第①章:春の退屈 (2)
弁当を食べ終わっても、二人はまだ何か話していた。
正直、半分くらいは聞いていない。
いや、聞こうとしていなかった、が正しいかもしれない。
凛成は相変わらずよく喋るし、慧斗はそれを邪魔しない程度に相槌を打つ。
内容は、どうせ昼休みが終わったあとに何をするかとか、駅前の店がどうとか、最近どこそこに新しい何かができたとか、そういうどうでもいい話だ。
別に悪いとは言わない。
ただ、そういう話題って、俺にはあまりにも軽い。
軽すぎて、掴む前に指の間から落ちる感じがする。
……まあ、俺が聞いていないだけかもしれないけど。
それでも、二人は別に気にしていないふうだった。
凛成は俺の方を見て、少しだけ口を曲げる。
「荷川取、ほんとにお前、もうちょっと喋った方がいいと思うぞ」
「何で」
「いや、何でって……いつもそんな感じだと、こっちが話しづらい」
「別に話しづらくないだろ」
「話しづらいって」
慧斗も、ほんの少しだけ困ったような顔をした。
俺はその顔を見て、内心でため息をつく。
こういうのは面倒だ。
こっちは別に無愛想なわけじゃない。
ただ、無駄な会話に労力を使いたくないだけだ。
「俺、あんまり喋るの好きじゃないし」
そう言うと、凛成は「へえ」と短く返した。
もちろん、それは半分だけ本当だ。
喋るのが嫌いなわけじゃない。
本当は、いろんな話をしてみたいと思うことだってある。
もっと深い話とか。
もっと意味のある話とか。
普通の高校生が絶対に気づかないような、少しだけ特別な話とか。
たとえば、世界のどこかに隠された秘密とか、誰にも見えていない本当の構造とか、そういうやつだ。
でも、そんな話をしても、こいつらにはたぶん分からない。
分からないというか、そもそも最初から理解する準備がない。
俺が考えていることは、たぶん、普通の会話の範囲を少しだけ外れてる。
だから言わない。
言っても無駄だ。
無駄なことはしない方がいい。
そういう意味では、俺は賢い。
……まあ、賢いから黙ってるっていうより、面倒だから黙ってるだけだけど。
「いや、別に無理に喋れとは言わないけどさ」と凛成が言った。
「でも、もう少し混ざった方が楽しいだろ。昼休みって」
「楽しくなくても困らないし」
「お前ほんとそういうとこあるよな」
「あるか?」
「ある」
慧斗が弁当箱を片づけながら、小さく笑った。
その笑い方は少しだけ控えめで、凛成ほど押しが強くない。
こいつはこいつで、たぶん俺よりもいろんなことを我慢しているんだろう。
そういうのは分かる。
分かるけど、だからって特に何か言うつもりもない。
人には人の事情がある。
俺には俺の事情がある。
それだけだ。
……まあ、俺の事情って言っても、別に大層なものじゃないけど。
そんなふうにしているうちに、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
いつもの、少しだけ間延びした音。
あの音が鳴ると、教室も廊下も一気に現実に戻る。
さっきまでのだらけた空気が、急に“次の時間”を思い出すんだ。
「ほら、行くぞ」
凛成が先に立ち上がる。
「……うん」
慧斗も続いた。
俺は少しだけ動かなかった。
いや、別にサボりたいわけじゃない。
ただ、座っていると妙に頭が静かになるから、その感覚を少しだけ引き延ばしたかっただけだ。
教室に戻れば、また授業が始まる。
また黒板。
また先生の声。
またどうでもいい内容。
それを考えると、少しだけ気が重い。
「荷川取、置いてくぞ」
凛成の声で、ようやく俺は立ち上がった。
「分かってる」
「分かってないだろ」
「分かってるって」
三人で階段を上がって、二階から四階へ戻る。
廊下は昼休みより少しだけ静かになっていた。
みんなそれぞれ自分の教室へ戻る途中なんだろう。
それぞれの顔に、昼飯を食べ終わったあと特有の、ちょっとだけ鈍い表情がある。
あれを見ると、なんとなく安心する。
誰も完璧じゃない。
少なくとも、今は。
教室に戻ると、机や椅子の位置は昼前と同じままだった。
当たり前だけど。
でも、同じ場所に戻ってきただけなのに、少しだけ息苦しい。
