第⑪章:深夜の勧誘者 (2)
「――荷川取慧璃、ね」
銅崎が言った。
店の古い蛍光灯が、頭の上で小さく鳴っている。
ジジ……。
少しだけ耳障りだが、慣れている。
俺は机の上に置いた資料を見ながら、椅子の背もたれに体重を預けた。
「ああ」
「普通だね」
「普通だ」
銅崎は、手元の紙をめくった。
住所。
家族構成。
学校。
学年。
成績の大まかな記録。
健康面。
保護者。
学校内での問題歴。
どれを見ても、特別なところはない。
妙な宗教団体に所属しているわけでもない。
変な施設に出入りしている記録もない。
家系に特殊な事情があるわけでもない。
父親と母親がいて、一人息子。
要するに――普通の家庭だ。
「書類上は、本当に普通だよ」
銅崎が言った。
「子供の頃から、身長が伸びて、顔が変わって、それだけ」
「まあ、十五年も生きてれば顔くらい変わる」
「それだけ」
「それだけだ」
俺は頷いた。
そこに異論はない。
人間なんて、時間が経てば変わる。
身長が伸びる。
声が変わる。
髪が伸びる。
顔つきが変わる。
体重が増えたり減ったりする。
そんなものだ。
それだけなら、何も面白くない。
問題は――最近の記録だった。
噂。
校内の話。
壊れた設備。
妙な目撃情報。
時系列が合わない出来事。
そして、四月十四日以降の一連の異常。
「でもさ」
銅崎が紙の端を指で叩いた。
「普通の子が、なんでここまで噛み合うの?」
「それが分からない」
「荷川取が原因だと思う?」
「まだ決めてない」
「でも、怪しい」
「怪しい」
そこは否定しない。
怪しい。
かなり。
ただし、“怪しい”と“犯人”は違う。
そこを混同すると死ぬ。
俺たちは何度もそれで危ない目に遭ってきた。
「リミナル・スペースってさ」
銅崎が言った。
「普通の人間には、どう見えるんだろうね」
「無限の場所」
俺は答えた。
「たくさんの道。扉。階段。廊下。似たような風景。何度進んでも同じような場所に出る」
「迷う?」
「迷う。というより……出口という概念が曖昧になる」
銅崎が黙った。
俺は資料を一枚取り上げる。
「リミナル・スペースは、単純に言えば“現実と非現実の境界に引っかかった場所”だ。どこかへ進んでいるはずなのに、現実の地理とは一致しない」
「ドアを開けたら別の場所だったり?」
「ある」
「階段を降りたら地上だったり、上ったら地下だったり?」
「ある」
「外へ出たつもりなのに、また同じ建物に戻ってくる?」
「ある」
「……嫌だな」
「嫌だよ」
即答した。
俺だって好きで入っているわけじゃない。
あんなもの。
何時間も歩けば、食べ物も飲み物も尽きる。
疲労で判断力が落ちる。
方向感覚が壊れる。
時間感覚が消える。
そして最後は、自分が今いる場所が現実なのかどうかすら分からなくなる。
怪物なんていなくても、人は死ねる。
転ぶ。
脱水。
低体温。
パニック。
疲労。
それだけで十分だ。
だから俺は、あれを“死ぬまで歩く場所”と呼んでいる。
銅崎が少し黙ってから言った。
「でも、最近見つかってるものは……違うよね」
「そう」
ここが面倒だった。
普通のリミナル・スペースとは別に、似た構造を持つ場所がある。
俺たちはまだ正式な名前を決めていない。
仮に――
リミナル・ゾーン。
そんな呼び方をしている。
俺は資料の別ページを開いた。
「リミナル・ゾーンは、単純なスペースとは違う」
「具体的には?」
「まず、入り方が違う」
「偶然じゃない?」
「少なくとも、今まで確認したケースではな」
「じゃあ、何か条件がある?」
「そう考えてる」
さらにページをめくる。
「入った後の構造も違う。似たような無限空間が広がっている場合もあるけど、中には“何か”がいる」
