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第⑧章:朝の痛覚 (1)

 白い。


 それしか分からなかった。


 真っ白な光が、体の内側まで染み込んでくる感じがした。

 熱いとか冷たいとかじゃない。

 ただ、全部が白く塗りつぶされる。

 皮膚の外側だけじゃなくて、骨の隙間とか、肺の奥とか、そういう変なところまで白い。

 ああ、これが死ぬ時の感覚なのかもしれない。

 なんか、もっとこう、静かで神秘的なやつを想像していたけど、実際はただ白いだけだ。

 まあ、死ってたぶんそういうもんなんだろう。

 派手に見せてるだけで、中身は案外単純なのかもしれない。


 しかも、妙にしんどい。

 死ぬなら楽にしてくれよ、とか思ったけど、死んだことがないから文句を言うのも変だ。

 いや、死んだのかどうかもまだ分からない。

 白い光の向こうで、なんか声がした気もする。

 たくさん。

 重なって。

 遠くて。

 それから、急に全部が引っくり返った。


 気づいたら、天井を見ていた。


 自分の部屋の天井だ。

 見慣れた白。

 照明。

 カーテンの隙間から入る朝の光。

 窓のほうが少し明るい。

 いつもの朝だ。

 何も変わっていない。

 いや、変わってないっていうか、変わってないようにしか見えない。

 布団の感触もある。

 枕もある。

 腕もある。

 足もある。

 ……ある?


 いや、ある。

 たぶん。

 さっきまで無かった気がしたけど、今はある。

 自分の部屋に戻っている。

 帰ってきた。

 ということにしておこう。

 そうじゃないと話が面倒すぎる。


 起き上がろうとして、失敗した。


 まず、左腕が変だった。

 変というか、うまく言えない。

 動くんだけど、動くたびに、腕の奥で小さく雷が走るみたいな感覚がある。

 しかも左側だけだ。

 左肩、左肘、左手首、左の指先。

 全部が同じタイミングで、変な痙攣を起こす。

 大したことない。

 大したことないはずだ。

 でも、動かすたびに、神経の一本一本が勝手に文句を言ってくる。


 それから、左脚。

 こっちはもっと最悪だった。

 ただの筋肉痛とかそういう可愛いものじゃない。

 足の裏から太ももまで、ずっと妙な圧がかかっている。

 立てば歩ける気はする。

 たぶん。

 でも、少し動かすだけで、脳が「やめろ」と言ってくる。

 痛いというより、壊れかけの家電みたいな嫌な反応だ。

 自分の体なのに、信用できない。


 「……は?」


 思わず声が出た。

 なんでこんなことになってるんだ。

 あの時、俺は、たしか――

 ……いや。

 思い出したくない。

 思い出したくないのに、勝手に入ってくる。

 階段。

 影。

 鳥。

 白い光。

 カメラ。

 血。

 骨が折れる音。

 全部が、寝起きの頭にいきなり流れ込んでくる。

 最悪だ。

 ほんとに最悪。


 しかも、思い出した瞬間に、体の中が反応した。


 左半身が、またぐぐっと痙攣する。

 腹の奥がひっくり返る感じ。

 呼吸しようとしたら、肺が「待て」と言ってきたみたいに詰まる。

 息が入らない。

 というか、入るのは入るけど、なんか変だ。

 吸い方を忘れたみたいな感覚。

 自分の体なのに、呼吸のやり方をいちいち思い出さないといけない。

 ふざけるな。

 そんなの、あるかよ。


 咳が出た。

 げほっ、という鈍い音。

 喉の奥が焼ける。

 それから、急に吐き気。

 腹の中がぐるぐるする。

 口の中に、鉄の味。

 血。

 血だ。

 今さら気づく。

 舌先に残ってる。

 涙の味も混ざってる。

 最悪の組み合わせだ。

 なんで朝一番にこんなもん感じなきゃいけないんだ。


 俺は布団の端を掴んで、半分だけ身を起こした。

 そして、そのまま無理やり前へ倒れた。

 床に手をつく。

 冷たい。

 それだけで少しだけ現実に戻る。

 でも、次の瞬間、また腹がせり上がってきた。


 「うっ……」


 小さく呻いたあと、俺は部屋の隅にある小さなゴミ箱へ顔を向けた。

 間に合った。

 ……たぶん。

 胃の中にあったものが全部出る。

 いや、全部っていうか、まだ何か残ってる感じがするけど、とにかく出た。

 かなり気持ち悪い。

 食べたものなんて少ししかないのに、出てくるのは赤い液と苦い液と、なんかよく分からない粘っこいものだ。

 もう朝から終わってる。


 吐いたあと、しばらく動けなかった。

 息が荒い。

 喉が痛い。

 目の前が少し白い。

 いや、白いというか、ぼやける。

 視界の端が揺れている。

 手をついている床の感触だけが妙にくっきりしていた。

 木の床。

 自分の部屋。

 現実。

 ……多分。


 はあ、と長く息を吐く。

 少し落ち着く。

 いや、落ち着いたふりをする。

 こういう時は、まず落ち着いたことにしないといけない。

 慌てると余計に体が変になる。

 変な感じがひどくなる。

 それに、あまり大騒ぎしても意味がない。

 たぶん、寝起きで変な夢を見ただけだ。

 かなり長い夢だった。

 いや、夢にしては痛すぎる。

 でも、最近は疲れてたし、精神的にも、まあ、あれだ。

 あの階段とか、影とか、全部、眠りが悪かったせいで頭が変に作っただけかもしれない。


 そうだ。

 そうに違いない。

 そうじゃないと困る。


 自分にそう言い聞かせながら、ゆっくり顔を上げる。

 部屋は、見慣れたままだった。

 机。

 PC。

 教科書。

 ベッドの端。

 カーテン。

 壁。

 ポスター。

 漫画の背表紙。

 何も変わっていない。

 少なくとも、見える範囲は。

 部屋の空気も、ちゃんと朝の匂いがする。

 少し冷たい。

 少し乾いてる。

 昨日の血の匂いなんかしない。

 それが妙に安心できて、妙に腹立たしい。


 ……本当に帰ってきたのか?


