第⑬章:ゴールデンウィークの終わり (2)
【前書き・読者の皆様へ】
いつも『鏡のエレジー』をお読みいただきありがとうございます!
より読みやすく、スムーズに物語に入り込んでいただけるよう、文章のテンポや記述スタイルを調整いたしました。私生活のスケジュールの変化に伴い更新ペースを模索中ですが、これからも定期的な投稿を目指して執筆を続けていきます!
ゴールデンウィークが明け、ついに白樺高校へと登校したサトリ。期待と現実が交錯する第13章の後半をお楽しみください!
家を出てからしばらく歩いて、ようやく白樺高校が見えてきた。
正門の向こうには、見慣れた校舎がある。白っぽい外壁。縦に並んだ窓。まだ朝だから、全部の教室に人がいるわけじゃない。駐輪場には自転車が何列か並んでいて、昇降口の周りには俺と同じ制服を着た生徒が適当に散らばっている。
何日か休んでいただけなのに、妙に久しぶりに見えた。
まあ、実際にはその「何日か」の間に俺は異世界みたいな場所で死にかけて、謎の道化騎士を身体に住まわせて、髪と目の色まで変わったわけだから、普通の連休明けとは事情が違う。
つまりこれは、よくある漫画でいうところの「修行編の後に学校へ戻ってきた主人公」みたいなものだ。
修行してないけど。
ほぼ寝てたけど。
それは一旦置いておく。
「……結構見られてる」
俺は小さく呟いた。
「自意識過剰では?」
「いや、見られてるって」
実際、そうだった。
正門を通った時点で、何人かが俺を見た。
昇降口で靴を履き替えている時にも、二人くらいの女子がこっちを見て何か話していた気がする。
廊下でも。
階段でも。
通り過ぎる生徒が、一瞬だけ視線を止める。
俺の髪。
俺の左目。
間違いない。
来た。
これは来た。
やっぱり目立つ。
当然だ。
黒髪しかいなかった奴が休み明けに一部白髪になって、片目まで灰色と金と紫が混じった変な色になっていたら、誰だって見る。
俺はできるだけ平静を装って歩いた。
本当は、かなり気分が良かった。
別に笑顔になるほどじゃない。
そこまで単純じゃない。
ただ、こう……背中を少しだけ伸ばしたくなる感じ。
廊下の窓に自分の姿が薄く映るたびに、自然なふりをして角度を確認した。
白い部分、意外と見える。
左目も、光が当たるとかなり目立つ。
いい。
かなりいい。
「歩き方が変わっているぞ」
アヒルフェが言った。
「変わってない」
「肩が上がっている」
「気のせい」
「顎も少し上がっている」
「姿勢が良くなっただけ」
「君は本当に分かりやすいな」
「うるさい」
四階まで上がる。
階段の踊り場で、また一人の生徒が俺を見た。
そのまま友達らしい奴に何か耳打ちする。
やっぱり話題になってる。
絶対そうだ。
俺が知らないところで、
「荷川取、なんか変わってない?」
とか、
「目、あれ本物?」
とか、
「何があったんだろ」
みたいな話になっているに違いない。
そういうものだ。
こういう時の噂は早い。
学校って、よく考えるとかなり狭い社会だから、一人が何か変なことをすれば半日くらいで別のクラスまで届く。
前回はそれで最悪な目に遭った。
今回は違う。
今回は、見た目そのものが証拠だ。
そこが大きい。
少なくとも、ノートに描いた意味不明な廊下の絵だけとは違う。
俺は教室の前まで来ると、一度だけ息を整えた。
別に緊張してるわけじゃない。
念のためだ。
「緊張しているな」
「してない」
「脚が動いている」
「まだ座ってないだろ」
「では、心臓だ」
「お前、俺の身体の中にいるからってそれ言うの反則じゃない?」
「事実を伝えているだけだ」
俺はアヒルフェを無視して教室へ入った。
いつもの1-D。
机。
椅子。
黒板。
窓。
教卓。
まだ半分くらいしか生徒が来ていない。
一瞬だけ、何人かがこっちを見た。
……よし。
やっぱり。
俺は何も言わずに自分の席へ向かった。
席は変わっていなかった。
