第⑪章:深夜の勧誘者 (3)
店を出た。
時計を見る。
午後八時を少し過ぎている。
夜はもう完全に落ちていた。
上越の街は静かだ。
昼間なら車が走って、人が歩いて、学生が騒いでいる。
でも、この時間になると一つずつ音が減る。
コンビニの明かり。
交差点の信号。
遠くを走る車。
住宅街の窓。
それくらいだ。
俺は鞄を肩に掛け直して歩き始めた。
家。
いや、家というより、俺の住んでいるアパートだ。
事情があって一人で暮らしている。
別に、その辺を詳しく話す必要はない。
今はもっと面倒なことがある。
荷川取慧璃。
あの一年生。
そして、白樺高校の中に新しく生まれた可能性がある空間。
歩きながら、それについて考える。
これまで俺たちは、学校の外で見つけた小さな場所をいくつも調べてきた。
廃店舗。
閉じた倉庫。
人があまり来ない地下道。
古い施設。
そういうところ。
どれも規模は大きくなかった。
だから、正直に言えば、今までそこまで深刻には考えていなかった。
危険ではある。
でも、手順は分かっていた。
見つける。
入る。
記録する。
危険なら戻る。
どうしても残しておけない場合は――
浄化する。
それで何とかやってきた。
浄化。
完全に壊すわけじゃない。
ああいう場所は、壊してもまた何かの形で戻る。
だから、こちら側に染み出している異常を抑えて、空間の状態を落ち着かせる。
少なくとも、それが今の俺たちにできる唯一の対処法だった。
問題は――
それを誰から教わったわけでもないことだ。
俺たちには先生がいない。
専門家もいない。
大人もいない。
誰かに「こうすればいい」と教えてもらったわけじゃない。
全部、自分たちで試した。
失敗して。
怪我して。
逃げて。
また入って。
そうやって覚えた。
考えてみれば、かなり馬鹿な話だ。
三人の高校生が、誰にも相談できない異常を調べている。
普通なら、こんなことをする必要なんてない。
普通なら。
俺は小さく息を吐いた。
以前、見つかった場所のことを思い出す。
瞽女ミュージアム高田。
あそこにも一つ、変な場所があった。
古い展示物。
静かな空間。
人の記憶と土地の歴史が変な形で重なったような場所。
規模は大きくなかった。
でも、それでも一つのゾーンだった。
あれを浄化した時も、結局原因は分からなかった。
なぜ生まれたのか。
誰が生んだのか。
何をきっかけに生まれたのか。
分からない。
たぶん、強い感情。
それは間違いないと思っている。
怒り。
悲しみ。
執着。
後悔。
恐怖。
あるいは、もっと単純な願望。
人間が抱えている何か。
でも、それだけでは説明できない。
強い感情なら、どこにでもある。
それなのに、全部が空間になるわけじゃない。
なら、条件があるはずだ。
時間。
場所。
人数。
感情の種類。
あるいは、複数の要素。
でも、俺たちはまだ一つも確定できていない。
そもそも、どうやって生まれるのか。
そこから分からない。
……嫌になる。
分からないことが多すぎる。
それでも、最近は少しずつ見えてきているものもある。
少なくとも、入口の探し方は分かった。
空間に入った時に必要になるものも、いくつか分かっている。
そして、俺たち自身が使えるものもある。
心気。
まだ全部は理解できていない。
集中。
精神。
感情。
想像。
そういうものと関係しているらしい。
使える。
だが、使えば疲れる。
使い方を間違えれば、もっと面倒なことになる。
だから、まだ試しながらだ。
武器にする方法。
空間を固定する方法。
浄化に使う方法。
それぞれ少しずつ違う。
それでも、以前よりは進んだ。
何も知らなかった頃よりは。
歩道の端を歩く。
信号が赤。
止まる。
青。
歩く。
こういう単純な動作をしている間だけは、頭の中を整理できる。
今回の問題は、いつものゾーンとは違う。
白樺高校。
自分たちが毎日いる場所。
それだけでも厄介だ。
学校なら、人がいる。
教師がいる。
生徒がいる。
毎日変わらないと思っている場所だからこそ、異常が見つかった時に気づくのが遅れる。
そして、荷川取。
あいつが関係しているかもしれない。
正直に言えば、本人には興味がない。
人間関係も知らない。
好きでも嫌いでもない。
ただの一年生だ。
でも、もし本当にあいつが中心なら、話は別だ。
原因なら、知らなければならない。
本人が作ったのか。
無意識だったのか。
何かに巻き込まれたのか。
あるいは――
あいつ自身が、あの空間の中に何かを残したのか。
そのどれかで対処が変わる。
もし原因が本人なら、浄化だけでは足りないかもしれない。
本人を助ける必要がある。
逆に、本人がただ巻き込まれただけなら――
助けるべきだ。
