第⑫章:春の二羽の鳥
四月二十九日。
ゴールデンウィークが始まった。
……正確には、俺にとってはただの連休だ。
世間では大型連休だとか、旅行だとか、家族サービスだとか、そういう話になるらしい。でも、俺には今のところ関係がない。
学校が休み。
それだけで十分だ。
しかも、これなら少なくとも数日は白樺へ行かなくていい。
正直に言えば、少し助かる。
いや。
別に怖いわけじゃない。
そこは勘違いしないでほしい。
ただ、いろいろあったばかりだから、少しくらい距離を置いて頭を整理する時間があってもいいというだけだ。
……そういうことにしておく。
俺はベッドの上で仰向けになり、天井を見ていた。
窓から入ってくる春の光が、部屋の床を少しだけ明るくしている。
鳥の声が聞こえる。
遠くで車が走る。
家の中は静かだ。
朝。
いつもの朝。
なのに、俺だけがいつも通りじゃない。
指で前髪を触る。
黒。
そして白。
指先に絡んだ白い毛束を見ると、まだ少しだけ現実感がない。
それから、左目。
鏡を見る。
右目は、いつもの暗い茶色。
左目は違う。
灰色。
そこに、金色。
さらに、奥で紫色の光が小さく揺れている。
……やっぱり変だ。
でも。
悪くない。
むしろ、かなりいい。
普通の黒髪。
普通の茶色い目。
そういうのより、今の方がずっと目立つ。
ずっと特別だ。
俺は鏡の前で少しだけ顔を横に向けた。
右。
左。
髪を整える。
前髪を少し下ろす。
今度は上げる。
……うん。
やっぱり悪くない。
むしろ、ちょっと格好いい。
いや、かなり格好いい。
そこは自分で認めてもいいだろ。
だって、本当に変わったんだから。
俺は昨日まで、ただの十五歳の高校一年生だった。
今は違う。
変な世界に入り。
死にかけ。
生き返った。
体に変化が出て。
そして今、頭の中には別の存在までいる。
これだけ揃っていて「普通です」なんて言う方がおかしい。
……少なくとも俺の中では。
「君、朝から随分と機嫌がいいな」
頭の奥から声がした。
「だって連休だし」
「それだけか?」
「それだけじゃないけど」
俺は鏡を見たまま答えた。
「……お前のおかげで俺、かなり変わったし」
「“変わった”ではなく、“壊れたものを無理やり繋いだ”に近い」
「言い方」
「事実だ」
アヒルフェ。
俺の中にいるもう一人。
今でも、まだ妙な感じがする。
朝起きたら誰かがいる。
喋りかけてくる。
俺の考えていることを少し読める。
時々、俺の身体まで勝手に使う。
慣れるのには時間がかかると思う。
でも――
もう昨日ほどの拒否感はない。
たぶん、それより今は、こいつがいることで得られるものの方が気になっている。
「なあ、アヒルフェ」
「なんだ」
「連休中、何する?」
「調査」
「即答だな」
「当然だろう」
声は少し疲れている。
「君は何かを得たからといって、何もしなければ意味がない。逆世界についても、君自身についても、まだ分からないことが多すぎる」
「まあ、それはそうだけど」
「学校も休みだ。動くにはちょうどいい」
「でもさ」
俺は少しだけ口を尖らせた。
「俺、まだ学校に戻るのちょっと嫌なんだよ」
言ったあと、自分でも少し驚いた。
嫌。
かなり小さい言葉だけど、そこにはいろんなものが入っている。
教室。
視線。
笑い声。
あの日の空気。
あのノート。
破かれたページ。
そして、笑われたこと。
全部。
「……怖いのか?」
アヒルフェが聞いた。
「違う」
「そうか?」
「違うって」
「なら、なぜ声が少し低くなった?」
「……」
腹立つ。
こいつ、本当に人の細かいところを見てくる。
「ただ、嫌な記憶があるだけ」
「それを普通の人間は“怖い”と呼ぶ」
「俺は普通じゃない」
「そこだけは自信があるんだな」
皮肉。
でも、否定できない。
俺はベッドから起き上がった。
「……いつか戻らなきゃいけないだろ」
「そうだ」
「なら、逃げ続けるわけにもいかない」
「珍しく正しいことを言ったな」
「うるさい」
俺は制服の方を見る。
連休だから着る必要はない。
でも、学校のことを考えると、少しだけ胸の奥が硬くなる。
俺はその感覚を無視した。
「……だったらさ」
鏡に映る自分を見る。
白い髪。
変わった左目。
「戻った時に、みんなに見せてやればいい」
アヒルフェが黙った。
「何を」
「これ」
俺は左目を指差した。
「髪も、目も。
俺があの日から何もなかったわけじゃないってことを」
「……」
「別に、信じてもらえなくてもいい」
少しだけ笑う。
「でも、“何も起きてませんでした”とは言わせない」
それは、たぶん俺にとって最初の新しい考えだった。
証明。
復讐。
見返す。
そういう感情だけじゃない。
自分が変わったことを、自分で認めさせたい。
それが今、一番大きい。
「くだらない目標だ」
アヒルフェが言った。
「分かってる」
「なら、どうして追う?」
「俺だから」
自分でも変な答えだと思った。
「俺って、そういう奴だから」
アヒルフェはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「……少なくとも、悪人ではない」
「え?」
「君は自分勝手だが、まだ他人を傷つけたいという理由だけで動く人間ではない」
「褒めてる?」
「観察結果だ」
「まあ、いいや」
それでも、少し嬉しかった。
俺は立ち上がった。
「じゃあ、連休中に調査する」