 その疑問が、今さらじわっと頭に浮かぶ。

 いや、帰ってきてなかったら、何なんだ。

 夢の中で家の天井を見てるだけか?

 それはそれで嫌すぎる。

 でも、さっき吐いた。

 今、体が痛い。

 舌に血の味がある。

 だから、たぶん現実だ。

 それでいい。

 それ以上考えると、ろくなことにならない。


 左腕を見た。

 特に変な色はない。

 青くも紫にもなっていない。

 腫れてもいない。

 ただ、少し痺れている。

 左脚も同じだ。

 見た目は普通。

 なのに、内側だけが変だ。

 骨や筋肉の奥に、まだあの時の感覚が残っている。

 引っ張られるような、砕けるような、焼けるような、変な痛み。

 触っても分からない。

 でも、体のほうははっきり覚えている。

 忘れてくれない。


 俺は、ゆっくり息を整えた。

 吸う。

 吐く。

 ……吸う。

 ……吐く。

 これだけで、かなり頭が疲れる。

 なんで普通に呼吸してるだけでこんなに気を使うんだ。

 おかしい。

 いや、変なのは俺じゃなくて、昨日の全部だ。

 だから、俺は何もおかしくない。

 ちょっと体がビックリしてるだけ。

 それだけだ。

 あんなことがあれば、そりゃ痙攣もする。

 吐きもする。

 泣きもする。

 普通だ。

 むしろ普通より少し繊細なだけだ。


 そう考えて、もう一度ゴミ箱を見る。

 吐瀉物の中に、薄く赤いものが混ざっていた。

 あまり見たくない。

 見ても意味がない。

 でも、見てしまう。

 そこにあったのは、たぶん血だ。

 ……たぶん。

 血なんて、昨日たくさん出したからな。

 残っていてもおかしくない。

 うん。

 そうだ。

 変な夢を見て、体がショックを受けただけだ。

 それで吐いた。

 それで痙攣してる。

 それで喉が変。

 それだけ。


 ベッドに座り直そうとして、また左脚がぴくっと鳴った。

 思わず顔が引きつる。

 ……痛い。

 やっぱり痛い。

 でも、骨が露出してるわけでもないし、腕もちゃんとある。

 右手で左腕を触ると、ちゃんと肉がある。

 皮膚もある。

 温かい。

 変な色でもない。

 ほっとする。

 いや、別に安心してるわけじゃない。

 確認しただけだ。

 確認は大事だ。

 特に、こういう時は。


 それから、腹に手を当てる。

 普通だ。

 多分。

 少し痛いだけ。

 胸も。

 肺も。

 喉も。

 ……まあ、全部少し変だが、ひどく壊れてはいない。

 目も見える。

 左目が少し重い気がするのは気のせいだ。

 たぶん寝不足だ。

 いや、寝すぎか。

 夢で変な場所を歩いたせいで、変な感覚が残ってるだけだ。

 そういうことにしておく。


 それにしても、妙だ。

 なんでこんなに鮮明なんだ。

 夢ならもっと曖昧なはずだろ。

 あの赤い床も、階段も、影も、鳥も、全部やけに細かく思い出せる。

 今だって、胸を刺した何かの感触をはっきり覚えてる。

 骨が折れる音まで。

 ありえない。

 でも、ありえないことが起きたあとなら、細部まで覚えていても不思議じゃない。

 ……たぶん。


 俺は顔をしかめた。

 何かを思い出すたびに、左半身が少しだけ震える。

 くそ。

 かなり不快だ。

 でも、動ける。

 こうして朝になってる。

 呼吸もしてる。

 吐いたけど、生きてる。

 なら、いい。

 それで十分だ。


 部屋の窓を見る。

 朝日。

 カーテンの隙間。

 いつもの家。

 いつもの匂い。

 いつもの自分。

 ……たぶん。

 そう思うと、少しだけ落ち着く。

 だが同時に、別の考えも湧いた。


 もし、あれが本当に死ぬ直前の何かだったら。

 もし、あの白い光が本当に死後のどこかへの入口だったら。

 もし、そこで何かが起きて、またこうして戻されたのだとしたら。

 ……いや、やめよう。

 その考えは面倒だ。

 考えたところで答えは出ない。

 今はとにかく、生きてる。

 それだけでいい。

 そういうことにするのが一番楽だ。


 そう決めて、俺はもう一度ベッドに腰を下ろした。

 少し体が揺れる。

 左脚が変だ。

 でも、朝が来ている。

 部屋は静かで、外は明るくて、俺の体は少しだけ壊れているようで、でもちゃんとある。

 それだけだ。

 それだけなら、まだどうにかなる。

 どうにかするしかない。


 ――とりあえず、今日は休もう。

 そう心の中で言って、俺はまた呼吸を整え始めた。

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