当然だけど。
俺が何日か休んだからって、机が撤去されたり、席替えされたりするわけじゃない。
それでも、ちゃんと自分の机が残っているのを見ると妙な感じがする。
俺が学校に来なかった間も、ここには誰も座らなかったのだろう。
机の中を確認する。
教科書。
プリント。
前に入れたまま忘れていたシャープペンシルの芯のケース。
全部そのまま。
何も変わっていない。
……いや。
それはそれで、ちょっと嫌だった。
俺があれだけ色々経験していたのに、この机だけ見れば、俺が数日休んでいただけにしか見えない。
当たり前だ。
分かってる。
でも、なんというか。
世界って思ったより簡単に人を待たない。
俺がいなくても、授業は進んだ。
昼休みもあった。
誰かが笑った。
誰かが宿題を忘れた。
掃除もした。
下校もした。
その間、俺の席だけ空いていた。
それだけ。
……まあ、いい。
今はそれより重要なことがある。
俺は椅子に座った。
鞄を横へ掛ける。
そして、無意識に右脚を上下させ始めた。
トントン。
トントン。
トントン。
「やめろ」
「何が」
「脚だ」
「別にいいだろ」
「落ち着きがない」
「待ってるだけ」
「何を?」
「……人」
「誰を?」
「誰でもいい」
「嘘だな」
うるさい。
本当は分かっている。
待っている。
凛成。
慧斗。
秋山。
あの三人がどういう反応をするか。
そこが一番気になる。
前に俺の話を聞いた。
あの騒ぎも見た。
俺が逃げたところも知っている。
だからこそ、今の俺を見れば何か言うはずだ。
数分経った。
教室に人が増える。
何人かが俺を見る。
でも、そのまま通り過ぎる。
ある男子なんて、俺を見た後すぐ隣の友達と話し始めた。
たぶん俺のことだ。
そうに決まってる。
女子二人も、こっちを一度見てから小声で何か話している。
きっと、
「何あれ?」
とか言ってる。
いい。
焦る必要はない。
こういうのは最初から本人に聞くより、まず周りで話すものだ。
少なくとも俺ならそうする。
直接「その目どうしたの?」って聞いて、もし病気だったら気まずいし。
そういう慎重さだ。
たぶん。
そして。
ようやく、教室の入口に見慣れた三人が現れた。
板柿凛成。
七瀬慧斗。
秋山麗奈。
来た。
俺は急に脚を止めた。
「止まったな」
「黙ってろ」
三人はいつも通りだった。
凛成は少し寝癖っぽい。
慧斗は相変わらず少し猫背。
秋山は朝から元気そうで、何か話しながら教室へ入ってくる。
正直、そこは少し残念だった。
俺だけ変わっていて、向こうは何も変わっていない。
いや、別に変わってなくていいんだけど。
でも、こういう場合、久しぶりに会った仲間も少し雰囲気が変わっている方が、物語としては格好いい気がする。
まあ現実にそこまで求めるのも変か。
凛成が最初に俺を見た。
足が止まった。
慧斗も。
秋山も。
三人とも、数秒くらい黙った。
俺の心臓が一回だけ強く鳴る。
よし。
これは来る。
「……慧璃」
凛成が言った。
「おう」
三人が近づいてくる。
俺はできるだけ普通の顔をした。
何も期待していません、みたいな顔。
実際はめちゃくちゃ期待していた。
凛成は俺の前まで来ると、しばらく黙っていた。
そして。
頭を下げた。
「……ごめん」
「え?」
予想と違った。
「この前のこと」
凛成は顔を上げずに言った。
「俺、何もできなかったし。あの時、もっと早く止めればよかった」
慧斗も少し視線を下げる。
「俺も。ごめん」
秋山まで珍しく静かだった。
「私も……その、面白がってたところあったし」
俺は少し戸惑った。
いや。
謝られること自体は悪くない。
むしろ必要だった。
あの日、誰も俺を助けなかった。
それは普通に嫌だった。
だから、謝罪は受け取る。
「……まあ、いいよ」
俺は言った。
「もう」
少しだけ格好つけた。
許す側。
悪くない。
大人っぽい。
でも。
それだけ?
