第⑨章:鏡の中のもう一人 (2)
……いや、待て。
今のは、かなり大事な話じゃないか。
俺は洗面所で固まったまま、鏡の中のメジロを見た。
いや、メジロの形をした何か、だ。
小さい体をしたそいつは、俺の顔を見上げて、やけに落ち着いた声で言った。
「まず、落ち着け。君は今、少しばかり混乱している」
「いや、落ち着けって……」
「そうだ。
今の君は、長く鏡の前に立っている場合ではない」
鳥は、淡々と続けた。
「俺の存在を家族に見せるのはやめろ。
特に母親にな。
君の母親が今どこにいるか、君も分かっているだろう」
「……台所」
「そう。
では、何をするべきか分かるな?」
鳥は羽を一度だけ震わせた。
「まず上へ行け。
そして、自分の部屋で話す。
ここで長々と独り言を続けていると、見た目がひどく不審だ」
「いや、でも母さんに――」
「見せるな」
声が、少しだけ強くなった。
俺は思わず目を細めた。
「なんでだよ。
見せた方が早いだろ。
昨日からずっと変なんだし、これ見たらさすがに信じるはずだろ」
「信じる、か」
アヒルフェは、軽く鼻で笑った。
「おそらく信じる。
だが、次に来るのは病院だ。
君の父親と母親は、君の頭の中に鳥がいると言ったら、まず医者を呼ぶ。
いや、呼ぶだけでは済まないかもしれない。
精密検査。
入院。
説明。
面倒だ」
それから、少し嫌そうに続ける。
「今はまだ、その段階ではない」
「……でも、俺の変化を見せたいんだけど」
「後にしろ」
アヒルフェの声は、短く切れた。
「君は何かを誇るときに、いつも順序を間違える。
そういうところが、実に幼い。
今は誰にも見せるな。
父親にも母親にもだ。
君の変化は、まだ“説明”できる段階ではない」
「……まあ、たしかに」
たしかに、というのも変だが、少しは納得できた。
俺も、さすがに病院は面倒だ。
昨日のことをそのまま話せば、どうせ変な目で見られる。
母さんに心配をかけるのも、まあ、ちょっとは嫌だ。
いや、かなり嫌だ。
だから、今は黙っておく。
それが賢い。
そういうことにしておこう。
俺は洗面所を出た。
廊下を歩くと、左脚がまた少しだけ嫌な反応をした。
でも、動く。
動ける。
大丈夫だ。
全然。
……たぶん。
階段を上がるとき、母さんの声が一度した。
「慧璃? 起きてるの?」
……危ない。
だが、メジロは俺の肩の上ではなく、ただ頭の中にいるだけのくせに、やけに素早く反応した。
「返事をするな。
今は“少し寝てる”ことにしろ」
「え、でも」
「でも、じゃない。
君の顔は今、色々と説明がつかない。
下手に動けばさらに面倒になる」
俺は、階段の途中で軽く息を整えてから、台所に向かって少しだけ声を出した。
「……うん。
ちょっとだけ、まだ寝る。
あとで降りる」
すると母さんは、少しだけ間を置いてから言った。
「分かった。
でも、無理しないでね」
その声が、いつも通り優しくて、少しだけ胸に引っかかった。
心配されるのは、あまり好きじゃない。
でも、嫌いとも言い切れない。
面倒だ。
人間って、こういうところが面倒だ。
だから、俺は早足で自分の部屋へ戻った。
部屋のドアを閉める。
カチリ、と小さな音。
それだけで少し安心する。
で、振り返ると、メジロは俺の机の端に止まっていた。
いや、さっきまで洗面所にいたはずだ。
いつ移動したんだ。
いや、そもそも鳥が部屋にいるのがおかしいんだけど。
「……お前、なんで普通に部屋にいるんだよ」
「君が遅いからだ」
鳥は、妙に偉そうに言った。
「それに、狭い。
実に狭い。
そして、驚くほど中身がない」
「中身がないって何だよ」
「そのままだ。
君の部屋は、君そのものを反映している。
物が少ない。
趣味はある。
だが、肉体を鍛えるような物は皆無。
