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第⑦章:白い声 (1)

 血。


 血しか見えない。


 赤い。

 暗い。

 黒い。

 それだけだ。


 視界の端が、もうどうなっているのか分からない。

 上も下も曖昧だ。

 首を動かそうとしても、動いているのかいないのか分からない。

 ただ、冷たい何かの上に転がっていて、顔の半分にぬるいものが垂れている。

 それが血なのか、水なのか、よだれなのか、もう判断できない。

 口の中は鉄の味しかしない。

 舌の奥に、土みたいな味が混ざっている。

 息を吸うたび、何かが肺の内側を擦る。

 痛い。

 いや、痛いという言葉では足りない。

 痛みが、体の内側から何本も生えてきているみたいだ。


 荷川取慧璃は、こんなところで終わるとは思っていなかった。


 いや、終わるとは思っていた。

 いつかは死ぬ。

 誰でも死ぬ。

 それは分かっていた。

 ただ、もっとずっと先だと思っていた。

 白髪になって、少し腹が出て、誰かと結婚して、よく分からない女と同じ家で暮らして、よく分からない子どもが二人くらいいて、よく分からない仕事をして、毎日を退屈だと思いながら、たまに「昔は冒険したかった」とか考える。

 そんな、どうでもいい未来。

 そんな未来が、なんとなく自分にもあるはずだった。


 父はそういうものを望んでいた。

 母もたぶんそうだった。

 白樺を出て、大学へ行って、どこかで就職して、ちゃんと食っていける人間になる。

 その先に、普通の家庭。

 普通の生活。

 普通の人生。

 それが、ありふれていて、つまらなくて、でも少しだけ安心できる未来だった。


 つい最近まで、それを本気で嫌っていた。

 退屈だと思っていた。

 ありきたりだと思っていた。

 自分にはもっと何かがあるはずだと、勝手に信じていた。

 でも今は、その退屈がひどく眩しい。

 あのどうでもいい未来が、今は欲しい。

 どうでもいい仕事。

 どうでもいい結婚。

 どうでもいい会話。

 そういうものに埋もれて死ねるなら、どれだけよかったか。


 体が動かない。


 いや、動くのかもしれない。

 でも、どこが動いているのか分からない。

 左側がない。

 腕がない。

 脚がない。

 半分、ない。

 見えない。

 そこにあったはずのものが、もうどこにもない。

 右側もひどい。

 コンクリートの破片が刺さっている。

 胸のあたりに、長い何かが突き立っている。

 木の棒みたいにも見えるし、鉄みたいにも見える。

 たぶん、そんな違いは今どうでもいい。

 肺に入ってる気がする。

 息が、うまくできない。

 右目だけがかろうじて見える。

 左目はもう、潰れたのか、血で塞がったのか、何も見えない。


 泣いている。


 それに気づいたのは、あとからだ。

 勝手に涙が出ている。

 視界が滲む。

 喉の奥がしゃくり上がる。

 怖いから泣いているのか、身体の機能で泣いているのか、もう区別できない。

 たしか、慧斗の父親は医者だとか何とか、そんな話をしていた。

 人は重い傷を負うと、勝手に泣くことがある。

 自分の意思じゃない。

 痛みと、酸素不足と、脳と体の混乱で、涙が出る。

 そういう話だった気がする。

 今、その意味が分かる。

 分かりたくなかったのに、分かってしまう。


 涙が頬を伝う。

 でも、そこに血が混ざる。

 口の中にも血が溜まっていく。

 飲み込みたくないのに、飲み込んでしまう。

 気持ち悪い。

 吐きそうだ。

 でも吐く力もない。

 ただ、赤い液体が口の端からあふれて、床に落ちる。

 その音がやけに近い。

 ぽた、ぽた、という、どうでもいい音。

 でも、そのどうでもよさが怖い。

 自分の命が、そんな音に変わっていくみたいで怖い。


 ――これで終わるのか。


 そんな考えが、頭の奥をゆっくり流れる。

 いや、考えというほどまとまっていない。

 ただの断片だ。

 白い光の残像。

 黒い影。

 紙の鳥。

 階段。

 カメラ。

 全部がぐちゃぐちゃに混ざって、最後に血だけが残っている。


 カメラ。


 そうだ。

 カメラはどうなった。

 まだあるのか。

 壊れたのか。

 どこだ。

 証拠。

 証拠が。

 それだけがずっと気になっている。

 こんな状態でも、そこだけは気になる。

 誰かに見せたかった。

 誰にも信じられなかったものを、見せたかった。

 昨日の自分は、たしかに正しかった。

 それを証明したかった。


 でも今、証明するために持っていた機械が、壊れていく音がした気がする。

 砕けた。

 たぶん、砕けた。

 その事実が、胸の痛みより遅れて来る。


 ああ。

 そうか。

 これで、俺は本当にただの馬鹿みたいになるのか。


 家を出た時、母は心配そうにしていた。

 十時までには帰ると言った。

 ちゃんと帰ると約束した。

 なのに、このざまか。

 笑える。

 全然笑えない。

 ここで死んだら、父はどう思う。

 母はどう思う。

 何も言わずに家を出た息子が、学校のどこかで消えたら。

