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第⑬章:ゴールデンウィークの終わり (3)

 机に突っ伏したまま数分くらい経った頃、教室の前の扉が開いた。


 月野先生だった。


 いつものように出席簿を片手に持って、特に急いでいる様子もなく教室へ入ってくる。朝から妙に元気な教師というのもいるけど、月野先生はそういうタイプではない。眠そうというほどでもなく、かといって「今日も一日頑張りましょう!」みたいな眩しい感じでもない。良く言えば落ち着いているし、悪く言えば朝から通常運転だ。


 俺は反射的に少しだけ姿勢を直した。


 ……来た。


 教師。


 教師なら、さすがに何か言うだろう。


 むしろ言わない方がおかしい。


 生徒の髪の一部が突然白くなって、片目の色まで変わっているのだ。校則の話でも、健康の話でも、何でもいい。とにかくクラス全体の前で俺を呼び止める可能性は高い。


 そして、もしそこで先生が、


「荷川取、その目はどうした?」


 とか言えば。


 クラス中の視線が俺に集まる。


 そこから説明。


 質問。


 驚き。


 場合によっては、前の話を思い出す奴もいる。


 つまり。


 今度こそ。


 俺は少しだけ期待して、月野先生の動きを目で追った。


 月野先生は教卓まで歩いていく途中で俺の方を見た。


 目が合う。


 数秒。


 よし。


「荷川取」


「はい」


 来た。


「戻ってきたんだな」


「……はい」


「体調はもう大丈夫か」


「まあ」


「そうか。無理はするなよ」


「……」


 それだけだった。


 月野先生はそのまま教卓へ行こうとした。


「ちょ、ちょっと待ってください」


 思わず声が出た。


 月野先生が振り返る。


「何だ?」


「いや、その……」


 俺は自分の髪を指差した。


「何か、変じゃないですか?」


 教室の何人かがこっちを見る。


 少しだけ空気が止まる。


 今度こそ。


 月野先生は俺の顔を見た。


 髪。


 左目。


 また髪。


 そして、しばらくして言った。


「……ああ」


「ですよね」


「髪、染めたのか」


 …………。


「違います」


「そうなのか?」


「染めてません」


「なら何だ」


「自然です」


「自然?」


「はい」


 月野先生の顔に、ほんの少しだけ困ったような表情が出た。


 分かる。


 俺だって同じ立場なら困る。


 でも、ここでちゃんと見れば分かる。


 俺は前髪を少し持ち上げた。


「ほら。根元から白いですよ」


「……ちょっと見せてみろ」


 来た。


 先生が近づいてくる。


 周りの視線も少し増えた。


 俺は椅子に座ったまま頭を少し下げる。


 月野先生が白くなった部分の髪を指で分けた。


 頭皮の近く。


 根元。


 確認する。


 染めているなら、伸びてきた部分は黒いはずだ。


 でも違う。


 白い。


 完全に。


 ここまで見ればさすがに分かる。


 俺は内心で少し勝ち誇った。


 ほら。


 証拠。


 物理的証拠。


 写真でも妄想でもない。


 俺の頭から生えている。


 これで先生も――。


「……塗料か?」


「は?」


「直接何か付けたんじゃないか」


「いやいやいやいや」


 思わず声が大きくなった。


「何でそうなるんですか!」


「じゃあ他にどう説明するんだ」


「それを考えてくださいよ!」


「俺に言われても困る」


 ひどい。


 いや、かなりひどい。


 俺は自分の左目を指差した。


「じゃあ、こっちは?」


「カラーコンタクトじゃないのか」


「違います!」


「なら眼科に行った方がいいな」


「そうじゃなくて!」


「何がだ」


「もっとこう……特殊な何かとか思わないんですか?」


 月野先生が少し黙った。


 そして真面目な顔で俺を見る。


 お。


 ようやく。


「特殊というより」


「はい」


「その年齢で本当に急に髪が白くなったなら、普通に心配だ」


「……」


「強いストレスとか、体調とか。そういう可能性もある」


 胸の奥がちょっと嫌な感じになった。


「いや、そういうのじゃないです」


「本当に?」


「はい」


「無理してないか?」


「してません」


「ならいいけど」


 月野先生は少しだけ困ったように眉を寄せる。


「ただ、もし本当に自然にそうなったなら、家の人と一度病院に相談した方がいい」


「……」


 違う。


 完全に違う。


 俺が欲しかった反応はそれじゃない。


 何でこうなるんだ。


 俺の頭の中では、もっと「これは一体……?」みたいな展開を想像していたのに、現実は「ストレスかもしれないから病院へ行け」で終わった。


 というか。


 精神的にやられて白髪になったと思われてる?


