第⑧章:朝の痛覚 (2)
少しだけ落ち着いた。
たぶん、落ち着いたことにしておいた方がいい。
さっきまでの吐き気も、左半身の変な痙攣も、完全に消えたわけじゃないけど、少なくとも今すぐ死ぬ感じではない。
そういうことにしておけば、朝はまだ朝として使える。
壊れた体に文句を言っても仕方ない。
文句を言ったところで、体が元通りになるわけでもないし、昨日の自分が急に正しくなるわけでもない。
……で、だ。
白い光。
あれは何だったのか。
そこを無視すると、全部が変なままだ。
夢だった、で片づけるには痛すぎる。
現実だった、で片づけるには説明が足りない。
だから、考える。
考えれば、たぶん何かしらの答えに近づく。
近づけるはずだ。
近づけないと困る。
俺はベッドの端に座ったまま、しばらく天井を見ていた。
朝の光は相変わらず窓から入っていて、部屋の隅にある机や、壁際の本棚や、置きっぱなしの服の上に薄くかかっている。
いつも通りの自分の部屋だ。
でも、いつも通りっていうのは、いつも通りに見えるからそう言うだけで、本当にそうかどうかは別だ。
昨日は違う場所にいた。
あの赤い床。
あの影。
あの鳥。
そして白い光。
それで今ここに戻ってきている。
何かが起きたと考えるのが自然だ。
変な夢を見て、体が勝手にびっくりして、寝てる間に家へ戻った。
そういう可能性はある。
かなりある。
うん。
あることにしておく。
でも、白い光だけは、どうにも気になる。
あれは何だった。
夢の終わりか。
死後の入口か。
それとも、何かに助けられたのか。
助けられた、という単語はちょっと恥ずかしいが、可能性としてはある。
たとえば、だ。
あの光が、何か上位の存在のようなもので、俺を引き戻したとか。
神。
天使。
仏。
そういうの。
まあ、神とか言ってもいきなり信じるのは自分でもどうかと思うけど、死にかけた人間が何かを見てしまう話なんて、世の中にはいくらでもある。
白いトンネルとか、浮遊感とか、遠くの声とか。
そういうのは、わりと定番だ。
俺もその類を見ただけかもしれない。
いや、でも、あのときはもっとはっきりしてた。
「見た」というより、包まれた、に近い。
まるで体ごと持ち上げられて、どこかに移されたみたいだった。
もしそれが本当に何かの力なら、もしかすると、俺は選ばれたのかもしれない。
そう。
そういう話の方が、まだ少し面白い。
……選ばれた。
あまりにも都合のいい言葉だ。
でも、嫌いじゃない。
むしろ少し好きだ。
自分が普通じゃないと示してくれる響きがあるからだ。
普通の人生なんて退屈だし、どうでもいい。
だから、もしあれが神様だの何だのだったら、俺はかなり運がいい。
死にかけてたところを拾われたってことだし、そのまま超常的な力の一つや二つをもらってもおかしくない。
……いや、ある。
そう考えるのが自然だ。
うん、十分自然だ。
俺は思い立って、ベッドから立ち上がった。
左脚が少しだけ嫌な感じを出したが、無視できる。
机の前へ行く。
何かを試したくなった。
そういう時ってあるだろう。
夢じゃなく、現実に何かが起こったなら、こっちから反応してみたくなる。
ちゃんと返事があるのか知りたい。
昨日の延長線上に、まだ何かが残っているのか確認したい。
俺は、子どもの頃に読んだファンタジーの本で見た記号を思い出した。
なんだったか。
魔法陣っぽいやつ。
召喚陣っぽいやつ。
形だけなら、覚えている。
円。
線。
星。
それっぽければいい。
それっぽければ、何か起きるかもしれない。
右手を上げる。
指先で、空中に線を引く。
もちろん空気に描いてるだけだから何も残らない。
でも、やる。
そういうのは大事だ。
まず形を作る。
形があれば、何かが始まることもある。
そういう気がする。
「……えっと」
英語。
それらしい単語を口にした。
“Open Menu”。
“Fire”。
たしか、ゲームとかで聞くやつだ。
でも、当然、何も起こらない。
ただの空気だ。
静かだ。
いつも通り静かで、少し腹が立つ。
「……違うのか」
いや、違うかもしれない。
英語がダメなだけだ。
じゃあ、別の言葉だ。
あれ、たしかマンガやゲームでよく見るのは、英語じゃなくて別の言語だった気もする。
韓国のやつとか。
中国のやつとか。