俺は三人を見た。
三人も俺を見る。
……。
……。
え。
「他にない?」
俺は聞いた。
「他?」
凛成が首を傾げる。
「いや、ほら」
「何?」
「……」
俺は前髪を手で少し持ち上げた。
白い部分が見えるようにする。
さらに顔を少し横へ向けて、左目も見せる。
どうだ。
これなら分かるだろ。
「これ」
慧斗が俺を見る。
「ああ」
来た。
「髪?」
「うん」
「染めたの?」
「……」
「白樺、染髪そこまで厳しくないけど、あんまり派手にしない方がいいんじゃない?」
…………。
「染めた?」
「うん」
「……」
違う。
違うけど。
まだ秋山がいる。
秋山はこういうものに詳しそうだ。
俺がそっちを見ると、秋山も左目を覗き込んだ。
「そのカラコン、結構綺麗じゃん」
「カラコン?」
「うん。灰色だけじゃなくて、ちょっと紫入ってるやつでしょ?」
「……」
「似合ってると思う」
「……ありがとう」
違う。
全然違う。
凛成も俺を見ながら言った。
「雰囲気変わったな」
「そう?」
「うん。まあ、いいんじゃない?」
いいんじゃない。
それだけ?
もっと。
こう。
「何があったんだ!?」
とか。
「その目、本物か?」
とか。
あるだろ。
普通。
「……どこで買ったかとか、気にならない?」
俺は聞いた。
「何が?」
「髪とか目とか」
凛成は少し考えた。
「いや、別に」
……別に。
胸の中で何かが小さく倒れた。
たぶん、俺が勝手に建てていた期待だ。
「でも、似合ってるよ」
凛成はすぐ付け足した。
「ただ、あんまり目立たせない方がいいかも」
「なんで?」
「また変なのに絡まれたら嫌だろ」
「……」
まあ。
気遣ってるんだろう。
それは分かる。
でも違う。
違うんだよ。
「これ、コスプレじゃないんだけど」
「え?」
「本物」
三人が黙る。
「髪も染めてない。目もカラコンじゃない」
秋山が少し笑いそうな顔になった。
「またまた」
「本当だって」
俺は少し身を乗り出した。
「これは、その……あの場所で――」
その瞬間。
右手が勝手に動いた。
「むぐっ」
俺の手が、俺自身の口を塞いだ。
は?