筋トレ器具も、ダンベルも、懸垂棒もない。
実に非生産的だ」
「うるさいな。
別に金がないだけだし」
「……ふむ」
アヒルフェは、机の上で小さく首を傾げた。
「そうか。
では、君は金のない人間なのだな」
「そうだよ」
「嘘だな」
「は?」
「その即答の速さが嘘の証拠だ」
鳥は、ひどく冷ややかに言った。
「君の部屋は、金がない人間の部屋ではない。
“金があっても別のものに使う人間”の部屋だ。
たとえば、漫画。
たとえば、フィギュア。
たとえば、くだらない見栄」
「……」
腹立つ。
かなり腹立つ。
でも、否定しきれないのがもっと腹立つ。
いや、たしかに少しはそうだ。
金がまったくないわけじゃない。
ただ、興味があるものにしか使わない。
それだけだ。
それを無駄だと言われるのは、ちょっと腹が立つ。
「君は何かを誇るときだけ、急に饒舌になるな」
アヒルフェはため息をついた。
「まったく。
自尊心だけで歩いているような男だ」
「それの何が悪い」
「悪くはない。
ただ、危うい」
鳥は、机の上を一度だけ歩いた。
「まあいい。
余談はここまでだ。
今から、君が置かれている状況を説明する」
俺は、ベッドの端に座った。
自然と背筋が伸びる。
なんか、こういう時は真面目に聞いた方がいい気がした。
いや、別に従順なわけじゃない。
でも、相手は明らかに普通の鳥じゃないし、普通の幻覚でもなさそうだ。
だから、聞く価値はある。
「……説明って、何をだよ」
「君が俺を出したのではない。
俺が君の中に入った」
アヒルフェは、淡々と言った。
「そして、君はそれを“偶然の事故”だと思っている。
だが、半分はそうで、半分は違う」
「半分?」
「まず、俺の名はアヒルフェ。
肩書きを使うなら、“道化騎士の魂”でもいい」
鳥は、少しだけ肩をすくめるような動きをした。
「君は今、俺を“助手”だの“案内役”だの、都合よく想像しているようだが、残念ながらそうではない。
君に仕えるわけではない。
君の“新しい意識”だと思えば、少しは分かりやすいか?」
「新しい……意識?」
「そうだ。
大雑把に言えば、君の中に入ったもう一つの人格、あるいは魂だ」
アヒルフェは、わずかに目を細めた。
「それに、俺は君の記憶も少し見た。
全部ではない。
主要なところだけだ。
だが、住んでいる場所、家族、生活の流れくらいは把握した。
君が橋の下で寝たまま死んだら、後で面倒だったからな」
「……寝たまま死んだ?」
「例えだ。
だが、実際かなり危なかった」
鳥は、少しだけ冷たい声になった。
「君は昨日、実に愚かなことをした。
あの“逆世界”に入った理由が、ほとんど見栄と注意不足だけだったからだ」
「逆……なに?」
「逆世界。
君が踏み込んだ、あの歪んだ領域のことだ」
アヒルフェは、鳥のくせに妙に人を見下す目をした。
「正確には、ただのリミナル・スペースではない。
もっと深い。
人間の未処理の感情、執着、歪んだ記憶の残滓が凝縮してできる空間だ。
最初はただのパターンだ。
次に幾何学になる。
その次に、ルールになる。
最後に、場所になる」
そして、少しだけ嫌そうに付け足す。
「君がいたのは、そのうちのひとつの“世界”だ。
……まあ、今の君の頭では、そこまでで十分だろう」
「……世界?」
俺は目を瞬いた。
「俺、世界に入ってたのか」
「“入っていた”というより、“引っかかっていた”と言った方が正しい」
アヒルフェは冷ややかだった。
「そしてその原因は、君のその、どうしようもない自尊心だ」
「自尊心?」
「そう。
要するに、君はあの場へ“特別な自分”を求めて入った。
偶然じゃない。
完全な無自覚でもない。
君は自分でも気づかないまま、非日常を欲しがっていた」
鳥は、小さく羽を鳴らした。
「答えろ。
あそこへ入ったのは、ただの好奇心か?
