第①章:春の退屈 (3)
少し歩けば、家はもうすぐだった。
北城町のこのへんは、静かというより、静かすぎて逆に落ち着かない時がある。
水戸の川排水機場のあたりを抜けると、下には河原町公園が広がっていて、子どもの頃の俺はあそこに何度も連れていかれた。
というか、ほとんど自分からせがんでいた。
「今日も行く」とか「明日も行く」とか、今思えばだいぶ迷惑な子どもだった気がする。
でも、あの公園は好きだった。
木々があって、遊具があって、川の気配があって、何となく“外の世界”って感じがしたからだ。
今でも嫌いじゃない。
むしろ、ああいう場所はちゃんと残っていてほしいと思う。
ただ、昔みたいに無邪気に走り回るには、もう少し自分が子どもじゃなくなりすぎた。
それがちょっとだけ、面白くない。
昔は犬でも猫でもいいから、何か飼いたかった。
でも親にはだめだと言われた。
当たり前だ。
まだ小さい子どもを、家に一人で置いておくような形にはできないし、責任もある。
そう言われれば、そりゃそうだとしか言えない。
けど、子どもの頃の俺にそんな理屈が通じるわけもない。
犬がいる家って、なんか“ちゃんとしてる”感じがするじゃないか。
猫でもいい。
何か生き物がいるだけで、家って少し特別になる。
……まあ、今になってみると、世話が面倒そうだし、結局は親が大変なだけだったのかもしれないけど。
今は今で、少しだけ欲しいと思ってる。
犬でも猫でも、別に何でもいい。
でも、探している時間も気力も特にない。
そういうのって、欲しいと口では言えても、実際に動くのはだるい。
人間ってそういうものだろ、多分。
少なくとも俺はそうだ。
家の近くまで来ると、道の向こうにホンダの車屋が見える。
父さんが昔、あそこで車を買った。
別にすごく高い車じゃない。
でも、うちにとっては十分だったし、あれで家族でいろんなところへ行った。
旅行とか、買い物とか、ちょっとした遠出とか。
そういう記憶は、車の値段よりずっと残る。
……たぶん。
俺は車に詳しくないから、見た目の感想しか言えないけど。
ああ、またそういうのだ。
自分でうまく言えないことが多すぎる。
まあ、仕方ない。
家の周囲には低い石の壁と、ちょっとした植え込みがある。
木の葉がまだ完全に茂りきっていない時期で、地面の色も少しだけ乾いている。
家の外壁は、黒っぽい木目が目立つ。
何色か正確に言えと言われると困るけど、たぶん落ち着いた黒系統だ。
屋根は灰色の瓦。
上のほうに白い部分もあるけど、それは外壁の装飾みたいなもので、全体としては渋い。
ちょっと古風で、でも妙に整っている。
うちの家はそういう家だ。
裏の方には小さい庭がある。
植物がいくつか植わっている。
名前は覚えていない。
俺は適当に「赤いやつ」とか「でかいやつ」とか呼んでいる。
母さんにはいつも怒られる。
「ちゃんと名前で覚えなさい」って。
でも正直、植物の名前なんてそんなに覚えられない。
……いや、覚えようとしないだけか。
たぶんそうだ。
だから、忘れないようにスマホにアラームを入れて、たまに水をやる。
それでも忘れるとまた怒られる。
面倒だけど、まあ、怒ってくれるうちはまだ大丈夫なのかもしれない。
それに、今は家の中に父さんも母さんもいない。
今日はたしか、夕方まで戻らないって言っていた。
別に珍しくもない。
でも、家が広いわりに静かだと、少しだけ空気が薄くなる。
その代わり、家のあちこちに小さなカメラがついている。
丸くて小さいやつ。
家の中も外も、何かあった時に見られるようにしてある。
動物が入ってきた時とか、もっと面倒なことがあった時とか。
あれを見るたびに、うちはそこそこ安全なんだなと思う。
同時に、少し監視されてる感じもするけど。
まあ、そういう世の中だろうし、別に文句を言うほどでもない。
門から玄関までは短い土の通路がある。
その脇に低い植え込みがあって、石の縁が並んでいる。
玄関の手前には、雨の日に使う風除けみたいな小さいスペースがある。
傘を置いたり、雪の日は靴についた雪を払ったりする場所だ。
