経つだけで全部消える。
机。
教科書。
黒板。
ノート。
教師の声。
窓の外には春の空。
そして俺の机には、他人には見えないメジロ姿の道化騎士。
普通と異常が同じ机に並んでいる。
冷静に考えるとかなり変だ。
アヒルフェは机の端に止まりながら、珍しく授業をちゃんと見ていた。
黒板。
教師。
教科書。
視線が何度も動いている。
「意外と真面目なんだな」
俺は小声で言った。
『何がだ』
「授業」
『知らない知識を見ること自体は嫌いではない』
「へえ」
『少なくとも、授業中に自分の髪型や他人の視線について考え続けるより有益だ』
「……昨日の話、まだする?」
『事実だろう』
俺はシャープペンシルを指で回した。
一本の細い棒。
透明な軸。
中に芯が入っている。
学校では毎日のように使うから何とも思わないけど、アヒルフェからするとこれも相当変な道具なのかもしれない。
そう考えると、机の上にあるものが全部少し変に見える。
ノート。
消しゴム。
定規。
教科書。
もし何百年も違う世界で暮らしていた奴をここへ連れてきたら、こういうものを一つずつ説明しないといけない。
……面倒そう。
『ところで』
アヒルフェが言った。
『お前はなぜ何も書かない』
「え?」
『周りの人間は皆、何かを書いている』
「ノートだよ」
『それは分かっている。なぜ君は取らない』
「興味ないから」
『……』
「何」
『随分と堂々と言うな』
「だって本当に興味ないし」
今やっているのは社会系の授業だった。
細かい制度。
歴史。
地域。
たぶんテストには出る。
でも、俺が将来それを使うかと言われると微妙だ。
「こういうの、将来使わないだろ」
『典型的な愚者の発言だな』
「何で」
『将来何が必要になるか分からないから学ぶのではないのか』
「いや、全部覚える必要なくない?」
『なら必要なものと不要なものを君は既に判断できるのか』
「……」
『未来が見えるのか?』
「見えないけど」
『なら黙って書け』
「先生かよ」
『君の教師になる気はない』
「じゃあ言うなよ」
俺はまた小声で返していた。
こういうところが難しい。
頭の中で話せばいい。
分かっている。
ちゃんとできる。
アヒルフェも直接頭へ話しかけている。
でも、俺はどうしても口で返してしまう。
癖だ。
相手がいるなら声に出して答える。
それが普通だから。
頭の中だけで会話する方が、まだ少し気持ち悪い。
でも、他人から見ると逆になる。
俺だけが一人でぶつぶつ喋っている。
そっちの方が明らかに気持ち悪い。
「慧璃」
前から声がした。
「ん?」
凛成が少しだけ振り返っていた。
「喋るなって」
「……あ」
「先生見るぞ」
「ごめん」
俺は口を閉じた。
凛成は前へ戻る。
『ほら』
アヒルフェ。
『お前のせいだろ』
『俺は声を出していない』
『でも話しかけてる』
『君には思考だけで返答する能力がある』
『能力って言うほどのことじゃないだろ』
『なら使え』
『……』
正論。
また正論。
俺は少しだけ口を尖らせた。
じゃあ、頭の中だけで話せばいい。
『これでいい?』
『最初からそうしろ』
『なんか変な感じ』
『数日もすれば慣れる』
『お前は慣れてるの?』
『当然だ』
『昔からこういうことできた?』
少し間があった。
『……似たことはな』
『似たこと?』
『今は関係ない』
またそれだ。
アヒルフェは、自分の過去に触れる質問になると急に壁を作る。
俺はまだこいつのことをほとんど知らない。
道化騎士。
逆世界の存在。
完璧なルート。
宇宙の断片。
自動保存。
それくらい。
全部、単語だけ。
中身はほとんど説明されていない。
俺は少しだけ聞きたくなった。
『なあ』
『何だ』
『お前って――』
「荷川取」
「はい!」
急に先生の声が飛んできた。
心臓が跳ねた。
今度は別の先生。
黒板の前で教科書を持ったまま、俺を見ている。
「さっきから何をぶつぶつ言ってる」
「え」
教室の何人かもこちらを見る。
やばい。
「いや、その」
「誰かと話してるのか?」
「違います」
「じゃあ何だ」
「……読んでました」
「何を?」
「教科書」
俺は反射的に教科書を持ち上げた。
完璧。
これなら自然。
先生は少し黙った。
凛成が前から小声で言った。
「逆」
「え?」
見る。
教科書。
上下逆。
…………。
俺は無言でひっくり返した。
教室のどこかから小さい笑い声。
最悪だ。
「荷川取」
「はい」
「少なくとも、今の呟きは教科書の内容には聞こえなかったぞ」
「……」
「授業、聞いてるか?」
まずい。
俺は黒板を見る。
何をやっている?
