第⑨章:鏡の中のもう一人 (1)
頭を打った。
たぶん、打った。
いや、打ったというか、もう一回、軽く自分でぶつけた。
だって、変なんだよ。
昨日からずっと変なんだ。
髪は白く混じるし、目は妙な色になるし、朝起きたら体の左側が変で、しかも、頭の中で誰かが喋る。
普通に考えたら、これはあれだ。
疲れてる。
寝不足。
ストレス。
そういうやつ。
それ以外にあるか?
だから、まずは水を飲もうと思った。
顔を洗おうと思った。
冷たい水を浴びれば、変な感じも少しは消えるだろう。
そういう、実にまっとうな対処だ。
ちゃんとしている。
俺は別に焦ってない。
全然。
少し驚いてるだけだ。
それだけだ。
……なのに。
「その前に、風呂場に行った方がいいだろうな」
声がした。
俺は、思いっきり頭を机の角にぶつけた。
「いっ……!」
痛い。
でも、これで夢なら起きるはずだ。
いや、起きろ。
頼むから起きてくれ。
……起きない。
しかも、声は消えない。
「おいおい。
ずいぶん雑な自己確認だな。
そんなに何度も殴って、脳みそが無事でいるとでも思ったのか?」
腹立つ。
妙に上品な嫌味だ。
どこか落ち着いた、ねっとりした声。
頭の奥で鳴っているくせに、声だけはひどくはっきりしている。
俺は思わず眉をひそめた。
「……うるさい。
今、かなり大事な作業してるんだけど」
「大事な作業、ね。
自分の額を机に打ちつけるのがか?」 その声は、鼻で笑うみたいに続けた。 「まったく。
君は本当に、行動だけは派手だ」
「だからお前誰だよ」
「その前に、まず落ち着け。
落ち着いた方がいい。
さもないと、君の頭はそのうち本当に割れる」
「今、十分割れそうなんだけど」
そう言い返しながら、俺は立ち上がった。
まだ頭が変だ。
少しだけふらつく。
だが、ここで倒れても何にもならない。
ならない、はずだ。
いや、ならない。
絶対に。
だから、俺は足を引きずりながら洗面所へ向かった。
家の中は静かだった。
朝の気配が残っている。
階段を下りると、床板が小さく鳴った。
台所からは、たぶん母さんが何かしている音がする。
鍋か、皿か、水道か。
その音が、いつも通りの家だと教えてくれる。
普通の朝。
普通の家。
普通の自分。
……たぶん。
洗面所に入る。
鏡がある。
白い光が少し反射していて、顔が嫌なくらいはっきり見えた。
俺は蛇口をひねった。
水が出る。
冷たい。
手に当てると、思わず肩が揺れた。
でも、気持ちいい。
顔を洗う。
水が頬を伝う。
少し血の味が消える。
目を閉じて、息を吐いた。
それから、鏡を見る。
まず髪。
白い毛が混じっている。
何度見ても変だ。
でも、もう驚くほどじゃない。
昨日の夜からずっと変だから、今さら白い毛くらいでは死なない。
……いや、死ぬとかそういう話じゃない。
次に目。
左目。
灰色っぽい瞳。
金が少し。
紫っぽい光がちらつく。
鏡の中の俺は、なんというか、普通じゃない。
でも、すごく特別っぽい。
前よりずっと。
前はただの地味な少年だった。
今は少しだけ……いや、かなり違う。
まるで、何かの前触れみたいだ。
うん。
たぶん、そうだ。
耳を見る。
特に変じゃない。
首を見る。
……変じゃない。
歯を見る。
歯も、まあ普通だ。
舌を少し出してみる。
大丈夫。
全部、ちゃんとある。
顔を横に向けて、左右を確認する。
おかしな腫れはない。
頬も。
顎も。
それから、首筋も。
鏡の中の俺は、昨日より少し大人びて見える気がした。
いや、気がするだけかもしれないけど。
それでも、悪くない。
俺は思わず、両手で顔を包んだ。
そして、そのまま少し揉む。
頬を押す。
額を押す。
……うん。
ちゃんとしてる。
整ってる。
完璧だ。
まあ、少し目は変だけど、これはむしろ個性だ。
そういうことにしておこう。
そうだ。
全然問題ない。
むしろ、前よりずっといい。
何かが起きたのなら、それはそれで価値がある。
俺はやっぱり、ただの人間じゃない。
「随分と幸せそうだな」
声が、またした。
俺は、鏡の前で固まった。
「……え?」