「そうしろ」
「白樺のあの場所も?」
「当然だ」
「それから、逆世界への入り方も?」
「必要なら調べる」
「俺の力も?」
「それもだ」
だんだん、やることが増えてくる。
でも、嫌じゃない。
むしろ、いい。
やっと、時間を使う理由ができた。
これまでの俺には、ただ時間を潰すことしかなかった。
ゲーム。
漫画。
動画。
散歩。
寝る。
また学校。
そんな毎日だった。
今は違う。
調査がある。
逆世界がある。
アヒルフェがいる。
目的もある。
そして、まだ分からない力まである。
……こういうのを、人生が始まったっていうんじゃないか。
「ただし」
アヒルフェの声が急に低くなった。
「勘違いするな」
「何を?」
「俺は君の家庭教師でも、保護者でもない」
「……」
「君の面倒を一日中見るつもりはない」
「いや、でも俺、お前の器だろ?」
「だから何だ」
「俺が死んだらお前も困るんじゃないの?」
「そうだ」
「じゃあ、助ける必要あるじゃん」
「最低限はな」
「最低限?」
「君が役に立つ範囲で」
うわ。
言い切った。
「つまり、俺を見捨てることもあるってこと?」
「君が完全に使い物にならなくなればな」
「ひどい」
「現実的だろう」
「俺が死んだら、お前も終わるんじゃないの?」
「君の身体が必要なだけだ」
淡々と言われた。
「性格まで好きなわけではない」
「……」
なんとなく、腹立つ。
でも、嘘ではないんだろう。
「じゃあさ」
俺は少しだけ笑った。
「俺が役に立てばいいんだろ?」
「そうだ」
「なら、頑張る」
「……」
「それに、お前も俺がいた方がいいんだろ?」
「……否定はしない」
「なら、お互い様じゃん」
少しだけ静かになる。
そして、アヒルフェが言った。
「君は本当に、都合よく話をまとめるな」
「だって、その方が楽だろ」
「まあ、いい」
声が少しだけ柔らかくなった。
「これから先、状況は変わる」
「うん」
「良くなるかもしれない」
「うん」
「悪くなるかもしれない」
「……うん」
「死ぬこともある」
俺は一瞬だけ黙った。
それでも。
「分かってる」
そう答えた。
怖い。
正直に言えば、怖い。
昨日の痛みを思い出すと、手が少し冷たくなる。
でも、もう知っている。
怖いから動かない、という選択をしても、結局何も変わらない。
だったら。
動いた方がいい。
「それに」
俺は鏡を見た。
そこには、少しだけ変わった自分がいる。
「俺はもう、あの時の俺じゃない」
「……そうだな」
「だから、やるよ」
「何を?」
「全部」
言ってみたら、なんだか妙に気分が良かった。
「調べる。
強くなる。
逆世界にも行く。
お前の力も使う。
そして――」
俺は鏡の中の自分に向かって笑った。
「今度こそ、誰にも“ただの普通の奴”なんて言わせない」
アヒルフェが小さくため息をつく。
「本当に救いがないな」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めていない」
「でも、友達になったってことで」
「……何?」
「今日から俺たち、友達」
「断る」
「即答すんなよ」
「俺がどれだけ長く生きていると思っている。友人関係など、もっと面倒だ」
「じゃあ相棒」
「勝手にしろ」
「よし、決まり」
自分でも少し笑ってしまった。
たぶん、こんな会話をする日が来るなんて、昨日まで想像もしなかった。
俺の身体の中に、もう一人いる。
俺の力を使える。
別の世界へ行ける。
学校では普通の生徒を装う。
外では、未知の空間を調べる。
二重生活。
そんなの、昔の俺なら物語の中でしか存在しないと思っていた。
でも今は、俺自身がその物語の中にいる。
怖い。
面倒だ。
危険だ。
それでも――
少しだけ、楽しい。
アヒルフェが最後に言った。
「まあいい。
連休の間に、準備をしろ」
「了解」
「無駄なことをするな」
「分かった」
「一人で勝手に死ぬな」
「それも分かった」
「そして、俺の身体を雑に扱うな」
「俺の身体でもあるんだけど」
「今は俺の器でもある」
「じゃあ、二人の身体ってことで」
「……勝手にしろ」
俺は笑った。
窓の外では、春の風が吹いていた。
木の枝が揺れる。
どこかで、鳥が鳴く。
一羽。
それから、もう一羽。
俺はその音を聞きながら、少しだけ目を細めた。
二羽の鳥。
一つは、外の世界を飛んでいる。
もう一つは――
俺の中にいる。
妙な組み合わせだ。
でも、不思議と嫌いじゃない。
俺は鏡に映った自分を見た。
白い髪。
異なる色の左目。
そして、少しだけ自信のある顔。
今度こそ。
もう待つだけじゃない。
俺自身が動く。
俺自身が決める。
そして、俺自身が物語を進める。
――荷川取慧璃の物語は、まだ始まったばかりだ。
【後書き・作者より】
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
第12章「春の二羽の鳥」をもちまして、本作の『ミニ章(第1小編・序幕)』が無事に完結いたしました。
ここまでは、サトリが異世界の事件に巻き込まれ、アヒルフェと出会い、自身の変化を受け入れるまでの「再始動」の物語でした。
次回からの第13章からは、ゴールデンウィークの調査と新たな展開を描く『ミニ章(第2小編)』がスタートします!
サトリとアヒルフェの二人がどのような道を進むのか、ぜひ楽しみにしていてください。




