第⑪章:深夜の勧誘者 (1)
血は、夢の中で降る。
上から落ちてくるわけじゃない。
床から湧いているようにも見えるし、誰かの記憶から漏れ出しているようにも見える。
赤い。
ずっと赤い。
眠っている人間の頭の奥には、たぶん誰にも見せたくないものがある。
怒り。
後悔。
不安。
嫉妬。
自分だけが取り残されているような感覚。
あの時こうしておけばよかった、という考え。
あいつだけは許せない、という執着。
誰にも言えない願い。
そういうものは、起きている間なら、学校とか仕事とか、家族とか、スマートフォンとか、意味のない会話とかで上から蓋をしておける。
眠れば違う。
眠ると、蓋が緩む。
そういう時に、人間は自分でも知らないものを夢に出す。
そして、それが積み重なる。
誰かの恐怖が別の誰かの記憶に混ざる。
誰かの怒りが別の誰かの不安を補強する。
人間は勝手に他人へ自分の問題を重ねる。
「あいつは自分を嫌っている」
「みんな自分を笑っている」
「あの場所には何かいる」
「自分だけが損をしている」
そうやって、実際にはそこにないものまで頭の中へ詰め込んでいく。
普通なら、それで終わる。
ただの思い込み。
ただの夢。
ただの精神状態。
そういう言葉で片づく。
普通なら。
問題は――そうならない場合があることだ。
夢と現実の間。
記憶と場所の間。
人間が「ありえない」と判断する、その一歩手前。
そこに、別の世界がある。
もし、俺が今ここで、
「この世界とは別に、もう一つ世界がある」
と言ったら。
たぶん、ほとんどの人間は笑う。
子どもみたいな話だと言う。
ゲームのやりすぎだと言う。
寝不足じゃないかと言う。
薬でもやっているのかと聞く奴もいるかもしれない。
別に、それでいい。
普通の人間は、それでいい。
見えないものを見えないままにしておけるなら、その方が幸せだ。
問題は、見えてしまった側だ。
一度、存在を知った人間は、もう元には戻れない。
見えないふりはできる。
でも、本当に見えなくなるわけじゃない。
夜の廊下。
誰もいない駅。
閉店後の商店街。
地下通路。
明かりの切れかけた階段。
使われなくなった部屋。
そういう場所が、普通とは少し違って見えるようになる。
俺も、その一人だ。
慶楽智皓。
私立白樺高等学校、三年生。
成績は上の方でも下の方でもない。
部活はやっていない。
教師から見れば、少なくとも問題を起こす生徒ではない。
家に帰れば普通に飯を食う。
宿題をやる。
寝る。
起きる。
そして、また学校へ行く。
その程度の人間だった。
少なくとも、表面上は。
今夜もそのはずだった。
ただし、今夜は少しだけ違う。
俺は、さっきまで「そこ」にいた。
リミナル・スペース。
そう呼んでいる。
まだ正式な名前があるわけじゃない。
誰かが勝手につけた名前だ。
俺たちは、そこへ入る人間を総称して――
リミナル・トラベラーズ。
大層な名前だと思う。
英雄っぽい。
探検家っぽい。
実際はそんなに格好よくない。
中へ入って、調べて、記録して、危なくなったら逃げる。
それだけだ。
場合によっては、逃げるだけで一日が終わる。
場合によっては、帰るために三回くらい同じ階段を上り直す。
場合によっては、見なかったことにする。
それでも、やる。
やらないと、そのまま現実側へ漏れてくることがあるからだ。
それだけは面倒だ。
いや。
面倒で済めばまだいい。
人が死ぬ。
行方不明になる。
記憶がおかしくなる。
同じ悪夢を見る人間が増える。
そういうことが起きる。
だから見に行く。
今夜もそうだった。
俺は本町の近くにあるヴァイオリン教室から帰る途中だった。
銅崎が先に近辺を確認していた。
弥源治も、その少し前に同じ地域を見ている。
どちらも大きな異常はないと報告していた。
……はずだった。
最近になって、数値が上がっている。
正確な数値というものがあるわけじゃない。
俺たちが使っている簡単な基準だ。
空間の歪み。
音の遅延。
同じ景色の反復。
人のいない場所での足音。
時間感覚のズレ。
夢と現実の混線。
それが、前より増えている。
何が原因なのかはまだ分からない。
喧嘩かもしれない。
誰かの強烈な感情かもしれない。
学校や家庭で起きた何かが集中したのかもしれない。
それとも、もっと大きいもの。
俺たちには判断できない。
だから、調べる。
調べて、記録する。
それでも分からなければ、また調べる。
地味だ。
ものすごく地味だ。
だが、生き残るためには地味な方がいい。
派手なことをする人間から死ぬ。
俺はそう思っている。
だから、必要以上に感情を持ち込まない。