そこは同じだ。
俺たちがやっているのは、怪物退治じゃない。
人間が絡んでいる以上、簡単に切り捨てるわけにはいかない。
それをすると、俺たちも同じ側に落ちる。
だから、確認する。
それだけだ。
四月十四日。
荷川取が入った日。
空間が発生した日。
そして、その後。
本人が学校へ来なくなった。
時系列としては、かなり綺麗だ。
綺麗すぎる。
だから逆に怖い。
そんな簡単に全てが繋がるとは思えない。
俺は歩きながら、もう一度考える。
もしかすると、本人は自分でも知らない何かを作ったのかもしれない。
自分が特別でありたい。
何かを証明したい。
誰にも理解されない。
そういう感情。
その積み重ねが、場所になった可能性もある。
だとしたら――
かなり危険だ。
感情が強ければ強いほど、空間が大きくなるなら。
本人が傷つけば。
怒れば。
もっと強く願えば。
空間まで強くなる。
そうなれば、学校の中だけでは済まない。
さらに広がる可能性がある。
でも、まだそこまで決めつけることはできない。
俺たちは何も知らない。
だから、まず見る。
それしかない。
歩く。
角を曲がる。
住宅街。
小さな公園。
街灯。
遠くのマンション。
いつもの景色。
こういう普通の景色を見ていると、さっきまで考えていたことが全部、馬鹿みたいに思えてくる。
異世界。
無限の空間。
怪物。
浄化。
心気。
そんなもの、普通の人間なら笑う。
でも、俺たちは笑えない。
実際にあるからだ。
俺は少しだけ立ち止まった。
空を見上げる。
星は少ない。
雲がある。
風が冷たい。
それだけだ。
まだ現実は普通だ。
その普通が、いつまで続くかは分からない。
最近は、そんなことばかり考える。
白樺。
荷川取。
新しい空間。
そして――
あいつら。
俺はその言葉を思い浮かべただけで、嫌な感覚が背中を走るのを感じた。
あいつら。
以前、俺たちが出会った存在。
人間なのか。
そうではないのか。
未だに判断できない。
ただ、あれだけは覚えている。
あの目。
あの動き。
あの、こちらを理解しているようで理解していない感じ。
思い出したくない。
できれば、もう二度と会いたくない。
でも、そういうものほど出てくる。
だから考えない。
考えたところで、今の俺には何もできない。
ただ――
今回の場所に、それが関係している可能性もある。
まだ証拠はない。
だから、考えるだけにしておく。
アパートが見えてきた。
俺は鍵を取り出した。
ドアを開ける。
靴を脱ぐ。
暗い。
明かりをつける。
狭い部屋。
机。
ベッド。
資料。
最低限の生活用品。
そこに戻ってくると、少しだけ頭が静かになる。
俺は鞄を置いた。
今日の資料を机の上へ広げる。
荷川取の記録。
学校の見取り図。
カメラの破片についてのメモ。
ゾーン発生日時。
四月十四日。
全部並べる。
そして、一番端に、さっき書いた名前。
荷川取慧璃。
俺は、その名前をしばらく見た。
正直、本人に会いたくない。
話すのも面倒だ。
でも、必要なら会う。
それだけだ。
本人が原因なら、確認する。
巻き込まれているだけなら助ける。
敵なら対処する。
それだけ。
感情は後でいい。
俺は椅子に座った。
背もたれへ体を預ける。
目を閉じる。
頭の中に、今日の景色が残っている。
街。
ビデオ店。
CRT。
銅崎。
弥源治。
荷川取。
白樺。
そして、まだ正体の分からない場所。
俺たちは何も知らない。
大人もいない。
教えてくれる人間もいない。
だから、自分たちで進むしかない。
幸い、今まで生き残ってきた。
なら、今回もやる。
ただし――
今回は今までより大きいかもしれない。
だから、慎重にやる。
無理はしない。
一人で深入りしない。
変化があれば記録する。
異常が強ければ退く。
戻れなければ、浄化を考える。
それでもどうにもならなければ、初めて他の方法を探す。
基本を忘れない。
俺はそう決めた。
そして、最後に一つだけ考えた。
もしかすると、この新しい場所には――
俺たちがずっと探しているものの答えがあるのかもしれない。
何を探しているのか。
それは、まだ誰にも話していない。
銅崎にも。
弥源治にも。
今は、話さなくていい。
俺自身がまだ確信を持っていないからだ。
でも、もし見つかるのなら。
もし、この場所がそのために存在するのなら。
俺たちは、今までより一歩進める。
……そうであってほしい。
俺は目を開けた。
机の上の資料を見る。
そして、明日の準備を始める。
夜はまだ長い。
学校は明日もある。
異常も、たぶん待ってはくれない。
なら、こちらも待たない。
できることから始める。
それだけだ。
それが、リミナル・トラベラーズのやり方だった。