「自分の顔を撫で回して、満足げにしている。
見ていて少々、いやかなり、品がない」 声は、妙に冷静だった。 「君のそういうところは、実に分かりやすい」
「うるさい、今ちょっと確認してただけだし」
「確認ね。
自分の容姿を触って、うっとりするのを“確認”と呼ぶのなら、そうなのだろう」
腹立つ。
でも、声だけだ。
鏡の中には誰もいない。
いや、いる。
俺がいる。
でも、今喋ってるやつは違う。
声だけが、頭の奥から、あるいは鏡の向こうから、ぬるっと出てくる。
気持ち悪い。
だけど、少し面白い。
……いや、面白いというより、状況が変すぎる。
俺は眉間にしわを寄せた。
また頭を殴るべきか、少し迷った。
でも、さすがにもうやめた方がいい気もする。
これ以上殴ると、さらに変なことになるかもしれない。
俺はそういう無茶はしない。
たぶん。
「……お前、ほんとに誰なんだよ」
「今さらか」 声は、ため息をついた。 「まあいい。
順番が少し違っただけだ。
君はさっきから、あまりにも自分の中だけで完結していたからな。
こちらも少々、口を挟むタイミングを失っていた」
「だから何なんだよ」
「まずは、名乗るべきだろう。
それが礼儀だ」 声は少しだけ低くなった。 「俺は――アヒルフェ」
……は?
アヒル。
え?
鴨?
いや違う。
アヒルフェ?
何その名前。
ふざけてるのか。
いや、名前としては絶対ふざけてないんだろうけど、でも、なんだか変だ。
妙に異国っぽい。
妙に強そう。
妙に、どこか飄々としている。
「……聞いたことない」
「聞いたことがある人間の方が少ない。
君はそれでいい」 声は淡々と言った。 「まあ、呼びやすいように好きに呼べ。
ただし、呼ぶ時に噛まないようにな。
見苦しい」
「見苦しいのはお前の名前の方だろ」
「そういう減らず口は、まだ喋れる余裕がある証拠だ。
結構なことだな」
すげえ。
この声、いちいち俺の神経を逆なでする。
でも、完全な敵という感じでもない。
むしろ、見下し方が上品すぎる。
なんというか、余裕がある。
俺のことを子ども扱いしている。
それが腹立つ。
でも、同時に、少しだけ……頼れる感じもする。
そういうのは認めたくない。
認めたくないけど、今の俺にはこれ以上選択肢がない。
それにしても、どこにいるんだ。
声は確かに聞こえるのに、姿はない。
洗面所を見回しても、誰もいない。
母さんもいない。
父さんもいない。
ただ、鏡と、俺と、蛇口の水だけだ。
どう考えてもおかしい。
でも、さっきの体の変化を思えば、おかしいことは一つじゃない。
だから、これもその一つだと考えれば……
いや、考えれば考えるほど変だな。
でも、変でいい。
今は、変でも前に進める方が大事だ。
「おい」 俺は鏡に向かって言った。 「お前、ほんとに喋ってるのか?」
「今の君には、それを疑う権利があるように見えるのか?」 声は乾いていた。 「安心しろ。
少なくとも君の頭の中にいる“何か”は、今のところ俺だけだ」
「いや、そこが一番安心できないんだけど」
「そうか。
じゃあ、君は大丈夫だ」
「どういう意味だよ」
「大丈夫な人間ほど、こういう状況をそのまま受け入れない。
拒否する。
否定する。
殴る」 声は少しだけ笑った。 「そして今の君は、その全部をやっている。
つまり正常だ」
……正常。
言われてみれば、そうかもしれない。
いや、全然正常じゃないけど。
でも、正常だと言われると、ちょっとだけ落ち着く。
変だ。
俺は変なことに慣れてきているのか。
それは嫌だ。
嫌だけど、今はそれしかない。
その時だった。
バサッ。
俺の後ろで、羽ばたきみたいな音がした。
「うわっ!」
反射的に、洗面所のタオルを掴んで振り向く。
敵だ。
鳥だ。
あの、白樺の世界で見たやつ。
またあれかと思った。
心臓が一瞬だけ跳ねた。
でも、見えたのは、ただの小さな鳥だった。
……小さい。
ほんとに小さい。
洗面所の窓の近くにいたのは、メジロだった。
緑っぽい小さな体。
白い目のまわり。
ちょこっとしたくちばし。
すげえ普通。
すげえかわいい。
いや、普通のメジロだ。
何の変哲もない。
