第⑬章:ゴールデンウィークの終わり (1)
【読者の皆様へ・第2ミニ編スタートのお知らせと謝罪】
いつも『鏡のエレジー』をお読みいただき、本当にありがとうございます!
ここ数日、強い執筆の壁にぶつかってしまい、更新をしばらくお休みしておりました。
続きを楽しみにしてくださっていた読者の皆様には、長らくお待たせしてしまい本当に申し訳ありませんでした。
頭をしっかりと整理し、本日よりいよいよ『第2ミニ編』をスタートいたします!
また、作品全体の没入感とキャラクターの心情表現をより深めるため、本章より地の文(文章表現)のスタイルを少しアップデートし、よりじっくりと読める長めの記述スタイルへ変更いたしました。
今後はこのスタイルをベースに、物語を紡いでいきたいと考えております。
ゴールデンウィークが明け、サトリとアヒルフェの二人が学校へ戻る新たな展開を、ぜひお楽しみください。
止まっていたペースを取り戻し、素早い更新を目指して書いていきますので、引き続き応援のほどよろしくお願いいたします!
休みというものは、本当に困るくらい早く終わる。楽しいから早いのか、何もしていないから早いのか、それとも時間そのものが人間の事情なんて知らない顔で勝手に進んでいくからなのかは知らないけど、とにかく気がつけばゴールデンウィークは終わりかけていた。いや、もう終わったと言っていい。カレンダーを見れば五月六日。二〇二六年五月六日、水曜日。たったそれだけの数字なのに、なんとなく「終わったな」という気分になる。学校が始まる。面倒な朝が戻ってくる。制服を着る。鞄を持つ。電車や道路を眺める。教室に座る。興味のない話を聞く。そして、何か特別なことが起きるかもしれないと期待しながら、結局何も起きない可能性の方が高い一日を過ごす。……まあ、こうして考えてみると、休みと学校生活の違いなんて、起きる時間が少し違うくらいなのかもしれない。
というわけで、ここ数日、俺とアヒルフェが何をしていたのかについて説明しよう。結論から言うと――何もしていない。いや、本当に何もしていない。世界を救う使命とか、秘密の組織とか、異世界探索とか、そういうものを期待していた人には申し訳ないけど、俺たちはほぼ何もしていなかった。最初の日こそ、いろいろと話した。俺の身体の変化について確認したり、アヒルフェが持っている知識の断片について聞いたり、これからどうするのかについて考えたりもした。でも、その先がない。入口を探そうにも、いつでも自由に開くわけじゃない。学校へ行けば何かあるかもしれないとは分かっていても、ゴールデンウィーク中の学校なんて、普段以上に入りづらい場所だ。わざわざ夜中に忍び込むほどの理由もまだない。だから結果として、俺は自分の部屋でゲームをしたり、漫画を読んだり、動画を見たり、少し寝たり、また起きたりした。アヒルフェはその間ずっと俺の頭の中にいた。たまに俺の選ぶ漫画について文句を言い、俺が昼寝をすれば「よくそんなに寝られるな」と呆れ、食事をすれば「人間はよく食べるな」と妙な感想を言い、俺が鏡の前で髪を整えていれば「またやっているのか」と言ってくる。つまり、神秘的な古代の騎士というより、俺の生活に勝手に住み着いた面倒な同居人みたいになっていた。
ただ、そんな何もない時間にも一つだけ変化があった。両親が、あまり俺に干渉しなくなったことだ。もともと俺の家は、すごく厳しい家庭というわけではない。父も母も普通に働いていて、必要な時には声をかけてくるけど、四六時中俺を監視しているわけではない。それでも、ここ最近は特に静かだった。たぶん、あの日のことをまだ引きずっていると思われているんだろう。俺が学校へ行かなくなって、家でも部屋に籠もって、いきなり見た目まで変わった。両親からすれば、そりゃ何かあったと思う。普通の十五歳が、突然髪の一部が白くなって、片方の目の色まで変わったら、どう考えても「まあ、成長期です」で片づける話じゃない。医者に連れて行こうとしたって不思議じゃないし、精神的なショックを疑うのも当然だ。俺だって、他人に同じことが起きたらそうすると思う。だからこそ、今のところ何も言われないのは助かっている。アヒルフェも、その方がいいと言っていた。