雰囲気がある。
雰囲気って大事だ。
見た目がそれっぽければ、効果もそれっぽくなるかもしれない。
そう考えるのは、別に間違ってない。
俺は、今度は少し丁寧に、指で記号を描いた。
うろ覚えの星。
五芒星っぽい形。
線が少し歪んでいる。
そのまわりに円。
完全ではない。
でも、雑に見えるほどでもない。
なんとなく、それっぽい。
その空白に、小さく目と鍵の形を足した。
ゲームで見たことがあるような、そういう記号だ。
たぶん意味はない。
でも、意味がなくても、見た目が重要だ。
「……開け。
……えっと」
英語で何か言おうとして、やめた。
この際、日本語でもいい気がする。
いや、でも、なんかそれだと普通すぎる。
もう少し異国感が欲しい。
なら、他の言語だ。
そう。
俺は、ゲームばかりしていたせいで、無駄にいろんな言語の単語を覚えている。
だから少しは役に立つ。
役に立ってほしい。
韓国語。
「メニュー、オープン」。
……いや違うか。
とにかく、それっぽい響き。
そして、火。
別の言葉。
口に出した。
空中の星は、もちろん何も返さない。
静寂だけだ。
白い朝の光が、机の端を少しだけ照らしているだけだ。
……まあ、そんな簡単にはいかないか。
次は、別のやり方だ。
魔法陣っぽいものといえば、円の中に星を描く、みたいなのが定番だ。
でも床に描くのは面倒だ。
洗うのも面倒だ。
だから、紙でやる。
それならいい。
俺は机の上にあったノートを一枚破り取った。
丸。
星。
線。
左手で紙を押さえながら、右手で素早く描く。
少し曲がっている。
でも十分だ。
真面目に美術をやる気はない。
これは実験だ。
とりあえず形があればいい。
その中に、小さく目の印。
それから鍵のような縦長の形。
誰かが見れば、ただの落書きにしか見えないだろう。
だが、俺にはそれで十分だった。
「……で、どうなんだ」
今度は日本語。
日本語ならさすがに何か起こってもいい気がする。
いや、どうして日本語が特別だと思ったのかは自分でも分からない。
でも、何もないよりはマシだ。
いや、やっぱり何も起こらない。
うん。
想定通りだ。
別にがっかりしてなんかいない。
少しも。
次に、他の言語だ。
ポルトガル語。
俺は意味もよく分からない単語を、小さく唱えた。
ノートの紙を指先で押さえ、星の中心を見つめる。
……何も起きない。
当然だ。
いや、当然だと分かっていても、少しだけ腹立つ。
今度はスペイン語。
少しだけイントネーションを意識する。
でもやっぱり何も起こらない。
紙はただの紙だ。
空気はただの空気。
部屋は静か。
静かすぎる。
そしてドイツ語。
なんだか強そうだし、こういうのはドイツ語が向いている気がした。
硬い感じがする。
魔法って、たぶん硬さが大事だ。
そう思ってやってみたが、結果は同じだった。
ただの沈黙。
ただの朝。
ただの俺。
……くそ。
いや、違う。
違うぞ。
何も起こらないことが分かっただけでも、検証にはなっている。
無駄じゃない。
無駄じゃないはずだ。
少なくとも俺は、いろいろ試した。
その事実はある。
それで十分だ。
何も起きなかったのは、俺のせいじゃない。
たぶんタイミングの問題だ。
何か条件がある。
そういうものだ。
魔法ってのは、たぶん、たぶん。
俺は少しだけ息を吐いた。
そして、机の端に置いた鏡へ目を向けた。
……いや、たまたまだ。
たまたま視界に入っただけ。
別に意味はない。
そう思っていた。
だが、そのまま目が止まった。
鏡。
普通の姿見だ。
でかい。
クローゼットの扉についている。
いつものやつ。
そこに、俺が映っている。
いや、映っている、はずだった。
俺は、固まった。
……待て。
おかしい。
何かがおかしい。
いや、鏡なんて毎日見るものだ。
今さら変なところがあっても困るんだけど、でも、これは……。
髪。
俺の髪が、違う。
最初は、光の当たり方かと思った。
朝日が強いから、黒髪が少し薄く見えてるだけだと。
でも、違う。
もっとはっきりしている。
黒の中に、白い。
白い筋。
白い塊。
不規則に混ざっている。
左側の髪の先。
下のほう。
そして、ところどころに、細い白い毛束がある。
染めたみたいでも、汚れみたいでもない。
自然にそこにある。
最初からそうだったみたいに。
……え?
