第⑩章:道化の契約 (1)
俺とアヒルフェは、同じ身体にいる。
……いや、こう書くと少し変だな。
でも実際そうなんだから仕方ない。
昨日までの俺は、ただの高校生だった。
で、今日の俺は、白い毛が混じった髪と、妙に変わった左目を持っていて、しかも頭の中と鏡の中と、場合によっては鳥の姿でも喋る、かなり面倒な存在と同居している。
普通に考えたら意味が分からない。
でも、普通じゃないんだから、それはそれでいい。
むしろ、ちょっと面白い。
アヒルフェは、俺のベッドの端に止まったまま、あいかわらず偉そうだった。
小さいくせに、やけに態度がでかい。
メジロの形をしたままでも、声だけは妙に落ち着いているし、目つきはこっちを見下ろしてくる。
……いや、実際、見下ろされてる。
机の上からだから。
かなり腹立つ。
「まず確認だ」
アヒルフェは羽を一度だけ動かした。
「君は昨日、たまたまあの空間に迷い込んだわけではない。
ただの不運でもない。
だが、選ばれた存在でもない。
そこは、はっきりさせておく必要がある」
「……それ、かなり大事な話じゃない?」
「そうだ。
だから先に言っている」
アヒルフェは、ひどく冷ややかに言った。
「君が入ったのは、俺の知る限りでは“逆世界”と呼ぶべき場所だ。
人間の未処理の感情、記憶、執着、歪みが凝縮して、形になった領域。
今の君にはまだ難しいだろうが、要するに“人間の中身が空間になったもの”だと思えばいい」
「……人間の中身が空間?」
「雑な理解だが、今はそれで十分だ」
アヒルフェはため息をついた。
「そして、君がいた昨日の空間は、最近できたばかりのものだ。
完全に新しい。
少なくとも、俺の記憶にはない」
俺は少しだけ身を乗り出した。
……新しい?
昨日できた?
じゃあ、俺が最初に入ったってことか。
なんか、そういうのはちょっと嬉しい。
誰もいない場所に最初に足を踏み入れたっていうのは、やっぱり特別感がある。
しかも、誰にも知られてない。
いい。
かなりいい。
「じゃあさ」
俺は思わず前のめりになった。
「それって、俺が最初の――」
「調子に乗るな」
アヒルフェが即座に切った。
「“最初の人間”だとか“選ばれし者”だとか、君が勝手に気分よくなるための言葉は、今ここでは不要だ」
「……」
「たまたま、だ。
君はたまたま、そこへ触れた。
それ以上でも以下でもない」
ちぇっ。
まあ、そう言われると少し悔しい。
でも、たまたまだとしても、俺が入れたのは事実だ。
その事実は消えない。
なら、別にいい。
選ばれたわけじゃなくても、特別になる方法はある。
そういうことだ。
俺はそういう考え方の方が好きだ。
勝手に運命に押しつけられるより、ずっと。
「で、なんで急にそんな話をしたんだよ」
俺が言うと、アヒルフェは小さく首を傾けた。
「理由は単純だ。
君の学校に、その“新しい領域”へ繋がる可能性のある場所があるかもしれないからだ」
「学校?」
「そう。
君の記憶を少し見た。
白樺高校。
妙に退屈そうな場所だ」
アヒルフェは、やや嫌そうに言った。
「その中に、妙な場所はないか。
壊れた鏡、壊れた床、使われていない区画、理由の分からない封鎖。
何でもいい。
君の記憶に引っかかる“違和感のある場所”があれば、それが入口になるかもしれない」
俺は少し考えた。
白樺高校。
いつもの教室。
四階。
あのトイレ。
壊れた床。
壊れた鏡。
……ある。
かなりある。
「たぶん、トイレだ」
俺は言った。
「三階の、使ってないやつ。
鏡も床も壊れてた。
あそこ、なんか変だった」
「ほう」
アヒルフェの声がわずかに鋭くなる。
「それなら十分だ。
少なくとも、手がかりにはなる」
「……それって、俺がまたそこに行けばいいのか?」
「当然だ」
アヒルフェは即答した。
「だが、今すぐではない。
君がそのまま行けば、ただの学生が校舎をうろついている不審者になるだけだ。
それは得策ではない」
……それはそうだ。