怖がらない。
興奮しない。
期待しない。
見たものを見たまま書く。
音がしたなら音を書く。
形がおかしければ、おかしいと書く。
それで十分だ。
今までなら。
だが最近は、その程度の話では済まなくなってきた。
俺たちの行動範囲が、広がっている。
今までは、本町周辺。
その近く。
古い店舗。
使われなくなった施設。
閉店した建物。
そういう場所が中心だった。
でも、最近は違う。
学校。
それが厄介だった。
しかも、自分たちが通っている学校だ。
白樺高校。
今までは、そこをできるだけ避けていた。
理由は単純。
毎日通う場所を調査対象にすると、生活と仕事の区別がなくなる。
寝ても起きても同じ場所。
それは精神的に良くない。
でも、最近はそうも言っていられない。
そして――
荷川取慧璃。
その名前が、ここ数日の記録に出てくるようになった。
まだ、直接会ってはいない。
顔も、話し方も、詳しい性格も知らない。
ただ、名前だけは何度か耳にした。
それだけなのに、嫌な予感がする。
こういう時の勘は、あまり外れない。
俺たちが何年か生き残ってきた理由の一つは、嫌な予感を無視しないことだ。
――とはいえ。
今の俺にできることは、歩くことだけだった。
午後八時。
正確には、2026年4月28日、火曜日。
夜。
上越の街は静かだった。
車の数は少ない。
駅前から少し離れると、商店の照明も減る。
道路脇の街灯だけが、一定間隔で地面を照らしている。
風は冷たい。
春とはいえ、夜になるとまだ寒い。
俺はポケットからスマートフォンを取り出して時間を確認した。
20:00。
予定より少し遅い。
まあ、問題ない。
死んでない。
それなら遅刻とは呼ばない。
俺は本町から少し離れた細い通りを曲がった。
目的地は、古い小さなレンタルビデオ店だった。
表向きには、まだ営業している。
実際にはほとんど客が来ない。
それでも店主は何も言わない。
俺たち三人が昔の映画を借りたり、整理したりするのも、特に気にしていない。
それが俺たちには都合がよかった。
外から見る限り、ただの古いビデオ店。
中身は――まあ、少し違う。
俺は鍵を開けた。
小さな鈴が鳴る。
店の中は暗い。
照明は全部つけない。
必要な場所だけでいい。
棚には、古い映画のケースが並んでいる。
赤。
青。
白。
色の抜けたパッケージ。
古いタイトル。
昭和の映画。
外国映画。
アニメ。
よく分からない作品。
時代が違う。
紙も少し黄ばんでいる。
でも、それがいい。
変な意味じゃない。
古いものは、変化が見えやすい。
だから記録するには便利だ。
右手には、レジ。
その横には、古い巻き戻し機。
名称は何だったか。
テープを修復するやつだ。
俺は名前を思い出せないまま、それを軽く確認した。
故障していない。
問題なし。
奥には、いつものテレビがある。
21インチのCRT。
重い。
とにかく重い。
今の人間なら、たぶんテレビだとすら思わないかもしれない。
でも、俺たちはこれを使う。
古い映像を見る。
記録を見る。
時には、映像の乱れ方から異常を判断する。
最新機器より、こういう古い物の方が妙に安定することがある。
理由は知らない。
経験上そうなっている。
だから使う。
それだけだ。
「お帰り」
声がした。
俺が顔を上げると、銅崎一夜月がいた。
肩まで伸びた黒髪。
少しだけ光の当たった部分に、柔らかな色が出ている。
瞳はたぶんヘーゼル。
照明が暗いから正確には分からない。
肌は白い。
背は俺より少し低い。
制服の上に薄い上着を着ている。
特に派手ではない。
でも、落ち着いている。
疲れた感じも少しある。
それはたぶん、俺たち全員そうだ。
銅崎は、俺を見るなり言った。
「弥源治は?」
「あとで来る」
「了解」
それだけ。
短い。
余計なことを言わない。
ありがたい。
俺は荷物を置いた。
椅子に座る。
古い映写機の箱が横にある。
その横には、昨日回収したVHSが数本。
俺はそれを一度見る。
異常なし。
少なくとも、今のところは。
店内は静かだった。
エアコンも動いていない。
古い冷蔵庫だけが低く唸っている。
外の車の音が一台。
遠くで犬。
それから、また静かになる。
銅崎が先に口を開いた。
「何か見つかった?」
「ない」
「本町の方?」
「うん」
「銅崎の報告と一致してる?」
「大体は」
俺はポケットから小さなノートを出した。
そこには、今日確認した内容が書いてある。
場所。
時間。
異常。
危険度。
戻った時間。
最後に一つ。
原因不明。
よく書く。
嫌いな言葉だ。
でも便利な言葉でもある。
原因不明。
分からない。