「君の両親には、まだ話さない方がいい」
今朝も、そんなことを言われた。理由は単純で、俺が逆世界について話したところで信じてもらえるはずがないし、その前に俺の身体の変化について病院で検査される可能性が高いからだ。別に病院が嫌いなわけじゃない。必要なら行くべきだと思う。でも、今の俺が何かの検査を受けたところで、どう説明する? 「昨日、異世界で身体を破壊されました」なんて言えるはずがない。言ったところで、医者が「そうですか」と納得するわけでもない。脳の検査とか血液検査とか、いろいろやられて、最終的に俺だけが疲れる未来しか見えない。しかも、その結果によっては俺がしばらく自由に動けなくなる可能性だってある。そんなの困る。今はまだ、俺自身が状況を理解していないのだから。
だから、黙っている。
それでいい。
少なくとも今は。
俺は自分の左目を鏡で確認した。普通に見える。いや、普通じゃないけど、もう見慣れてきた。灰色。光の加減で紫が強く見えたり、金色っぽいものが混じったりする。以前の茶色い目の方が圧倒的に普通だった。でも、今の方が格好いいと思う。これは間違いない。髪だってそうだ。黒の中に白が混ざっている。派手すぎるほどでもないから、うまく誤魔化せる。学校の規則に引っかかる可能性はあるけど、説明しろと言われたら「最近こうなりました」で押し切るしかない。……いや、それで押し切れるのか? まあ、押し切れなかったら、その時考えればいい。
「さっきから、何を考えている?」
アヒルフェが言った。
「別に」
「その“別に”は、だいたい何か考えている時の声だ」
「うるさいな」
「君は分かりやすい」
これも最近よく言われる。別に隠すつもりなんてないのに、アヒルフェには妙に簡単に見抜かれる。俺の頭の中にいるのだから当然と言えば当然なんだけど、それでもちょっと気に入らない。自分の独り言まで聞かれているような感覚がある。まあ、実際その通りなんだけど。
そんなことを考えていると、アヒルフェが突然別の話を始めた。
「ところで、行く前に確認したいことがある」
「何?」
「君の“箱”を使え」
「……パソコン?」
「それだ」
俺はベッドから立ち上がって、机のところへ向かった。机の上には、いつものパソコンがある。大して新しくもないし、特殊なものでもない。ただの家庭用PCだ。それでも俺にとってはゲームをしたり、動画を見たり、調べものをしたりするために必要な道具だった。
アヒルフェはしばらく黙ってから言った。
「俺が君の記憶を見た時に気になった。あれは情報を調べるためのものなんだろう?」
「まあ、そうだけど」
「なら、あれは“情報の聖典”みたいなものか」
「何その言い方」
「君の世界のあらゆる情報が入っているのだろう?」
「いや、そんな便利なものじゃない」
「しかし、必要なものを探せる」
「そういう意味ではね」
「なら、聖典だ」
「だから違うって」
俺は椅子に座ってパソコンを起動した。電源ボタンを押す。画面が明るくなる。見慣れた起動画面。キーボード。マウス。デスクトップ。全部いつも通りだ。逆世界だの魂だの怪物だのを知った後でも、パソコンだけは妙に現実感がある。画面の中に表示されるアイコンを見ていると、昨日までの自分と今日の自分がほとんど同じ人間に思えてくる。ゲームのセーブデータも残っているし、漫画の画像もある。普通の十五歳の部屋にある普通のPC。それだけだ。
「これに“ブラウザ”っていうのがある」
俺が説明すると、アヒルフェは少し黙った。
「ブラウザ?」
「ウェブを見るためのもの。インターネットに繋いで、いろんな情報を探せる」
「インターネット?」
「……説明するの面倒だな」
「君が勝手に作った言葉ではないのか?」
「違う」
