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第⑦章:白い声 (2)

 長かった。


 実に長かった。

 何年も、何年もだ。

 あの忌々しい世界を這い回り、忘却に沈められ、名を削られ、肉体を失い、それでもなお俺は待った。

 待って、待って、待って、ようやく――ようやく、器が来た。


 それも、これ以上ないほど都合のいい器だ。


 人間の少年。

 弱い。

 脆い。

 鈍い。

 死にかけている。

 しかも、こちらの世界に引き込まれる直前のような、妙に都合のいい壊れ方をしている。

 これ以上ない。

 実に上出来だ。


 ……まあ、正確に言えば、上出来だったのは最初だけだが。


 目の前の少年は、あの瓦礫の下で半分潰れていた。

 左側はほとんど見えない。

 右側もひどい。

 胸は折れ、腹は潰れ、血は止まらない。

 呼吸は細く、あまりに細くて、もう生きているのか死んでいるのかも曖昧なくらいだった。

 俺は、その肉体を見た瞬間に確信した。

 ああ、これならいい。

 これなら使える。

 多少の欠損はあっても、魂が抜ける寸前なら再構成すれば済む。

 器としては十分だ。

 むしろ、これほど都合のいい状態で転がっているなど、運命が俺に詫びでも入れに来たのかと思うほどだ。


 正直、感謝している。

 誰にかは知らないが。

 この少年をここへ放り込んだ何かには、少しは礼を言ってやってもいい。


 少年は俺を見上げていた。

 正確には、見上げようとしていた、だろう。

 右目だけが、濁ったままこちらを捉えている。

 血と涙でぐしゃぐしゃの顔。

 口は動く。

 意味のない音が漏れる。

 「天使」だの「迎えに来た」だの、くだらない。

 人間はすぐそういう解釈をする。

 白く光るものを見れば天使。

 冷たいものを見れば死神。

 目の前の存在を理解する頭がないから、信仰や比喩に逃げる。

 まあ、そうしなければ正気を保てない生き物なのだから、仕方がないと言えば仕方がない。


 だが、俺は天使ではない。

 もっと厄介で、もっと優れていて、もっと役に立つ。


 ――俺は、あの世界で最も優秀な残滓の一つだ。

 そして今から、この少年の肉体を使ってやる。


 少年はまだ、完全には死んでいなかった。

 それが少しだけ厄介だった。

 いや、少しどころではない。

 かなり厄介だ。

 器は死体である方が都合がいい。

 完全に死んでいれば、魂の反発も少ないし、入り込みも容易い。

 だが、今この少年は、死にきっていない。

 魂がまだ弱く燃えている。

 火が消えかけた蝋燭のように、最後の光だけは持っている。

 それが、俺の侵入をやや面倒にしている。


 焦るな。

 俺は自分にそう言った。

 焦る必要はない。

 こういうものは、少し時間をかけてでも確実にやるべきだ。

 やるべきなのだが――

 長く待たされすぎた。

 待つこと自体には慣れている。

 だが、待ち続けた末に目の前へ転がってきた器が、まだ息をしていると分かった時の苛立ちは、どうにも抑えにくい。


 少年の瞼が、ゆっくり閉じた。

 ああ、やっとだ。

 やっと死ぬ。

 そう思った。

 だから俺は、ほとんど反射で、彼の肉体へ飛び込んだ。


 その瞬間、世界が狭まった。

 血の匂い。

 濃い暗闇。

 ひび割れた骨。

 途切れそうな神経。

 閉じる寸前の意識。

 そこへ、俺の輪郭を滑り込ませる。

 魂の隙間へ。

 肉と魂の縫い目へ。

 少年の中は、想像以上に荒れていたが、まだ空きはあった。

 足場は悪い。

 だが、ないよりはいい。


 数秒で、俺は入った。

 入った――はずだった。


 静かだった。

 完全な静寂。

 周囲の音が一度、綺麗に消える。

 よし。

 これで終わりだ。

 俺は勝った。

 そう思った。

 少なくとも、その肉体の表面ではそう見えた。


 だが、すぐに違和感が来た。


 ……ん?