それとも、もっとくだらない“俺は特別だ”というあれか?」
……っ。
俺は、少しだけ黙った。
別に怖くなったわけじゃない。
ちょっとだけ、言い当てられたのがムカついただけだ。
だけど、嘘をつくのも違う気がした。
だから、俺は視線を逸らしながら、小さく言った。
「……たぶん、後者」
「たぶん、ではない」
アヒルフェの声は容赦がなかった。
「君はそういう男だ。
認めろ」
「……そうかも、しれない」
「“かも”を付けるな。
見苦しい」
くそ。
この鳥、いちいち腹立つ。
でも、今は否定しにくい。
だって、完全に間違ってるとも言えないからだ。
あそこに入ったのは、ただ怖かったからではない。
俺は、心のどこかで、何かが始まるのを望んでた。
退屈の破壊。
特別の証明。
そういうやつ。
それを見透かされるのは、かなり嫌だ。
「さて」
アヒルフェは、少しだけ声を低くした。
「ここからが本題だ。
君は、あの逆世界で死にかけた。
そして、俺は器を求めていた。
何年も、だ」
「器……」
「そう。
俺はこの世界で、“中に入れる人間”を探していた。
条件は厳しい。
魂が壊れかけていること。
だが、完全には壊れていないこと。
身体が耐えられること。
そして、俺を受け入れられるだけの隙があること」
アヒルフェは、ため息混じりに続けた。
「君は、その条件にほぼ完璧に当てはまった」
「ほぼ、って何だよ」
「性格が最悪だ」
「おい」
「でも、そこも含めて使い道がある」
鳥は、飽きたように言った。
「で、俺はあの場で君の肉体に入ろうとした。
だが、君は想像以上にしぶとかった。
死ぬべきところで、なかなか完全には死ななかった。
そのせいで、俺は君を死なせないまま、君の体を持ち帰る羽目になった」
「……持ち帰る?」
「そうだ。
君はあの場で、ほとんど死んでいた。
だから俺は、君の身体を使って戻った」
アヒルフェの声は、妙に平坦だった。
「そして君の記憶を少し借りた。
家の位置、帰り道、家族の気配、服装の違い。
昨日の血と泥のついた服は、あのままではまずかった。
余計な詮索を呼ぶ。
だから捨てた。
君の部屋へ戻るまでの間に、適当に処理した」
「……捨てた?」
「燃やした方がよかったか?」
鳥は、うんざりしたように言った。
「君の服は泥と血でひどかった。
あのまま見せたら、君の両親は確実に騒ぐ。
それどころか、異常に気づく。
だから処分した。
何も問題はない」
「いや、大問題だろ」
「君が死にかけていたことに比べれば、些細なことだ」
アヒルフェは冷たかった。
「それに、完全な再生ではなかった。
多少の偏りが残っている。
それが今の君の髪と目だ」
……やっぱり。
俺は鏡を見た。
白い毛。
変な左目。
やっぱり、あれは偶然じゃない。
昨日のあれが、何かの変化を残した。
そういうことだ。
いや、変化っていうか……再構成?
よく分からない。
でも、意味はある。
俺の体は、元に戻っただけじゃない。
少し違う形で戻った。
それが、目に見える。
「……なあ」
「なんだ」
「つまり俺、昨日、死んだのか?」
「ほぼな」
アヒルフェは、あっさり言った。
「そして、君は今も、完全には“以前と同じ君”ではない。
そこは理解しておけ。
君は戻った。
だが、全く同じ形では戻っていない」
その言い方は、嫌に重かった。
でも、妙にしっくりきた。
俺は昨日と同じじゃない。
髪も目も違う。
体も少し変だ。
あの白い光も、ただの夢じゃなさそうだ。
……なら、やっぱり、俺は本当に特別なのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が少し熱くなる。
「……じゃあ、これってもしかして、俺が選ばれたってことか?」
「選ばれた、という言い方は少々気に入らないが」
アヒルフェは、少しだけ目を細めた。
「まあ、君は“器”として選ばれた。
それだけは事実だ」
「……」
「喜ぶなよ。
君が想像しているほど綺麗な話じゃない」
鳥は、やや疲れたように言った。
「君はこれから、面倒なことになる。
俺も面倒だ。
お互いに、かなり面倒だ。
だが、今はそれを受け入れろ」
そして、少しだけ苛立った声で付け足す。
「少なくとも、君はあの場所で死に切れなかった。
それが、今の君の運だ」
……面倒。
でも、面倒で済むならまだいい。
もっとひどいことになっていたかもしれない。
俺は、少しだけ喉を鳴らした。
怖くない。
いや、少しは怖い。
でも、それより先に、あまりにも変な状況に対する興奮がある。
俺はやっぱり、普通のままじゃない。
それが分かっただけでも、もう昨日の自分とは違う。
「で」
俺は、ようやく顔を上げた。
「お前は、これからどうするつもりだ」
「君に説明をする」
アヒルフェは、当然のように言った。
「そして、君は俺の話を聞く。
それから、必要なら動く。
とりあえず今は、君の両親に余計な心配をかけるな。
大声も出すな。
鏡に向かって一人で騒ぐな。
あと、その妙に気持ちの悪い満足顔をやめろ」
「……気持ちの悪い満足顔って何だよ」
「今の君だ」
鳥は、淡々と答えた。
「自分の変化に酔っている。
それが本当に見苦しい」
くそ。
でも、否定できない。
だって、嬉しいのは本当だ。
少しどころじゃない。
すごく嬉しい。
この意味不明な状況も、俺にとっては“始まり”に見える。
あの退屈で、何も起きない毎日とは違う。
俺の前に、やっと何かが現れた。
その事実だけで、胸が高鳴っている。
……でも、まあ、あまりそれを顔に出すなってことか。
分かった。
分かってる。
たぶん。
アヒルフェは、机の上から俺を見た。
その目は、どこか疲れているくせに、鋭かった。
長く何かを見てきた者の目だ。
俺よりずっと、面倒なものを知っている目。
そこに少しだけ、言葉が乗る。
「さあ、まずは一つ目だ。
君は、自分が何を拾い上げたのかを理解する必要がある」