こういうのも、日本の家って感じがする。
たぶん、外国の家にはあんまりない。
よく知らないけど。
扉の横には、家の表札がある。
荷川取。
自分の名字だけど、改めて見るとなんか妙に他人行儀だ。
ずっとそこにあるから、普段は気にも留めない。
でも、帰ってきたときにそれを見ると、ああ、自分の家だなって思う。
そういうの、たぶん大事なんだろう。
俺はいつも、鍵は一番安全だと思ってるポケットに入れている。
というか、入れているのは母さんが買ってくれた、ちょっと大きめの手提げだ。
白と黒を基調にした、白樺のロゴが入ったやつ。
学校のやつに似てるけど、少しだけ自分の好みに合わせてある。
白と黒って、安っぽく見えにくいし、何より悪くない。
中には教科書とかノートとか、細かいものとか、あとアニメのグッズみたいなものも入っている。
見られるとちょっと恥ずかしい。
でも、別に隠すほどでもない。
たぶん。
鍵には、小さなアニメキャラのキーホルダーもつけてある。
父さんが東京に出張した時に買ってきてくれたやつだ。
もう少し古いし、色も少し褪せてるけど、なんとなく捨てられない。
これを見ると、たまに“ああ、ちゃんと自分のために何かを選んでくれたんだな”って思う。
そういうのは、悪くない。
俺はバッグから鍵を出して、少しだけ回した。
金属がぶつかる小さな音。
その音を聞きながら、玄関の引き戸を開ける。
その前に、もう一つ扉がある。
風除けの小部屋みたいな場所だ。
ここで傘の水を払ったり、雪を落としたりする。
今日は雨も雪もないから意味はないけど、習慣ってやつは抜けない。
そこを抜けると、木の扉がある。
濃い色のやわらかい木。
そこにもまた、家族の名前がある。
荷川取。
こういうの、いちいちちゃんとあるのが少しだけ気恥ずかしい。
でも、嫌いじゃない。
家っていうのは、こういう細かいものの積み重ねでできてるんだと思う。
扉を開けて、俺は中へ入った。
「……ただいま」
返事はない。
当たり前だ。
今日は誰もいない。
でも、口に出すのはやめない。
帰宅した時に何も言わないと、なんとなく自分が本当に帰ってきた感じがしないからだ。
こういうの、別に誰に見せるでもないし、意味があるのかも分からないけど。
玄関の中、いわゆるgenkanは少し段差があって、靴を脱ぐ場所と上がる場所が分かれている。
左側には、明るい木目の下駄箱。
その横には小さなハンガーラックがあって、上着とかを一時的に掛けられる。
壁には鏡もある。
全身が映るサイズ。
あれ、あんまり好きじゃない。
ちゃんとしてる自分を見るのも、だらしない自分を見るのも、どっちも少し嫌だ。
だから、鏡はなるべく見ない。
見たところで、別に良いことはないし。
靴を脱いで上がる。
俺の家は、1階に親の寝室、風呂、洗濯スペース、それから居間と食事をする場所と台所がある。
テレビもある。
42インチだとかなんとか。
父さんがこだわって買ったらしい。
でも、使うのはたいてい夕飯の時か、家族で何か見る時くらいだ。
俺はひとりの時、テレビをつけることもあるけど、結局スマホか動画配信サービスを見ることの方が多い。
アニメとか映画とか。
親はアニメを見ないのに、俺のためにそういうサービスを契約してくれている。
そういうの、いちいちありがたいとは言わないけど、ちゃんと分かってはいる。
……たぶん。
でも、今日は疲れた。
だから、下の階にはあまり行かずに、まっすぐ二階へ上がる。
階段を上る時、床が少しだけ軋む。
家の音だ。
そういう音は嫌いじゃない。
静かすぎると逆に落ち着かないからな。
二階には、俺の部屋のほかに、物置みたいな部屋がある。
昔読んでた漫画とか、古いノートとか、壊れ気味の玩具とかが入ってる場所だ。
あと、洗濯物を干すための屋根付きのバルコニーもある。
雨の日とか、母さんが夜に洗濯した時に使う。
俺もたまに手伝うけど、あんまり得意じゃない。
まあ、別にそこまで困ることでもないし。
廊下の端、北東の角にあるのが、俺の部屋だ。