俺はブラウザを開いた。
「簡単に言えば、世界中の人が情報を置いてる巨大なネットワークみたいなもの。そこから検索すれば、いろんな記事や画像や情報が出てくる」
「つまり、君たち人間の知識を蓄積した空間か」
「まあ、かなり雑に言えばそう」
アヒルフェが少しだけ興味を持ったようだった。
「では、何でも見つかるのか?」
「何でも、って言うと違うけど……」
俺は少し考えた。
「九十九パーセント……いや、九十九・九九パーセントくらいのことは、考えたことがあるなら何かしら情報が出てくるんじゃない?」
「ほう」
「もちろん嘘もあるし、情報が古い場合もあるけどね」
「それでも面白い」
アヒルフェがそう言った。
その声が少しだけ真面目だったから、俺は振り向いた。
「何を調べたいの?」
「名前だ」
「人の名前?」
「そうだ」
そこでアヒルフェは、かなり妙な名前を口にした。
「アジケリャモフ・デニス・コンスタンティノヴィッチ」
「…………何?」
俺はしばらく固まった。
「アジケリャモフ?」
「そう」
「デニス……なんとか……?」
「コンスタンティノヴィッチ」
「いや、待って。何だよそれ」
「検索しろ」
「俺、その名前の綴り知らないんだけど」
「カタカナでいい」
「いや、カタカナで検索しても正しいか分からないだろ」
「やってみろ」
仕方なく俺はキーボードを叩いた。
アジケリャモフ。
デニス・コンスタンティノヴィッチ。
検索。
結果――。
ほとんど何も出ない。
関連候補として「ケラモフ・デニス・コンスタンティノヴィッチ」みたいな名前が出てきたが、それも俺たちが探しているものとは思えない。外国人らしい名前はいくつか出てくる。でも、妙にピンと来ない。アヒルフェが言った人物と一致しているようには見えなかった。
「……ない」
俺は画面を見つめながら言った。
「嘘だろ」
「何がだ?」
「お前、“これで何でも見つかる”みたいなこと言わせたかったんじゃないの?」
「俺はそんなことを言っていない」
「いや、似たようなこと言っただろ」
「記憶違いだ」
「絶対違う」
アヒルフェはしばらく黙っていた。
そして、
「……なるほど」
とだけ言った。
「なるほどじゃない。普通に何も出ないんだけど」
「なら、この世界の人間が知らないだけだろう」
「それなら最初からそう言えよ」
「俺が知っている名前が人間の記録にあるとは限らない」
それを聞いて、俺は少しだけ黙った。
……たしかに。
アヒルフェの知っているものは、俺たちの歴史とは一致しない。
彼は別の世界に存在していた。
その世界には、俺の知らない人間や存在がいる。
俺が知っているインターネットというものだって、所詮は人間が記録した情報を集めたものだ。
誰も知らないもの。
忘れられたもの。
そもそも現実世界に存在しないもの。
そんなものが出てくるわけがない。
「じゃあ、何でそんな名前を知ってるんだよ」
俺が聞くと、アヒルフェは少し黙ってから答えた。
「俺の目的に関係する可能性がある」
「具体的には?」
「説明しにくい」
「またそれか」
「今のお前には情報が多すぎる」
「俺の頭を馬鹿にしてる?」
「事実を言っている」
……本当に性格悪いな、こいつ。
「まあ、いい」
俺はブラウザを閉じた。
「じゃあ、それは何か分からない人物ってこと?」
「そうだ」
「それなら最初から言えよ」
「重要ではない」
「いや、お前がわざわざパソコンを使わせてまで調べさせたんだから、俺には結構重要に見えたけど」
「補助になればと思っただけだ」
「補助?」
「そうだ。なくてもいい」
何だそれ。
自分から言っておいて、なくてもいいって。
俺は椅子の背もたれに体を預けた。
「じゃあ、逆世界のこと教えてよ」
「なぜ俺が教師になる?」
「いや、だって俺、知らないことだらけだし」
「それは俺の問題ではない」
「同じ身体にいるんだから、もうちょっと親切でもよくない?」
「俺は君の教師ではない」
またその言い方だった。
いつもそうだ。
助ける。