 最悪だ。


 前より格好悪い気がする。


「先生」


「何だ」


「本当に、ただのストレスとかだと思ってるんですか?」


「俺には判断できない」


「……」


「それより、もうホームルーム始めるぞ」


 月野先生はそう言って教卓へ戻った。


 終わり。


 あっさり。


 俺はゆっくりと机に額をつけた。


 冷たい。


 やっぱり机は冷たい。


 こういう時だけ妙に安心する。


「……嘘だろ」


 小声で呟く。


『何がだ』


 アヒルフェ。


『誰も信じない』


『当然だろう』


『当然じゃないだろ』


『君は自分が何を言っているのか理解しているか?』


『してる』


『なら、普通の人間が突然“異世界へ行って髪と目が変わった”などと言われて、即座に受け入れると思う方がどうかしている』


『でも見た目変わってるじゃん』


『見た目が変わったことと、その原因が異界であることは別問題だ』


『……』


 正しい。


 また正しい。


 アヒルフェは腹が立つくらい正論しか言わない時がある。


 少しして、隣から凛成が小声で話しかけてきた。


「だから言っただろ」


「何が」


「髪」


「だから染めてないって」


「でも先生もそう思ったじゃん」


「先生が間違ってる」


「……慧璃」


「本当に自然なんだよ」


「分かった分かった」


「その言い方、絶対分かってないだろ」


 凛成は困ったように笑った。


「まあ、いいけど」


「よくない」


「それより」


 凛成が少しだけ声を落とした。


「九頭見たちには気をつけろよ」


 俺は少しだけ顔を上げた。


「なんで」


「その見た目」


「これ?」


「うん」


 凛成は俺の髪を見る。


「また何か言ってくるかもしれないし」


「……」


「でも逆に、今回は何もしてこないかもな」


「何で?」


「ほら」


 凛成が言いにくそうにする。


「前の件で……その、かなり参ってたみたいに見えるから」


 俺の動きが止まった。


「……何」


「いや」


「今、何て言った?」


「だから、九頭見たちも、さすがにやりすぎたと思ってるかもしれないって」


「違う」


「え?」


「俺の髪と目がこうなったの、精神的に病んだからだと思ってる?」


 凛成が固まった。


「いや、そういう意味じゃない」


「じゃあどういう意味」


「だから、ストレスとかで……」


「それ、ほぼ同じじゃん」


「病気って言ってるわけじゃないよ」


「……」


 俺はまた机に沈んだ。


 最悪。


 いや、本当に。


 特殊能力の痕跡だと思っていたものが、周りから見ると「いじめのショックで髪が白くなった可哀想な奴」みたいに見えるらしい。


 全然違う。


 格好よさの方向が百八十度違う。


「とにかく」


 凛成が続ける。


「九頭見たちには近づかない方がいい」


「分かった」


「本当に」


「はいはい」


「何かされたら先生に言えよ」


「分かったって」


 凛成はまだ何か言いたそうだったけど、月野先生が話し始めたので黙った。


 俺は机に伏せたまま、頭の中でアヒルフェに話しかける。


『なあ』


『何だ』


『何かできない?』


『何が』


『証明』


『何を』


『俺が本当に変わったってこと』


『髪と目以外に?』


『そう』


 少し考える。


『例えば……力とか』


 アヒルフェが沈黙した。


 嫌な沈黙。


『やめろ』


『まだ何も言ってない』


『言う前に分かる』


『ちょっとくらい、何か出せない? 火とか』


『出さない』


『影とか』


『出さない』


『何か浮かせたり』


『出さない』


『カードとか』


『まだ触媒すら用意していない』


『じゃあ何ならできるんだよ』


『少なくとも、教室で adolescent――』


 一瞬止まった。


『……この年頃の人間たちを驚かせるために力を使う気はない』


『なんで』


『くだらないからだ』


『くだらなくないだろ』


『非常にくだらない』


 即答。


 最悪。


『それに』


 アヒルフェが続ける。


『今の君は、現実世界ではほとんど何もできない』


『え?』


 俺は少しだけ顔を上げた。


『どういう意味?』


『そのままだ。俺たちが扱う力は、逆世界の物質と法則へ干渉することを前提としている』


『じゃあ、こっちでは?』


『ほぼ無理だ』


『……』


『心気を多少動かす程度なら可能だろうが、外へ形として出すには条件が足りない。火を出す、影を作る、何かを召喚する。そういったものは今の現実世界では成立しにくい』


『マジで?』


『大真面目だ』


『じゃあ、俺、学校で魔法使えないの?』


『使う気だったのか』


『ちょっと』


『馬鹿か』


『いや、もし何かあった時とか』


『今の間は殴られたら普通に痛いと思え』


『……』


 夢が一つ消えた。


 いや、完全に消えたわけじゃない。


 逆世界では使える。


 たぶん。


 これから。


 でも現実世界では使えない。


 ということは、学校で急に手をかざして黒い炎を出したり、机の影から何かを召喚したり、そういう展開はない。


 少なくとも今は。


 ちょっと残念。


『それに』


 アヒルフェがさらに言う。


『仮に使えたとしても、やらせない』