でも、俺は一瞬で固まった。
「……メジロ……」
思わず声が出た。
子どもの頃から鳥は好きだった。
その中でもメジロはかなり上の方だ。
小さいし、動きが軽いし、色も綺麗だし、何よりなんか品がある。
鳥のくせに、妙に可愛い。
最高だ。
いや、最高というのはちょっと大げさか。
でも、好きだ。
かなり好きだ。
「……おい」
声がした。
鏡の方じゃない。
目の前だ。
メジロが、動いた。
いや、動いたというより、こっちを見た。
そして、次の瞬間――
「……なんだその顔は。
気持ち悪い」
喋った。
俺は固まった。
「……は?」
メジロは、嘴を動かしていない。
なのに、声ははっきり聞こえる。
しかも、あの鏡の声よりずっと近い。
目の前の鳥が、そのまま人間みたいに喋っている。
いや、人間みたいというより、もっと嫌味で、もっと冷たくて、もっと偉そうだ。
「メ、メジロが……喋った……?」
「今さらそれか」 鳥は、露骨に呆れた声を出した。 「君は一体、どれほど鈍いんだ。
いや、鈍いというより、発想が貧しいのか。
いずれにせよ救いがない」
「ちょ、待て。
なにこれ」
メジロは、こっちをじろりと見た。
その目が、やけに鋭い。
小さいのに、かなり圧がある。
そしてそのまま、洗面台の縁にちょこんと止まった。
「まず確認だ。
君は今、自分が何を見ているのか分かっていない」 鳥は、乾いた声で言った。 「いや、分かろうともしなかった。
だからここまで雑だった。
本当に、君は大丈夫か?」
「いや、なんで鳥が……」
「それは後だ」 鳥は、ぴしりと言った。 「今はもっと重要なことがある。
君、まさか本気でこの状況を“ただの幻覚”だと思っているのか?」
「……だって、普通、そうだろ」
「普通?」 メジロは、羽を一度だけ揺らした。 「その言葉を今の君が口にするのは滑稽だな。
白髪が混じり、片目が変質し、体が勝手に再構成され、挙げ句、俺の声まで聞いているのに、まだ普通を語るのか」
「……待て」 俺は眉をひそめた。 「今、俺の声って言ったか?」
「言った。
その通りだ」 鳥は少しだけ首を傾けた。 「まったく。
ここまで来ても気づかないとは。
君は本当に、自分の頭の中に何が生えたのかを見るのが遅い」
……生えた。
その言い方、ひどくないか。
でも、否定はできない。
だって、今、目の前で喋ってる。
鳥が喋ってる。
しかも、俺に向かって、すげえ上から目線で。
「……お前、誰だよ」
「だから最初に名乗っただろう」 鳥は、やれやれと言わんばかりに羽を一度だけ広げた。 「今度はちゃんと聞け。
俺はアヒルフェ。
君の中にいる、少しばかり厄介な同居人だ」
「同居人……?」
「そうだ。
もっと正確に言えば、君の“器”に入り込んだ、かなり上等な魂だ」 鳥は目を細めた。 「そして君は、どうやらその器として、見事に選ばれたらしい」
……は?
「え、いや、ちょっと待て。
器って何。
選ばれたって何。
なんで鳥なんだよ」
「そこからか」 アヒルフェは、ため息をついた。 「本当に、順番の悪い男だな。
だが、説明する価値はある。
君は今、かなり危うい状態だ。
そして、そこに俺がいる。
それだけ覚えておけ」
「いや、覚えるも何も、意味がわからないんだけど」
「そのうち分かる」 鳥は、机の上へ小さく跳ねた。 「まずは落ち着け。
それと、もう頭を殴るな。
君の脳は、たぶんそこまで強くない」
「今さら気にしてんのかよ」
「気にしている。
君が壊れたら、俺も面倒だからな」
……すげえ理由だ。
でも、嘘じゃなさそうな感じもある。
それが一番腹立つ。
俺は、洗面所の鏡を見た。
そして、その中の自分が、少しだけ笑っているのに気づいた。
怖いのか、嬉しいのか、自分でもよく分からない。
でも、少なくとも、昨日の俺じゃない。
何かが始まった。
そういう気配だけは、はっきりしている。
「……じゃあ、お前が、俺の中にいる声だったのか」
「声“だけ”ではないが、まあ、その理解で差し支えない」 アヒルフェは軽く羽を動かした。 「さあ、ここからが本題だ。
君に、少々話すことがある」