廊下の空気の方がまだましだ。
こっちは、何もしていないのに座らされる感じがあるから嫌だ。
俺は自分の席に戻って、さっきと同じように腰を下ろした。
四階の、後ろ寄りの角。
窓の見える位置。
さっきと変わらない景色。
さっきと変わらない自分。
たぶん、見えるものが変わらないから、余計に退屈なんだろう。
机に肘をついて、少しだけ窓の外を見た。
Niigataの街は、やっぱり地味だ。
でも、その地味さがずっと続くわけじゃない気もしていた。
いや、根拠はない。
ただ、俺の人生がこのまま終わるようには思えない。
もっとこう、何かがあるはずだ。
何かが始まるはずだ。
今の俺がいる場所は、たぶんその“前”にすぎない。
――まあ、まだ始まらないなら始まらないでいいけど。
でも、そろそろだろ。
そろそろ何か、大きいやつが来てもいい頃だ。
授業が始まるまでの間、俺はそんなことをぼんやり考えていた。
ノートも開かず、教科書もまだ出さず、ただ座っている。
真面目に見せる必要もないし、焦る理由もない。
俺は別に、悪い生徒じゃない。
ただ、今はまだ、世界の方が俺に追いついていないだけだ。
そう思いながら、俺は机に頬杖をついた。
また眠くなりそうだったけど、さっきほどは寝ない。
今日はまだ、何かが起こる気がしていたから。
何もないまま終わるには、春の始まりは少しだけ眩しすぎる。
そのあとも、しばらくは特に何もなかった。
授業は進み、黒板には先生がどうでもいい字を書き、俺はそれを見ているふりをしながら、ほとんど頭の中を空っぽにしていた。
いや、空っぽというより、何かを考えるのを一時停止していた、の方が正しいかもしれない。
教室の空気って、ずっといると妙に眠くなる。
特に、初日の午後みたいな、まだ誰も本気を出していない時間はなおさらだ。
やがて、掃除の時間になった。
ああ、掃除。
学校ってどうして、こういう面倒なことを当然みたいに組み込んでくるんだろうな。
誰も好きでやってるわけじゃないのに、毎日やる。
しかも、やること自体は単純なくせに、さぼると妙に目立つ。
理不尽だ。
まあ、そういうものなんだろうけど。
俺はその日、廊下側の掃除当番だった。
ほうきとちりとりを持たされて、床を掃く。
机を少し動かして、角にたまった埃を集めて、ゴミを取って、また戻す。
地味。
ひたすら地味。
こういうのは嫌いじゃないけど、好きでもない。
無心でやれるから楽ではある。
ただ、楽なのと楽しいのは違う。
最初のうちは、何も考えずに掃いていた。
右へ、左へ、埃を集める。
綺麗になった床を見ると、少しだけ気分がいい。
でもそれも最初だけだ。
すぐ飽きる。
飽きると、頭の中が妙に暇になる。
――暇だな。
そう思った瞬間、俺はほうきを少し持ち直した。
何となく、ただ掃くのが馬鹿らしくなったからだ。
どうせ誰も見ていない。
……と思った。
少なくとも、その時は。
俺はほうきを片手でくるりと回した。
腰を少し落として、足を開いて、ほうきを構える。
どう見ても掃除道具じゃなくて、何かの武器みたいだ。
いや、実際、俺の中では武器だった。
たぶん。
少なくとも、今この瞬間の俺は、ただの掃除係じゃない。
「……今こそ、覚悟するがいい」
小声でそう呟いて、俺はほうきを振るった。
意味はない。
意味なんて最初からない。
けど、こういうのは雰囲気が大事だ。
英語っぽい何かを、わざとらしく低い声で唱える。
もちろん、正しい英語なんて知らない。
学校で習うやつを適当に混ぜただけだ。
“dark”、“power”、“rise”、“shadow”……たぶんそんな感じの単語を、なんとなくそれっぽく繋げる。
口の中で、妙な呪文が転がる。
自分でも何を言っているのか分からない。
でも、こういうのって重要なんだよ。
少なくとも、気分は出る。
ほうきを回す。
回す。
回す。
結構いける。
俺、こういうの案外できるな。
ちょっとだけ、いや、かなり楽しい。
当然だけど、誰にも見られていない前提でやるからこその楽しさだ。
……と思った瞬間だった。
勢い余って、ほうきの柄が自分の顔に当たった。
「っ――!」