分からない。
さっきからアヒルフェと話していた。
黒板には何か書いてある。
漢字。
矢印。
年代。
人名。
……何だこれ。
『アヒルフェ』
『何だ』
『分かる?』
『さっき授業は必要ないと言っていたのは誰だったか』
『今それ言う!?』
『因果応報というものだ』
『お願い』
『……』
先生が待っている。
「じゃあ、荷川取」
「はい」
「今説明した内容から、この出来事が後の制度にどう影響した?」
分からん。
完全に分からん。
俺は机の上の文字を見る。
何かヒント。
ノート。
取ってない。
教科書。
ページすら分からない。
終わった。
『なるほど』
アヒルフェが突然言った。
『何?』
『面白い』
『何が』
『この構造か。直接的な統治ではなく、権力を別の形式へ――』
『答え! 答えだけ!』
『君は本当に品がないな』
『早く!』
数秒後。
アヒルフェが答えをまとめた。
俺はそれをそのまま口にする。
「えっと……直接的な支配の形が変わって、制度として権限を分散する必要が出たから、その後の仕組みに影響した……ってことですよね」
先生が少し眉を上げた。
「……そうだ」
来た。
「そこまで分かってるなら、最初からちゃんと聞け」
「はい」
「まあ、答えは合ってる」
よし。
俺は少しだけ胸を張った。
「じゃあ続けるぞ」
先生が黒板へ戻る。
教室の視線も散る。
助かった。
『盗人』
アヒルフェが言った。
『何が』
『俺の答えだ』
『俺の頭の中にあるなら俺の答えでもあるだろ』
『随分と便利な理屈だな』
『二人で一人なんだから』
『都合のいい時だけそれを使うな』
『でも正解した』
『俺がな』
『俺が答えた』
『俺が考えた』
『俺の口から出た』
『……』
勝った。
たぶん。
アヒルフェは黙った。
俺は少しだけ満足して、教科書を机に置く。
それから、今度こそ余計なことを言わないように、腕を組んでその上へ頭を置いた。
『寝るな』
『寝ない』
『その姿勢で?』
『集中してる』
『机に額を押しつけることを集中とは呼ばない』
『じゃあ静かにして』
『君が最初に話しかけたのだろう』
『もういいから』
俺は目だけ教科書に向けた。
授業は続いている。
先生の声。
黒板にチョークが当たる音。
ページをめくる音。
凛成の背中。
窓から入る春の光。
いつもの教室。
でも、俺の頭の中だけは前と違う。
前なら、退屈な授業中は一人で考えていた。
ゲームのこと。
帰ったら何をするか。
昼飯。
他人。
自分。
どうでもいいこと。
今は、その思考に返事が来る。
否定される。
馬鹿にされる。
たまに助けられる。
自分一人だった頭の中に、もう一人分の視線がある。
それは、思っていた以上に変だった。
少し邪魔。
かなりうるさい。
でも。
……悪くない。
そう思った瞬間。
『今、何を考えた』
『何でもない』
『嘘だな』
『授業見ろよ』
『君が言うのか』
俺は顔をさらに腕の中へ埋めた。
やっぱり。
ちょっとだけ、うるさい。