何してんだ。
『おい!』
頭の中で怒鳴る。
『何するんだよ!』
アヒルフェは落ち着いていた。
『黙れ』
『なんで!?』
『言うな』
『なんでだよ! これ言えば信じるかもしれないだろ!』
『逆だ』
『は?』
『今の彼らに、“異世界へ行って身体が変質した”と説明して何になる』
『証明!』
『できない』
『この目があるだろ!』
『化粧、装飾、病気、薬品、先天的異常、その他いくらでも説明できる』
『でも――』
『それに』
アヒルフェの声が少し低くなる。
『危険だ』
『何が?』
『君の身体が逆世界の影響を受けていると知られることだ』
俺は手をどけようとした。
動かない。
『離せよ』
『約束しろ』
『何を』
『言わないと』
『……』
『言おうとしたら、次はその手を噛ませる』
『は!?』
『本気だ』
最悪だ。
こいつ。
本当にやりそう。
俺は仕方なく心の中で答えた。
『……分かった』
ようやく手が離れた。
目の前では三人が完全に困った顔をしていた。
秋山が最初に聞く。
「……大丈夫?」
「え?」
「急に自分で口塞いだけど」
「ああ」
俺は咳払いした。
「唾でむせた」
沈黙。
「……そう」
最悪の言い訳だった。
自分でも分かる。
でも他にない。
俺は話を戻そうとした。
「と、とにかく。こういう変化があるってことは、前に言った話も本当だったってことだろ?」
凛成の表情が少し曇った。
「慧璃」
「何?」
「俺、前のことは本当に悪かったと思ってる」
「うん」
「だからこそ言うんだけど」
嫌な予感。
「そういう話、あんまり教室で言わない方がいいと思う」
「……」
「信じるとか信じないとかじゃなくて」
凛成は言葉を選んでいた。
「また同じことになったら嫌だから」
「同じこと?」
「九頭見たちに絡まれたりとか」
俺は机の端を見る。
「別に」
「でも」
「今回は証拠あるし」
「それが証拠かどうか、みんなには分からないだろ」
正しい。
正しいけど。
なんか嫌だ。
「俺は、もうあんなことになってほしくない」
凛成はかなり真面目な顔をしていた。
「信じてないって意味じゃない」
「じゃあ信じてる?」
「……」
間。
それだけで大体分かった。
「分からない」
凛成は正直に言った。
「でも、慧璃が嘘ついてるとは思ってない」
「それ、どう違うんだよ」
「嘘じゃなくても、見間違いとか、夢とか、そういうことあるだろ」
俺は何も言わなかった。
慧斗も静かに言った。
「少なくとも、今は無理に証明しなくていいと思う」
「……」
「また学校来れなくなる方が嫌だし」
秋山も頷いた。
「そうそう。ほら、せっかく戻ってきたんだし」
せっかく戻ってきた。
その言葉だけは、少し引っかかった。
悪い意味じゃない。
むしろ優しい。
分かってる。
こいつらはたぶん本気で俺を心配している。
だから、それ以上は言わない方がいいと思った。
「……まあ、いいよ」
俺は言った。
「もう戻ってきたし」
凛成の表情が少し緩む。
「うん」
「普通に授業受ける」
「それがいい」
「何かあったら言えよ」
「分かった」
「俺ら、できることは手伝うから」
俺は小さく頷いた。
「ありがと」
口ではそう言った。
でも、思っていたほど嬉しくなかった。
変だ。
前なら、こういう言葉が欲しかったはずなのに。
俺は机に突っ伏した。
腕を枕にする。
冷たい机の表面が額に当たる。
「疲れた?」
凛成が聞く。
「ちょっと」
「無理すんなよ」
「うん」
三人はそれ以上何も言わなかった。
少しして、自分たちの席へ戻っていく。
俺はそのまま机に伏せたまま、教室の音を聞いていた。
椅子を引く音。
鞄を置く音。
誰かの笑い声。
朝の雑談。
全部、前と同じ。
俺だけが少し違う。
なのに。
その「違い」は、俺が思っていたほど大きく見えていないらしい。
『満足したか?』
アヒルフェが聞いた。
『……別に』
『そうか』
『まだ三人だけだし』
『なるほど』
『他の奴は違うかもしれない』
『もちろん』
声が妙に優しい。
絶対馬鹿にしてる。
『その可能性に賭けるといい』
『……うるさい』
俺は目を閉じた。
まだ朝だ。
まだ学校が始まったばかり。
クラス全員が来たわけでもない。
今日一日ある。
誰かは気づく。
誰かは聞いてくる。
俺の髪。
俺の目。
俺に起きたこと。
そう。
まだ始まったばかりだ。
だから、今のところは――。
少し期待と違っただけだ。
それだけ。
たぶん。