乾いた鈍い音がして、思わず目の端に涙がにじんだ。
痛い。
普通に痛い。
何をやっているんだ俺は。
自分で自分を殴ってどうする。
しかもほうきで。
しかも掃除中に。
ほうきが床に落ちて、ばさっと嫌な音を立てた。
その音が思ったより大きくて、俺は反射的にほうきを拾い上げた。
まるで、さっきのことを誰にも見られていないことに賭けるみたいに。
いや、賭けるまでもなく、見られていないはずだ。
そう思いたい。
だが、世の中っていうのは本当にこういう時だけ都合が悪い。
「……大丈夫?」
声がした。
横を見ると、如月って呼ばれていた女の子が、こっちを見ていた。
たしか、苗字は如月。
下の名前は知らない。
というか、覚えていない。
覚えていないというより、そこまで興味がなかった。
でも、今はその事実がちょっとだけ気まずい。
「……ああ、別に」
俺はほうきを持ち直しながら答えた。
「ちょっと、考え事してただけ」
「え、今の音、すごかったよ」
「手が滑った」
「ほうきで?」
「……うん」
我ながらひどい言い訳だと思う。
でも、ここで「実は今、掃除道具を武器に見立てて遊んでました」なんて言えるわけがない。
そんなことを言ったら、普通に変な奴じゃないか。
いや、普通に、じゃないか。
完全に変な奴だ。
如月は少しだけ首をかしげたあと、心配そうな顔で言った。
「ふざけて振り回すと危ないよ。顔、当たってたし」
「……うん」
「掃除中なんだから、ちゃんとやろう?」
「分かってる」
「ほんとに?」
「……分かってるって」
その言い方が、少しだけ優しかったのが余計に恥ずかしい。
責める感じじゃなく、ただ本当に心配してるだけの口調だったからだ。
俺はそういうのに弱い。
いや、弱いというか、反応に困る。
雑にあしらえる相手ならまだいい。
でも、ちゃんと普通に心配されると、こっちの中の変な自尊心が少しだけ痛む。
「じゃあ、気をつけてね」
如月はそう言って、また自分の担当の場所に戻っていった。
俺はしばらく、その背中を見ていた。
別に深い意味はない。
ただ、こういう時に人が何を考えてるのか、ちょっとだけ気になっただけだ。
たぶんあの子は、俺のことを“少し変な奴”くらいに思っただろう。
まあ、それはそれでいい。
変な奴と思われるくらいなら、まだマシかもしれない。
危ない奴と思われるよりはずっと。
……でも、本当は違う。
俺は、ちゃんとやろうと思えばちゃんとやれる。
今はたまたま、少しだけ気が抜けただけだ。
別に、遊んでばかりいたいわけじゃない。
俺はもっと、すごいやつなんだ。
少なくとも、そういうものを持ってるはずなんだ。
そういう風に思うたび、胸の奥にちくっとしたものが刺さる。
いや、刺さるというより、じわじわと自分の中を圧迫してくる感じだ。
それは多分、焦りだ。
あるいは、何も起こらないことへの苛立ちだ。
俺の人生は、こんな掃除で終わるようなものじゃない。
たぶん。
いや、絶対に。
どこかで、何かが始まる。
始まらないと困る。
俺は、そんなふうに思っている。
掃除はそのあとも続いた。
床を掃いて、ゴミをまとめて、窓の桟を拭く。
ほうきを持ち直すたびに、さっき顔を打ったことを少しだけ思い出して、また気まずくなる。
でも、まあ、そういう小さい失敗くらいならどうでもいい。
大事なのはもっと別のことだ。
掃除が終わるころには、教室も廊下もそれなりに整っていた。
誰かがやれば綺麗になる。
誰かがやれば片づく。
そういう当たり前のことに、俺はあまり感心しない。
ただ、何となく“整っている”という事実だけは分かった。
そのあとは、学年最初のSHRだった。
……いや、正式には何ていうんだっけ。
朝のホームルームのやつ。
毎日の最後にやる、あれ。
まあ、どうでもいい。
とにかく、クラス全体で集まって、担任が何かを言う時間だ。
担任の月野は、少し落ち着いた感じの男だった。
年齢はよく分からないけど、若すぎもしないし、老けすぎてもいない。
きっちりしていて、でも威圧感は強くない。
こういう教師は、いちばん印象に残りにくい。
だからこそ、長く見ていると逆に存在感があるのかもしれない。