まだ分からない。
それでいい。
分からないのに、分かったふりをする方が危ない。
「最近、増えてる」
銅崎が言った。
「ああ」
「やっぱり?」
「前より明らかに多い」
「理由は?」
「分からない」
また。
この言葉。
俺は少しだけ目を伏せた。
「喧嘩でも起きたのかな」
「可能性はある」
「学校?」
「それもある」
少しだけ沈黙した。
“学校”。
その言葉が出ると、どうしても空気が変わる。
俺たちは三人とも、白樺の学生だ。
同じ場所へ毎日通う。
同じ廊下を歩く。
同じ先生を見る。
同じ生徒を見る。
その裏側に、もう一つの空間が重なっているかもしれない。
それは、正直かなり嫌な状況だ。
逃げ場がない。
家に帰っても、学校に行っても、同じ世界がついてくる。
銅崎は少しだけ視線を落とした。
「……それにしても」
「何」
「弥源治を行かせたんだよね」
「ああ」
「学校の書類、取りに」
「そう」
「大丈夫かな」
俺は少し考えた。
弥源治春人。
一年生。
俺たちの中では一番下。
それでも、使える。
というより、時間がある。
本人も暇だと言っている。
学校では一年生だから、放課後の行動範囲も俺や銅崎より広い。
そういう意味では便利だった。
「大丈夫だろ」
「……根拠は?」
「ない」
「それ、リーダーが言うこと?」
「俺たちの中で“リーダー”なんて名前を使ってるだけだ」
銅崎が少しだけ笑った。
「まあ、そうだけど」
俺たちは、三人しかいない。
俺。
銅崎。
弥源治。
それだけだ。
組織じゃない。
部隊でもない。
ましてや英雄集団じゃない。
ただの三人の学生。
古い映画を集めて。
夜に店へ集まって。
変な場所へ入り。
無事に帰って。
また学校へ行く。
それを繰り返している。
だから、俺は自分を“リーダー”と呼ぶのを少し嫌っている。
責任が重すぎるからだ。
でも、誰かがまとめないといけない。
だからやる。
それだけ。
「ところで」
銅崎が言った。
「今回、本当に危なかったんじゃない?」
「何が」
「リミナル・スペース」
俺は少し黙った。
「……ああ」
「前より深かった?」
「少し」
「怪我は?」
「ない」
「嘘」
「……擦り傷くらい」
「やっぱり」
銅崎はため息をついた。
「無理しないで」
「無理しないと調べられない」
「でも死んだら調べられない」
「それはそう」
「なら、少しは考えて」
「考えてる」
「見えない」
「それもそう」
短い会話だった。
でも、それで十分だった。
俺たちは、お互いに心配している。
ただ、それを大袈裟には言わない。
そんな余裕がない。
心配しすぎると、相手を止めたくなる。
止めれば、必要な調査ができなくなる。
だから、言える範囲だけ言う。
帰ってこい。
怪我をするな。
無茶をするな。
それで十分。
それ以上は言わない。
俺は時計を見た。
20時を少し回っている。
「弥源治、遅いな」
「書類が多いんじゃない?」
「ならいい」
俺は椅子に深く座った。
天井を見る。
古い照明。
蛍光灯。
少しだけ音がする。
ジジジジ。
一定。
変わらない。
こういう音は好きだ。
異常があるとすぐ分かる。
音が変わるから。
色が変わるから。
空間が変わるから。
だから、静かな夜はありがたい。
……そのはずだった。
だが、俺の頭には別の名前が残っていた。
荷川取慧璃。
今日の報告には、その名前がない。
それでも、俺の中では妙に引っかかっている。
理由は分からない。
こういう時は、記録しておく。
名前。
日付。
場所。
それだけでいい。
後から意味が出ることがある。
俺はノートの端に、その名前だけを書いた。
そして、そのすぐ横に、
要確認
と書いた。
銅崎がそれを見た。
「それ、誰?」
俺は少しだけペンを止めた。
「一年生」
「白樺の?」
「ああ」
「何かあった?」
「まだ分からない」
銅崎は何も聞かなかった。
その代わり、テレビの電源を入れた。
CRTが一度、白く光る。
ザザッ。
静電気。
それから映像が出る。
古い映画のメニュー画面。
音量が小さい。
俺はそれを見る。
いつもと同じ。
それでいい。
少なくとも今は。
俺は椅子に座り直した。
弥源治が戻ってくるまで待つ。
それから、学校の話をする。
リミナル・スペースの話。
増えている歪みの話。
そして――
新しく、俺たちの活動範囲に加わったかもしれない場所の話。
白樺高校。
それがどんな意味を持つのか。
まだ誰にも分からない。
俺たちにも。
そして、おそらく本人にも。
だからこそ。
今夜はまだ、何も決めない。
ただ記録する。
ただ待つ。
それが、俺たちのやり方だった。