「何か?」
「生き物。人間に似たもの。元からそこに住んでるように動くもの」
銅崎の眉が少しだけ下がる。
「……それ、最悪じゃない?」
「だから最悪なんだ」
「スペースより?」
「比較にならない」
リミナル・スペースは、場所そのものが敵だ。
だが、リミナル・ゾーンには、そこに住むものがいる。
狩る。
追う。
守る。
餌を探す。
縄張りを持つ。
場合によっては、知性まである。
そして、その違いを理解しないまま入った人間は、ただの餌になる。
「で」
俺は資料を閉じた。
「今回、問題なのはその“ゾーン”が学校に出てることだ」
銅崎が顔を上げる。
その横で、まだ来ていない弥源治の席が空いている。
俺は時計を見る。
まだ来ない。
まあ、来るだろう。
あいつは遅れても来る。
そこだけは信用している。
「ちょっと確認したい」
俺は二人がそろうのを待つ。
いや。
銅崎だけでもいい。
質問する。
「もし、普通の学生が君たちの前に来て、“無限に続く場所に入った。扉が何個もあった。階段もあった。人はいなかった。変なものを見た”って言ったら、どうする?」
銅崎は黙った。
少し考えている。
そこへ、ちょうど入口が開いた。
「ただいま」
弥源治春人だった。
鞄を肩に掛けたまま、店へ入ってくる。
「遅い」
「資料が多かった」
「見せろ」
「はい」
弥源治は鞄から封筒を出した。
俺は受け取る。
目を通す。
その間も、さっきの質問は生きている。
「で」
弥源治が言った。
「何の話?」
銅崎が答えた。
「普通の人がリミナル・スペースに入ったって言ったらどうするか、って話」
弥源治は少し考えた。
「……まず落ち着かせる」
「次」
「夢じゃないか聞く」
「次」
「それでも本人が真面目なら、場所と時間を聞く」
俺は頷いた。
「だよな」
銅崎も頷く。
「私も同じ」
俺は椅子から立った。
「つまり、普通ならそうする」
二人が俺を見る。
「でも、実際に白樺でそれをやったのは、少し違った」
「誰?」
銅崎が聞く。
「荷川取」
その名前を口にした途端、店内が少し静かになった気がした。
もちろん、ただの気のせいだ。
でも、妙にその名前だけが重く感じる。
「一年生の?」
「そう」
「彼が?」
「四月の半ば、クラスでそういう話をした」
「……ああ」
銅崎が少しだけ視線を逸らした。
「噂になってたやつ?」
「それ」
弥源治が聞いた。
「何があったの?」
俺は短く説明した。
「本人が“別の世界に入った”って言った」
「……」
「手書きの絵も見せた」
「へえ」
「でも、クラスの連中は信じなかった」
「それはまあ……」
銅崎が言いかけて止まる。
俺は続けた。
「“夢じゃないか”とか、“寝ぼけてるんじゃないか”とか、それくらいならまだいい」
「……まさか」
「笑われた」
弥源治が少しだけ眉を上げた。
「結構?」
「かなり」
「……」
「最終的に、からかいになって、本人が怒って、口論になった」
「それで?」
「その後、かなり酷い形になった」
細かい話はしなかった。
必要ない。
学校の人間関係は、外から見ても分からない。
噂だけで判断すると危険だ。
だが、先生たちから聞いた内容だけでも十分だった。
「本人はしばらく学校を休んでる」
「いつから?」
「十五日から」
銅崎が少し驚いた。
「そんなに?」
「ああ」
俺は資料を見せた。
「先生たちとも話した。本人の保護者にも連絡が行ってる」
「……」
「だから、少なくとも今は学校には来ていない」
弥源治が小さく言った。
「俺、その話知らない」
「一年生だろ」
「うん」
「なら知らなくても不思議じゃない」
弥源治が少しだけ頷く。
「でも、言い方」
「何が」
「もうちょっと優しく言って」