でも、ちょっと面白そうでもある。
俺があそこへもう一度行けば、何かが起きるかもしれない。
何かが起きるなら、それは最高だ。
昨日みたいな場所に、もう一度入れるかもしれない。
そう考えると、少しだけ胸が騒ぐ。
前とは違う。
ただ怖いだけじゃない。
今は、行けるかもしれないという期待がある。
「それと」
アヒルフェは話を切り替えた。
「君が俺に会えたのは、運が良かったからでも、神に愛されたからでもない。
君は死にかけた。
俺は器を探していた。
条件がたまたま噛み合った。
それだけだ」
「……ふーん」
「“ふーん”ではない。
大事なところだ」
彼は、少しだけ苛立った声を出した。
「君は自分が特別だと信じたがるが、そこは訂正しておく。
君は選ばれた英雄ではない。
俺の“器”として選ばれたにすぎない」
「器、器って何なんだよ」
「俺を入れるための身体だ」
アヒルフェは、かなり平然と答えた。
「そして、今の君は、死に切れなかったおかげで、俺と半ば一体化している。
つまり、君はもう一人ではない」
「……」
「気に入らない顔だな」
「いや、別に」
「別に、ではない」
アヒルフェの声は少しだけ皮肉っぽくなった。
「君は今、少し嬉しそうだ。
その顔は見ていて分かりやすい」
「……そりゃ、まあ」
「そりゃ、まあ、ではない」
彼は呆れたように羽を震わせた。
「だが、君のその歪んだ前向きさは嫌いではない。
少なくとも、泣き喚くよりは使いやすい」
俺は、そこで少しだけ笑った。
……たぶん、笑った。
そういうことにしておく。
だって、本当に笑えたからだ。
昨日までの俺なら、こんな話をされたら怖くて黙るか、ふざけるなと怒鳴るか、そのどっちかだった。
でも今は違う。
怖いのは怖い。
でも、その怖さの奥に、なんというか、妙な熱がある。
新しいものが始まる感じ。
それがある。
「で」
俺は言った。
「お前の力って、何なんだよ」
「やっとそこか」
アヒルフェは、少しだけ目を細めた。
「質問が遅い。
だが、まあいい。
君は俺の“力”を受け継ぐ。
正確に言えば、君の身体に残った魂の形に、俺の権能が流れ込む」
「……権能?」
「君の言うところの、能力に近いものだと思えばいい」
「能力……!」
「興奮するな」
アヒルフェは、あからさまに疲れた声を出した。
「君は本当に、都合のいい言葉にだけ反応するな」
「だって、それ大事だろ!」
俺は思わず身を乗り出した。
「つまり俺、何かすごい力を使えるってことだろ!?」
「そうだ」
彼は、短く答えた。
「だが、今すぐ説明すると長い。
しかも君は途中で絶対に“それってゲームみたいじゃん”とか言い出す。
だから、先に答えだけ言う」
「え、ゲーム……」
「ほらな」
アヒルフェは、ひどく呆れたように言った。
「君はそういう単語を口に出すな。
俺は君の“ゲーム”を知らない。
知らないが、おそらく君はそれで勝手に納得しようとする」
「いや、でも、だって……」
「ゲームとは何だ」
「え?」
「何だと聞いている」
「えっと……」
俺はちょっと考えた。
「なんか、こう……遊びながら敵を倒したり、レベル上げたり、力を手に入れたりするやつ」
「……理解した」
アヒルフェは、しばし沈黙したあと、ひどく乾いた声で言った。
「つまり、君の世界では、娯楽として成長や戦いを真似るものがあるわけか。
くだらないが、概念としては分かる」
「お前、そんなことも知らないの?」
「知らない」
彼は一刀両断に言った。
「俺は君たち人間の“流行”や“娯楽”に興味がない。
何年、何十年、何百年とあの世界にいると思っている。
そんなものを追っている暇があるなら、もっと使える知識を積む」
「……すげえ歳くってそう」
「失礼な言い方をするな」
アヒルフェは、少しだけ目を細めた。
「まあ、実際かなり疲れているが。
君はその点だけは正しい」
……疲れてる。
そう言われると、急に少しだけ親近感が湧く。
いや、湧かない。
湧くわけがない。