思わず、一歩近づいた。
鏡の中の俺も、同じように近づく。
髪の色は、やっぱり変わっている。
黒一色じゃない。
白が混じっている。
白髪っていうほど老けてはいない。
でも、完全に黒でもない。
バカみたいに目立つわけじゃないけど、確実に変だ。
いや、変というか……
なんだこれ。
わりと、かっこいいのでは?
いや、違う。
そんなことを言ってる場合じゃない。
でも、少しだけ。
ほんの少しだけ。
これは悪くない。
むしろ、前より特別っぽい。
あの頃の、ただの黒髪よりずっと。
……まあ、別に自分の髪型に惚れたわけじゃない。
ただ、変化としてはかなり大きい。
俺は前髪を指で持ち上げ、ぐしゃぐしゃと撫でた。
やっぱり白い。
塗ったような不自然さはない。
地毛だ。
これは明らかに地毛だ。
つまり、昨日の何かの結果だ。
なんだよこれ。
体が反応してるのか。
いや、反応っていうより……
変化してる?
そこで、もう一つの違和感に気づいた。
目。
右目は、相変わらず普通だ。
茶色。
暗い茶色。
見飽きた色。
でも左目が、違う。
近づいて、さらに顔を寄せる。
鏡に映る左目。
瞳の色が変だ。
灰色に見える。
ただの灰色じゃない。
少しだけ金が混じっている。
さらに、その奥に、紫っぽい光がちらついている。
光っている、というほどではない。
でも、光って見える。
少なくとも、朝の部屋の自然光のせいではない。
何かが、目の奥に残っている。
昨日、潰れたはずの目が、今は別の色をしている。
……は?
指で左目の下を押さえる。
痛くない。
腫れてもいない。
つぶれてもいない。
まぶたも普通に開く。
白目はちゃんと白い。
でも、その中央だけが違う。
灰。
金。
紫。
そんな妙な色。
どう見ても、元のままではない。
俺は鏡の前で、しばらく無言になった。
顔を近づける。
離れる。
髪を触る。
目を見開く。
瞬きする。
何度やっても同じだ。
これは、気のせいじゃない。
さらに、肌も少し違って見えた。
白い。
いや、もともと白かったけど、今の白さはもっと均一だ。
不健康な青白さとは違う。
変な輝きがある。
病気っぽくはない。
むしろ、少しだけ作り物みたいに整っている。
人形っぽい。
いや、違う。
そんな気持ち悪い言い方はやめておく。
とにかく、前より明らかに違う。
顔全体の印象が変わっている。
……マジか。
つまり、これはあれか。
昨日の出来事の結果か。
俺の体に何か起きた?
再生した?
変化した?
進化?
魔法?
そういう単語が、次々に浮かぶ。
普通に考えれば、そんなのあるわけない。
でも、昨日のことを思い出すと、完全に否定もできない。
白い光。
階段。
影。
鳥。
そして今、この髪と目。
偶然にしては、出来すぎている。
事故にしては、意味がありすぎる。
俺は一歩後ろに下がった。
そして、次の瞬間には、笑いそうになった。
いや、笑った。
口の端が勝手に上がる。
変だ。
ひどく変だ。
でも、嬉しい。
これは、たぶん嬉しい。
少なくとも、ショックよりは上だ。
やっぱりそうだ。
やっぱり俺は、ただの一般人じゃない。
何かがある。
何かに選ばれた。
あの光。
あの変化。
今の髪と目。
全部がそれを示している。
昨日のあれは、ただの夢なんかじゃなかった。
そうだ。
最初から分かっていた。
俺だけが特別なんだ。
他の連中みたいに、ありきたりに終わるわけがない。
やっと、始まった。
そう思った瞬間だった。
「落ち着け」
声がした。
俺は、飛び上がった。
「っ、誰だ!」
思わず部屋を見回す。
誰もいない。
父さんも母さんも来ていない。
部屋のドアも閉まっている。
窓の外にも誰もいない。
なのに、今、たしかに声がした。
低い。
少し軽い。
そして、妙に落ち着いている。
聞き慣れないのに、なぜか腹立たしい声だ。
「今、そこに……」
言いかけて、また声がした。
「……そこにはいない。
いや、正確には、“そこ”じゃない」
……?
俺は固まった。
声は、部屋の中じゃない。
でも、外からでもない。
もっと近い。
変な近さだ。
耳の奥か。
頭の中か。
鏡の方か。
どこだ。
どこからだ。
「……誰だよ」
俺が言うと、声は少しだけ間を置いてから答えた。
「そうだな。
まずは、名乗るのが筋か」