俺はそういうタイプ、嫌いじゃない。
少なくとも、うるさくないから。
月野は出席を取って、それから軽く話した。
「一年間、よろしく」みたいな、どこの先生も言うような言葉。
「分からないことがあれば聞け」とか。
「最初は緊張するだろうが、焦る必要はない」とか。
そういう、無難で、正しいけど、どこか表面だけのやつだ。
でも、ああいう言葉を聞いていると、逆に思う。
みんな、どうしてこんなに簡単に“最初の一日”を受け入れられるんだろうって。
何も起きないまま日常が進んでいくことに、どうしてそんなに耐えられるんだろうって。
俺には、少し退屈すぎる。
月野は最後に、
「今年一年、いいスタートを切っていこう」
みたいなことを言って、SHRを終えた。
はいはい、いいスタートね。
そう思いながらも、俺は何となくその言葉を頭の隅に置いた。
スタート。
そう、確かに今日は始まりの日だ。
でも、俺の中ではまだ何も始まっていない。
これからだ。
これから、何かが起こる。
俺はそう信じている。
信じている、というより、信じるしかない。
放課後。
月が見える時間じゃないのに、空は妙に白っぽかった。
学校を出ると、冷たい風が少しだけ制服の裾を揺らした。
高土町の空気は、昼より少し乾いている。
校門を抜けると、そこからはもう、ただの帰り道だ。
校舎の前で、俺は凛成と慧斗を見つけた。
二人はだいたい同じ方向へ帰る。
新町の方だ。
新町公園のあたり。
俺は何度か凛成の家に行って、ゲームをしたことがある。
でも、最近はあんまり行っていない。
理由は単純で、面倒だからだ。
他人の家って、行くまでがだるい。
行ったら行ったで楽しい時もあるけど、その前段階がどうにも重い。
「じゃあまた明日」
凛成が言う。
「おう」
慧斗も軽く手を上げた。
俺は少しだけ迷ってから、同じように返した。
「じゃあな」
二人は新町の方へ向かって歩いていく。
その背中を見ながら、俺はふと、ああ、と思った。
こいつらは家が近いんだよな。
だから、こうして自然に一緒に帰れる。
それだけのことなのに、妙に羨ましい。
俺の家は、あの二人とは逆だ。
道が違う。
線が違う。
帰る方向が違う。
たったそれだけのことなのに、少しだけ孤立している気分になる。
……まあ、別に気にしてない。
気にしてない、っていうか、気にしないようにしてるだけだけど。
学校から家までの道は、いつもと同じだった。
新潟県上越市高土町。
白樺高等学校のある場所。
俺はそのあたりの地理にはそれなりに詳しい。
道を外れると少し住宅街が続き、そこを抜けると、車通りのある道に出る。
新町へ行く方角とは逆。
そっちにはそっちの生活がある。
こっちはこっちで、いつもの帰り道がある。
そういうのを意識すると、世界って本当に細かく分かれてるんだなと思う。
歩きながら、俺はまた、くだらないことを考えていた。
今日の掃除で顔を打ったこととか。
如月にちょっと心配されたこととか。
凛成と慧斗の、どうでもいい会話とか。
月野の無難な言葉とか。
全部、別に大したことじゃない。
だけど、そういう細かいものが積み重なって、一日ができている。
――そして、俺の人生も、今はまだその程度のものだ。
笑えるくらい平凡で、笑えるくらい退屈で、でも、たぶん何かが来る前の静けさなんだろう。
その途中で、例の橋の下を通った。
少し暗い場所。
車の音が遠くに抜けて、空気がひとつ薄くなる感じがする。
俺は何となく足を止めて、しばらくそこを見上げた。
何かがいるかもしれない。
そんな気がしたからだ。
……でも、何もなかった。
影はただの影だし、静けさはただの静けさだった。
ちくしょう、退屈だ。
ほんとに退屈すぎる。
何も起こらない。
何も来ない。
何も始まらない。
でも、それでも歩くしかない。
俺は橋の下を抜けて、また前を向いた。
今日は火曜日。
そして、もう少しで夕方だ。
このあと俺は家に帰る。
風呂に入る。
たぶん少しゲームをする。
そうして一日が終わる。
それだけだ。
それだけなんだけど――
俺の中のどこかでは、ずっと同じことを思っている。
そろそろだろ。
そろそろ、何か始まってくれ。