 まぶたが、わずかに動いた。

 俺は動かしていない。

 なのに、だ。

 呼吸が、勝手に続いている。

 止めたはずなのに、肺がまだ空気を取り込んでいる。

 おかしい。

 おかしい、おかしい、おかしい。


 俺は内部を覗いた。

 魂の奥。

 肉体の核。

 そこにいるはずのものを、確認する。

 そこで見えたのは――


 まだ、ある。


 少年の魂が、完全には消えていなかった。

 消えかけてはいる。

 ほとんど燃え尽きかけた燭火だ。

 だが、残っている。

 微かに。

 しぶとく。

 忌々しいことに、まだそこにいる。


 ……ふざけるな。


 思わず、そう口に出しそうになった。

 いや、口はまだ無い。

 だが、気分としては完全にそうだ。

 何年待たせたと思っている。

 ようやく手に入れた器が、まだ自分の魂を手放していない。

 これはまずい。

 非常にまずい。

 いや、まずいどころではない。


 肉体と魂は、完全に切り離されていない。

 俺が器の制御を握るためには、先にこの少年の残り火をどうにかしなければならない。

 だが、ここで無理に魂を破壊すれば、器そのものの均衡が壊れる。

 壊れれば終わりだ。

 肉体も壊れる。

 器が壊れる。

 俺が入る場所もなくなる。

 そして俺自身の侵入路も閉じる。

 そうなれば、俺は再び宙ぶらりんだ。

 何年待ったと思っている。

 そんな冗談みたいな結末、認められるわけがない。


 だが、少年の魂はまだ燃えている。

 消えきっていない。

 それはつまり、こちらに抵抗しうる、ということでもある。


 くそ。


 俺は内部で舌打ちした。

 まったく、ひどい話だ。

 あと少し、ほんの少し待てば完全に死んだはずなのに。

 どうして人間はこうまでしぶとい。

 どうして最後の最後で、まだ生にしがみつく。

 美徳だとでも思っているのか。

 笑わせる。

 ただの無駄な足掻きだ。

 だが、その無駄が今の俺には最大の障害になっている。


 少年の意識は薄い。

 ほとんど失われかけている。

 だが、消えていない。

 ならば、こちらから押し切る必要がある。

 強く。

 速く。

 確実に。

 肉体に俺だけを認識させる。

 魂に俺だけを残す。

 そうしなければならない。


 方法はいくつかある。

 少年の魂を眠らせる。

 あるいは、俺の気配を先に深く刻み込む。

 それとも、少年の意識が戻る前に、肉体の神経を奪ってしまうか。

 どれも可能だ。

 だが時間がない。

 魂の残り火が、じわじわと閉じていく。

 もしこのまま完全に統合の窓が閉じたら、俺は中途半端な共存状態に押し込まれる。

 それだけは避けたい。


 共存。

 冗談じゃない。


 俺はひとりで十分だ。

 俺の器は、俺だけのものだ。

 他の魂など、雑音にすぎない。

 それが少年のような半端な人間ならなおさらだ。

 生きる資格も、死ぬ資格も中途半端なまま、ただ運が悪かっただけでここに転がっている。

 そんなものに、俺の道を邪魔される筋合いはない。


 だが、焦れば焦るほど、少年の魂は妙に静かだった。

 静かすぎる。

 そして、その静けさが余計に不気味だ。

 完全に消える直前の魂は、火花のように暴れることがある。

 なのに、今のこれは違う。

 弱い。

 とても弱い。

 だが、執念だけは残っている。

 生きたい、というより、消えたくない。

 その感情だけが、細い糸のように器の内部へ張りついている。


 ……しぶとい。

 実にしぶとい。

 少年らしいといえば少年らしいが、今はそんな感想はどうでもいい。


 俺は内部で呼吸の流れを整えた。

 まず肉体を動かす。

 少しずつ。

 指先。

 まぶた。

 喉。

 神経をこちらへ寄せる。

 少年の意識が反応する前に、こちらの規格へ合わせるのだ。

 もしそれが叶えば、少年の魂は押し出される。

 少なくとも、完全な主導権はこちらが握れる。


 だが、その瞬間だった。


 光。


 白い。

 ひどく白い光が、視界のすべてを焼いた。

 目があるのかどうかも分からないのに、焼かれたとしか言いようがない。

 強い。

 鋭い。

 そして、音が消えた。

 周囲の世界が、再び完全な静寂へ沈む。


 何だ。

 これは何だ。


 俺は反射的に内部を引き締めた。

 外から何かが来る。

 いや、外だけではない。

 この白は、単なる光ではない。

 空間の境目をなぞるような、強制的な切り替えだ。

 まるで、別の層が上から被せられたみたいな感覚。


 そして、白の中に、何かが立っていた。


 人影。

 いや、違う。

 人影ではない。

 輪郭だけがある。

 ぼやけている。

 だが、確実に存在する。

 こちらに向かっているのか、こちらを見ているのか、それすら分からない。

 ただ、その白い静けさの中で、何かが、はっきりと“いる”。


 まずい。

 これはひどくまずい。


 俺は咄嗟に、少年の残り火をさらに深く押さえ込もうとした。

 だが、その瞬間、肉体の感触がわずかに揺れた。

 まるで、内部の壁が一枚だけずれたような感覚。

 魂の境目が、まだ完全に固定されていない。

 だからこそ、白い光がそれを揺らす。


 くそ。

 ほんの少し早かった。

 ほんの少し遅かった。

 いや、違う。

 少年がしぶとすぎる。

 ……いや、そんなことは今どうでもいい。


 俺は、少年の魂と自分の意識の間に、さらに深く入り込もうとした。

 押さえつける。

 奪う。

 黙らせる。

 それしかない。

 そうしなければ、この白い何かにこちらの不完全さを見抜かれる。

 見抜かれれば、終わる。


 白は、さらに強くなった。

 視界のすべてが白に塗りつぶされる。

 熱い。

 いや、熱ではない。

 冷たいわけでもない。

 ただ、あまりに強烈で、感覚が消える。

 俺の思考だけが、妙に鋭く残る。


 ――まだだ。

 ――まだ終わらない。

 ――ここで引き下がるわけにはいかない。


 だが、その言葉を自分に繰り返したところで、白は止まらない。

 光の中で、何かが近づく。

 少年の魂は、まだ完全には消えていない。

 俺はそれを感じる。

 あの残り火が、かすかに揺れている。

 このままでは、こちらが飲み込まれる。

 器ごと。

 俺ごと。


 ……ああ、面倒だ。

 実に面倒だ。

 だが、まだやりようはある。

 まだだ。

 少年の身体に俺だけを定着させる。

 そうすれば勝てる。

 多少の共鳴など、あとでどうとでもできる。

 最悪、魂を沈めておけばいい。

 生かして使う。

 黙らせて使う。

 それだけのことだ。


 俺は、白い光の中で、最後の一歩を踏み出そうとした。


 その瞬間――


 すべてが、また静かになった。

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