「事実だろ」
「事実でも言い方ってある」
「……分かった」
銅崎が小さく笑った。
「そこは相変わらずだね」
「余計な話をするよりマシだ」
「はいはい」
俺は資料に視線を戻した。
重要なのは、そこじゃない。
荷川取の話には、気になる部分がある。
本人が描いたもの。
無限の通路。
扉。
階段。
時間の違和感。
そして、出た場所。
内容だけを見れば、リミナル・スペースの特徴とかなり一致する。
「それで」
俺は言った。
「本人の証言と記録を照合した」
二人がこちらを見る。
「日時は、四月十四日」
「四月十四日……」
弥源治が日付を確認する。
そして。
「あ」
と、声を漏らした。
「その日だ」
銅崎が振り向く。
「何が?」
「最初に変な値が出た日」
俺は頷いた。
「そう」
弥源治が資料を覗き込む。
「じゃあ、荷川取が入った日と、あの場所ができた日が同じ?」
「可能性が高い」
銅崎の表情が少し変わった。
「待って」
彼女は資料を取り上げた。
「それなら――」
「そう」
俺は答えた。
「白樺にある、あの特殊な空間。あれは十四日より前には存在していない」
店内が静かになる。
古いCRTから、低いノイズが聞こえる。
ザァ……。
誰も喋らない。
俺たちは全員、同じ方向を見ている。
白樺高校。
そこに、四月十四日を境にして、何かが生まれた。
そして、その日に、荷川取慧璃がリミナル・スペースへ入った。
「つまり」
銅崎がゆっくり言った。
「荷川取が……作った?」
「まだ分からない」
「本人が意識して?」
「それも分からない」
「無意識?」
「可能性はある」
俺は椅子へ戻った。
「怒り、恐怖、恥、願望、執着。そういうものが空間を作るなら、作った本人が意識していない方が自然な場合もある」
「じゃあ、あのいじめの件が原因?」
「それも分からない」
「入った先で何かを見て、それが別の空間を作った?」
「可能性はある」
「自分が特別だと思いたくて?」
「それもあるかもしれない」
どれも可能性。
結局、今は何も分からない。
俺は、それが嫌いだ。
でも、分からないものを分かったことにする方がもっと嫌いだ。
「……でも」
弥源治が口を開いた。
「一つだけ変じゃない?」
「何」
「荷川取、今は家にいるんだよね?」
「ああ」
「だったら、どうやって新しくできた場所と関係するの?」
「それを今から調べる」
俺は鞄を開けた。
一つの小さな物体を取り出す。
金属。
透明な部分。
破損した基板。
黒いプラスチック。
俺はそれを机の上に置いた。
「これ」
銅崎が近づく。
弥源治も見る。
「何?」
「カメラの破片」
「……カメラ?」
「正確な機種は分からない」
俺は破片を指で回す。
「でも、これが重要だ」
側面に、小さな文字がある。
傷だらけで、全部は読めない。
だが、その一部は残っている。
荷川取 柚禽。
銅崎が目を見開いた。
「これ……」
「荷川取の父親」
「……」
弥源治も覗き込む。
「じゃあ、これ、家のカメラ?」
「たぶん」
「どうして学校に?」
「それが問題だ」
俺は破片を机の上へ置いた。
「荷川取家から持ち出された可能性が高い」
「でも」
銅崎が言った。
「父親が学校へ持っていく理由は?」
「ない」
即答した。
「少なくとも、俺が調べた限りでは」
「じゃあ、本人が?」
「そう考えるのが自然」
弥源治が少し黙った。
「……でも、あいつ、今家にいるんだろ?」
「ああ」
「じゃあ」
「本人が持っていった。どこかで壊れた。その後、戻ってきた」
銅崎が俺を見た。
「戻ってきた?」
「あるいは、戻された」
「……」
その言葉に、三人とも黙った。
俺はもう一つ、資料を出す。
「これが最初に見つかった破片だ」