『何で』


『目立つからだ』


『それが目的じゃん』


『だから駄目だ』


『意味分かんない』


『君の存在を不必要に知られることは、俺にとっても不利益になる』


『……』


『それに、力は見世物ではない』


 その言葉だけ、少しだけ重かった。


『使えば結果が出る。結果には痕跡が残る。痕跡には意味がある。意味を持つものは、いずれ誰かに見つかる』


『……』


『だから、必要な時だけ使え』


 俺は少し黙った。


 面白くない。


 でも。


 少し格好いい。


 そういう言い方されると。


『じゃあ』


 俺は考える。


『逆世界でちゃんと使えるようになればいいんだな』


『そういうことだ』


『どんな力になると思う?』


『知らん』


『お前の力を受け継ぐんだろ?』


『同じ形になるとは限らない』


『じゃあ、もっと強くなる可能性も?』


『……どうしてそうなる』


『だって、俺は人間側だし』


『根拠になっていない』


『科学とか、現代知識とか組み合わせたら』


『まだ何一つ使えないのに、よくそこまで膨らませられるな』


『いや、でも』


 考え始めると止まらない。


 カード。


 黒いインク。


 何か召喚できるかもしれない。


 魔法みたいなもの。


 もし複数の属性とかあったら?


 もし組み合わせられたら?


 もし自分だけの技が作れたら?


 戦い方も色々ある。


 遠距離。


 罠。


 召喚。


 バフ。


 防御。


 必殺技。


 最終的には領域みたいなものもあるかもしれない。


 それに、アヒルフェの力。


 まだ全部知らない。


 自動保存。


 あれも相当すごそうだ。


 そう考えると、今ここで誰も驚いてくれないくらい、別にどうでもよくなってくる。


 今はまだ。


 まだ、何も見せられないだけ。


 でも、これから覚えればいい。


 そしていつか、本当に誰も否定できないものを見せればいい。


 俺が変わったこと。


 俺が普通じゃないこと。


 俺が――。


『英雄にでもなるつもりか』


 アヒルフェが呆れたように言った。


『悪い?』


『君が?』


『その言い方やめろ』


『現時点では、教室で髪の色について教師と口論しているだけの十五歳だぞ』


『今はな』


『ほう』


『でも、これから違う』


 俺はゆっくり顔を上げた。


 何だか少し気分が戻ってきた。


 そう。


 今はまだチュートリアル。


 いや、むしろプロローグ。


 本番はこれからだ。


 力を覚える。


 逆世界を知る。


 俺の能力を作る。


 そのうち誰かを助けることだってあるかもしれない。


 だったら。


 そうなった時、俺は――。


「荷川取」


「はい!」


 突然、月野先生の声が飛んできた。


 反射で背筋が伸びた。


 教室を見る。


 ……。


 いつの間にか、ホームルームが終わっていた。


 というか授業が始まっている。


 黒板には、すでに俺が知らない内容が書かれていた。


 周りの全員が教科書を開いている。


 俺だけ何も出していない。


「教科書」


「あ」


 やばい。


「すみません」


 俺は慌てて机の中を探る。


 教科書。


 ノート。


 筆箱。


 どれだ。


 違う。


 これは数学。


 今は……何だ?


 黒板を見る。


 国語。


 国語だ。


 教科書を引っ張り出す。


 机の端に筆箱が引っかかって落ちそうになる。


 慌てて押さえる。


 隣から凛成が小声で言った。


「大丈夫か?」


「大丈夫」


「全然聞いてなかっただろ」


「聞いてた」


「じゃあ今どこ?」


「……」


 分からない。


 凛成がページ番号を指で示す。


「四十七」


「ありがと」


 俺は急いで四十七ページを開いた。


 月野先生が一瞬だけこっちを見る。


 怖い。


 別に怒鳴られるわけじゃない。


 でも、教師の「見てるぞ」という目は妙に効く。


 俺は姿勢を正して教科書を見る。


 数秒後。


『英雄だったな』


 アヒルフェが言った。


『黙れ』


『世界を救う前に、授業へ追いつけ』


『分かってる』


『実に壮大な第一歩だ』


『うるさいって』


 俺は教科書に視線を落とした。


 文字。


 文章。


 教師の説明。


 いつもの授業。


 いつもの教室。


 いつもの朝。


 何も変わっていないように見える。


 でも。


 俺は知っている。


 世界の裏側には、別の場所がある。


 俺の中には、アヒルフェがいる。


 そして俺には、まだ形になっていない力がある。


 だから。


 今日、誰にも分かってもらえなくてもいい。


 今は。


 そのうち分かる。


 というか、分からせる。


 ……たぶん。


 俺は教科書を読みながら、少しだけ笑った。


 その直後、月野先生に、


「荷川取、そこ笑うところじゃないぞ」


 と言われた。


 教室の何人かが小さく笑った。


「……すみません」


 俺はすぐに顔を伏せた。


 やっぱり。


 英雄になるには、まだ少し時間がかかりそうだった。

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