でも甘やかさない。
教える。
でも全部は教えない。
守る。
でも俺自身を大切にしているわけではない。
……まあ、そのくらいでいいのかもしれない。
何でも教えてくれる存在がいたら、俺はたぶん何も考えなくなる。
そうなったら、本当にただの器だ。
俺はパソコンの画面を消した。
時計を見る。
そろそろ行く時間だ。
俺は鞄を持った。
玄関へ行こうとしたところで、足が止まった。
……学校。
急に嫌な感じがした。
別に怖いわけじゃない。
いや、少しだけ怖い。
それだけ。
あの日のことを思い出す。
笑い声。
視線。
自分の言葉が全部馬鹿みたいに扱われた感覚。
教室の空気。
そして、最後に一人で逃げたこと。
戻ったら、また何か言われるかもしれない。
白い髪。
変わった目。
今度はそれが新しい笑いの材料になるかもしれない。
でも――。
「何を止まっている」
アヒルフェの声がした。
「別に」
「君は分かりやすいな」
「……学校、ちょっと面倒だなって思っただけ」
「そうか」
アヒルフェはそれだけ言った。
そして、少し間を置いて、
「だが、今の君には見せるものがあるだろう」
俺は髪に触れた。
白。
指で触れる。
ちゃんとある。
左目。
鏡を見る。
ちゃんと色が違う。
以前なら、ただの恥ずかしい異常だったかもしれない。
でも今は――証拠にもなる。
俺が嘘をついていたわけじゃないという証拠。
俺が何かを経験したという証拠。
俺が変わったという証拠。
それなら、行ける。
行くしかない。
「そうだな」
俺は言った。
少しだけ笑った。
「今度は、少なくとも見た目については嘘じゃない」
「随分と小さな勝利だな」
「うるさい」
でも、その言葉で少しだけ気が楽になった。
俺は部屋を出た。
階段を下りる。
一階。
玄関。
その手前にある小さな家具の上を見る。
そこには、両親が時々置いていくお金がある。
必要な時に使えと言われている。
財布を開く。
少し入っている。
今日はこれでいい。
ちなみに、今日が水曜日だということで両親は昨日から家を空けている。母は夕方六時頃、父は夜八時頃には戻ってくる予定だ。つまり、それまでに帰ってこないと少し面倒になる。二人に会うこと自体が嫌なわけじゃない。むしろ、心配をかけたくない。ただ、今の髪と目を見られるのは困る。質問されるだろうし、病院の話になるかもしれない。だから、今日はできるだけ早く帰りたい。もし帰宅時間が重なったら、鞄で顔を隠すか、腕で目元を隠すか、最悪の場合はそのまま二階へ逃げればいい。……なんか犯罪者みたいだな。でも、今の俺にはそのくらい慎重になる理由がある。
玄関で靴を履く。
ドアノブに手をかける。
その前に、鏡を見る。
髪を整える。
白い部分を少しだけ見えるようにする。
やりすぎるのも変だ。
でも隠しすぎるのももったいない。
……いや、何を考えてるんだ俺は。
服を着替えて、靴を履いて、髪型を整えるだけなのに、どうしてこんなに時間を使っているんだ。
でも。
見せたい。
今の俺を。
ほんの少しでもいい。
誰かが「あれ?」と気づけば、それでいい。
あの日の自分とは違うと、少しでも思えれば。
俺はドアを開けた。
朝の空気が入ってくる。
五月六日。
ゴールデンウィークは終わった。
これから学校へ戻る。
また普通の日々。
また教室。
また同級生。
また、あの場所。
だけど、今度は違う。
俺の髪も。
俺の目も。
俺の中にいるアヒルフェも。
全部、あの日とは違う。
なら――。
今度こそ。
今度こそ、俺は少しくらい特別でいてもいいはずだ。
「……行くか」
俺は歩き出した。
背中の鞄が少し揺れる。
靴音が道路に落ちる。
春の終わりかけた空気の中で、俺は自分の左目を一度だけ指で触った。
ちゃんとここにある。
消えていない。
それだけで十分だった。
そして俺は、私立白樺高等学校へ向かった。
――今度こそ、何かが変わる。
いや。
今度こそ、俺自身が変わったことを、誰かに気づかせてやる。