でも、アヒルフェは少なくとも、俺みたいに騒がしいだけじゃない。
ずっと何かを見てきた感じがする。
そのくせ、やたらと冷たい。
面倒な相手だ。
でも、面白い。
「で、君が欲しがっている“力”の話だが」
アヒルフェは、そこで少しだけ姿勢を正した。
「君は、俺の力を使う。
ただし、すぐではない。
そして、簡単でもない」
「……なんでだよ」
「君がまだ、あの世界へ自由に出入りできる状態ではないからだ」
「え?」
「逆世界は、今の君にとってはまだ危険だ」
アヒルフェは、きっぱり言った。
「いや、危険“だった”。
昨日までの君なら、ただの獲物でしかなかった」
「今は違うのか?」
「少し違う」
彼は冷たく答えた。
「俺がいるからだ」
……おお。
なんだそれ。
かなり心強い。
いや、心強いっていうか、都合がいい。
でも、嬉しい。
少しどころじゃない。
これなら、あの場所でただ死にかけるだけじゃない。
俺も動ける。
力がある。
そういうことだろう。
「じゃあ、俺は――」
「君はこれから、二つの顔を持つことになる」
アヒルフェは、静かに言った。
「学校での顔。
そして、俺と共に動く顔。
いわば、二重生活だ」
「二重生活……」
「そうだ」
彼は、少しだけ疲れた声で言った。
「君は昼は白樺の学生として暮らし、夜や必要な時には逆世界へ向かう。
そこで、俺の力を使う。
ただし、勘違いするな。
それは遊びではない。
痛い。
危険だ。
死ぬ可能性も普通にある」
「うわ、でもそれ――」
「だが、君は嫌がらない顔をしている」
アヒルフェは、少しだけ口調を緩めた。
「本当に、君はそういう男だな。
恐怖より先に興奮が来る」
……たしかに。
それは否定できない。
怖くないわけじゃない。
いや、かなり怖い。
でも、それ以上に、俺は今の状況を受け入れている。
むしろ、受け入れるどころか、ちょっと楽しみだ。
昨日までの退屈な日常が壊れて、代わりに何かすごいものが始まる。
それって、かなりいいじゃないか。
「力の話はあとだ」
アヒルフェは、ややぶっきらぼうに言った。
「今は、君が何者かを理解する方が先だ」
「何者か?」
「そうだ」
彼は、少しだけ目を細めた。
「君は選ばれた英雄ではない。
俺の下僕でもない。
ただの器でも、ただの少年でもない。
君は、これから俺と一緒に、面倒なことをやる人間だ」
「……それ、かなり大事な気がする」
「そうだ。
大事だ」
アヒルフェは、そこで一度だけ静かになった。
「だから覚えておけ。
君はこれから、逆世界へ行く。
そして、戻る。
必要なら、何度でも。
だが、だからといって全部を俺に任せるな。
俺は君の世話係ではない」
「え、でも」
「でも、ではない」
鳥は冷たく言った。
「君は俺の力を借りる。
だが、君自身が動くことも必要だ。
俺は君を助けるが、全部を背負う気はない。
それは最初に言っておく」
俺は、少しだけ息を吐いた。
……なるほど。
つまり、楽勝ではない。
でも、戦える。
そういうことだ。
それなら十分だ。
十分すぎるくらいだ。
俺は思わず、鏡の自分を見て、少しだけ口元を引き上げた。
変わった目。
白い髪。
それに、この鳥。
何もかもが、今までよりずっと面白い。
「……分かった」
俺は言った。
「じゃあ、俺はお前の話を聞く」
「最初からそうしろ」
「うるさい」
「君がうるさい」
……本当に、腹立つ。
でも、悪くない。
少なくとも、退屈ではない。
アヒルフェは、机の上で羽を一度だけ払った。
「では、次に話すべきは君の“最初の入口”だ。
白樺高校の、あの壊れた場所。
そこへ行く準備をしろ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の奥で、何かが静かに跳ねた。
怖い。
かなり怖い。
でも、それ以上に、行きたい。
もう一度、あの場所へ。
あの世界へ。
今度は、ただの獲物じゃなく。
ちゃんと、俺として。
そう思った時点で、もう止まれない気がした。