昔からずっと使ってる。
たしか、小さい頃からこの部屋だったはずだ。
六畳……いや、六畳っていうか、たしか父さんに十平方メートルくらいって言われた。
数学は苦手だから、正確な数字は知らない。
でも、広すぎず狭すぎず、ちょうどいい。
床は濃い茶色のフローリングで、窓は北向き。
窓の向こうには、川の方角が見える。
静かな景色だ。
派手ではない。
でも、見飽きるほど悪くもない。
部屋には、木目の机がある。
その上にはパソコン、ノート、教科書、筆箱。
ベッドは一人用。
色は白と黒が多い。
なんとなく、俺の好みがそのまま反映されてる。
壁際には低い棚があって、そこに漫画や小さいフィギュアや、子どもの頃から集めてたものが並んでいる。
あと、ポスターも少し。
アニメのやつ。
部屋全体としては、別にすごく個性的ではない。
でも、俺の“好き”がちょっとずつ置かれているから、そこそこ落ち着く。
天井には丸いLEDライトがついていて、白い光を落とす。
あれも父さんに教えてもらった。
スイッチの場所とか、調整の仕方とか。
そういう、何でもないことを覚えている。
何でもないからこそ、残るのかもしれない。
俺はバッグを机の横に引っかけて、そのままベッドに倒れ込んだ。
どさ、とかそんな大げさな音はしない。
ただ、体がそのまま沈み込む。
天井を見る。
白い。
当たり前だけど。
ああ、眠い。
やっぱり少し疲れてる。
今日は何もしていないようで、何もしていないなりに、少しずつ神経が削れてるのかもしれない。
春の始まりって、どうしてこうもだるいんだろうな。
まだ何も起こっていないのに、勝手に疲れる。
でも、いい。
少し寝れば、また動ける。
起きたら、たぶん何か食べて、家のことを少しやって、それから宿題か何かをやる。
面倒だけど、そういう生活をちゃんとこなしていれば、いつかは本当に“始まる”はずだ。
俺の人生は、まだ本編じゃない。
今はただ、その前段階にいるだけだ。
……そう思っていた、その時だった。
ベッドの上で少し身体を起こした瞬間、部屋の机のあたりで、ほんの一瞬だけ何かがきらりと光った気がした。
金属でも、ガラスでもない。
もっと曖昧で、もっと薄い、反射みたいなもの。
気のせいかもしれない。
部屋のどこかの小さな部品が光を拾っただけかもしれない。
そういうことはよくある。
でも、その一瞬だけ、
俺は妙に目を離せなかった。
机の端。
ノートの山。
その向こう。
そこに、何かが“いる”ような、いないような。
……いや。
考えすぎだ。
疲れてるだけだ。
俺はすぐに目をこすって、もう一度ベッドに沈んだ。
明日になれば、たぶんもっと普通だ。
少なくとも、そうなるべきだ。
今日は4月7日、火曜日。
まだ始まったばかりの一日。
けれど、この静けさがずっと続くとは思えない。
何かが、そろそろ始まる。
そんな気がしてならなかった。
【作者より・あとがき】
第①章『春の退屈』全3部を最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!
気がつけば日本時間はすでに深夜12時……!
本当は一つの長いお話として投稿しようと思っていたのですが、スマホでの読みやすさを考えて急速急ぎで【全3部】に分割し、一気に一挙公開させていただきました。(夜遅くの更新となってしまいすみません!サッと投稿して私もすぐ寝ます笑)
初日からかなりの文字数(総計約19,000字)となってしまいましたが、新潟の静かな日常と、サトリという少し痛くて不器用な少年の内面を感じていただけていれば幸いです。
そして最後の最後、彼の部屋の机で閃いた“あの光”――。
ただの気のせいなのか、それとも彼の望む「特別な何か」の始まりなのか。
【読者の皆様へお願い】
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次回より、いよいよ物語の歯車が静かに動き始めます。
それでは、おやすみなさい。また次の更新でお会いしましょう!