 たぶん、最初は家出かと思う。

 それから、捜される。

 警察。

 先生。

 連絡。

 電話。

 でも、誰も俺を見つけられない。

 ここは、そういう場所だ。

 学校の中で、どこにも繋がっていない場所。

 だから、ただ消えたみたいになる。


 消えるのは嫌だ。

 ものすごく嫌だ。


 俺は消えたくない。

 普通に嫌だ。

 別に英雄になりたかったわけでもない。

 死にたかったわけでもない。

 ただ、特別だと証明したかっただけだ。

 誰かに笑われたまま終わりたくなかっただけだ。

 それなのに、どうしてこんな。


 口の中に血が入る。

 咳き込みたい。

 でも、咳き込むと胸が裂けそうだ。

 だから我慢する。

 我慢したところで意味はない。

 意味はないけど、今の俺にはそれしかできない。


 少しだけ、視界が白くなる。

 いや、白いのか赤いのか分からない。

 とにかく、ぼやけていく。

 輪郭が溶ける。

 頭が重い。

 耳の奥で、ずっと白い音が鳴っている。

 キーンという高い音じゃない。

 もっと平たい。

 もっと広い。

 白い布を引きずるような音。

 何もない音。

 それが、俺の中に入り込んでくる。


 怖い。


 今さら、はっきり怖い。

 さっきまでの恐怖とは違う。

 痛いとか、苦しいとか、そういうのを超えた先にある怖さだ。

 もう戻れない。

 今ここで終わる。

 そう分かる怖さ。

 頭の中に、父と母の顔が浮かぶ。

 それから、凛成。

 慧斗。

 秋山。

 ……九頭見。

 あの顔。

 あの笑い。

 最後に見たあいつの顔が、妙に鮮明に残っている。

 でも、今はもう、怒る力もない。


 あいつら。

 もし俺がいなくなったら、どうなる。

 たぶん、最初は変な噂になる。

 学校を休みがちだった生徒が、急に消えた。

 それで終わりじゃない。

 誰かが、俺のことをいろいろ言う。

 自殺したんじゃないか、とか。

 そういうことを言う奴が出る。

 でも、違う。

 少なくとも、今の俺は、そんなつもりでここに来たんじゃない。


 それに、もし本当にそう思われたら、凛成たちが巻き込まれる。

 慧斗も。

 秋山も。

 あの時、教室で黙っていた連中も。

 何もしていない奴まで、罪悪感を背負わされるかもしれない。

 九頭見だって、面倒なことになるかもしれない。

 あいつは嫌いだ。

 でも、さすがに、俺の死で人生が変わるほど追い詰められるのは違う。

 あいつが何を言われようが、俺には関係ない。

 関係ないけど。

 でも、さすがに、そういうのは違う。


 俺が勝手にここへ来て、勝手に傷ついて、勝手に死んだみたいになるのは、嫌だ。

 ただでさえ、何もできていないのに。

 せめて、周りは巻き込みたくない。

 そう思うだけの余裕が、まだ少しだけ残っている。


 でも、その余裕も、だんだんなくなっていく。


 右目の前が、黒く沈む。

 黒。

 さっきまで見えていた光が消える。

 自分の血が、まぶたの裏まで流れ込んでいるみたいだ。

 視界の端に、何か白いものがちらつく。

 たぶん、天井。

 たぶん、壊れた階段の残骸。

 でも、もうよく分からない。


 身体のどこかが、冷たくなっている。

 逆に、どこかは熱い。

 熱いのに冷たい。

 痛いのに遠い。

 全部が離れていく。

 自分のものじゃなくなる。

 手。

 脚。

 胸。

 呼吸。

 視線。

 全部が、少しずつ崩れていく。


 もし、もっと違う生き方をしていたら。

 もっと早く普通になっていたら。

 もっと誰かを信じていたら。

 もっと……

 でも、もう遅い。

 そんな「もし」は、今の血の量より薄い。


 白い音が、大きくなる。

 いや、音ではないのかもしれない。

 ただ、意識が白に侵されていく。

 見えない。

 見えなくなっていく。

 怖い。

 怖いけど、もう叫ぶこともできない。

 喉が、ひどく重い。

 舌が動かない。

 腕も動かない。

 右手だけが、床の何かを掴もうとして、空を掻く。


 ――父さん。

 ――母さん。


 声にならない。

 口の中で崩れる。

 ちゃんと、会いたかった。

 ちゃんと、帰りたかった。

 怒られてもよかった。

 普通のままでよかった。

 笑われても、あのままでよかった。

 なのに。


 暗い。

 どんどん暗い。

 視界が、ほとんどない。

 残っているのは、白いノイズと、血の匂いと、砕けるコンクリートの音だけだ。

 その音も遠い。

 遠いのに大きい。

 すごく大きい。

 何かが壊れ続けている。

 自分の体なのか、階段なのか、それすらもう分からない。


 荷川取慧璃は、そこでやっと理解した。


 これは、もう戻れないかもしれない。


 証明したかった。

 ただ、それだけだった。

 なのに今、その証拠ごと、自分の命が、白い音の中へ沈んでいく。

 視界はさらに狭くなり、最後に残るのは、ほんの細い黒い線だけだった。

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