「最初?」
「そう」
「どこで?」
「白樺の、あの空間」
銅崎が顔を上げた。
「じゃあ……」
「そう」
俺は頷いた。
「このカメラは、最初からあの空間の中にあったわけじゃない」
「つまり?」
「誰かが外から持ち込んだ」
弥源治が少し青ざめる。
「……それって」
「荷川取が持っていった可能性が一番高い」
「じゃあ、あいつ――」
「生きている」
俺は先に言った。
二人が止まる。
「一応、確認した」
「どうやって?」
「学校側から聞いた。家にも確認を入れた」
「直接?」
「偽名を使った」
「……」
「それくらいはする」
銅崎がため息をついた。
「智皓、そういうところ」
「何」
「自分で行きすぎ」
「二人に余計な責任を持たせたくない」
「だからって一人でやる?」
「三人とも巻き込むよりマシだ」
「……」
弥源治が言った。
「だったら俺たちにも言ってよ」
「必要なことだけ伝えてる」
「それ、便利な言葉だよね」
「便利だから使う」
「……」
少しだけ空気が緩んだ。
でも、それで終わりにはできない。
問題は、荷川取が関係している可能性が高いこと。
そして、白樺に“新しい空間”が存在すること。
さらに、その空間がまだ成長していること。
その三つが重なる。
「俺たちがやるべきことは一つ」
俺は言った。
「本当に荷川取が原因なのか確認する」
「どうやって?」
「本人の行動記録と、空間の変化を照合する」
「でも学校来てないよ?」
「だから調べられる」
銅崎が少しだけ目を細めた。
「家?」
「学校」
「学校に?」
「ああ」
俺は白樺の簡単な校舎図を机の上に広げた。
四階。
三階。
問題の場所。
そして、十四日に最初の異常が確認された地点。
「一つの手掛かりがあればいい」
俺は言った。
「入口がどこか分かれば、構造を追える」
「それが壊せる場所なら?」
「壊す」
「どうやって?」
「まだ決めてない」
「……」
銅崎が苦笑した。
「本当に、最後まで具体策ないね」
「具体策は入ってから考える」
「それ、普通は逆」
「普通のやり方で生き残れるなら苦労しない」
俺は資料を閉じた。
時計を見る。
20時を少し過ぎている。
外はさらに暗くなっていた。
店の窓に、自分たちの姿が薄く映っている。
三人。
学生。
古いビデオ屋。
そして、学校の中にある異常な空間。
どこからどう見ても、くだらない放課後の活動にしか見えない。
でも、実際には違う。
俺たちが今やろうとしているのは、白樺の中に生まれた何かを確認すること。
もし放っておけば、広がるかもしれない。
誰かが入るかもしれない。
そして、次に出てくるのが何なのか、俺たちには分からない。
「明日」
俺が言った。
「学校で調べる」
銅崎が頷く。
「分かった」
弥源治も頷く。
「俺も行く」
「無理するな」
「それ、智皓が言う?」
「……そうだな」
少しだけ笑った。
結局、三人とも同じだ。
怖い。
でも、やる。
危険。
でも、見なければならない。
そして――
もし荷川取慧璃が本当に、この異常の中心にいるのなら。
俺たちは、あいつが何をしたのかを知る必要がある。
意識して作ったのか。
無意識だったのか。
偶然だったのか。
それとも――
あの空間の側から、あいつを選んだのか。
まだ、何も分からない。
だからこそ、明日も調べる。
それしかない。
分からないまま放置するよりは、ずっとましだ。
俺は壊れたカメラの破片を袋へ戻した。
そして、最後に一つだけ書き込んだ。
「荷川取慧璃――最重要確認対象」
ペンを置く。
蛍光灯が、また小さく鳴った。
ジジジジ――。
今夜も、まだ何も起きていない。
だからこそ、今のうちに準備する。
何かが起きてから動いたら、たぶん遅い。




